26
「し……芝居?」
思わずアベルは聞き返す。アベルが驚いたのも当然のことだ。ひどく唐突な誘いだった。
「依頼の品が出来上がるまで、時間がかかるんだろう?」
「それはそうですが……」
新しい鍵を持ち帰らなければならぬため、鍛冶屋がそれを作り終えるまではシャサーヌの街に留まらなければならない。それは、初めからわかっていたことだ。
それだけ長い時間ベルリオーズ邸を離れているのだから、ジュストが口にした嫌味も真実味を帯びるわけだが……。
時間を潰すあてはなかったが、芝居を見るつもりもなかった。
「仕事中ですので」
「芝居は観たことがある?」
「……いいえ」
芝居小屋というのは通常、街から外れた、やや治安の悪い場所にあるので、貴族や金持ちが足を踏み入れるような場所ではない。当然、アベルも行ったことはなかった。
「いや、言葉が悪かったね。芝居というより、劇と呼ぶべきかもしれない。この近くに、劇場があるのは知っている?」
アベルは首を横に振る。
シャサーヌくらい大きな街であれば、必ずどこかに劇場はあるだろうとは思っていたが、詳しいことは知らなかった。アベルがシャサーヌの街を訪れるのは、数えるほどである。街のことは、リオネルと共に訪れた際に教えてもらったことや仕事に関すること以外は、あまり知らなかった。
「そうか、じゃあ決まりだ」
「なにがですか?」
「ベルリオーズ家に仕える従騎士が、シャサーヌの劇場に行ったことがないとは、非常に残念なことだ。一度行っておくといいよ」
「ですが……」
「お金はぼくが出すから」
「そういう問題では――」
「今日の劇は、『クラウディア』だ。『ひなげしの花咲く丘で』を作曲したディンケルが手掛けた歌劇だよ。どう?」
どう、と問われ、アベルは言葉に詰まる。
劇の題名ははじめて聞くが、『ひなげしの花咲く丘で』を作った音楽家の曲を聴けると知れば、好奇心が沸かぬはずがない。
「わたしは……」
言いかけて、アベルは口をつぐむ。塞ぎ込み、疲弊しきっていたアベルの心は、たしかに今の自分からしばし離れることを望んでいた。
「たまには気分転換も必要だよ。行く途中で焼き菓子を買っていこう。観劇のまえに、つまめるからね」
気がつけば、アベルはジークベルトに手をとられ、雑踏のなかを歩みはじめていた。
アベルは自分の力では抜け出ることのできない、暗い場所にいた。だれかに手を引かれなければ歩き出すこともできない場所で、アベルはひとり、なにかに怯えていた。
歩き出したのは、芝居を見るためではない。なにかに必死にしがみつかなければ、自分を見失ってしまいそうだったからだ。
+++
瑞々しい黄緑色の木の葉が、陽光を弾いている。
涼やかな風が通り抜ける木陰で、二人は野草を採っていた。
働き手のいないこの貧しい家では、野草は貴重な食料である。雪の多い国で生まれ育ったタマラは、野草がよく生えるシャルムの森を、宝箱だと言っていた。
「ナズナがあまりないのね、おばあさま」
「あれは春の草さ。夏になるとなくなる。だがタンポポはこんなにとれた、見てごらん」
春から初夏にかけて、あちこちで咲いているタンポポは、タマラの家では定番の食材であり、ミーシャにとってはすっかり食べ飽きた味だった。
「またタンポポ?」
「贅沢言うんじゃないよ。あの国では、タンポポが咲く季節などあっという間に終わってしまうんだ。こんなにたくさん採れて感謝しなければ」
「あの国って、エストラダ?」
やや声の調子を落として尋ねたミーシャに、タマラはごく普通にうなずく。
「そうさ」
滅多に祖国の話はしないタマラである。けれど、かの国の名を口にしたタマラは、まるで自らとはまったく関りのない場所について話しているようだった。
「おばあさまは、もうあそこには帰らないの?」
「どこへだい?」
「どこって……」
わかりきったことを尋ねるタマラに、ミーシャはわずかに言い淀んだが、結局はその名を口にした。
「スヴェトリ」
