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「え……ええ、はい、そのように見えました。イシャスの状態を目にして、大変憤っておられたようで……」
「ならば、私は痛快なことをしたというわけだな、フィデール」
背後を振り返り、ジェルヴェーズは冷酷な笑みをうっすらと口元に浮かべる。
「さようでございますね」
答えるフィデールは、だが、未だにどこか腑に落ちぬ面持ちだった。
ここまで多くのことがわかってもなお、イシャスという少年がカミーユを助けた理由が判然としないためである。
リオネルのもとに仕える家臣は、ディルクの元婚約者の弟までも、命をかけて救うほどの忠誠心を抱いているのだろうか。だとすれば、それはもはや忠誠心というよりは信仰に近いだろう。
「いかがなさいますか、殿下」
「さあ、どうするかな」
ジェルヴェーズは笑っている。けれど瞳に映る色は、氷のような冷たさだ。
「まずは、計画が失敗に終わったことについて、イシャスとやらに償ってもらわなければならないだろう」
話を聞いていたボドワンは、背筋が凍った。
すでに王宮の最上階の廊下で手ひどく痛めつけた相手である。これ以上の償いを求めるというならば、それはいかばかり残酷なものか。
「愉快だ」
ジェルヴェーズはつぶやいた。
「久しぶりに愉快だぞ、フィデール。リオネルが激怒していたとは、実に愉快ではないか。あの子供をいたぶることが、リオネル・ベルリオーズの心を乱すことならば、今度は目のまえで打ち据え、切り刻んでみせよう」
舌舐めずりをしそうな勢いで、ジェルヴェーズは続ける。
「目のまえで寵臣が泣き叫んだら、リオネル・ベルリオーズはどのような顔をするかな」
本人にとっては愉快な――けれど常識的な感覚を持ち合わせている者が聞けば、不愉快極まりない妄想をジェルヴェーズがしているところへ、フィデールは告げた。
「リオネル殿が連れ帰ったのち、少年が一命を取り留めたかどうかは、定かではございませんが」
ベルリオーズ家に仕える者たちは忠義に厚く、別邸の動向は容易には聞きだせない。かといって、剣を握らぬ使用人らを誘拐して拷問にかけたりなどすれば、たちまち騒ぎになるだろう。
「簡単なことだ。ベルリオーズ家別邸から最近死者が出たかどうか、周辺の墓守りから聞きだせばいい。金で白状しなければ、ここへ連れてこい」
「かしこまりました」
「毒杯でリオネルを殺すよりも、いっそう愉快ではないか――あの男の悔しがる顔が見られるかもしれないのだからな」
「素晴らしい余興ですね」
すべてはボドワンの想像も及ばぬ方向へ向かっていた。
イシャスを死に至らしめなかったことは、僥倖であったようだ。それにしても、目前にいる二人の高貴な若者らの恐ろしさを――この国の中枢にいる者たちの冷酷さを、ボドワンは垣間見た。
彼らはそろって端正な顔立ちと、気高いほどの気品をそなえているというのに、考えることは鬼か悪魔のようである。
心の隅で、ボドワンはイシャスに同情した。すでに死んでいたほうが、イシャスにとっては幸運かもしれない、と。
これ以上ボドワンからはなにも聞きだせないと知ると、ジェルヴェーズはなにも言わずに部屋から立ち去ろうとした。その彼をおずおずと呼びとめ、囚人の処遇を尋ねたのは看守である。
ジェルヴェーズは歩みを止め、煩わしそうに答えた。
「そのまま繋いでおけ」
ただそれだけである。
だが、この一言で看守は理解する。つまり、命は奪わずに、監獄塔に収容しておくようにということである。
真相が判明した今、ジェルヴェーズからしてみれば、もはや大した罪も犯していない煙突掃除の元締めのことなど、どうでもよい。
けれどこの短いひと言の結果、少なくともボドワン夫妻は拷問による傷の手当を受け、充分な食事を得ることができた。
ジェルヴェーズに従って監獄塔から出たフィデールは、一歩足を外へ踏みだした瞬間、とてつもない眩しさを感じた。
監獄塔の暗さ。
そして、この初夏の庭の明るさ。
人間界の恐ろしさを知らぬ蝶が、花弁のように舞っている。
抜けるような晴天。
……けれど、アベルやリオネルの想像が及ばぬところで、不穏な雲が生じようとしていた。
+++
