22
エレンに言葉をぶつけられてから、アベルの胸はひりひりと苛まれつづけていた。
母親としての自覚や愛情に欠けると指摘されたことが辛いのではない。
イシャスがかわいそうではないか。そう言われたことが、重く響いていた。
――幸せにしてあげたいと思って、大切に育ててきたのに、イシャスを傷つけないで……。
なにも掴めない手。
小さな命ひとつ、育てることができない。
自分がしっかりしなければと、アベルは思ってきた。
自分が責任を持ち、ベルリオーズ邸から追い出されないようにするために、周囲に迷惑をかけないよう気を使い、同時に、イシャスにもなるべく楽しく過ごしていてほしいと願っていた。
けれど、なにもかもが空回りしていた。
肩に力が入るほど、イシャスはいたずらばかりして騒ぎを起こし、そして、自分はイシャスをきつく叱ってばかりいた。
エレンの言葉が胸に突き刺さったのは、すべて本当のことだったから。
だからこそ、こたえたのだろう。
あの日から、アベルはエレンにもイシャスにも会えなくなってしまった。だれと会っていても、なにをしていても空虚な気持ちだ。
ただただ、アベルは自分が情けなかった。
リオネルが甘やかすから――とエレンが言っていたことも、引っかかっている。
たしかにリオネルは、アベルに優しい。恐縮もするし、ありがたくも思うが、そのせいでリオネルが周りから責められることに、アベルは耐えられなかった。
自分がいるせいでリオネルにも迷惑をかけている。
そのような理由で、アベルはリオネルのまえにもほとんど姿を現すことができず、ひたすら従騎士としての雑用に専念していた。
エレンが体調を崩していたあいだ、長らく仕事ができなかったこともあり、やることはいくらでもある。馬の世話や武器の手入れ、稽古場の掃除などを寡黙にこなしていると、同じ従騎士であるジュストが冷ややかな視線を向けてくる。けれども、それも気にならないほど、アベルの気持ちは塞いでいた。
数人の騎士に呼び止められたのは、そんな折りだった。
騎士館にある厩舎の馬に与えるための干し草を、貯蔵庫から運び出そうとしたときのこと。話があるとアベルに声をかけてきたのは、ジェローム・ドワイヤンをはじめ身分の高い騎士たちだった。
名門の出であるからこそ、ベルリオーズ家に対して揺るぎない忠誠心を抱き、さらにクレティアンとリオネルが正統な王位後継者であることを、なによりも誇りに思っている者たちだ。
そのような人たちであるから、どこの馬の骨ともわからないのにベルリオーズ家の家来となったアベルの存在は忌まわしかったし、そのうえリオネルに気に入られているのだから、余計に我慢ならない。
呼び止められたとき、アベルがわずかに気圧されたのは、相手が身分の高い騎士らであったからではない。
彼らの瞳に強い敵意が宿っているのを、みとめたからだった。
相手が刺客や敵であるなら、アベルは動じなかっただろう。けれど、今アベルを囲んでいるのは、ベルリオーズ家に仕える由緒正しい騎士たちだ。
リオネルの家臣として――ベルトランの従騎士として、彼らと諍いを起こしてはならない。
刃向かうことも、口答えをすることもできないので、いかにも貴族的な物腰を身につけた騎士らに睨まれたアベルが、威圧されるのはしかたのないことだった。
近くで働いていたはずのジュストは、いつのまにか姿を消している。
「なにかご用でしょうか」
礼儀を守りつつ、なるべく淡々とした態度でアベルは尋ねた。
けれど、返ってきたのは予期していたとおりの冷ややかな声音。
「いったい、どういうつもりだ」
口を開いたのは、ロベール・ブルデューだった。
幼いころから厳しい教育を授けられてきた彼らが話す言葉の発音は、リオネルやディルクと同様に、すばらしく美しい。
けれどロベールらのその発音に込められているのは、ひどく冷淡な響き。
胸に黒い染みが広がっていくような感覚にとらわれながら、アベルは黙って次の言葉を待った。
「リオネル様の命に背き、公爵様にも無断でひとり王都へ赴き、戻ってきたら今度は二歳の弟をこの館で住まわすなどと、ずいぶん勝手なことをやっているではないか」
「それは――」
なにか言おうとしたが、次の瞬間オクタヴィアン・バルトの平手がアベルの頬を打ったので、言葉は途切れる。
代わりに、アベルの口端にかすかな血がにじんだ。
「『それは』の続きはなんだ。言ってみなさい」
「……リオネル様をお救いしたかったからです」
唇を噛みしめながら、アベルは答える。
