31
「リオネル!」
驚愕の叫び声をあげたのは、ベルトランである。
ベルリオーズ邸の門をくぐったところで、アベルたちは、森での捜索から戻ったベルトランと遭遇することとなった。
「なにがあった! リオネル、しっかりしろ」
ヴィートに抱えられていたのは、左半身を鮮血に染め、意識を手放した青年。
傷口からは絶えず血が滴り落ち、乾いた地面を濡らしつづけている。
慎重に、だが素早くベルトランはヴィートの腕からリオネルを抱き上げると、憔悴しきった様子のアベルを一瞬だけ見やった。
アベルの瞳からは、リオネルの傷口から滴る血のごとく涙が零れつづけている。
「詳細はあとで聞く。今は早急な手当を要するときだ」
そう言いながら、ベルトランは館へと駆けだした。
その夜、リオネルが負傷したという報により、ベルリオーズ邸は騒然となった。
急遽、数名の医者が呼ばれたが、負傷したリオネルの姿にベルリオーズ公爵は愕然とし、近くに居合わせた騎士たちは色を失った。駆けつけたフェリシエは失神して部屋へ運ばれ、今夜の宴は当然のことながら中止となった。
部屋に運び込まれたリオネルには、ベルリオーズ公爵やベルトランは付き添う。だが、アベルの入室は許されなかった。扉のまえで待っていることさえ許可されず、アベルはヴィートに抱えられるようにして、最上階にある自室へ戻るしかなかった。
久しぶりに本邸の自室に入ると、アベルは放心したように寝台に寄りかかって顔をうずめる。
リオネルはすぐ隣の部屋で手当てを受けているというのに、そばにいることもできない。彼が今どのような状態であるのかさえ、わからないとは。
「大丈夫だ、あいつが死ぬはずがない。噛まれたのは肩だ。致命傷にはならない。心配するな」
ずっとヴィートは慰めてくれていたが、その言葉はアベルの耳の近くをただ通り過ぎていくだけだった。
涙はいつのまにか枯れている。
ただ、胸の奥がいつまでも震えていた。
頭を占めるのはリオネルのことだけで、あとのことはなにも考えられない。
――自分のせいだ。
――自分のせいで、リオネルを危険に晒してしまった。
血に染まったリオネルの身体。意識を失い、瞳の閉ざされたその蒼白な顔。
繰り返しその光景が蘇り、アベルの胸を引き裂いた。
リオネルの無事を祈りながら、幾度もアベルは自責の念に押し潰されてしまいそうになる。いや、もう心はほとんど潰れていたかもしれない。
失うかもしれない。
リオネルという存在を。
おだやかな声、力強い腕、深い紫色の瞳、いつも優しく笑いかけてくれる、あの笑顔……。
震えを、アベルは止めることができなかった。
「フェリシエとかいう女の侍女が、なんだかんだ理由つけて森へ行くようにとか言ったんだろう? あいつら、自分たちがやったことがどんなことなのか、わかってるのかよ。ちくしょう」
ヴィートの声が聞こえる。けれど、彼が話す内容を理解できない。アベルの思考は、すでに正常な働きを失っていた。
ぼんやりとした様子のアベルに、ヴィートは気遣わしげな眼差しを向ける。
「なにか飲んで落ち着こう。なにがいい?」
問われたアベルは、なにを聞かれたのかわからず、虚ろな瞳でヴィートを見上げた。
「ええっと、そうだな。温かいものがいいよな。すぐに戻るから、待ってろ」
心配そうにアベルを振り返りながら、ヴィートは部屋を出る。
アベルは両手に顔を埋めた。枯れたと信じていた涙が、再び瞳からこぼれて手のひらを濡らす。乾いた瞳に、涙が染みた。
――どうして、こんなことになってしまったのだろう。
激しい後悔がアベルの胸に押し寄せる。
どこで自分が間違ったのか――。
森に行ったことが間違いだったと、そう言ってしまえばそれまでである。
けれど、リオネルにとって大切なフェリシエの助けになりたかったからこそ、森へ行ったのだ。その結果、リオネルをあのような目に遭わせた。
頭のなかは錯乱し、冷静な思考はなにひとつできない。部屋で塞ぎこんでいたあいだに、アベラール家の一行がベルリオーズ邸に到着したことを、アベルは知る由もなかった。
ヴィートが部屋を出て間もなく、扉を叩く者があった。
