第三章 ラベンダー畑は礼拝堂の誓い 29
リオネルの誕生日を二日後に控えたその日の午後、蒼の森では大規模な狩りが行われた。
夜にアベラール家から嫡男ディルクが到着するという報を受けていたため、晩餐を飾る獲物を狩るという名目であったが、狩猟そのものはけっして特別なものではなく、日常的に行われている。
普段の獲物は兎や猪、運がよければ鹿、それに、鴨や鶉などの野鳥であるが、その日は、リオネルが猪を二頭、高級な食材である雉に雷鳥、さらには大鹿を仕留め、ベルリオーズ邸ではその話題で持ち切りになっていた。
狩りの腕前を称えると同時に、リオネルは同行した美しい婚約者候補に、武勇を披露したかったに違いないと、騎士のあいだでは華やかな噂へと発展していた。
「今夜はご馳走だぞ、アベル。リオネル様の誕生日がくるまえに、宴だ、宴だ」
先程通りかかった広間で、たむろしていた騎士らのなかからラザールが大声でアベルに話しかけた。
「おまえも仕事ばかりしていないで、そろそろ休んで大鹿のことでも考えていろ。しっかり食べてもう少し肉をつけるんだ。このままでは百年かかっても、ベルトラン殿のような体格になれないぞ」
ラザールの台詞に周囲の騎士たちが笑う。
苦笑しつつ、アベルは広間を過ぎて、回廊を進んだ。三百年かかっても、ベルトランのようにはなれないだろうと思いながら。
肉、と聞いて、思い出すものがある。
肉が嫌いであれば、やはりあの子もベルトランのようにはなれないだろうか。
回廊を歩むアベルの足取りは、重い。
――向かう先は、エレンとイシャスがいる部屋だった。
近頃なかなか館に姿を現さないアベルに、小さな手紙が届いたのは昼過ぎのことである。手紙はエレンからだった。
「イシャスが好き嫌いをして、お肉を食べません。一度、様子をみてあげてください」
それだけが書かれていた。
エレンは字が書けない。だれに代筆してもらったのかわからないが、丁寧な文字でそれは綴られていた。
イシャスに会うのは、怖かった。
なぜか、ひどく怖い。
エレンの言うとおり、自分は我が子から――母親という立場から――逃げているのかもしれない。そうアベルは思った。
彼らの部屋に向かうアベルの気は重く、二階への階段を上がる手前でふと立ち止まる。足を止めたのは、心の葛藤のせいか、それともなにかを感じたからか。
だれかがいるような気がして、振り返ると、そこには見覚えのある貴婦人が立っていた。
「アベル様」
名を呼んだのは、フェリシエ付きの侍女である。彼女はジュストの従姉であるという噂を、アベルは耳にしたことがあった。
「あなたは……」
「フェリシエ様に仕える侍女、ライラと申します。どうか、助けていただけないでしょうか、アベル様」
侍女の声は焦り、震えている。
「このままではフェリシエ様が……」
「なにがあったのですか?」
瞳を潤ませて懇願するライラの様子から、フェリシエの身になにかよからぬことが起きていることを、アベルはすぐに察した。
「助けてくださるのですか?」
「わたしにできることなら」
「ありがとうございます」
涙を流して礼を述べると、ライラはアベルに事情を語りはじめた。
「お嬢様が、今日の午後、狩りにご同行されたことはご存知でしょうか」
「知っています」
「そこで、リオネル様からいただいた高価な宝石を落としてしまわれたのです」
「……蒼の森で?」
「はい。落としたのは金剛石の指輪です。リオネル様からいただいたもののなかでも、最も高価なもので、今夜の宴でも身につけるおつもりでした。けれどそれを森で落とされてしまい、フェリシエ様は気を失わんばかりの哀しみようです――リオネル様に申しわけが立たないと」
堰を切ったように、ライラの瞳からは涙がこぼれ落ちた。
「大事な宝石を亡くしたことは、けっしてリオネル様のお耳に入れることはできません。それくらいなら、フェリシエ様は死をお選びになるでしょう。だれにもお会いになろうとなさらず、寝台で泣き続けるフェリシエ様を見ていると、わたしは身を切られる思いでございます……」
「お話はわかりました」
リオネルからの贈り物を失くして落ちこむフェリシエの気持ちが、アベルには少なからずわかる。水宝玉の首飾りを、かつてアベルもリオネルからもらったことがあるからだ。
それは今でも、アベルの首にかかっている。
その首飾りを、どこかに落としてしまったら、アベルは胸を押しつぶされるほどの喪失感を覚えるだろう。
