25
香ばしい匂いを、生温かい風が運んでくる。
空は霞みがかっており、ここ数日に比べると気温は高かった。
夏の本番はこれからだが、シャルムでは真夏でもさほど気温が上がらない。気分が悪くなるほど蒸し暑いような日は、ひと夏で幾日ほどのみで、あとはからっと乾燥した過ごしやすい陽気である。
過酷な冬を耐え忍び、生き延びた者だけに訪れる、束の間の楽園だった。
街が、普段よりいっそう活気づいているのは気候のせいかもしれない。
大広場の中央では、祭日でもないのに音楽を奏でる一座がおり、その周囲に並ぶ市場では客や店主らが大きな声で話している。駆けまわる子供らがおり、驢馬を引く商人がおり、花を売り歩く少女がおり、それを買う若い男がおり……。
賑やかな喧騒のなかを、アベルはひとりで歩いていた。
携えている革袋に入っているのは、騎士館にある倉庫の鍵である。アベルは先輩騎士に言いつけられた所用のために、シャサーヌの街へ来ていた。
鍵が錆び、倉庫の扉が開閉しにくくなってきたので、街の鍛冶屋で新たなものを調達するようにと指示されたのだ。普段なら鍛冶屋を館に呼び出し鍵を作らせるのだが、倉庫が使えないと不便だという理由で、アベルが急ぎ鍛冶屋のほうへ赴くことになった。
言いつけを耳にしたジュストなどは、
「おまえのような愚図は、このような忙しいときに足手まといということだ。重い荷物は運べない、本の整理はできない、掃除は下手。なにもできないなら、いっそ街へでも行ってもらったほうが皆助かるんだ」
と、アベルを冷ややかな眼差しで睨んでいた。
むっとしないことはなかったが、ジュストが言っていたことは真実でもあったので、アベルは言い返さなかった。自分は力仕事もできないし、本の整理も、掃除も苦手である。
一生懸命やっているつもりだが、周囲に迷惑をかけているに違いない。ならば、街に使いに出てしまったほうが、ジュストの言ったとおり皆のためになるのかもしれない。
騎士らに迷惑をかけずにすむ――だからといって、アベルが浮かれた気持ちで、シャサーヌの街へ来たわけではなかった。
様々な思いがアベルをひどく重い気持ちにさせていた。
我が子を育てられない未熟な自分、エレンの言葉、そしてロベール・ブルデューらの忠告。
――これ以上、リオネル様を危険に晒そうというなら、処罰も覚悟のうえで我々がおまえを斬る。
剣や悪意を向けられるのが怖いのではない。
自分が主人を守るどころか、逆に危険な目に遭わせているのかもしれないということが、不甲斐なかった。
迷惑ばかりかけて、だれの役にも立たてない。
自分が存在するために、周囲を困らせてばかりいる。
ならばいっそ、自分などいないほうがよいのではないかと、アベルは考えてしまう。
だれにも必要とされず、ただ霧のように消えてしまったほうがよい存在。
街の賑やかさが、気候の清々しさが、アベルをいっそう孤独にした。雨でも降っていたなら、このまま、この世界のどこかへ消えてしまえたかもしれない。
うつむき、見ることもなく埃っぽい地面を見つめながら、アベルがぼんやりと歩いていたとき。
どんっと、だれかとぶつかった。
いや、ぶつかったというより、だれかがぶつかってきたのだ。
アベルが顔を上げたときには、衝突した相手――後ろ姿からすると十歳になるかならぬかという年頃の少年――はすでに露店の隙間を走り抜けていくところだった。
はっとしてアベルは懐を探る。
鍵の入った革袋はあるが、お金の入った袋がない。
――スリだ。
「待って!」
アベルは逃げた少年を追う。
少年の足は速い。だが、アベルも負けてはいなかった。
二人は露店の隙間を鼠のように走り抜ける。
追手が思いのほか俊足であったので、少年は慌てて露店の一部に足をひっかけ、果物や肉を派手にばらまきながら逃げた。
騒然となった市場では、商品を台無しにされた店主の怒号があがり、なにが起こっているのかと騒ぐ人々のざわめきが広がる。