それは、エストラダの王都コルバシェヴォに程近い、小さな村の名である。タマラとミーシャの故郷だった。
しばし黙してから、
「帰らないよ」
と、雑用を片づけるような口ぶりでタマラは答える。
「あそこには、もう私の大切なものはなにもない」
「でも、エストラダには、まだ叔父さまたちがいるわ」
「国の手先になったのさ。もうあの子らは私の子ではないよ」
「なったんじゃない。させられたのよ、お母さまのように。優しい叔父さまだったわ」
「どっちのことを言っているんだい?」
「それは……」
タマラの息子――つまり、ミーシャの叔父は二人いる。返答に迷ったのは、タマラのまえで正直な気持ちを口にしてよいのか、わからなかったからだ。
「どうせ覚えていないだろう。おまえは、まだ七歳だったんだ」
「よく覚えているわ。叔父さまは、わたしを街に連れて行ってくれたもの。そこでパスティラを買ってくれたわ」
「夢でも見たんだよ。わたしの子供たちは皆死んだ。残された家族は、ルイディナが産んだおまえひとりさ。わたしはそう思っている」
返す言葉を見つけられず、ミーシャは口をつぐんだ。祖母タマラの、淡々とした口ぶりの影に、深い哀しみが隠れているような気がした。
口を動かす代わりに、ミーシャは手を動かした。今日も見つかるのはタンポポばかりだ。
「戻りたいのかい? あの場所に」
黙々と野草を探すミーシャに、今度はタマラが尋ねる。
野草の茂る地面に視線を落としながら、しばし考えたのち、ミーシャは首を横に振った。
「よくわからないわ」
――エストラダ。
故郷の村スヴェトリ。
あの人たちは突然、その小さな村に現れた。
彼らは母をさらい、父を殺した。
近くに住むタマラが事件を聞きつけ、ルイディナの家へ駆けつけたとき、ミーシャは父親の遺体のそばで狂ったように泣いていた。
二人の叔父は、すでにそのときタマラの家にはいなかった。
哀しい事件の起こった場所だが、スヴェトリには、家族や幼馴染みたちと過ごした楽しい思い出もあるのだった。
あの場所に行けば、もう一度あの時間が戻ってくるような気がする。記憶のなかの人々が笑顔で待っていてくれるような――父や母に再び会えるような――そんな気がした。
それが、儚い幻想だと知っていてもなお、ミーシャはその希望を捨てきれないでいる。皆が待つその情景を思い浮かべることだけが、ミーシャの慰めだった。
「でも、この場所も嫌いじゃないわ」
不意にミーシャがつぶやく。
思いも寄らぬひと言に、タマラは顔を上げた。
「そうかい?」
ミーシャは小さく笑う。
「このあいだは、アベルさんが会いにきてくれたもの」
黙ってタマラはミーシャの顔を見つめていた。
「最後、別れたときはもう二度と会えないと思っていたけど、アベルさんはちゃんと会いにきてくれたでしょう? 会いにきてくれる人がいるなら、この場所も悪くないのかもしれない」
「そうか……」
「この場所にいたら、また会える気がするから」
「よほど慕っているのだね」
「懐かしい気がするの。いっしょにいるとほっとする」
「……いい友達ができたね」
「アベルさんがそう思ってくれているかは、わからないけど」
口元に笑みを浮かべただけで、タマラはなにも言わなかった。
アベルがベルリオーズ家に仕える従騎士であり、サン・オーヴァンへ向かったのは主人を守るためであったことを、ミーシャはすべてアベル本人から聞いた。
自分とは生きる世界があまりにも違う相手であり、そのようなアベルに、ミーシャは羨望と憧れを抱くとともに、強く心を打たれた。
「きっと、アベルさんにとってご主人様は、とても大切な人なのね。おばあさまは、すべて知っているのでしょう?」
「すべてではないさ。見えたものだけだ」
「なにも教えてくれないのね」
少しふくれるミーシャに、タマラはひたと淡い色の瞳を向ける。
「死に焦がれるほどの絶望と哀しみを味わった果てに、『光』を見た者だけが、真に大切なものを知ることができる」