けれど、貴族の令嬢であるフェリシエは、自ら森に行って探すことができないのだ。その悔しさは、やはりデュノア家の姫であったアベルには理解できた。
そして、リオネルが金剛石のような高価な宝石を贈ったというなら、それほどフェリシエのことを愛しているということだ。
「指輪を探し出せば解決するのですね?」
「ですが、森のなかへは……」
「わたしが行ってみましょう」
はっとしてライラは顔を上げる。
「……今、なんと?」
「狩りで通る個所は、だいたいわかります。今から森へ行って、探してきます。あなたはフェリシエ様のもとへ戻り、そう伝えてください」
するとライラは慌てて首を横に振る。
「いけません、アベル様。あなたが森に探しにいけば、指輪を失くしたことが、リオネル様に知られてしまいます」
「大丈夫です、リオネル様はわたしの行動をご存じありません。それに、指輪を失くしたことは誓ってだれにも申しません」
「だれにも? 神に誓っていただけますか」
「ええ、もちろんです」
「たとえ、なにがあっても……?」
繰り返し念を押すライラに、アベルはうなずいてみせる。
「日没までには、まだ時間があります。できるかぎりのことをやってみます」
どうかお願いいたします、と再び涙を流すライラに背を向け、アベルは使用人が利用する扉口から森へと向かった。
涙を流しながら、不安げにその後ろ姿を見送ったライラは、完全にアベルが視界から消えてしまうと、ハンカチで隠した口元をひそかに動かした。
――死んでしまいなさい、と。
その顔には、涙も不安も笑みもなく、ただ感情に欠けた冷たい色だけが張り付いていた。
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苛立った様子で、ヴィートは地上階の廊下を歩いていた。
それは焦りと不安からくる、苛立ちである。
――アベルが戻ってこない。
すでにあたりは暗くなりつつあり、しばらくすればディルクも到着して晩餐会となるだろう。ベルリオーズ邸の生活に慣れないヴィートを気遣い、アベルは共に晩餐会に出席しようと言ってくれていた。
ヴィートにとっては、このうえなく嬉しい気遣いである。
けれど、「すぐに戻る」と言ってエレンの部屋へ向かったきり、アベルは戻ってこない。
ずっと「騎士の間」で待っていたが、夕陽が地平線に沈みはじめるとともに不安が募り、アベルを探しにでかけた。
エレンという名の女中の部屋を探しあて、アベルが訪ねてきたかと尋ねたが、一度も来ていないという。
おかしい。
よほどのことがないかぎり、アベルが約束を破ったり、嘘をついたりするはずがない。
アベルが、「すぐに戻る」と言っていたのに戻ってこず、「エレンの部屋へ行く」と言ったのに行っていないとすれば、これは、よほどのことが起きたと考えてもおかしくない。
ただの杞憂であればいい。
けれど、彼女の無事を確かめるまでは、ヴィートは落ち着くことができなかった。
こんなときに、リオネルはエルヴィユ侯爵と客間でチェスをしているという。アベルがいないことを伝えにいこうとしたヴィートだったが、部屋を守る兵士にすげなく入室を断られてしまった。
こうしてヴィートの焦りと不安、そして苛立ちは募っていくばかりだった。
頼みの綱であるリオネルに相談できないので、騎士たちにアベルの居場所を尋ねるが、彼らはリオネルの狩りの成果や、若い嫡男とフェリシエの婚約の話題で浮かれており、「鹿肉を食べて、ベルトラン殿のような身体になるための冒険にでたのだろう」などと、ふざけた回答しか返ってこない。
しかたがないので、立ち働く使用人や女中にアベルを見なかったかと、尋ねて歩くほかなかった。
けれど思うような情報が得られず、時間が経つにつれて、ヴィートの焦りは募っていく。
「いいえ、お見かけしておりません」
「昼ごろなら、このあたりにいらっしゃったのですが……」
ほとんどの者が知らぬと答えるなか――。
ただひとり、アベルを見たという者がいた。
「本当か」
「ええ、アベル様に間違いありません」
うなずいたのは、ベルリオーズ家で働く使用人のなかでも、最も年齢が高いだろうと思われる老人だった。
「私が二階から降りてきたとき、アベル様はちょうどエルヴィユ家の貴婦人と別れ、この回廊を扉口へ向かい歩き去るところでした」
「だれだ、その貴婦人というのは」
「お名前は存じあげませんが、フェリシエ様の侍女とお見受けいたしました」
短く礼を述べ、ヴィートは一目散に最上階を目指して走り出す。
赴く場所はただひとつ。