二人の距離はなかなか縮まらなかった。
平らな道で競争すればアベルが勝ったかもしれないが、なにしろ、林檎やら豚肉やら人やらを避けながらの追跡だ。
広大な大広場を何周駆けまわったかわからなくなったとき、少年は突如、人ごみのなかから突き出た腕にひょいっと背中を掴まれた。
少年が大声でわめく。
彼を取り押さえた男は、苦笑しながらも、少年の腕をしっかりと掴んでいた。
激しい逃走劇にさすがに息を切らしながら、アベルが少年のほうへ近づいたとき、見覚えのある姿が目に飛び込んできた。
少年をしっかりと掴んでいた者は、いつかシャサーヌの街で会った、金髪と蒼い瞳の騎士である。
「ぼくのことも、そんなふうに追いかけてくれたら嬉しいんだけど」
疲労のためか、思いもよらぬ展開のためか、しばしなにを言われたかアベルは理解できなかった。
その代わりに、「ジークベルト」という名が思い浮かぶ。
この若者は、たしかそう名乗っていた。
脳裏に浮かんだ名をつぶやくと、若者は端正な顔立ちに笑みを浮かべる。
「覚えていてくれたのか。嬉しいな」
ジークベルトが話しているあいだも、少年は「離せ」だとか「ちくしょう」だとか叫びつづけているが、掴んでいる本人はまったく気にしていないようだった。
「きみが追いかけてくれたら、ぼくは逃げないよ」
なにを言われているのかアベルはよく理解できなかったが、とりあえず、お金を取り返せそうだということはわかった。
「その子……」
アベルはつぶやいた。
「ああ、この子ね」
ジークベルトは少年を見下ろす。
両手首を後ろ手に掴まれ、少年はじたばた身体を動かしていた。右手で少年を押さえながら、ジークベルトはもう片方の手で少年のポケットを探る。そして小さな革袋を取り出し、
「これかな?」
と、アベルに尋ねた。
「ええ、そうです」
実物を目にして、アベルは肩から力が抜けた。
このなかに入っていたのは自分だけのお金ではない。鍵を作るために先輩騎士から預かったお金も混ざっている。失くしたら大変なことだ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。この坊やはどうする?」
問われてアベルは少年を見た。まだ幼い子供である。貧しいのだろう。その姿は、サン・オーヴァンで出会ったジェレミーを思い起こさせた。
アベルは少年のもとへ歩み寄り、しゃがみこむ。
目線の高さが同じになると、少年は顔を背けた。アベルは自分が稼いだなかから銀貨を一枚取り出し、少年へ差し出したが、顔を背けているので彼は銀貨に気づかない。
少年を拘束するジークベルトを見上げて、アベルは首を横に振った。離してほしいという意味だ。
かすかに肩をすくめ、だが微笑しながらジークベルトは手を離す。
唐突に解放されたために、なにが起こったかわからぬ少年は、ジークベルトを振り返り、アベルを見つめ、目前の銀貨に気づいて一瞬驚いた顔をしたが、すぐさまそれを握りしめて走り出した。
少年の姿が露店と人ごみのなかに消えていく。
それを見届けながら、与えた一枚の銀貨がけっして根本的な解決にならないことを知りながら、それでも、少年の未来にわずかな光が灯ることをアベルは願った。
完全に少年の姿が雑踏に消えたころには、広場は騒ぎから立ち直っていた。
「あの……本当に、助かりました」
自らの呼吸も、街も、落ち完全に着きを取り戻したところで、アベルはジークベルトにあらためて礼を言う。
やや気まずいような気がしたのは、彼に最後に会ったときのことを覚えていたからだ。
昨年の冬、この広場でアベルはジークベルトに話しかけられた。そのとき、しつこく名を聞いてくるジークベルトに、アベルは冷ややかな態度をとった。
今回助けてもらったからといって仲良くしなければならないという道理はないが、やはり感謝はすべきだろう。