リオネルの誕生日までちょうど一週間という、その日。
ベルリオーズ邸に、一輪の妖艶な花が訪れた。
花の名は、エルヴィユ家令嬢フェリシエ。
彼女を伴ってきたのはエルヴィユ侯爵で、嫡男シャルルは来客を理由に自領に留まっていた。彼が来訪しなかった真の理由を、フェリシエとライラだけは知っていたが、そのことはおくびにも出さずに二人の貴婦人は笑みをたたえていた。
「兄は、誕生日を祝えぬことをとても残念がっていました。喜びの気持ちだけはわたくしに託すと申しておりましたわ」
シャルルがベルリオーズ邸に赴くことを避けた真の理由は、フェリシエの言葉のためである。
アベルを殺すか、さもなければリオネルから引き離してほしいと、フェリシエから訴えられたシャルルは、妹の訴えを退けることもできず、また、アベルを排除する決心もつかないため、苦悩した結果、自領に留まることにしたのだった。
そのことを知りながら、フェリシエがたたえる笑みに一切の陰りもないのだから、恐ろしい女である。
婚約者候補の来訪を受け、リオネルは政務の合間に広間へ赴き、客人らを出迎えた。
「わざわざお越しいただき、恐縮です」
リオネルが身を屈めてフェリシエの手に口づける。
その姿に――手の甲に感じるリオネルの唇に、フェリシエの胸が高らならぬはずがない。けれど、久しぶりの再会だというのに、リオネルの挨拶は甚だ愛想のないものだった。
わずかに不服そうな面持ちになったものの、フェリシエはなにも気づかないふりをして続ける。
「リオネル様に再びお目にかかれる日を、待ち焦がれていました。最後にお会いしたときから、リオネル様のお姿を思い出さなかった日はありません」
フェリシエの情熱的な挨拶に、リオネルはなにも答えなかった。代わりにそれとなく話題をすりかえる。
「今回はシャルル殿にお会いできず、残念です」
と。
その態度に込められた意味は明白だった。
――自分は、フェリシエ殿の気持ちに答えられない。
つまりそういうことである。
フェリシエは哀しげな表情になった。この場にだれがいるか、よく把握しているがゆえの演出である。
傍らにいたベルリオーズ公爵は、フェリシエの表情を目にすると、息子のつれない態度を詫びた。
「フェリシエ殿、リオネルは真面目すぎて、ときに素直になれぬところがあります。愚息の非礼をお許しください」
「いいえ、公爵様」
薔薇が風に揺れるような笑みを浮かべ、フェリシエは首を横に振る。どういう者が嫡男の婚約者として認められるか、フェリシエはよく理解していた。
「そのようなところも、リオネル様の魅力ですから」
フェリシエのおおらかな反応に、クレティアンは安堵した様子で話を続ける。
ほがらかに会話をする父親とフェリシエをまえに、リオネルは苛立ちにも似た感情を抱いた。
真に愛する相手――アベルとは、近頃あまり話す機会がない。
自らの政務も忙しかったが、それ以上にアベルが騎士館のほうにこもったきり、ほとんど姿を現さないのだ。そのような折りに、フェリシエの到着である。
リオネルの恋路は、目的地に到着するどころか、ますます目的地から遠ざかっているように思われた。
ラベンダー畑にある、小さな礼拝堂。
あのときアベルの身体を抱きしめた感覚が、リオネルには忘れられない。
わずかでも力を加えたら、折れてしまいそうなほど細い肩や腕。薄い布越しに感じる肌は、男である自分とは比べ物にならぬほど柔らかかった。
そしてアベルは、ひどく怖がり、震えていた。あのようなか弱い身体に、どれほどの恐怖と苦悩を抱えているのだろう。
どれほど強がっていても、アベルは十五歳の少女なのだ。震えるアベルを抱きしめながら、リオネルはこの女性を守り抜きたいと思った。
「いつもリオネル様のおそばにいるアベルが、今日は姿が見えないようですが?」
ベルトランの周囲へ視線を向けながら、フェリシエが不思議そうに尋ねる。嫌味の込められた台詞であるが、無垢な表情によって棘は隠されていた。
「アベルは仕事が忙しく、最近は騎士館のほうにいることが多いのです」
リオネルの代わりに答えたのはベルトランだ。
「そう……かわいらしいアベルに会えなくて、残念ですわ」
首を傾げるように微笑みながら、フェリシエはリオネルを見上げる。