――フェリシエの寝室。
獅子のように階段を駆け上がり、廊下を走り抜けると、ヴィートはフェリシエの部屋の扉を断りもせずに開け放った。
「アベルはどこへ行った」
部屋中にヴィートの怒鳴り声が響く。
晩餐会のために髪を結っていたフェリシエとライラが、瞳を大きく見開いてヴィートを振り向いた。
「お嬢様の部屋に勝手に入るとは、なんと無礼な!」
フェリシエの髪を梳いていた櫛を、得物のように握りしめライラは怒鳴った。
「すぐに出てお行きなさい! そうでなければ、兵士を呼びますよ」
「勝手にしろ。だがそのまえに教えてもらおう。アベルはどこに行った」
「知るわけがありません。これ以上、無礼を重ねるなら、声を上げますよ」
実際に声を出そうとしたらしいライラが、大きく息を吸い込んだとき、ヴィートはライラを拘束し、その首に短剣を押し当てた。
「ひっ」とライラの喉から声がもれる。
同時に、フェリシエが両手で口を押さえて小さな悲鳴を上げた。
「教えなければ、この侍女の首をかき切るぞ。おれは山賊だった男だ。人の命を奪うことなど容易い。フェリシエとかいったな。答えろ。アベルはどこだ」
「この野蛮人……!」
口を押さえ、震えたまま、フェリシエはヴィートを睨む。
「野蛮人でけっこう。アベルを守るためなら、なんだってやる。早く言わなければ、本当にこの女を殺すぞ」
「やめて……」
フェリシエの声は激しく震えていた。
「……わかったわ、言うわ。ただひとつだけ約束をしてくれたら」
「なんだ?」
「わたしから聞いたという事実については、あなたの命にかけて、リオネル様の耳には入れないと」
「そんな約束できるか。二度とつまらない真似をさせないために、おまえがどれほどの性悪女か、リオネルに聞かせてやる」
「……そう」
侍女を人質にとられて震えていたはずのフェリシエは、いつのまにか、不気味なほどの落ち着きを取り戻していた。
「約束しないなら、わたしはなにも教えないわ。それでもよろしくて?」
ヴィートは大きく舌打ちする。
「正真正銘の性悪だな」
「わたくしたちは、アベルがどこにいるかなど知りませんもの。どんなに脅されても、答えられるはずがないでしょう。ねえ、ライラ」
首に刃を突きつけられたままライラは、フェリシエに応えるように視線を向けた。
再び舌打ちしたのはヴィートである。
このままでは、時間だけが過ぎていく。
そのあいだにも、アベルの身になにが起こっているかわからない。
「悪魔のような女だ」
そう言ったヴィートを、フェリシエはじっと見つめている。
「――約束する。おまえたちから聞いた話だということについて、だれにも言わない。だから、教えろ」
「あなたの命、そして愛するものに誓って?」
「ああ」
「……さっきも言ったとおり、わたしたちはなにも知らないわ。ただ、あの子が森に向かって歩いていく姿を、ライラは見かけたのよ。ただそれだけだわ」
「森だと?」
ヴィートは息を呑んだ。
山で生まれ育ったヴィートは、夜の森のおそろしさを知っている。熊や狼が腹を空かせ、獲物を狙って絶えずうろうろしている場所だ。彼らは獣であり、武器を持った人間とはまるで違う。野生の獣のまえでは、どれほど腕の立つ戦士であろうと単独では非力だ。ましてや、小柄なアベルでは……。
「おまえら、根性が腐ってるのか!」
そう言い捨て、ライラを乱暴に放すとヴィートは駆けだした。
解放されたライラのもとへ、フェリシエは倒れこむように抱きつく。そして、嗚咽をもらして泣きだした。これまで気丈に振る舞っていたが、フェリシエは自らの力で立っていられないほど、恐ろしかったのだ。
「お嬢様、大丈夫です。わたしは、なんともありません。そのようにお泣きにならないでください」
侍女の無事を知っても、フェリシエは涙を止めることができなかった。
「ライラ……ライラ……」
だれよりも信頼し、慕っている侍女である。
ヴィートは本気だった。
もう少しでライラを目のまえで殺されるところだったのだ。
「フェリシエ様のおかげで、わたしは命を救われました。わたしは傷ひとつありません。けれど、あの山賊は……」
ライラの台詞の最後には、忌々しげな響きが込められている。
涙をぬぐいながら、フェリシエは顔を上げた。
「いいのよ、ライラ。ジュストは、蒼の森は獣の巣窟だと言っていたわ。暗くなれば必ず狼が現れる……アベルも、あの山賊も、喰われてしまえばいいんだわ」
しっかりと抱き合う二人の姿は、闇が深まる部屋のなかで、一段と暗い影に染まっていた。