徐々に瞳にたまる涙は、痛みではなく、悔しさからくるものだった。暴力を振るわれても、抵抗できない。非力な立場――高位の貴族に立ち向かうことができない自分が、悔しかった。
けれど、どのような悔しさにも耐えようとするのは、ここにいたいから。
ここ、ベルリオーズ邸で、リオネルに仕えたいから。
――イシャスと共に、リオネルのそばにいたいから。
その一心だった。
「リオネル様をお救いするだと? 子供のくせに生意気なことを。おまえごときが、リオネル様をお守りできるわけがない。王都でおまえがリオネル様のお命を救ったというのは、すべて作り話だろう。ひとりで行動した結果、怪我だか病気だかにかかったおまえを、リオネル様がかばってそうおっしゃっているのだ」
「作り話などではありません」
決めつけるようなオクタヴィアンの口ぶりに、アベルは声を高めて反論した。反論せずにはおれなかった。
「ではなにが起こったのか、私たちにここで説明してみなさい。リオネル様やベルトラン殿をはじめ、マチアス殿やおまえ自身でさえも出来事を語らないではないか。真実なら、語ってもなんら憚ることはあるまい? いや、語ってしかるべきだろう」
威圧的な態度で詰問されたが、アベルは幾度も口にしてきた言葉で説明するしかない。
「……口外しないよう、申しつけられています」
自らの成果を自慢したいわけでも、認めてもらいたいわけでもないが、けれど、リオネルやベルトランがアベルをかばって「作り話」を仕立てあげたと言われるのは納得がいかなかった。
「それはもう何度も聞いた。うまい言い訳を考えたものだ。この従騎士殿は、純粋そうな顔をして、腹のなかでは狡猾なことばかり企んでいるようだ。下賤な生まれを綺麗な表皮で隠したつもりだろうが、私たちは騙せないぞ」
あまりに勝手な言い様に、アベルが閉口して言葉を失っていると、オクタヴィアンのかわりにトマ・カントルーブが目前に立ちはだかる。
「おまえの弟が、公爵様のお部屋に入り騒ぎを起こしたことや、ベルトラン殿の顔に傷を負わせたことは聞いている。兄が兄なら、弟も弟だ。早々に二人揃ってベルリオーズ邸から去れ――でなければ我々の手で、おまえたちをここにいられなくする」
――リオネルのそばにいられなくなる。
それはアベルにとり、なによりもおそろしいことだった。
リオネルを守るためだけに生きようと思った。
この世界に、自分の居場所はリオネルのそば以外にはない。
それに、イシャスはまだ二歳。
ここを追い出されれば、住む場所にも、食べるものにも困る。なにより、エレンと引き離されたら、イシャスはどうなってしまうのだろう。
「待ってください、なぜそのような話になるのですか。リオネル様にお仕えするのはわたしの意思です。リオネル様がお許しになるかぎり――」
形のよい眉を寄せてアベルは必死に抗議したが、言葉はすぐトマによって遮られた。
「なぜかだと? リオネル様に仕えるのは、自分の意思だと? 自分がこれまでしてきたことを知っていて、そのようなことを言っているのか。笑わせないでくれ、アベル。山賊討伐の折に、他家の者と諍いを起こしてリオネル様を巻き込んだことを、覚えているか? その後、勝手に囮になって姿を消し、戻ってきたときには山賊などを連れ帰り、極めつけは、山賊の首長に捕まり、そのせいでリオネル様を危険な目に遭わせた。他にもある。おまえのせいでリオネル様は幾度も公爵様と衝突なされている。これ以上、リオネル様を危険に晒そうというなら、処罰も覚悟のうえで我々がおまえを斬る」
アベルはトマを凝視したまま、けれど反論の言葉を探すことができなかった。
彼らが述べていることは、一方的ではあるものの、間違ってはいない。自分はこれまでにリオネルに迷惑をかけ、そして彼を危険にも晒してきた。
守っているつもりで、守られているのは自分……。
エレンが言っていたことも正しかった。
正しいことに、反論することはできない。ただやり切れない思いをアベルは抱えるだけだった。
最後にオクタヴィアンがアベルの肩を小突き、アベルが軽く後方へよろけると、その姿を侮蔑の込もった眼差しで一瞥して四人は貯蔵庫から去っていった。
ジェローム・ドワイヤンだけは、最初から最後までひと言も言葉を発しなかった。しかし彼の瞳が、だれよりも鋭く冷ややかだったようにアベルは感じる。
どうしたらいいのか、アベルにはわからなかった。
あたりに人気はなく、静かだ。
なにを間違えたのだろう。
