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普段は疲労を表に出さないリオネルだが、この日はひどく疲れた顔をしていた。
彼が疲労感を漂わせるときは、たいてい肉体的な要因ではなく精神的な理由であることを、常に彼のそばにいるベルトランは知っている。だからこそ、若い主人のことを、心から案じていた。
「大丈夫か」
赤毛の騎士の気遣いに、リオネルは短く「ああ」と答える。
フェリシエが館に到着してからというもの、リオネルは日中の主要な時間は彼女と共に過ごし、残りの時間はすべて政務に充てていた。
望んでそうしているわけではない。
すべては父親であるベルリオーズ公爵が決めていることだ。
日中に政務に向かおうとしてもすぐに呼び出され、庭園散策、音楽鑑賞、狩猟、チェスなどあらゆる行事に参加させられる。そこには常にフェリシエがおり、話をしなければならなかった。
最近は、アベルの顔さえ見ていない。騎士館に足を向けようにも、時間ができればすかさず政務を処理せよと命じられるのだ。まるで故意にアベルと会わさないよう、嫌がらせをされているようだった。
日に日に、アベルに会えない寂しさと、ある種の焦りを覚えはじめたころ、ラロシュ邸からひとりの来訪者があった。
ヴィートである。
彼は、到着したその日にリオネルのもとを訪れ、いくつかの報告をもたらしたが、そのうちのひとつは、リオネルの心をひどく乱すものであった。
すなわち、ブラーガの怪我が全快したこと、元山賊たちによる開墾がつつがなく進んでいること以外に、アベルの身に起こったことやジークベルトからの伝言を、リオネルはヴィートから聞いたのだ。
『あのままアベルが帰らなかったら、どうしてたんだ?』
怒りを露わにしながら、ヴィートは言葉をぶつけた。
『あんたがどこぞのご令嬢にうつつを抜かしているから、アベルにへんな虫がつくんだ。フェリシエとかいう女といちゃいちゃしたいなら、勝手にやればいい。だけど、あんたがよそ見しているあいだにも、アベルは女性の身で、あんたへの忠誠心を変わらず抱いてせっせと従騎士として働いているんだ。真実を知るだれかが見守ってやらなきゃ危うい。あんたは浮気心を出しすぎて、そんなことさえ忘れたのか』
立場をわきまえぬ言い様に、ベルトランはヴィートの胸倉を掴みかけたが、リオネルはそれを制した。
『ヴィートが言うとおり、最近アベルと過ごす時間が持てず、彼女に心を配ることができていない。ジークベルトと名乗った男の言うことも理解できる』
そう言ってから、リオネルは口をつぐむ。さらなる言葉は続かなかった。
皆が言うことは正しい。けれど、正しいことだからといって、それを現実に結びつけて行動できるかといえば、そうではない。
もしそれをたやすくできるならば、とっくにリオネルはアベルを自分の手で守っていた。
それができなかったのは、リオネルが立場や人間関係にがんじがらめにされて、身動きができなかったからだ。
自らの力では、アベルを守れないのか――。
リオネルの心に、濃い霧が立ち込め、視界を完全に遮っていた。
言葉少なであるリオネルを、ヴィートは苛立たしげに見やる。
『なにを悩んでいるのか知らないが、ジークベルトというやつは気をつけたほうがいい。あいつはアベルに執心しているぞ』
肘掛椅子に腰かけ、視線を小卓に落としたまま、リオネルはヴィートの言葉を聞いていたが、返答はしなかった。
『じゃあな。おれはアベルのところへ行く。あんたならしかたがないと思っていたが、あの金髪男に奪われるくらいだったら、おれがアベルをもらう』
その台詞に、リオネルは視線を上げてヴィートを見やる。細められた紫色の双眸には、敵意というより、葛藤が浮かんでいた。
『今、アベルのもとへ行けるおまえがうらやましい。おれの代わりにアベルを守ってほしい』
リオネルの言葉を聞き終えると、ヴィートは無言で部屋を出て、苛立ったように扉を乱暴に閉めた。
それが日没後の出来事である。
夜になり、忍び寄る闇とともに、リオネルの憂鬱は濃さを増した。
ひと目でいい。
アベルに会いたかった。
「ヴィートが言っていたことを気にするな。おまえは自分のできる範囲で、できることをやっている」
気を使ってくれるベルトランに、リオネルはかすかに笑んで見せる。けれどその笑みも、幻のようにすぐ消えた。
「夕餉の時間だね」
リオネルは席を立つ。
食堂へ行けば、またフェリシエは隣の席で、絶えず笑みを浮かべて話しかけてくるだろう。
アベルの不満そうな顔や、照れたような表情、泣き顔、そして光が弾けるような笑み――ひとつひとつの表情が懐かしかった。
近くにいるのに、これほどまでに遠く感じる。
