24
突然に戻ってきた日からさらに一週間後も、リオネルとベルトランはベルリオーズ家別邸に姿を現した。それからというもの、二人は毎週、王宮から戻ってくる。
アベルは寝室にこもっていたし、リオネルとベルトランも、あえてアベルのいる部屋には立ち寄らなかったので、ほとんど顔を合わせることはない。
どうして戻ってきているのだろうと、アベルは疑問に思う。
一ヶ月に一度の、稽古が休みの日だけだと聞いていたのに、蓋を開けてみれば七日ごとに戻ってきている。まさか、再び勝手に部屋を移動していないか確認するためではないだろうとは思いつつも、アベルはなんだか居心地が悪かった。
アベルがこの家の居候になってから、すでに二ヶ月が経っていた。まだ春の気配は感じられないが、雪が降る回数は減った。
身体は回復してきているものの、ずっと寝台に横になっていたせいで著しく体力は落ちている。このままでは、いつかここを出たときに動くことも働くことができなくなってしまう。アベルは焦りはじめていた。
リオネルが、アベルのために用意した「地味目な部屋」は非常に快適だ。ほとんど使われていない書斎の隣にあり、人が周囲をうろつくことはなく気が休まった。
当初あてがわれた客間の半分ほどの広さの部屋には、天蓋のない寝台、書き物机、肘掛椅子、円卓、飾り棚、本棚など、全ての家具や調度品がそろっていたけれど、どれも木目の素朴なものだ。
けれどそれらが元々ここにあったものなのか、それともアベルのために揃えられたのかは、定かではなかった。
最後にリオネルに会ったのは、三週間ほどまえだ。
そのときのこと。
普段は身の回りの世話をしてくれるエレンや身体の具合を診察する医師のドニしか訪れない部屋に、リオネルは単身で現れた。影武者のようなベルトランは、珍しく伴っていなかった。
「この部屋はどう?」
寝台の上で半身を起こしたアベルに、リオネルは遠慮がちに聞いてきた。
「とても休まります。ありがとうございます」
アベルが飾り気なく答えると、リオネルは優しく笑う。
その笑顔を直視するまいと、アベルはうつむいた。
「それで、アベル」
リオネルは、さらに遠慮がちに口を開く。わざわざリオネルがこの場所に来たからには、なにか言うことがあるのだろうと、アベルは察していた。
「はい」
「エレンとドニから聞いたんだが」
「…………」
「あまり食事をとっていないそうだね」
まさかこの青年にこのようなことまで指摘されるとは思わず、アベルは驚く。
「そんなことは――」
「きちんと食べておかないと、体力がつかないよ」
「……食べています」
と言ってからアベルは内心で、食べられるぶんだけは、と付け加えた。
食欲がないのは、おそらく〝つわり〟というもののせいだ。くわえて、時間が経つにつれて胃が圧迫されてくるのか、物理的に胃が食料を受けつけなくなった。こうして、日に日に食べられなくなっていたのである。
その様子を聞いていたリオネルが、ついにアベルに直接言いにきたようだ。けれど食べられない理由を説明したくなかったので、アベルはそのことをリオネルには言わなかった。
「食事の半分以上を、残していると聞いたが、それは食べていると言えるのか?」
「それは……」
どうしてこの人はこんなにお節介なのだろうとアベルは思う。
かつて実の父、母、そしてカミーユやトゥーサンでさえ、アベルに対してこれほど口出ししてきたことはなかった。
リオネルはまるで孫の誕生が楽しみで、あれこれ口出ししてくる姑のようだ。
「体力がないと、出産する際に身がもたないと聞いた」
「ドニ先生からですか?」
リオネルが頷く。
「もう少しがんばって食べてみてくれないか」
「これでも、がんばっているんです」
「…………」
それはアベルの本音だったけれど、リオネルにはどう聞こえたかわからない。
黙っていたので気まずくなり、アベルは話題を変えた。
「ベルトラン様は、いらっしゃらないのですね」
「……今は剣の練習をしている。いつもおれたちの練習を見ているだけだから、身体が鈍るみたいだよ」
「……そう、ですよね」
そのあとも、特に会話は続かないまま、リオネルは、
「とにかく、食べてね」
と静かに言い残して、部屋を出ていったのだった。
ゆっくり寝台から降りる。
三週間前の会話を思い出し、おそらくベルトランとは比べものにならないほど、自分の身体が鈍っていることに気がついたのだ。
もともと、室内で裁縫や絵を習うより、庭でかけまわっていることのほうが好きな質だ。
カミーユと剣を打ち合わせたり、馬に乗って走ったりするのが、なによりも楽しかった。
まさかここでそんなことをするつもりはないけれど、とにかくアベルは少し身体を動かしたくなった。
二ヵ月の養生で、肺炎は、ほぼ完治していた。眩暈も頭痛もない。咳もほとんど出なくなった。病気ではない身体が、こんなに軽く感じるものなのかと、アベルは久しぶりに立ち上がって思う。
扉に手をかけてそっと廊下に出る。
アベルは今、仕立てのよい紺色の上着とズボンという姿だ。肩まで伸びた髪は後ろで小さく束ねている。優雅な貴族の子弟のような出で立ちだった。
長い廊下を進む。初めてここを歩いたときは暗闇のなかだったけれど、今日ははっきりとその様子を確認することができた。
いくつもの部屋が続き、その合間にある踊り場の窓から、外界の光が入り込んでいる。太陽は出ていないものの、窓が大きいので充分な明るさが廊下に満ちていた。
