30
「リオネル! リオネル・ベルリオーズ! 出てこい!」
扉のほうで騒ぎ立てる声に、リオネルはチェスを指す手を止めた。
「出てこなければ、死ぬまで後悔するぞ!」
何者かが扉の前で叫んでいる。尋常ではない騒ぎようだ。その声は、たしかにヴィートのものだった。
「すみません」
対戦相手であるエルヴィユ侯爵に断り、リオネルは席を立つ。
リオネル自ら扉を開けると、廊下でヴィートと兵士が揉み合いになっていた。
姿を現したリオネルを見上げ、ヴィートはその胸元に掴みかかろうとして、再び兵士に止められる。邪魔くさそうに兵士らを殴り飛ばし、ヴィートはリオネルの肩をひっつかんだ。
「チェスなんてやってる場合か! アベルがいない。蒼の森とやらに行ったかもしれない」
リオネルの深い紫色の瞳が、瞬時に見開かれる。
「なん、だって?」
「夕方から姿が見えないんだ。アベルはたったひとりで森に入った可能性が高い。おまえは――って、おい……!」
ヴィートの言葉が終わらぬうちに、リオネルは走りだしていた。
「おい、リオネル!」
ヴィートが呼び止めても、リオネルは振り返りもしない。その姿は、またたくまにヴィートの視界から消えていく。
「あの――馬鹿野郎ッ」
ベルリオーズ家の嫡男に対しありえぬ悪態をつきながら、この日、何度目かの舌打ちをして、ヴィートは周囲の兵士らを見渡した。
「だれかベルトランに知らせろ。それから騎士らを集め、なるべく大人数で松明を持って蒼の森へ来い。わかったか」
耳が痛くなるほどの声で怒鳴ってから、ヴィートもまた廊下を走りだす。
なにが起こったのか即座に把握できない兵士らは、しばし呆然として二人が消えていった廊下の先を見つめていた。
吹き抜ける風のようにリオネルは階段を駆け下り、館の外へ。
――なぜ、という疑問さえ、リオネルの胸のうちには湧いてこなかった。
危ない。
アベルが危ない。
ただそれだけの思いが――恐怖が、リオネルを衝き動かす。
午後に、リオネルが多くの獲物を仕留めた蒼の森。それは、暗くなってからは人間がけっして足を踏み入れてはならない場所だ。
夜は、昼とはまったく異なる世界が広がっている。
闇のなかで獲物を狩るのは、獰猛な獣たち。
そこで狩られることになるのは、人間のほうだ。
自らが狩った獲物たちの無残な姿が、リオネルの脳裏に思い浮かぶ。
胸が引きちぎられるような思いで、アベルの無事を祈りながら、リオネルは蒼の森へ向かった。
+
鬱蒼とした木々の葉を揺らす風が、冷気を帯びはじめる。
つい先程空を見上げたときは、まだ木々の合間には美しい茜色の空が見えたのに、今は濃い藍色の背景のなかで、星の不規則な点滅と、まばゆい満月の輪郭が存在感を大きくしつつあった。
足元が暗くなり、指輪を探すことがやや難しくなってきている。
頼りになるのは、西に沈んだ太陽のかすかな残照と、いつのまにか木の葉から漏れはじめた月明かりとなっていた。
指輪は見つかっていない。
アベルは焦りはじめていた。
狩りに同伴したフェリシエが立ち寄りそうな場所をくまなく探しているが、指輪は見あたらない。
優しく諭す声が、脳裏に蘇る。
――森の中はこちらから見るよりはるかに広大で深く、鹿や猪や兎以外にも、熊や狼などの獰猛な動物もいる。ひとりのときや、暗くなってからは、けっして近づいてはいけないよ。
かつてシャサーヌに案内してくれた際に、リオネルから言われた言葉をアベルはけっして忘れていたわけではなかった。
けれど、指輪を見つけぬままでは戻れない。それではライラとの約束を違え、フェリシエを救ってやることができない。
夜の匂いがする。
冷酷で――、それなのに惹きつけられる匂いだ。
けれど、まだ完全な夜ではない。かすかに足元は見えている。
木の根元、葉の影、低い木の枝、石の隙間……指輪が出てくる瞬間を絶えず想像しながら――その向こうに、フェリシエが喜ぶ姿を思い浮かべながらアベルは探しつづける。
どれくらい経っただろうか、闇が濃さを増し、そろそろ戻らなければと思ったころ、アベルはふと顔を上げた。
風が弱まり、木の葉の擦れる音さえ聞こえない。
しびれるような静寂のなか、人間の殺気とは違う――だが、なにかの「気」をアベルは感じた。
それも単体ではない。
複数の「気」だ。
アベルは周囲を見回す。
人の姿はないが、かすかに何者かが荒く呼吸するような気配がある。