「…………」
「おまえにも光が見えたら、そのときは、きっとなにかがわかるだろう」
「そう言ってはぐらかすのね、おばあさまは」
拗ねたように答えながらも、ミーシャの表情は明るかった。
揺れる木漏れ日。
目に染みる鮮やかな緑。
ミーシャの瞳には小さな光が映っていた。
+++
アベルの華奢な身体を、背後からしっかりと支えているのは、力強い腕である。
馬に揺られながら、アベルは強い眠気に襲われる。
考えてみれば、ここ数日、ひどく辛い夢ばかりを見て夜中に目覚めていた。熟睡できない日々が続いていたせいか、アベルはついに馬上でうとうとしはじめる。
アベルの身体から徐々に力が抜けていくと、ジークベルトは彼女を支える腕に力を入れた。アベルを落馬させてしまっては大変である。
安心しきって眠るアベルを見下ろし、ジークベルトは苦笑した。
あまりの警戒心のなさに呆れると同時に、心配にもなるし、かわいくも思う。
まだ会って二回目である。
見ず知らずの男の馬に乗り、眠ってしまえば、どこへ連れていかれるかわかったものではない。自分は男装しているから大丈夫だと思っているのかもしれないが……。
斜めに頭をもたせかけてくる、アベルの寝顔はあどけない。
あの紫色の瞳の主人から、このままアベルを奪ってしまおうかという思いが、ジークベルトの頭をよぎらないでもなかった。
むろん、実行には移さない。移せるわけがない。
もしそのようなことをすれば、あの紫色の瞳の主人は本気で自分を殺しにくるであろうことを、ジークベルトは知っていたからだ。
広大な森を右手に見ながら、『城門前通り』をひたすら駆けていれば、領主の館である。
藍色の屋根や白亜の壁は、濃い暮色に包まれてはっきりとしないが、その輪郭はわずかな緋色の残照を背景に、くっきりと浮かび上がって見えた。
――ベルリオーズ邸。
美しい館である。
規模は異なれども、繊細な建物の造りや、周囲の自然との調和は、ローブルグの王宮にも匹敵する美しさだと、ジークベルトは思った。
強面の門番が待ち構える城門前まで行くわけにはいかないので、鉄柵門が続く街道の脇で馬を止める。
そして、深く寝入っているアベルの寝顔を見下ろした。
起こしてしまうのはもったいないほど、安らかだ。
やはりこのままアベルを連れて、来た道を引き返してしまいたい衝動にジークベルトは駆られる。それともこのまま口づけでもしてしまおうか――。
気持ちが揺れていたとき、
「アベルに触れるな、この下郎」
若い男の声がして、ジークベルトが顔を上げる。
すると、長身の――どこかシャルム人らしくない容貌の男が、ジークベルトに向けて鋭い剣先を突きつけていた。
「どなたかな?」
「それは、おれの台詞だ。アベルになにをした」
長身の男は激しい怒気をみなぎらせている。
ジークベルトは肩をすくめた。
「なにもしていないよ。館へ送りにきただけだ」
「アベルを返せ」
「もちろんこの子はここで下ろすけど、だれだかわからないきみに命令されたくはないな」
「『もちろんここで下ろす』だと? 眠るアベルを見つめるあんたの目には、明らかに下心があった。今すぐ返さなければ、おまえの身体を切り刻むぞ」
憤る相手に、ジークベルトは皮肉っぽく笑う。
「なるほど。同じような下心を抱いていると、相手の下心もよく読めるらしい」
ジークベルトの挑発に、けれど相手の男は平然と答えた。
「たしかに下心はあるけど、おれは騎士だ。正々堂々、アベルに自分の気持ちは伝えている。おまえのようにこそこそと、いかがわしいことを考えているわけじゃない」
今度は、ジークベルトは声を上げて笑った。
「おもしろいな、きみ」
「なにがおかしい」
「いや、好きだよ。きみみたいな人は。ベルリオーズ家の嫡男殿よりかは好感が持てる」
「馬鹿にしてるのか?」
長身の男が顔をしかめたとき、かすかな声が二人の耳に届く。
その声は、ある名をつぶやいていた。
「――ヴィート……?」