どこか測るような眼差しを向けてくる深緑色の瞳を、リオネルは淡々と見返し、静かな声音で言った。
「私もまだ政務が片付いておらず、この場に長く留まれません。フェリシエ殿は馬車の旅で疲れておられることと思います。どうぞ当館でゆっくり過ごされてください」
落ちついたリオネルの眼差しや言葉からは、アベルに関してなにも読み取ることができない。それよりも、この場を去ろうとするリオネルが、フェリシエにとっては哀しかった。
「もう少しお話しできませんか?」
整った眉を下げてフェリシエは懇願したが、リオネルは困ったような顔さえせず謝罪する。
「申し訳ありません」
フェリシエの気持ちは、充分リオネルに伝わっていた。
その気持ちに応えることができたなら――フェリシエを愛することができたなら、どれほどらくだったろう。そうすれば、父を落胆させることも、エルヴィユ家との関係に不和を生じさせることもなく、そしてフェリシエの願いを叶えてやることができる。
なにより、アベルとの関係を壊さずにいられる。このまま何事もなければ、おそらくアベルは生涯リオネルの家臣として、仕えてくれるだろう。
けれど、いくら論理によって最善の道を導き出しても、「気持ち」というものにはけっして「最善」などというものは存在ない。
求めてやまないのは、ひとりの少女と共に歩く人生。
そこにあるのは、ラベンダー畑の礼拝堂で感じた、狂おしいほどの想いだけだ。
心が伴わなくとも、愛していない女性に対し、優しい態度で接することはできる。けれど、心の伴わぬ優しさの先に真の幸福が待っているとは、どうしても思えなかった。
自らを欺けば、いずれはすべてが崩壊する日がくる。
フェリシエを、愛することはできない。
……いや、フェリシエを愛せないのではない。アベル以外の女性を、愛することができないのだ。
この事実は、永遠に変わらないだろう。
ならば、気持ちと態度をはっきりさせることだけが、フェリシエに対しリオネルができる最大限の誠意の示し方なのだった。
フェリシエやエルヴェイユ侯爵に詫び、リオネルはベルトランを伴い書斎に向かう。けれど、まだ片手で数えるほどしか案件が片付いていないうちに、来訪者があった。
ベルトランが開けた扉のまえに立っていたのは、ひとめで憮然としていると知れる表情のベルリオーズ公爵クレティアン、そしてその後ろに控える執事のオリヴィエである。
父が自分のもとを訪ねた目的を、リオネルは瞬時に察する。察したからこそ、リオネルは席を立ちクレティアンを部屋に通したが、あえて用件は尋ねなかった。
当然のことながら、尋ねなくとも相手は自ら口を開く。
「先程の態度はなんだ、リオネル」
ベルトランに勧められた椅子に腰かけず、クレティアンは扉のそばに立ったまま、息子に向けて言い放った。
「おまえに会う日を待ち焦がれていたという婚約者に、なぜもっと気の利いた言葉を返せない。もう少し話したいと言っていたのだから、先にフェリシエ殿との時間をとり、政務はそのあとでやりなさい。書類に向き合うだけが、そなたの仕事ではないぞ」
「父上」
深い紫色の双眸を、リオネルはまっすぐにクレティアンへ向ける。その瞳を、クレティアンは臆することなく見返していた。
「何度も申しあげたとおり、フェリシエ殿と婚約する意思はありません」
「そなたも何度も言っただろうが、私も幾度となく言ったはずだ。フェリシエ殿と婚約できない真の理由を聞かぬかぎり、そなたの意思は受け入れられない」
「彼女を愛することはできません。それ以上の理由が必要ですか」
「ならば、だれなら愛せるのだ」
クレティアンの切り返しは鋭いものだった。
「フェリシエ殿ほど条件のそろった令嬢はいない。家柄は申し分なく、気立ても器量も素晴らしい。フェリシエ殿でないなら、だれを娶るというのだ」
リオネルは押し黙るほかなかい。
真実を告げるには――自らの想いを伝えるには、あまりにも現実は残酷である。
自分が愛しているのは、身元のわからない十五歳の少女。
彼女にはすでに二歳の子供がいるうえに、「男性」として生きることを望んでいる。さらには、リオネルの気持ちさえ通じていない相手だ。