だがアベルは返事をしない。ヴィートが戻ってきたのかもしれない、とさえ思わなかった。ただ、扉が鳴っていると意識の隅で感じただけだった。
扉が開く。
了承なしに扉を開けたのは、高貴な騎士――トマ・カントルーブだった。
彼は部屋に入ると、力なく床に座り込むアベルの胸倉を掴み、強引に立ちあがらせた。
「アベル、来い」
「…………」
「話がある」
アベルは泣きはらした瞳でトマの顔を見上げる。
蒼白な頬、震える唇、乱れた髪、うつろな瞳……憔悴しきったアベルの様子に一瞬息を呑んだトマは、己自身に苛立ったように乱暴にアベルの肩を突き、
「歩け!」
と怒鳴る。
抗う力のないアベルは、トマ・カントルーブに引きずられるように、部屋から連れ出されたのだった。
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連れていかれたのは、厩舎の裏だった。
建物のなかの騒がしさとは対照的に、外界は閑寂として、漆黒の天空にはただ黙々と冴えた月が輝いていた。
トマ・カントルーブに手荒に引きずり倒され、アベルの身体は数名の騎士らの足元に投げ出される。地面の砂が、かがり火にかすかに光っていた。
砂がやけにきれいだと感じる傍ら、視界の端には、否応なく男たちの顔が入り込む。
月明りが照らしていたのは、ジェローム・ドワイヤン、ロベール・ブルデュー、そしてオクタヴィアン・バルトの固い表情だった。
アベルは立ち上がる気力さえなく、ただ両手を砂のうえについて半身だけを起こす。
その身体を、今度はオクタヴィアン・バルトが掴み上げた。
「ここで自死しろ」
オクタヴィアンは怒りに顔を赤く染めていた。
「リオネル様が、万が一お命を落とされるようなことがあったら、私たちもリオネル様のあとを追う。だがおまえはここで死ぬのだ。自ら命を絶たないなら、私たちが殺すまでだ」
無言でアベルはオクタヴィアンを見上げる。その瞳は空虚で、なにも語ってはいなかった。
「ふざけているのか」
オクタヴィアンの左手がアベルの髪を掴み、右手が頬を強打する。アベルは殴られた衝撃で地面に打ち付けられた。
「オクタヴィアン殿の声が聞こえていないのか、アベル。さあ、早く獲物を抜け。それとも、殺されたいか」
地面に伏したアベルを、トマが足で小突く。それでも立ち上がらないアベルを、今度は蹴りつけた。
このまま殺されてもかまわない。アベルは心からそう思った。
――自分などいなくなってしまったほうがいいのだ。
なにも掴めない、この手。大切なものひとつ守れない自分など、存在しないほうがいい。
ああ、そうだ。
デュノア邸を追い出されたあの日。
あの日になぜ命を断ち切らなかったのだろう。そうしていれば、リオネルを危険な目に遭わせずにすんだのに……。
地面に倒れたアベルの瞳から、涙がこぼれる。
そのとき、どこかで聞いたことのある咆哮を、アベルは近くで聞いた。地面に伏したままアベルは、トマが殴られ、横に倒れるのを見る。
気がつけば、目前で仁王立ちしていたのは、ヴィートだった。
「アベルに手を上げたな、おまえら――」
ヴィートは固く拳を握っている。握った拳はそのままで、ヴィートはオクタヴィアンを殴りつけた。
「赦さねえ! アベルを傷つけるやつは、おれが叩きのめしてやるッ」
トマが唇の端をぬぐいながら立ちあがった。
「この山賊風情が――!」
抜き放たれた長剣が、満月を反射して鮮やかに輝く。
「あ――」
小さな声がアベルの口からもれる。
いけない。
――これ以上、大切なものを失いたくない。
咄嗟に立ちあがり、剣を振りあげるトマに、アベルはしがみついた。
「お願いです、ヴィートを殺さないでください……っ」
「アベル離れろ!」
ヴィートが叫ぶ。自ら離れようとしたわけではないが、アベルはトマに振り払われ、厩舎の壁にたたきつけられた。
「このやろう!」
怒りに任せて剣を抜き放ったのはヴィートだった。それと同時に、ロベール・ブルデューとオクタヴィアン・バルトもまた剣を鞘走らせる。
――だめだ、このままでは……!