なにもかもを捨ててしまえば、力のかぎりにアベルを抱きしめ、愛を伝えることができるのだろうか。立場も、身分も、家族も、家臣も、領民さえも捨てて……。
部屋を出て廊下を歩みはじめたリオネルは、けれどすぐに足を止めた。廊下の先に、これまで心に思い浮かべていた相手の姿をみとめたからだ。
――焦がれてやまない少女だった。
「アベル?」
まるで数ヶ月ぶりにその姿を目にするような気がした。
細い身体。顔は、少し痩せたようにも見える。
近くに来るとアベルは一礼し、それから口を開く。どこか遠慮するような口調だった。
「久しくおそばを離れていて、すみませんでした」
「アベル――」
次の言葉を、リオネルは探すことができない。
なぜアベルがベルリオーズ邸の本館に近寄らなかったか、だいたい想像はついている。リオネルの胸にこみあげてくるのは、やり切れなさだった。
「リオネル様がお呼びだと、ヴィートに聞いたのですが……」
「ヴィートから?」
意外な言葉に、リオネルはわずかに瞳を見開いた。ヴィートにそのような伝言を託した覚えはない。
リオネルの反応に、アベルが不思議そうな面持ちになる。
「違いましたか?」
「いや……違わない」
咄嗟にそう答えてから、リオネルは迷った末にひとつの質問をした。
「今日、街で会ったのは、去年の暮れにシャサーヌの市場で会った男か」
わずかに間を置いてから、アベルは頭を下げる。
「仕事のあいだに観劇などへ行き、すみませんでした。以後、慎みます」
「違うんだ。きみを責めているんじゃない」
頭を上げたアベルは、かすかな不安と憂いをたたえた瞳で、リオネルを見つめている。
「……心配なんだ」
苦しげに細められるリオネルの双眸。
目の前に、このうえなく愛おしい相手がいるというのに、手を伸ばせない。
――手が届かない。
「息抜きをすることはかまわない。むしろ、したほうがいい。けれど充分に気をつけてほしいんだ。街には様々な人間がいる。信用できる者ばかりとはかぎらないから」
アベルは黙ってリオネルを見上げていたが、再び深々と腰を折った。
「軽率な行動をとり、申しわけありませんでした」
久しぶりに会うからだろうか――、距離を置くような、どこか他人行儀に感じられるアベルの態度を、リオネルはひどく寂しく思う。
「謝罪を求めているわけじゃない。ただ……きみの身になにかあれば、おれは平静ではいられない。それだけは覚えておいてほしい」
リオネルの深い紫色の双眸を交互に見つめ、それからアベルはうつむいた。
「わたしは……」
なにかを言いかけるが、アベルはそれ以上言葉を続けない。
「きみは?」
リオネルが尋ねると、アベルは首を横に振る。
「なんでもありません」
そう答えるアベルの表情は、あまりに哀しげで。
胸の奥に冷たい風が吹き込むのを、リオネルは感じる。
どうしてこの人はこんなに儚く、哀しそうなのか。
……今にも目の前で消えてしまいそうなのに、抱き寄せることもできない。
伝えたい想い――伝えられない言葉。
このままでは、互いになにも語れないまま別れることになってしまう。そう思ったとき、ふとアベルの口元に笑み浮かんだ。
「そんなことでわざわざわたしを呼ぶなんて」
笑っているはずのに、アベルの表情は頼りない。
「おかしいかな」
呼んでなどいなかったが、リオネルは柔らかく笑い返す。アベルにもっと笑ってもらいたいと――彼女の心からの笑みを見たいと思ったからだ。
「いいえ、リオネル様らしいです」
そう言ってうつむきながら再び笑ったアベルの顔に、リオネルは胸を締めつけられる思いで目を細める。
ずっと……ずっとアベルに笑っていてほしい。
そして、そばでその笑顔を見ていたいと、リオネルは願うのだった。
+++
ステンドグラスから鮮やかな光彩が溢れ、色とりどりの光の雨となって、石の床に降りそそいでいる。
朝の礼拝が終わり、しばらく経ったころ。
先程までは大勢の人々がいた本堂も、王族が座す二階の王室特別席も、今はひっそりとしていた。
静寂のなか、本堂の高官席にひとりの若者が座している。
シャルム宮殿ではどこにいても人に会うので、この若者にとり、自室以外の場所で、他人に干渉されず思索に耽ることのできる場所のひとつが、この大礼拝堂だった。
だれにも干渉されない――けれど、例外がある。
堂内に人の気配を感じたとき、若者は思索を中断した。
「拷問が終了したということは、犯人がわかったということですか」
祭壇近くにある小さな木の扉から現れたのは、糸杉のように細い男である。
無言で視線を向けたフィデールに、男は一礼した。
「おはようございます、フィデール様」
「殿下に知恵を授けたのは、おまえだったのだろう、ガイヤール」
「けっして、そのように大それたものでは……私はただ出来事を整理しただけです。お気づきになったのは、殿下ご自身です」