「リオネル、いいか。私はフェリシエ殿を今すぐに愛せとは言っていない。フェリシエ殿は素晴らしい相手であるから、彼女と婚約し、いずれは妻としなさいと言っているのだ。共にいるうちに愛せるようになるだろう。正しい相手と結ばれることは、貴族に生まれた者として成すべき仕事のひとつだ」
「では伺いますが、父上は母上とご結婚を決意された際、同じ思いでいらしたのですか?」
今度はクレティアンが黙る番だった。
「もし、母上の身分が卑しければ、父上は母上とは結婚せず、別の女性を娶ることができましたか」
それはクレティアンにとっては考えたこともないことだった。
アンリエット・トゥールヴィルは、クレティアンが王位継承第一位にいたころからの婚約者候補――つまり、未来のシャルム王妃の候補として名が挙がっていたほど、由緒正しい家柄の女性だった。
もともと婚約者となるべき女性を愛したのだから、そこには微塵の迷いもなく、二人にとっても周囲にとっても文句のつけようのない婚姻だった。
クレティアンにとり、リオネルの問いは今更答えの出ないものである。「もしも」の話を持ちだされたとて、当時の自分が実際に直面したときにしか本当の答えなどでないのだ。
けれど、リオネルの問いは少なくとも、クレティアンの考えに一石を投じた。
一石を投じた――だからといって、それでリオネルがフェリシエとの婚約を受け入れないことについて、彼が納得したわけではない。
クレティアンのうちに、ひとつの新たな疑惑が湧きあがったのだ。
「そなたは、身分の卑しい娘に想いを寄せているのか」
執事のオリヴィエが表情を硬くする。
高貴な家の子息が、身分の低い娘と恋に落ちることは少なくない。けれど多くの場合、その先に待ち受けるのは不幸な結末だ。
怒り狂った親が息子を監禁することもあれば、相手の娘を殺してしまうこともある。運よく駆け落ちすることができたとしても、その後、幸福な人生を歩んだという話は聞こえてこない。
けれど、リオネルの返答は、オリヴィエの不安を吹き飛ばすに充分なほど、あっさりとしたものだった。
「父上が条件ばかりを強調するので、『例えば』の話をしただけです」
「私とアンリエットの話は関係ない。今はおまえの話をしているのだから」
「はぐらかすのですね」
「はぐらかしているのはそなただ、リオネル。『例えば』の話などしてどうする。なんの意味がある」
「私は――」
立ったままの父親に向かって、リオネルは苦しげに双眸を細めた。
「私は、心から愛する人を妻にしたいのです」
風がカーテンを揺らす。
窓の外に広がる色は眩く、書斎に佇む四人の影は濃かった。
「その気持ちを、父上にわかっていただきたいのです」
「わからなくはない」
公爵は答えた。
「だが今のそなたには、愛する者がいないのだろう。では、いつまで待てばいいのだ? 愛する者はいつ現れる? 夢を見るのは子供のときまでだ。リオネル、そなたはあと数日で十九歳になる。いつ現れるかわからない相手を待つより、フェリシエ殿との婚約を真剣に考えてみなさい」
「父上はなにもわかっていません」
「父親の理解を求めるより、自らの立場を考えることだ」
「私の立場というのは、ベルリオーズ家の嫡男ですか。この立場にあることで、私は望む相手を娶ることもできないのでしょうか」
「そのようなことを言うのなら、望む相手とやらを私のまえに連れてきなさい。そのときには、おまえの気持ちを『世迷い事』としてではなく、確かなものとして受け止めよう」
リオネルは口を閉ざした。これ以上の議論を続けても、有益な結果を生みださないことを悟ったからだ。
「わかったなら、すぐに広間へ降りてきなさい。客人の滞在中は、フェリシエ殿と過ごす時間を優先すること――これは、命令だ」
「私の意に沿わぬご命令です」
「そなたがどう考えるかなど問題ではない」
双眸を細めてリオネルはクレティアンを見つめていたが、ベルトランはそっと瞼を伏せる。彼には、クレティアンの考えもリオネルの想いも理解できた。
「夢見がちなところも、そなたはアンリエットにそっくりだ。だが、おまえは男だ。ベルリオーズ家の跡取りだ。夢を見るのも、ほどほどにしておきなさい」
有無を言わさぬ語調でクレティアンが言い放ち部屋を出ると、リオネルはしばらく視線を床に落としていた。