アベルの顔面はこれ以上ないほどに蒼白になった。
ここでヴィートに戦わせてはならない。そう思うのに、したたか身体を打ちつけたアベルは、咄嗟に動くことができない。
「アベルに暴力を振るったことを、一生後悔させてやる」
トマも卓越した腕の持ち主だが、愛しい人を守ろうとするヴィートは、また普段より各段に強かった。
ヴィートが一刀でトマの長剣を薙ぎ払う。長剣は月明りに煌めきながら宙を舞った。
怒りに染まったヴィートの獲物は、続いてロベールの長剣と激しくぶつかり合い、幾度か火花を散らすと、ついにはそれを押し返して相手を横転させる。
けれど、オクタヴィアンに斬りかかろうと踏み出したすヴィートの長剣を、横合いから目にも止まらぬ速さで撃ち落とした者がいた。
腕の痛みにヴィートが顔を歪める。
「貴方はここで剣を交えてはいけません、ヴィート」
はっとしたヴィートがなにか言うより先に、その名を呼んだのはオクタヴィアンだった。
「マチアス殿……」
なぜ、という面持ちのオクタヴィアンに、マチアスは整然と告げる。
「オクタヴィアン殿、それに、トマ殿とロベール殿。貴方がたとヴィートが争えば、リオネル様が築きはじめた、元山賊とベルリオーズ家の信頼関係はここで崩壊します。そのことをご存じで戦っておられるのですか」
マチアスの背後には、アベラール家の若き騎士バルナベの姿もあった。
「むろん。アベルも山賊も我々が始末する――リオネル様の御為に」
「あくまでこの二人を傷つけるというなら、私が相手になります」
オクタヴィアンは唇を噛んだが、返事はない。代わりに振り上げた獲物が、紛れもない返答だった。
次の瞬間、オクタヴィアンとマチアスの刀身が激突する。
その傍らで、アベラール家の騎士バルナベとロベール・ブリュデューの剣がぶつかりあい、高い金属音を響かせていた。
「ヴィート、あなたはアベル殿を安全な場所へ!」
マチアスがヴィートに向けて叫ぶ。
……リオネルが狼に噛まれ深手を負ったその夜、ベルリオーズ邸の厩舎裏では、いったいどういう運命のいたずらか、このうえなく良好な間柄であるはずのベルリオーズ家とアベラール家の騎士らによる、大乱闘が繰り広げられることになったのだった。
それは優れた腕を持つ戦士らの戦いである。
容易に決着はつかない。血が流れてもおかしくない争いだった。
仲間同士が争う姿を、月は無情に見下ろしている。
――なにもできないまま、心だけが凍てついていく。
だが突如、争いを収束させたのは、青年の一喝だった。
「なにをしている!」
その場に響きわたった声に、全員が動きを止める。
「マチアス、バルナベ、剣を下ろせ!」
「ディルク様」
つぶやいたのはマチアスで、バルナベと共に剣を下ろし、深々と一礼した。
次の瞬間、ベルリオーズ家の騎士らも、獲物を鞘に収めてディルクのまえに腰を折る。離れたところに避難させられていたアベルは、ヴィートに支えられて前へ出た。
「なんだ、この騒ぎは」
いつになく激しい怒りをディルクは露わにした。信じられぬという思いと動揺が、その声には混ざっている。
「リオネルがあんな状態なのに、おまえたちはなにをしているんだ。立場と状況をわきまえろ!」
「申しわけございません」
謝罪したのはマチアスだった。
「なにがあったんだ」
なにか答えようとしたマチアスを制し、アベルは一歩前へ出て頭を下げる。
「わたしのせいです」
「アベル?」
「ヴィートはわたしを――マチアスさんとバルナベ様はわたしたち二人を、守ろうとしてくださったのです。咎めはわたしが受けます」
「…………」
「わたしのせいでリオネル様に怪我を負わせてしまいました。そのわたしを、ベルリオーズ家の騎士たちが赦すことができないのは当然のことです。けれど、ヴィートやマチアスさんたちは、そんなわたしをかばってくださったのです」
事情を説明し終えたアベルに、ディルクは小さく溜息をつきながら「そうか」とつぶやく。
「だいたいの事情はわかった」
そう言いながら、ディルクはアベルの泣きはらした顔を見つめた。
「その頬の怪我は?」
うつむくアベルの代わりに、ヴィートが答える。
「ここにいる、ベルリオーズの騎士たちにやられたんだ」
「狼から逃げるときにすりむいたのです」
即座に否定したアベルを、ヴィートはもどかしそうに見やった。
しばらく黙していたディルクだが、アベルの腕が傷ついていることにも気がつき、眉をひそめる。だれに殴打されたのか――もしくは蹴られたのか、それはヴィートが答えたとおりなのだろうと察せられた。
「アベルも一度、医者の診察を受けたほうがいい。ひとまず部屋に戻るんだ」
それからディルクは、ベルリオーズ家の騎士らを見やる。
「今回の件は公爵様に報告する。事情を聞かれた際には、正直に答えてくれ」
騎士らが頭を下げると、最後にディルクはマチアスとバルナベに向けて言った。
「おまえたちからは別途話を聞こう。処分が必要なら、相応のものを受けてもらう」
声を上げて抗議しようとしたアベルを振り返り、マチアスは静かに首を横に振る。
「謹んでお受けします」
ヴィートに肩を支えられながら立っていたアベルは、うつむき唇を噛んだ。