「きみのためなら、お安い御用だよ」
ジークベルトは軽い調子で答える。
「広場でだれかが逃げていると思ったら、追いかけているのはきみじゃないか。足が速いんだね。驚いたよ」
ジークベルトの褒め言葉に、アベルは曖昧にほほえんだ。
「大事な任務なので」
「仕事かい?」
「ええ」
「ひとりで?」
「はい」
どのような態度をとればよいのか戸惑いながら、アベルはうなずく。
「鍛冶屋にいくところでした」
アベルの戸惑いに気づいているのかいないのか、ジークベルトは絶えず笑みをたたえていた。
けれど、不意に笑みを消し、ジークベルトはアベルの顔をのぞきこむ。その視線から逃れるように、アベルはうつむいた。なにを隠そうとしたのか――なにを悟られることがこわかったのか、アベル自身にもわからない。
瞼を伏せたアベルの顔をしばらく見つめていたが、ジークベルトはなにかを決意したように言った。
「今日は、やけに厳しいお連れさんもいないみたいだし、仕事が終わるまでいっしょにいてもかまわないかな」
「……は?」
「最後に会ったとき、今度はきみの連れがいないときに会おうと、ぼくは言っただろう?」
「あのとき、わたしはもう二度と会わないと言ったはずですが」
「そう。でもぼくたちはまた会った。ぼくの予言が正しかったわけだ」
顔を上げ、アベルはジークベルトの濃い空色の瞳を見つめる。
沈黙のうちにしばらくそうしていたが、アベルはふっと笑みをこぼした。ジークベルトの、やや強引だが、どこか憎めない態度に折れたのだ。こんなふうに自然に笑みがこぼれたのは、久しぶりのことだった。
「店のなかまでは、ついてこないでください」
――つまりは、店の外までは同行してよいという意味である。
ジークベルトは破顔した。
「もちろん、外の通りで待っているよ」
こうしてアベルはどういうわけか、ジークベルトと行動を共にすることになったのだった。
+
「名前は? 今日こそ、名前を教えてほしい」
鍛冶屋へ向かう途中、ジークベルトはアベルに尋ねた。
以前シャサーヌで会ったときにも、ジークベルトから同様に名前を尋ねられたが、「よく知らない相手には、名乗らないことにしています」とアベルはすげなく断っている。
あのときは、突然声をかけられ、そのうえ食事に誘われたので相手にしなかったが、今は隠す理由もないように思われた。
「アベルです」
正直に名乗れば、ジークベルトが嬉しそうに笑う。
「そうか、アベルというんだね。ベルリオーズ家の騎士かい?」
「まだ従騎士です」
「年は?」
ややためらったが、結局アベルは答えた。
「十五です」
よく知らぬ相手からやたらと質問されれば、警戒心を抱くのは当然のことだ。
けれど、ジークベルトからはまったく悪意が感じられず、彼の明るい笑顔や上品な物腰は、相手から徐々に警戒心を奪っていくものだった。
「今日はどうしてひとりなんだ?」
「ひとりで鍛冶屋くらい行けますから」
わずかにふくれるアベルをちらとジークベルトは見やり、それから、周囲にさりげなく視線を向ける。
道行く者は、男にせよ女にせよ、アベルの姿に気づいた者は、しばし目を奪われている。金髪のジークベルトと並んでいると余計に目立つようで、二人は通行人の注目を集めていた。
「いや、危ないよ。どう考えても」
「わたしは子供ではありません。さっきはたしかに財布をすられ、あなたに助けていただきましたが、きっと自分の力で取り返すことはできました」
やけにむきになって反論するので、アベルが「子供扱いされること」に対し、ひどく敏感になっていることにジークベルトは気がつく。
「子供だと思って言ったわけじゃないよ」
「では、なんなのですか」
少し怒ったようなアベルの口調に、ジークベルトは笑った。
「なぜ笑うのです」
アベルはジークベルトを睨む。
「怒るとかわいいなと思って」
「おかしなこと言わないでください」
