24
客間を出たアベラール侯爵は、かたわらを歩む息子に言葉をかける。
「不服そうだな」
アベラール侯爵を振り向くディルクの顔には、ひどく不機嫌な表情が張り付いていた。
「むろんです」
父侯爵に対し、ディルクは怒りを隠すことができない。
「なにを焦る」
「なにを――とお尋ねになりますか。ならば申しあげます。ヴェルナ侯爵の申し出を、父上のご一存で承諾してしまわれたことです」
「なにもマチアスが、ヴェルナ家の家臣になると決まったわけではない。そのように短気を起こすな」
「ですが、可能性はあります」
「マチアスがそのような選択をすると思うのか?」
「…………」
ディルクは押し黙った。
たしかにマチアスがヴェルナ家に仕えることなど、これまでの様子からは考えられない。
けれど、ヴェルナ侯爵はマチアスにとっては唯一、この世で血の繋がりのある者だ。
父と子――その関係のなかで、マチアスが最終的にどのような選択をするのか、ディルクには予測がつかない。
「マチアスを信じなさい」
父親の言葉は、もっともである。
けれどディルクはなおも納得できなかった。なぜ自分に相談なく、ヴェルナ侯爵の申し出を受けたのか。
たしかに、マチアス自身が決断したならば、彼がヴェルナ領へ行くのも受け入れなければならない。けれど、ヴェルナ侯爵の申し出については、せめて事前に知らせてほしかった。
――つまり、話しあいの末、マチアス本人がヴェルナ領へ赴くことを了承したならば、アベラール家は一切の異論を唱えずにそれを認める、という約束をアベラール侯爵はヴェルナ侯爵と交わしてしまったのだ。
もしかしたら、ヴェルナ侯爵は卑怯な方法でマチアスを説得するかもしれない。脅迫、誘惑、泣き落とし、虚言……いくらでも悪い方向に考えられるのは、それほどディルクがマチアスのことを案じているからかもしれない。
十一年前の出来事を、ディルクは今でも鮮明に覚えている。
ある日突然現れたヴェルナ侯爵は、自分が父親だと言い張ったすえに、まだ幼く無抵抗なマチアスを殴ろうとした。
あのような男が、マチアスを「息子」としても、「家臣」としても、大切にできるわけがない。
自分がマチアスを大事にしているかどうかという問題はさておき、ディルクはマチアスの身を案じていた。
と同時に、おそらく本人も無自覚のうちに、長年共に過ごした友を失うことを、ひどくおそれていた。
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部屋を沈黙が支配していた。
アベラール侯爵やディルクが去ったこの客間にいるのは、ヴェルナ侯爵とマチアスの二人だけである。
十一年ぶりに再会した親子に、明るい笑顔はなかった。
「私のことを覚えているか」
静寂のなかで先に言葉を発したのは、ヴェルナ侯爵である。
父親の顔を見ようともせず、マチアスは瞼を伏せたまま答えた。
「覚えています」
「おまえが十歳のとき、私たちは一度だけ顔を合わせた。あのときおまえを見てすぐ、ルシールの子だとわかったのに、私はおまえに手を上げようとした」
二人のあいだに長年わだかまっているのは、あの日の出来事である。いや、少なくともヴェルナ侯爵にとっては――というべきだろう。マチアスはわだかまりを抱えるほども、この男のことを重大に受け止めていない。
「本当は嬉しかったのだ、ルシールと私のあいだに子供があったと知って。けれど、あのときおまえは私を父親として認めなかった。それゆえ腹が立ち、手を上げようとしてしまった」
なにかしらの反応を求めるかのように、ヴェルナ侯爵は言葉を切ったが、マチアスは黙っていた。
「あのことを、後悔している。すまなかったと思っている」
ヴェルナ侯爵はもう五十代も半ばである。この十一年のあいだで、髪の白髪が増えた。
「あのような昔のことを、心に留め置いていただき恐縮です。けれど、私は恨んでもなければ、気にしてもおりません。侯爵様も、どうかお気になさらないでください」
「そうはいかない。あのようなことのために、私は実の息子と長い年月会うこともできなかったのだ」