「アベル!」
長身の男――ヴィートは声を輝かせ、そしてすぐに顔を心配に曇らせる。
「大丈夫か」
ヴィートは剣を鞘に収めて馬に駆け寄った。
「なにかされてないか。へんな場所に連れて行かれなかったか、おかしなものを食べさせられなかったか」
目覚めて突然いくつもの質問を浴びせられ、アベルはきょとんとしている。
「驚いているようだよ、ヴィートくん」
おかしそうに笑いながら、ジークベルトはヴィートに向けて言った。
「この表情がすべて質問に対する答えじゃないかな?」
しかし、ジークベルトの声などまったく聞えておらぬかのように、ヴィートはアベルに手を伸ばした。
「こっちに来るんだ、アベル。こんな男のそばにいたら、なにをされるかわからないぞ」
伸ばされた手をとり、馬を降りながら、アベルはわずかに困惑した面持ちでヴィートを見る。
「この人は悪い人ではありませんよ」
「本当に悪いやつは、悪く見えないもんだ」
「そうでしょうか?」
首をかしげるアベルにかまわず、ヴィートは金髪の騎士を一瞥しながら尋ねた。
「いったい、こいつはだれなんだ?」
何者かと問われると、アベルもはっきりした答えは思い浮かばない。街で偶然二度ほど会ったというだけで、なんの関わりもない相手だからだ。
「……友達です」
苦し紛れにアベルの口から出た回答を、
「今はね」
と、さらりとジークベルトが補足した。
「なんだと?」
的確にジークベルトの言葉の意味を知るヴィートは、即座に気色ばんだが、アベルはいたって呑気である。
「よくわからないので、今は『友達』という言葉を使ったのです」
そうヴィートに説明してから、馬上のジークベルトを見上げた。
「今日は、ありがとうございました。送っていただいたのに、知らぬうちに眠ってしまってすみません」
「楽しかったよ。また行こう」
「たぶん、もう行くことはないと思いますが」
にべもないアベルの回答に、ジークベルトは声をたてて笑う。そして笑い終えると、すっとアベルへ群青色の瞳を向けた。
「必ずきみをまた誘うよ」
それからヴィートに視線を向け、
「きみもまた会おう。それと、跡取り殿に伝えておいてくれ。飢えた狼がうろつく森に、子猫をひとりで行かせるのは危険だとね。おかげでぼくは楽しく過ごさせてもらったけど」
不敵にほほえんでからジークベルトは馬首をめぐらせ、またたくまにその姿は二人の視界から消えていった。
「気に入らないやつだ」
彼が消えた街道を見やりながらヴィートは小声でつぶやいたが、アベルの耳には届かなかった。
「ヴィート、どうしてここに?」
元山賊の男を見上げるアベルは、とても嬉しそうである。
「気がついたら、ジークベルトとあなたが話していたので、驚きました」
「おれは、久しぶりにアベルに会えると思ったら、きみが妙な男に抱きかかられていたんだから、驚いたというもんじゃなかったぞ」
「すみません、眠ってしまったのです」
「どこへ行ってたんだ?」
アベルは正直に答えた。鍵の修理に出かけた街でスリに遭ったところをジークベルトに助けられ、成り行きで観劇し、その帰りに、断ったが押し切られて馬で送ってもらったのだ、と。
深く眉間に皺を刻みながらアベルの話を聞いていたヴィートは、聞き終えてもしばらく黙っていた。
なにを考えていたのかはわからないが、彼はそれ以上この件については言及しなかった。そのかわり、アベルからの質問にヴィートは答えた。
「おれは、ブラーガの傷が全快したから、その報告と、今後の調整のためにここへ来たんだ。だけど、一番の目的はアベルに会うことだ」
困ったように軽く口元に笑みを浮かべてから、アベルは再び尋ねる。
「なぜこのような場所にいたのですか?」
「怪しい者だと言われて、門番に追い返された」
憮然とした様子でヴィートが答えると、アベルは堪え切れずに笑った。
「では、いっしょに入りましょう」
二ヶ月ぶりの再会を喜びながら、二人は『城門前通り』を歩きだした。