どのような敵を相手にしても動じないアベルだが、このときはすっと背筋が寒くなった。
それは、「生き物」としての勘だったかもしれない。
――見られている。
複数の相手に囲まれているのを、アベルは肌で感じた。
ゆっくりとアベルは立ち上がる。
あいかわらず、森のなかは静かだ。
木の影は黒く、足元に漂う闇は濃い。
月だけが、いつもと変わらぬ冷たい顔をしていた。
――帰らなければ。
アベルは思った。
指輪は明日また探すしかない。
帰れなければ――。
胸にこみ上げてくるものがどのような感情であるかを理解できぬまま、アベルが今すぐに帰らねばならないと確信したとき。
幾多の星明かりを、アベルは森の奥に見た。
+
光っている。
それはたしかに、きらりきらりと光り、こちらを見つめていた。
「――――!」
光が飛躍する。
悲鳴を上げる間もなく、それはアベルに襲いかかってきた。
長剣を抜くのが一瞬でも遅ければ、アベルの喉笛は噛みつかれていただろう。
咄嗟にアベルが払った長剣に倒れたのは、一頭の狼だった。
アベルの呼吸が荒いのは、身体を動かしたせいではない。
――恐怖からだ。
幾多の光。
それは、自分を狙う獣の目であることをアベルは知った。
覚える恐怖は、人間を前にしたものとはまったく違う。生き物としての本能が、この危機を全身で感じ取り、警告しているのだ。
アベルは長剣を構えなおした。
狼を相手にどう戦えばよいのか、アベルにはわからない。相手の動きなど読めないし、読めたところで獣の速さには追いつかない。
仲間を一頭殺されたせいか、狼たちはしばらくアベルを囲んだまま動かなかった。けれど、それも束の間のことである。
一頭が走り出すのを皮切りに、数等の狼がアベルに襲いかかった。
長剣で彼らを迎え撃とうとしたアベルは、けれど一頭目の狼の腹に剣を突き刺すと、襲われた勢いで後方へ倒れてしまう。
倒れたために他の二頭の狙いは外れたが、長剣は狼の腹に突き刺さったまま手から離れてしまった。
ほとんど間髪をおかずに、再び狼たちが襲い掛かる。
アベルは声を出すこともできずに、瞳を閉ざした。
目を閉じたところで状況が好転するわけではないことを、アベルは知っている。けれどそれ以外に、もはやできることはなかった。
噛みつかれる……!
瞬時にアベルは死を覚悟した。
壮絶な痛みに襲われるだろうと想像していると、アベルの頬や手に生暖かいものがかかった。
片目だけを開き、震える瞼の隙間からアベルは外界を見る。
そこにあったのは、二頭の狼の死骸と――。
アベルは手で口元を押さえた。
なぜ、泣きたいような気持になったのか、わからない。
逞しい背中が目前にあり、後ろ手にアベルを守っていた。
「怪我は――アベル」
切迫した声は、まぎれもないリオネルのもの。
「リオネル様……」
しっかりと名を呼んだはずだったのに、アベルの口からはかすれた声しか出なかった。
「怪我は」
再び問われると、相手はこちらを見ていないというのに、アベルは必死にうなずく。雰囲気を感じ取ったのか、リオネルが安堵する様子が肩のあたりから見て取れた。
「きみはそこから動いてはいけない。わかったね」
「リオネル様が危険です」
即座にアベルは立ち上がり、リオネルの前へ出ようとする。
けれど、リオネルは左手でアベルの身体を後方へ押し返した。
「きみには無理だ。きみの力で狼は――」
言葉の途中で、リオネルが長剣をふるったのは、狼が襲いかかってきたから。一瞬のうちに、一頭が絶命し、さらに飛びかかってきたもう一頭の顔面を、噛みつかれる寸前で斬りつけた。
リオネルとて、けっして余裕の戦いをしているわけではない。わずかでも手を翻すのが遅れていれば、狼に襲われていただろう。
これまでとは別の恐怖がアベルを支配する。だが、アベルに成す術はない。
自らの力では、狼を倒すことができないことはわかっている。
ではどうすればいいのか。
アベル自身が狼の餌食になり、その間にリオネルを逃がすことはできるだろうけれど、おそらくこの強く優しい主人はけっしてアベルを置いて逃げたりはしないだろう。
そのことをわかっていても、アベルは懇願せずにはおれなかった。
「リオネル様、逃げてください。わたしのためにこのような危険を冒してはいけません」