なにがいけなかったのだろう。――自分は、間違ったことをしてきたのだろうか。
いや、違う。
それは違う。
信念に基づいたことをしてきたはずだ。
リオネルを守りたい。
ただそれだけの思いで。
けれど、トマが言っていたことは真実だ。
ならば、リオネルを守りたいという思いは、ひとりよがりだったのだろうか。
足元の地面が、崩れ去っていくような気がした。
硬いと思っていた大地は脆く、自分が立っていた場所はあまりに儚かった。
「アベル」という人間の存在が――存在する意味が、消えていこうとしている。
両手に抱えた干し草の香りだけが、その場に存在するもののすべてであるように、アベルには感じられた。
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王宮に吹く初夏の風。
花の香り舞うこの場所の一角では、地獄絵図のような光景が繰り広げられていた。
監獄塔に絶叫が響く。
鞭を打つ音。身体をくくりつける板が揺れ、板を吊り下げる鎖が軋む。
もう長いこと、真実を語ることを考えていた。
その瞬間を想像しつづけていた。
けれど、声を発することができなかったのは、真実を述べることで自分が助かるのかどうか、確信が持てなかったからだ。
もしかしたら告白することで、自分も妻のナタリーもさらに重い形で処罰されるかもしれない。いや、殺されるかもしれない。
鞭打たれているあいだ、ボドワンは頭のなかではそのことばかりを考えていた。
拷問が始まったのは、美しく高貴な貴族と面会した直後のこと。
彼らと別れてしばらくすると、今度は驚くべきことに第一王子ジェルヴェーズが自ら監獄に姿を現した。
畏れ多い人物の出現に驚倒したのも束の間、ボドワン夫妻はひと言の発言も許されず拷問部屋に連れていかれた。
そこで問われたのは、「イシャスは何者か」ということだった。
その返答として、ボドワンはフィデールに語ったことと同じ話を繰り返した。そうすることで、命だけは守ることができると信じていたからだ。
しかし、拷問開始から三日目。ここにきてボドワンが白状する決心がついたのは、これ以上拷問に耐えきれないと思ったからである。このままでは死ぬ。どうせ死ぬならば、一か八かで真実を告げてみようという考えに至った。
時機もよかった。
昨日は一度も顔を出さなかったジェルヴェーズとフィデールが、この日は監獄塔へボドワンの様子を見にきたのだ。確約させるなら、今しかない。
「真実を申しあげます」
喉が潰れてひどい声だったが、ボドワンは無我夢中で訴えた。
「申しあげますので、どうか私たちをお助けください」
妻のナタリーは拷問の初日――しかもかなり初期の段階で気を失い、それ以降いくら鞭を打たれても口は開き、目は虚ろで、なんの反応も示さなくなった。死んではいない。正気を失っているといったところであろう。
正気を失っては、拷問の効果など皆無であったので、そのまま監獄の隅に転がされていた。
「真実を言うだと?」
ボドワンの言葉を耳にしたジェルヴェーズが、眼差しを鋭くする。壁際で腕を組んで立っていたフィデールも、ボドワンへ視線を向けた。
「これまで『知ることすべてを話した』と言っていたのは、嘘だったということだな」
拷問吏から取りあげた鞭の柄で、ボドワンの顔を抑えつけながらジェルヴェーズは問いつめた。
「ええ、嘘でございます。本当のことを申しあげることが恐ろしく、偽りを述べました」
「口にするのが恐ろしいほどのことを、おまえは知っているのか」
「このことが、どのような意味を持つのかは存じません。けれど、ベルリオーズ家のご嫡男様に関わることでしたので、これまで王子殿下に申しあげることができずにおりました」
「リオネル・ベルリオーズに関わるだと?」
ジェルヴェーズの瞳が剣呑に光る。フィデールもわずかに表情を変えたようだった。
「やはり、あいつが関わっているのだな。言え。隠していたことを、ここですべて吐け」
「申しあげます。申しあげますので、命だけは助けてくださると、どうかお約束いただけないでしょうか」
「それほど死ぬことが怖いか。死を超える苦しみもあるぞ――生きながらにして与え続けられる苦痛だ。死にたくないなら、貴様にそれを与えてやってもいい」
ボドワンの顔に恐怖の色が広がる。
それを見て、ジェルヴェーズは嘲るように口を歪めた。
「おまえの処分は、話を聞いてから私が決める。さあ、言え」
魂が抜けたように、ボドワンは監獄の天井を仰ぐ。なにかを諦めなければならないときだった。