「そうそう、このまえ会ったときに、ぼくはきみに、綺麗なものなら性別はかまわないというようなことを言ったと思うけど、あれは知人の受け売りなんだ。あの言葉で変な印象を持たれていたら困るから弁解しておくけど、ぼくはそんなに変態じゃないよ」
「…………」
言葉の真意を測りかね、アベルはジークベルトを見つめる。ある疑念が頭をよぎったが、まさか、と打ち消しアベルは視線を逸らした。
「別に変態だなんて思っていません」
「それはよかった。ああ、楽しく話していたら、もう鍛冶屋のまえだ。行っておいで」
すっかり相手の調子に呑まれているような気がしたが、アベルは言われたとおりに鍛冶屋に入った。
こんなふうに他愛なく人と話すのは幾日ぶりのことだろう。それほどアベルは気が塞いでいたのであり、ジークベルトとの再会は、そこへ小さな風穴を開けた。
アベルが訪れた鍛冶屋は、軍用製品や馬具の類は作っておらず、代わりに錠前や鍵、鍋や針金などの日用品を専門としているところだ。特化しているからこそ、腕もよかった。
店主と商談を終えて店の外へ出ると、ジークベルトは向かいの花屋を冷やかしながら待っていた。
偶然なのか、勘がいいのか、店を出たアベルに即座に気がつくと、ジークベルトは花屋から出てくる。彼の手には一輪の花があった。
――雛罌粟である。
「お待たせ」
と、ジークベルトが駆け寄る。
「待たせたのは、わたしのほうですが」
冷静に指摘するアベルに、ジークベルトは花を差し出した。
ひなげしとジークベルトを交互に見つめたが、アベルは花を受けとらない。
奇妙な沈黙があった。
「ひなげしは好きじゃない?」
「好きじゃないわけではありませんが……」
「なら、あげるよ」
「男に花は似合いません」
「そうかな? きみには似合うよ」
「さっき、おかしな言葉は知人の受け売りだと言っていませんでしたか?」
「そのとおりだよ」
そう言いながら、ジークベルトはアベルの長い髪に、赤いひなげしを添えた。
「やっぱり綺麗だ」
淡い金色の髪に、ひなげしの燃えるような朱色がよく映える。
「でも、綺麗過ぎて、これじゃ目立つな」
「とってください」
迷惑そうに訴えるアベルに、ジークベルトは残念そうにほほえみながら、髪からひなげしを抜いた。
「あまり目立っても危険だからね。じゃあ、これはここにつけよう」
懲りもせず、ジークベルトはアベルの服についている留め具に、ひなげしをくくりつける。
「うん、ここならあまり目立たない」
「ですから、男に花はおかしいです」
「好きな歌があるんだ。ひなげしの歌だ。きみを見ていると、その歌を思い出す」
はっとして、アベルはジークベルトの顔を見つめる。ひなげしが歌詞に出てくる、とても好きな歌が、アベルにもあったからだ。
なにかをアベルが問うより先に、ジークベルトは口ずさんでいた。
「ひなげしがこの丘を埋めつくしたら、どうかあなた、わたしを迎えにきてください……」
甘い言葉を 花束に添えて
どうか あなた
わたしを迎えにきてください
とても長いこと
それは 気が遠のくほど 長いこと
あなたを待ちつづけているのですから
女性視点の歌であるが、ジークベルトが歌ってもまったく違和感はない。むしろ、低く甘い歌声は、女性が歌うよりも遥かに切なく響いた。
風に揺れる 紅の火影
震える胸を焼きつくす 無限の花弁
気づけば、アベルは続きを口ずさんでいた。
やや驚いたようにジークベルトがアベルを振り向く。
「知っているのか?」
「はい」
「なぜ? これはローブルグの歌だ」
「なぜと言われても……昔から知っています」
アベルがこの歌を知っているのは、おそらく生まれ育ったデュノア領がローブルグ王国と接しており、シャルムとローブルグの文化が混じりあっていたためであろう。
しばし黙してから、ジークベルトはなにかを思いついたように言った。
「芝居を見にいかないか」