先程まで感じていた恐怖は、不思議なくらいきれいに消え去っている。代わりに、なにをしてでもリオネルを守らなければ――その気持ちだけに支配されていた。
「わたしが狼を引きつけています。ですからそのあいだに、どうかリオネル様は――」
「おれはアベルを助けにきたんだ。いっしょに館に戻ろう」
リオネルが剣を握りなおした直後、複数の光が飛躍する。それを見てとるうちに、リオネルの長剣が月光を反射して煌めいた。
血しぶきとともに、獣の高い鳴き声が上がる。
だが、次の瞬間――。
アベルの喉から悲鳴がほとばしった。
――その悲痛な声が叫んだのは、ひとりの青年の名。
後方へ倒れ込んだリオネルの左肩に、巨大な狼が深く噛みついていた。
けっして離そうとせぬように、その牙はリオネルの肉に喰いこみ、肉を引きちぎろうと首を左右に振っている。
同時に襲い掛かってきた他の二頭の狼は、リオネルの長剣によって斬り殺されていたが、その一頭だけはリオネルの振るう剣から逃れて肩に喰らいついたのだ。
アベルの動きは早かった。叫んだ直後には、腰の短剣を抜き、リオネルに喰らいつく狼の頸に振りおろしていた。
狼が肩から離れると、リオネルは即座に左肩を押さえて立ちあがる。だが痛みのせいか、リオネルはわずかによろめいた。
名を呼ぶアベルの声は、悲鳴に近い。
「大丈夫――、たいしたことはない」
リオネルの声はしっかりしている。
けれど月明かりは、苦痛に歪むリオネルの顔と、その肩から噴き出す多量の血を、残酷なまで鮮明に照らし出していた。
「リオネル様――」
アベルはもはや平静さを失っていた。
ひどい出血である。
止血しなければ、命にかかわるだろう。
それでもなお狼に立ち向かおうとするリオネルに、アベルは泣きながらすがりついた。
「お願いです、もうやめてください……!」
「このままでは二人ともやられるだけだ」
「逃げて――お願い――――」
「下がるんだ!」
リオネルが叫んだのは、再び獣が飛びかかってきたからだった。
――神様――……。
アベルは一瞬のうちに思った。
――どうか、神様――。
この人を助けて――……。
襲いかかってきた一頭の狼を斬り捨てたのは、左肩から血を流すリオネル。
けれどもう一頭は攻撃を逃れ、リオネルに喰らいつこうとしていた。
アベルが短剣を手に前へ飛び出す。
リオネルの叫び声のなかで飛んできたのは、アベルが持つものとは異なる一刀の短剣。
それはアベルに飛びかかろうとしていた狼の頸部に突き刺さり、血煙と共に獣の巨体を地面に落下させた。
アベルとリオネルは視線を上げる。
短剣を投げつけたのは――。
「ヴィート……!」
その名をつぶやくと同時に、アベルはその場にへたりこんだ。リオネルを失うかもしれぬという恐怖と緊張のためだった。
「坊ちゃん、あんたは戦うな。怪我人は足手まといだ、そこでアベルを守っていろ」
大きな松明を左手に掲げながらヴィートは狼と向き合った。
それから狼を睨みまわしたヴィートの口から、獣のような咆哮が上がる。
松明を突きつけ、なにやら意味のない叫び声をあげながら、長剣を握る右手で自ら狼たちのほうへ襲いかかっていく。
目の前の大男は、もはや人間ではなく野獣のごとき姿だった。
二頭の狼がヴィートの剣に倒れたとき、狼たちの瞳には躊躇と恐怖の混ざり合った色が浮かんでいた。
ヴィートがさらに松明と長剣、そして咆哮で威嚇すると、彼らの尾が丸まり、犬の鳴くような声で鼻を鳴らし、地面に這いつくばりながら一頭ずつ逃走しはじめる。
遠くには、無数の松明の明かり。
それは次第に近づいてくる。
明かりに気がつき、追い打ちをかけられた狼たちは、途端に一頭残らず森の奥へと逃げた。
危険が遠ざかったことを知ると、それまで自らの力で立っていたリオネルが、ついに地面に膝をついた。
大粒の涙を流しながら、アベルは幾度もリオネルの名を呼ぶ。
「大丈夫だ、アベル。泣かないでくれ――おれは大丈夫だから」
幾度リオネルがなだめても、アベルは子供のように泣いていた。まるで母猫を失った非力な子猫のように。
「アベル、落ち着け」
ヴィートの声にもアベルは反応しなかった。
「おれがこいつを館まで運ぶ。アベルはしっかり後ろからついてくるんだ」
そう言うとヴィートはリオネルを支え起こして、足早に歩き出した。
「絶対に離れるなよ」
背後にいるアベルにヴィートが声をかけたとき、すでにリオネルの意識はなかった。