ゆっくりとガイヤールは祭壇の脇を通り、内陣から降りる。
「暖炉、煙突、カミーユ・デュノア、煙突掃除夫――」
と、つぶやきながら。
冷たい青灰色の瞳で、フィデールはガイヤールを見やる。
ガイヤールはいつもどおり、うっすらと笑みを浮かべていた。
「あのとき、殿下はそう口にされました」
「それで?」
「なかなか興味深いと思いまして」
しばしの間を置いたのち、フィデールは冷ややかな口調で言った。
「天界よりも、俗界に関心があるなら、そのまま本堂に留まればいい。身分が低くとも、おまえなら高官に上り詰めることができるだろう」
たった今、ガイヤールが降りた『内陣』とは、祭事を執り行う聖職者のみが立ち入ることのできる神聖な場所である。フィデールが発したのは、内陣から本堂へ降りたガイヤールに対する嫌味だった。
「お褒めに預かり光栄です」
すんなりその嫌味を受け止めると、ガイヤールは再び話をもとに戻す。
「リオネル・ベルリオーズ様が毒杯をあおっても亡くならなかった。それは、煙突掃除夫に扮した諜報者がいたから――そういうことですね」
「本件について、やけに興味があるようだな」
「ええ。おもしろい人材が、ベルリオーズ家にはいるものだと思いまして」
ガイヤールの言いたいことは、フィデールにもわかる。諜報活動をするにせよ、煙突掃除夫に扮するなど前代未聞である。
豪胆というか、型破りというか、とにかく意表をついた方法だ。
「その人物と、貴方の従兄弟カミーユ様との関わりも、気になるところです」
フィデールは黙していた。
これについては、フィデールにとっても不可解である。少なくともカミーユは相手を知らないようであるため、イシャスという人物に会わないかぎりはその謎は解けない。
今のところ、最も高い可能性として考えられるのは、リオネルやディルクと面識のあるカミーユを、ベルリオーズ家の家臣として救おうとした――ということである。それ以外には、なにも思い当たらなかった。
同じような考えでいるのか、それともブレーズ家に遠慮があるのか、ジェルヴェーズは今のところ、カミーユという切り口からイシャスのことを探り出そうとはしていないようだ。
「殿下はこれから犯人を捕らえ、残酷な拷問にかけるおつもりですか?」
「それを知ってどうする」
「何者であれ、この王宮で最期を迎える者の懺悔を聞くのは、私たちの仕事ですから」
「ご苦労なことだ。けれど彼はもしかしたら、もう死んでいるかもしれない」
「死んでいる?」
「別の件で、殿下はその少年を痛めつけた。その後、生死は知れない……ということになっている」
「なるほど」
おぼろげながら私にもだいたいの経緯がわかりましたよ、とガイヤールは薄い唇で笑う。
ガイヤールがなにをどこまで知り得ているのか、フィデールにはわからないし、興味もなかった。フィデールにとっては、本件そのものに対しても深い関心があるわけではない。
ただ、イシャスという名の少年についてはいくらか興味がある。
彼がカミーユを救った理由。そして、彼がリオネル・ベルリオーズの寵臣であるということ。この二点において、である。
ボドワンを拷問した結果、瀕死のイシャスはリオネル・ベルリオーズが連れ帰ったということが判明した。
ここ数日、配下にイシャスの生死を確かめるために、ベルリオーズ家別邸周辺の墓守に最近の埋葬について尋問させていたが、どうもベルリオーズ家から死者は出ていない様子である。
――イシャスは一命をとりとめた可能性が高い。
このことがわかったのがつい最近のことであるから、今後ジェルヴェーズがどのようにしてイシャスを探しだそうとするのか、フィデールにはまだわからなかった。うまくやらなければ、イシャスを捕らえるまえに、リオネルに強い警戒心を抱かせることになる。
物腰のやわらかい青年だが、寵臣が狙われていると知って、手をこまねいている種の人間ではないだろう。
フィデールがディルクを責め立てた際に、リオネルが示した反応から、彼の手強さは承知している。容易に潰せる相手ではない。
だからこそ、潰してみたくなるというものだが。
「五月祭以来ずっと苛立っておられた様子の殿下が、このところ落ちついておられるので、王宮内に漂う空気が和らぎました。殿下は愉しみを見つけられたのですね。素晴らしいことです」
「一番愉しんでいるのは、おまえだろう」
「殿下の愉しみを奪わぬよう、この件は他言せずにおりましょう」
「人と無駄な話をする時間があるなら、神々と対話したらどうだ」
「対話をせずとも、神は常に私のそばに――」
言いかけてガイヤールが口をつぐんだのは、大礼拝堂の扉が開いたからだった。
フィデールは立ちあがり、ガイヤール共々即座に一礼する。侍女らが開いた扉の向こうから歩んできたのは、落ち着いた色合いのドレスをまとった貴婦人だった。