足元の絨毯は厚手で、美しい草木の模様が描かれている。
廊下が途切れたところに大階段があった。階下からは人の話し声が聞こえてくる。階段の踊り場から下を見下ろすと、ここで働く者たちが忙しなく行き交っていた。
アベルは躊躇して立ち止まる。
なるべく人には会いたくなかった。それに、ここでアベルの顔を知っているのは、リオネル、ベルトラン、エレン、そしてドニだけである。このまま階下に降りれば、アベルは不審に思われるかもしれない。
別邸だというのにこの階下を行き来している使用人の多さに圧倒されつつ、どうにかこれらの人目を避けて庭に出られないかとアベルは考えた。
そのとき、大階段の最上階の踊り場に佇むアベルの姿に、気付いた者がいた。
「あなたは……」
視線を感じてアベルはそちらに目を向ける。
身なりのよい白髪の男が、驚いたような顔でこちらを見上げていた。
周囲にいた使用人たちも、ジェルマンの様子に気がつき、同様に目線を上げる。
大階段の最上階は、ベルリオーズ家の血縁者か、その賓客のみが使用する場所で、用事がないかぎり使用人も立ち入らない場所だ。そこに立ちすくんでいたのは、年端のいかぬ金髪の少年だったのだから、一斉に視線を集めて当然のことである。
アベルは居心地の悪さを覚えた。人目を避けていたはずが、こんなにも目立っている。
なにか言わなければならないのか、なにを言ったらよいのか、アベルにはわからず、黙ったまま初老の男を見返した。
「あなたが、リオネル様の連れてこられた方ですね」
ジェルマンは穏やかに言った。
その声音に少し安心して、アベルは小さく頷く。
「そのようなとこに立っておられないで、どうぞこちらへ」
手招きされて、アベルはためらいつつ階段を降りた。周囲からの突き刺さるような視線を感じる。
前まで来たアベルへ、初老の男は丁寧に頭を下げる。
「私は、ここ、王都のベルリオーズ邸の管理などを任されております、執事のジェルマンと申します」
ジェルマンの恭しい態度に、アベルは一歩あとずさった。
「わたしのような者に頭を下げたりなさらないでください」
アベルがそう言うと、ジェルマンは短い髭の生えた口元をほころばせる。
「あなたが二ヵ月前にリオネル様がお連れになった方なのですね」
先ほども口にしたような台詞をジェルマンは再び繰り返し、興味深げにアベルを眺めた。
「長らく部屋におられたので、ひどく体調を崩されているかと心配いたしましたが、起き上がれるほどに回復されたとは安心いたしました」
「ご迷惑をおかけしました」
ジェルマンがにこにこしているので、なんだかいたたまれない気持ちになって、アベルはうつむく。
「わたしはアベルといいます……」
「アベル様、お名前はうかがっておりました。お加減は良いようですが、念のためドニを呼んできましょう」
「あの、少し庭に出られたらと思ったのですが……」
「ドニが良いと言えば、大丈夫でしょう」
ジェルマンはあくまでドニの承認がなければ、アベルを解放しないようだ。
「では、お言葉通りに……」
渋々うなずいたアベルは、とりあえず居間へ連れて行かれ、ドニの簡単な診察と問診のあと、動いても構わないということになった。庭に行く際はエレンを伴うようにということだった。
承認がおりるまでの過程で、アベルは少し疲れを感じたが、ここまできたのでエレンを伴い庭に出ることにする。
外套を羽織って庭に出ると、思った以上にまだ寒い。足元には所々雪が残っている。
いつも窓から見ていた庭を歩いてみると、その景色はまた違ったように見えた。
迷路のような花壇も、薄い氷の張った池も、白く磨かれた彫刻も、間近に見るとその美しさが際立つ。
しゃがんで、花壇の雪に手を触れてみる。あと一ヶ月もすれば花の咲く季節なのに、そんな気配はまるで感じられなかった。
「寒くない?」
声をかけてくるエレンにアベルは首を横に振る。
「みんな驚いていたわよ」
唐突にそう言われてアベルはエレンを振り返った。
「リオネル様が連れてこられたのがどんな人なのか、ここの人たちはみんな興味津々なのだから」
ひっそりと過ごしていたはずなのに、自らの思いとは裏腹に、館内で噂になっていたことにアベルは愕然とした。
「そんなに珍しいことなんですか?」
「なんのこと?」
「リオネル様が、だれかを助けてここへ連れてくることです」
「そうね、そんなに多いことではないわ。でも、みんなが気にする理由は、リオネル様があなたを助けたことではないわ」
「?」
「リオネル様が毎週この館にお戻りになることよ」
「そのことと、わたしとなんの関係が?」
「あなたを連れて帰ってから、リオネル様は毎週のように王宮から戻られるようになったから」
「よくわからないのですが……特に会いにくるわけでもありませんし、別の理由があるのでは」
「そうね。わたしにもわからないけど、館の者はそう考えているみたいよ」
「そう考えている?」
「あなたを気にかけて戻ってきているって」
「…………」
穴があれば入りたい気持ちになる。
そんなふうに思われていたなど、夢にも思っていなかった。
「部屋に……」
「え?」
「部屋に戻っていいですか?」
「まだ、外に出たばかりじゃないの」
アベルは、この庭を行き来している使用人たちの存在が気になりはじめていた。
これ以上館の敷地内で人目につきたくない。
「寒いので……」
「そうね、あなたは病み上がりだものね」
納得したエレンと共に、アベルは館内に戻り、再び部屋の扉を閉ざしたのだった。