そのボドワンを、ジェルヴェーズは鞭の柄で殴りつける。
「早く言わなければ、目を抉り抜くぞ」
脅され、ボドワンは慌てて言葉を発した。
「私が今まで話してきたこと――イシャスという者の素性を知らないということ、ただ酒場で出会って雇ったということ、それらはすべて真実です。ただ私が偽りを申しあげたのは、お城から連れて帰ったイシャスを、ごみといっしょに燃やしたということについてです」
「どういうことだ」
「怪我を負ったイシャスを、家へ連れて帰りました。そして、裏庭に放置してそのまま死ぬのを待ちました。数日放置したと思います。すると突然、我が家にリオネル・ベルリオーズ様が現れたのです。これは、神に誓って偽りではございません」
ジェルヴェーズもフィデールも無言だった。
「リオネル・ベルリオーズ様は、私が必死で制してもお聞き入れくださらず、裏庭に放置していたイシャスを抱えてお帰りになりました。イシャスはそのときまだ意識があるようでしたが、もう死ぬ寸前といったところで、その後リオネル様の庇護のもとで生き延びたのか、それとも息絶えたかは、私にはわかりかねます」
「やはり、そうか。そういうことか……」
引きつった笑みを浮かべながら、ジェルヴェーズは唸る。その様子に怯えるボドワンに、フィデールが質問を放った。
「リオネル殿とイシャスという少年の関係について、おまえはなにか知っているか」
「存じません。ただ……」
「ただ?」
「とてつもなく大事なものを扱うように、イシャスを抱いていました。イシャスを生かしておいてはならないという命令が、だれによるものか答えられないと私が返事をしましたら、今度はこのように申しておりました」
――ではその者に伝えろ。少年はリオネル・ベルリオーズが連れていったと。もしそのことに異議があるなら、いつでも私は剣を握る覚悟がある、と。
「私に対し、剣を握る覚悟がある――か。おもしろいではないか」
おもしろい、と言うジェルヴェーズの瞳は笑っておらず、ぞっとするほど危うい光を帯びていた。
恐ろしさに、ボドワンは縮みあがる。
ジェルヴェーズとリオネル。
この国の、二人の王位後継者候補。
二人が争うような事態になれば、いったいこの国はどうなるのか。その発端に自分が関わることが、ボドワンにはとてつもなく恐ろしく感じた。それはある意味では、己ひとりの死というもの以上に、ぞっとするものだった。
「いえ、その、殿下……リオネル様は、相手がジェルヴェーズ殿下であられるとは、ご存じなかったはずです」
けれどジェルヴェーズがボドワンの言葉に、心を動かされた様子はなかった。
「おまえがイシャスについて知っていることは、それだけか」
「はい、さようで……」
「ひとつ確認するが、イシャスならば宮殿内のどの煙突にも、自由に入りこむことはできたのだろうな」
「できますが、命じられた場所以外の煙突に入れば私が厳しく罰しますし、あいつは新入りで仕事も遅くそんな余裕は――」
自らの身にふりかかる火の粉を払おうとボドワンは弁明するが、それは呆気なくジェルヴェーズに一蹴された。
「可能な状況かどうか、ということだけを私は聞いているのだ」
王子の苛立った声に怯み、ボドワンは幾度も首肯する。
「ええ、可能です。我々のような大人には無理ですが、十二歳のイシャスなら可能です」
このときジェルヴェーズは、己の勘が正しかったことを確信した。
姦計をめぐらせていた際に、暖炉に感じられた気配。
最上階の回廊で姿を現した煙突掃除の少年。
リオネル暗殺計画の失敗。
――すべてが繋がった。
「イシャス」はリオネルの臣下であり、煙突掃除夫として王宮内に入りこみ、煙突を通じて各所で諜報活動を行っていたのだ。諜報活動の結果、リオネルを陥れる姦計を知り、主人に伝えようした。
けれども運悪く、カミーユをかばったためにイシャスはジェルヴェーズの怒りを買って負傷し、ボドワン宅の裏庭に放置されることになった。
その彼を助けに来たのは、驚くべきことに、リオネル・ベルリオーズ本人だった。
瀕死の状態にあったイシャスだが、少なくとも姦計については主人へ伝わり、リオネルは事前に解毒薬を飲むことができた……。
完璧だったはずの計画の失敗。
それは、リオネルの家臣による妨害によるものだった。
この事実に、ジェルヴェーズが苛立たぬはずがない。けれど、怒りを露わにすることなく、ジェルヴェーズは低い声で尋ねた。
「リオネル・ベルリオーズは、それほど少年を大切にしているようだったか」