再びマチアスは沈黙する。
「実の息子」と呼ばれることに、マチアスは違和感にも似た居心地の悪さを覚えずにはおれない。
自分を育ててくれたのは、アベラール侯爵夫妻と、そのしたで働く多くの家臣たちだ。血のつながりにどのような意味があるのか、マチアスにとっては判然としなかった。
「マチアス、今日は本当のことを伝えたい。顔を上げてくれ」
ずっと伏せていた視線を上げ、マチアスはあらためて「実の父親」に向きなおる。自分がこの男に似ているのかどうかも、マチアスにはわからなかった。
「マチアス……おまえの瞳は、ルシールの瞳だ。私がおまえをそばに置きたいと思うのは、おまえを見ているとルシールを思い出すからだ」
部屋の中央に立っていたヴェルナ侯爵は、ゆっくりと歩みマチアスとの距離を縮める。
目前まで来ると、懐かしむように侯爵はマチアスの瞳に見入った。
「ルシールと出会ったころの私はまだ若く、気づくことができなかった」
けれど、侯爵を見返すマチアスの瞳には、いかなる感情も映しだされていない。少なくとも、傍からはそう見えた。
「聞いてくれるか、情けない父親の話を」
燭台の炎が揺れる。
相手からの返事はなかったが、ヴェルナ侯爵は語りだした。
「私は、ルシールに恋をした。一目で心惹かれ、そしてアベラール邸滞在中は毎夜彼女のもとを訪れた。初めは遊びのつもりだった。だから、それだけで終わるはずだったのだ。だが、領地に戻っても私はルシールのことが忘れられなかった。あの瞳を思い出すと、胸が高鳴ってしかたがなかった。再びアベラール邸に訪れたのは、妻が死んだ直後だ。彼女がどうしているのか知りたかった――ただそれだけのつもりだったが、今から考えれば私はルシールをヴェルナ邸に迎えたいと心のどこかで思っていたのだ」
客間の壁に掛けられた、マニテ織りのタペストリーに描かれた、戦争と平和の風景。
部屋の床で交わる光と影。
息子を見つめるヴェルナ侯爵の、淡い色の瞳――父親を見るマチアスの黒い瞳。
沈黙を彩る、光と影。
「けれど、すべては遅かった。私が行ったときには、ルシールはもうこの世にはいなかった。自分の気持ちに気づいたのは、彼女が死んだと聞いてからだ」
ヴェルナ侯爵はしばらく言葉を止めてから、再び話しだす。
「だが思いもよらず、ルシールは私におまえを残してくれていた。十一年前、おまえに手を上げようとしたのは、愛情の裏返しだ。私の知らぬ間に、私の子に名前がつけられていたことも、その子が私に懐かないことも、納得できなかった。私は若かったのだ。けれど、私はもう五十を超えた。ルシールにはなにもしてやれなかったが、余生は、彼女が産んだおまえをそばに置いて暮らしたい。どうか不甲斐ない父親の願いを、聞き入れてはくれまいか」
沈黙が再び親子を包む。
マチアスは言われたとおり顔を上げたまま、侯爵を見ていた。
目前の人物が、自分の父親であるという感覚はまったくなかった。
ただそこにあったのは――。
「貴方は、母に残酷な仕打ちをしました」
――ルシールを死に追いやった男だという事実だけだ。
マチアスの言葉に、ヴェルナ侯爵は顔を歪める。
「……わかっている。私はそれを今、悔いている」
侯爵の言葉に真実が含まれていることに、マチアスは気づいていた。
けれどそのことに、どのような意味があるのか。
ルシールには輝かしい未来や平穏な暮らしがあったのに、婚姻せずに子を孕んで死んだのだ。彼女を殺したのは、ヴェルナ侯爵であり――そして二人のあいだに生まれてきたこの自分だった。
「母が最期に願ったのは、アベラール家の平和と繁栄です。母への仕打ちを悔んでおられるなら、これまでどおり私がディルク様にお仕えすることを、どうかご理解ください」
母への仕打ちを悔んでいるなら、とマチアスは言った。
母を愛しているなら――とは言わずに。
「おまえの気持ちは理解できる。だが、すでにルシールは死んでいる。死者の望みよりも、生きる者の幸福のほうが大切だ。おまえの肉親は、私ただひとり。私のもとで暮らすことで、家族というものを知ることができるはずだ。ルシールもそれを喜ぶことだろう」
