25
ところどころ雪に被われた花壇のなかに、スミレの蕾を見つけて、少年はしゃがみこんだ。このスミレは多年草だが、厳しい冬のあとには、枯れていることもしばしばである。
水色の蕾をつける葉のまわりの雪を、金髪の少年カミーユは丁寧に手で取り除いた。
この過酷な冬の寒さを生き延び、蕾をつけたその姿は、姉のシャンティのように思える。
このシャルムの国のどこかで、シャンティが厳しい冬を耐え忍び、春を静かに待っていることを願った。
「会いたいよ……」
淡い空色の蕾を指で触れながら、カミーユは呟く。
デュノア領を、薄い曇り硝子の蓋で覆うような雲が立ちこめていた。
シャンティが、デュノア邸を追い出されてから五ヶ月近く経ち、厳しい冬も、ついに終わりを告げようとしている。
昼前のデュノア邸の庭に、雲間から一筋の光が差し込み、視界が寸時に明るんだので、カミーユは顔を上げた。
そして、その光がちょうど照らしだしす箇所に、普段この場所ではほとんど見ることのない姿をみとめる。
「母上」
カミーユは立ちあがって駆け寄る。
侍女を一人だけ伴い、伯爵夫人は庭へ出ていた。少年と似たやや暗めの金髪を丁寧に結いあげ、青灰色の瞳で息子に笑いかけるその姿は、齢四十を越えてはいるものの、気品にあふれた美しさがある。
「起き上がって大丈夫なのですか、母上」
「ええ、カミーユ。今日はだいぶ調子がいいのですよ」
「そうですか」
母の言葉にカミーユは笑みを浮かべる。
「でもまだ外は寒いので、どうぞお身体に障りない程度に」
「ありがとう、そうしますね」
二十年前、ブレーズ公爵家から、身分違いの伯爵家に嫁いてきたベアトリスは、しとやかな微笑を息子に返した。
「母上、見てください。スミレの蕾をあちらで見つけました」
「あら、もう蕾をつけているのですね」
カミーユに腕を引かれて、ベアトリスは花壇まで歩む。
「ちょうど、母上もこれを見れば、元気になると思っていたところだったんです」
「スミレの蕾を?」
「はい。姉さんもこんなふうに雪のなかを生き抜いているような気がしたので」
ベアトリスは視線を息子から花の蕾に移した。
「カミーユ。シャンティは……亡くなったのですよ。お父上の前で決してそんなことを言ってはなりません」
「それは……理屈としてはわかります。でも信じていたいんです。心のどこかで信じていれば、姉さんは生きていてくれる気がするし、信じるのをやめてしまえば、どこかで死んでしまうような気がしてならないんです。母上だって、姉さんの無事を信じているでしょう?」
真剣に見上げるカミーユの濃い灰色の瞳を、ベアトリスは見つめ返した。
そしてかたく双眸を閉じ、その身体を両手で抱きよせる。
「ええ。シャンティは、強い子です。きっと生きていることを、わたしも信じています」
母の細い腕のなかでカミーユは大きくうなずいた。
「でも、カミーユ。そう思っていることを、だれにも言ってはいけませんよ」
「もし……姉さんが戻ってきたら、父上は許してくださると思いますか?」
ベアトリスは返事の代わりに、カミーユを抱きしめる腕に力を入れた。その意味を少年は理解する。
「もし、父上が許してくれなくても、ディルクは結婚してくれるかな?」
「え?」
「このあいだここへ来た姉さんの婚約者です。……元、婚約者です」
「どうしてそんなことを聞くのです?」
「あんな人が兄だったらいいのに、と思って」
「……いい人なのですね」
「あの人だったら、姉さんを幸せにできるかなって――でも……やっぱりいいです」
うつむき、ほほえむカミーユに、ベアトリスは小首を傾げた。
「次に会ったときは、私が姉さんを守り、私の手で、姉さんを幸せにしてみせます」
ベアトリスは、両手を握りしめて言う息子の軽い巻毛の髪を撫でる。
「母上はどうして、父上のもとに嫁いだのですか?」
カミーユは、不意に尋ねた。
息子の突然の質問にベアトリスは目を丸くする。
十一歳の少年が、両親の身分の違いの結婚のことを、疑問に思ったうえで質問したのか、それとも純粋に聞いてみたかっただけなのか、判じかねるようだった。
「そうですね……愛しているから、ではないかしら」
「愛している?」
「そう、あなたの父上のことが、この世界でだれよりも好きなのですよ」
「……そうなんだ」
カミーユは複雑な思いでうなずく。シャンティをあんな形で追い出した父伯爵を、未だ赦すことができずにいる。
「それと同じくらい、あなたのことも愛しています」
カミーユの思いを知ってか否か、ベアトリスは宥めるように言う。今度は、カミーユは大きくうなずいた。
シャンティは家族を――館の者を、愛していた。けれど、今はどうだろうか。もし生きていたら、シャンティはなにを思っているだろう。