やはりこの人は、ルシールを愛してはいない。
マチアスはあらためてそう感じた。
愛とはなにか……。
ヴェルナ侯爵は、ルシールに恋をしたかもしれないが、それはひとりよがりである。相手の心に耳を澄まさずして、どうして愛と言えようか。
彼が抱いているのは、執着であり、未練である。ルシールの忘れ形見である自分を欲するのは、その延長線上にある感情に他ならない。
「申しわけございませんが、私の気持ちは変わりません。これ以上の議論はご容赦願います」
「そうか……」
侯爵はうつむいた。
なにかを諦めようとするようでもあり、なにかを堪えるようでもある。
十一年前の経験から、侯爵は物事が思いどおりに運ばず冷静さを失うことで、大きな間違いを犯してしまうことがあると学んでいた。
「わかった……おまえの考えは」
「ありがとうございます」
「だが、考えが変わることもあるだろう。私はまたおまえを迎えにくる。私の思いが理解できるようになったその日には、共にヴェルナ領へ帰ろう」
「帰る」という言葉に、再びマチアスは違和感を覚える。マチアスの帰る場所は、ディルクのそば以外にない。
身勝手な男だと感じるのは、自分を中心に据えたその口ぶりのせいだろうか。マチアスに、ヴェルナ侯爵の気持ちを理解しなければならない義理はない。
けれど、マチアスはすべての感情を胸の奥にしまう。
アベラール家の家臣として――ディルクの従者として生きる自分を意識したときから、マチアスはどのような感情も鎮めることができるようになった。アベラール家のため、ディルクに仕えるためならば、己の感情などさして重要ではない。
マチアスはヴェルナ侯爵に向けて、丁寧に一礼した。
それが、マチアスの答えである。
すなわち、自分はヴェルナ侯爵の息子ではなく、アベラール家の臣下であるということ――その立場を明確に示したのだ。
重い足取りで侯爵は客間を出る。
足取りの重さは、マチアスの答えを知ったためか、それとも年齢のせいか。
外で待っていた侍従に導かれて廊下の先へ消えていく侯爵の後ろ姿を、マチアスはじっと見つめていた。
+
「マチアス」
書斎に戻ったとき、ディルクが安堵と不安が入り混じった声でマチアスを呼んだ。
「長らくおそばを離れ、申しわけございませんでした」
謝罪するマチアスに駆け寄り、ディルクは「大丈夫だったか」と尋ねる。
「なんの話です?」
「いや、なんのって……」
重要な話をしてきたばかりであるのに、まるで散歩でもしてきたかのようなマチアスの反応に、ディルクはやや戸惑ったようである。
「だから……」
「もうすぐリオネル様の誕生日です。お祝いに行かれるおつもりなら、それまでに、この部屋にある書類は処理しなければなりません」
「…………」
黙りこむディルクにかまわず、マチアスは顔が隠れるほどの書類の束を、机のうえにどんと置く。
「今日中にこれくらいは片付けてしまいましょう」
「……鬼だな」
「なにかおっしゃいましたか」
「いや、別に」
小さな声で答えながら、ディルクはちらと書類に向き合うマチアスを盗み見た。
いつも変わらぬ態度で接してくれるこの人が、今も自分のそばにあることに、ディルクは安堵する。
「そういえば、マチアス」
「はい」
「おまえの名前は、おまえの母親がつけたらしいぞ」
「…………」
「生まれてまもないおまえを見て、『かわいい――愛している』と、息を引き取る瞬間まで、幾度も繰り返しつぶやいていたそうだ。さっき父上からそう聞いた」
書類を仕分ける手を、マチアスは止めなかった。けれど注意深く見てみれば、書類は単純に右から左に移動しているだけである。
「――愛されて生まれてきたんだな、おまえは」
しばらく黙ったまま、書類を右から左に移していたマチアスは、うつむいたまま言った。
「最近は厄介な案件が多いようですね」
「そうだな。でも、処理をするまえに、その書類をもう一度、仕分けしなおしたほうがいいと思うぞ」
「そのとおりですね」
暖かい光を投げかける燭台は、溶けていく蝋に思いを込めて、静かに涙を流していた。