カミーユのうちにある父への憎悪と、自責の念。けれど、カミーユがわずかにでも自らの気持ちに折り合いをつけることができたのは、ディルクが会いに来てくれたからかもしれない。彼に全ての気持ちをぶつけることができたから――。
実の父に対して恨む気持ちを抱えながらも、そして姉を救えなかった自分自身の不甲斐なさを呪いながらも、今の生活を続けることができている。
「母上、いつか姉さんと、ここで咲くスミレの花を見ましょう。その日のために、母上はお身体を大事になさってください」
カミーユの言葉を聞いてベアトリスは再びその身体を抱きよせる。
寄り添う母と子を、トゥーサンは少し離れた所から見守っていた。
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花が綻びはじめた木々のなか、馬を駆ける二人の姿があった。ひとりは濃い茶色の髪の青年、もうひとりは赤毛で長身の若者である。
その光景は、この年が明けてからというもの、王宮とベルリオーズ家別邸の途中にあるデュエルフォンの森に毎週見られていたが、このときは十日以上空けてのことだった。
風はまだ少し冷やかだが、ほんのりと花の香りを含んでいる。
春は、もう間近。
徐々に日が長くなってきたその夕暮れ時に、長い影を背後に従えて二騎は駆ける。
ベルリオーズ家別邸に到着すると、若者の髪の色のような夕陽が、二人の肌と、館の壁を朱色に染めあげていた。
「リ……リオネル様、ベルトラン様、お帰りなさいませ」
いつもどおり玄関で出迎えたジェルマンが、二人に一礼した。
「ああ、ただいま」
けれどリオネルは、頭を上げたジェルマンがどこか浮かない顔をしていることに、すぐに気がつく。自分がいつもより日を空けて館に戻ったことを気にしてのことかと、リオネルは勘違いした。
「ちょっと今回は間が空いたね。ディルクやレオンが、館でなにをしに戻るのかと妙に気にしていて」
「……さようですか」
「おれたちといっしょに館へ来るとまで言い出したから、撒いてくるのに苦労したよ」
「ええ」
「外は、春の気配だ。とても気持ちがいいよ、ジェルマン」
ジェルマンは返事の代わりに軽くうなずく。
「どうかした?」
さすがにいつもとはなにか様子が違うと悟ったリオネルは、妙に口数の少ない初老の執事に尋ねた。
「いえ……」
ジェルマンが言いよどむと、リオネルは声を低める。
「アベルがどうかしたのか?」
「え……いえ、はい、どうというわけではないのですが」
リオネルの後ろで外套を脱いでいたベルトランも、動きを止めてジェルマンに視線を向けた。
「少し散歩へ行かれたようでして」
「散歩?」
リオネルは、まえに館に戻ったときに、アベルに言ったことを思い出した。
アベルが、たった一度だけ部屋から出てエレンと庭を歩いたが、それ以降は毎日部屋に閉じこもっているという話を聞いたので、少し散歩でもしてみたらどうかと本人に直接提案したのだった。そのとき、アベルは曖昧にうなずいただけだった。
「そう、ようやく外に出たのか。今日は、それほど寒くないし、歩くにはちょうどいい」
「いえ、それが」
「なにか問題が?」
「歩いて、ではないのです」
「……走って、いるのか?」
「はい、その……馬で……」
「――――」
そのとき出迎える女中たちのなかから、エレンがおずおずと進み出て、言葉を失っているリオネルに頭を下げる。
「申し訳ございません、私の不注意で――。珍しく散歩をしたいと言いだしたので、いっしょに庭に出たのですが、たまたまそのとき馬を庭に放しておりまして、アベルはその一頭に乗って、制止するまもなく庭園から見えなくなり……」
「窓から馬が見えていたんだろうな。お転婆娘がやりそうなことだ」
ベルトランがリオネルの斜め後ろで言った。
リオネルは、左手でこめかみを押さえ、形の良い眉を寄せる。
「落馬でもしたらどうするんだ。奔放にもほどがある」
リオネルはジェルマンには聞こえないほどの小声で呟いた。
「探すか?」
「……とりあえず庭に出よう。ジェルマン、念のためドニを待機させてくれ」
ジェルマンが深々と頭を下げてその場を去ると、リオネルは広間を抜け、庭園に続くバルコニーへ向かう。いつになく機嫌が悪い様子の主人のあとを、ベルトランとエレン、数人の使用人が、重たい空気を引きつれて従った。
館の巨大な影が庭園の一部を黒く染めている。
その影の暗さとは対照的に、夕陽が当たる部分は、眩しいほどの橙色に色づいていた。それも、まもなく陽が落ちれば、闇が覆うだろう。
「馬を」
リオネルは、傍らの使用人に命じた。
たった今、王宮から館まで駆けてきた二頭の馬を、使用人の男は手綱を引いて連れてきた。リオネルは無言で馬に飛び乗ると、夕暮れの庭園に向けて駆けだす。ベルトランも、そのあとに続いた。
二人の後ろ姿を見送ったエレンがそっと呟く。
「みんなの噂は、本当かもしれないわ……アベル」