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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第四部 ~波乱に満ちた誕生日と、切なる祈り~
239/513

21







 シャルム西方で噂されていたレオンは、王宮の庭で大きなくしゃみをしていた。


「風邪を召されましたか、殿下」


 問われてレオンは顔をしかめる。


「いや、どこかでだれかが、おれの話でもしているに違いない」

「だれでしょう」

「そこまではわからないが……まあどうせディルクあたりが、おれの悪口でも言っているのだろう」


 レオンの言葉を聞き、おかしそうに笑ったのは、シャルム正騎士隊隊長シュザン・トゥールヴィルである。


「その後、お身体の調子はいかがですか」


 初夏の花々が、短い命を燃やすように咲き乱れる花壇のなかを、二人は歩いていた。

 ……甘い香りは、薔薇か、百合か。


 風は涼やかで、庭園には多くの貴族らの姿が見受けられた。

 王子という立場にあるものの、レオンは近衛兵らを伴ってはいない。シュザンひとりで、百人の兵士にも勝る。あえて供をつける必要はなかった。


「おかげでもう完全に回復した。シュザンには世話になったな」

「いいえ。私ではなく、貴方の窮状を知らせた……ええと、レオン王太子の幽霊のおかげでしょう」


 かつてレオンが主張していたことを否定するわけにいかず、シュザンはしかたなく「レオン王太子の幽霊」と述べた。けれど、レオンのほうは、とうにその正体を知っていたので、シュザンの言葉に苦笑する。


「違うんだ、シュザン。気を使わせて悪かったな。あれは、リオネルの家臣だったのだ」

「は?」


 唐突に真実を告げられ、シュザンは面食らった。あれほど幽霊説を唱えていたのに、いつのまに生身の人間だということになっていたのか。


「ベルリオーズ家の者だった、ということですか?」

「シュザンにはまだ伝わっていなかったのだな。すまない。弓を放ったのは、アベルだったんだ」

「アベル……」

「知っているだろう?」

「はじめて耳にする名です」

「それは意外だな」


 リオネルの叔父というだけではなく、ベルトランとも親しいシュザンであるから、当然アベルのことは聞いているものとレオンは思っていた。


「ベルトランの従騎士をしていて、剣術にも弓術にも優れた十五歳の少年だ」

「その従騎士は、どうやって貴方の窮地を?」

「煙突にいたからだ」


 怪訝な面持ちになるシュザンに、レオンは確認する。


「リオネルを毒杯から救った者がだれか、聞いているだろう?」

「マチアス殿が陰謀を知り、解毒剤を手渡したと」

「そのマチアスに情報を伝えたのが、アベルだ。彼は煙突掃除夫になりすまして宮殿に入り込み、各所を偵察していたらしい」

「――なるほど」


 しばらく考え込むと、シュザンはつぶやいた。


「煙突を通じて諜報活動をするという方法は、考えもつきませんでした」

「身体の大きい者にはできないからだろう。煙突に入れるのが子供だけだからこそ、だれも煙突などに間諜がいるとは思わない」

「十五歳の男児が、煙突などに入れるものでしょうか」

「アベルは細身だから」


 説明を聞き終えると、納得したのかどうか曖昧な様子でありながらも、シュザンはうなずく。


「あれほどの腕を持つ少年なら、将来が楽しみですね。私も一度会ってみたいものです」

「ああ、アベルは素晴らしい騎士になるだろう」


 遥かベルリオーズ領にいる甥に、シュザンは思いを馳せる。遠くから守ることしかできないシュザンにとっては、リオネルの周囲に頼もしい家臣がいることは、なによりもありがたいことだった。


「そういえばシュザン」


 庭園をゆっくりと散策しながら、レオンは急に思い出したように尋ねる。


「この王宮内で、頻繁に温室の脇を通りかかる若い騎士などいるだろうか?」


 質問されたシュザンは軽く咳払いをした。


「なんのお話でしょう、殿下」

「知り合いの少年が、温室のあたりで、見ず知らずの若者に剣術の手解きを受けているという。随分変わったやつが、この王宮にもいるものだと思ってな」


 再びシュザンは気まずそうに咳払いをした。


「知っているのか」

「さあ、だれでしょう」

「……ん?」

「なんですか?」

「まさか――」


 信じられないという面持ちで、レオンはシュザンを見やった。


「おまえか、シュザン」


 シュザンは無言だった。


「…………」


 レオンもしばし黙す。

 二人はしばらくそのまま無言だったが、その沈黙に耐えかねてシュザンはとうとう白状した。


「……私です、殿下。驚くほどがむしゃらに剣を振るっていたので、声をかけてしまいました」

「別におれは咎めていないぞ。だが、相手がだれか知っているのか?」

「存じ上げません」


 再びレオンは驚いた様子でシュザンを見やった。やはり自分の周囲には、個性の強い者ばかりが集まると、レオンはあらためて実感する。


「互いに知らないまま稽古をしていたのか。変なやつらだな」

「名乗らなかったのは、少年のほうが、身元を明かすことを拒絶していると感じたからです」


 カミーユの顔を思い出しながら、レオンは考えこむ。彼が身元を明かさず、そして相手のことも知りたがらない理由が、レオンには少しばかり想像できた。


「そういうことなら、おれもなにも言わないでおくことにしよう」

「そうしていただけると助かります」


 国王派に属するか、王弟派に属するかというだけで、敵か味方か明白に別れてしまう。

 逆に、なにも語らなければ、個々の人間どうしの関係でいられる。その気軽さは、この王宮では――いや、今のシャルムにいるかぎり、なかなか味わえないものだ。シュザンもカミーユも、同じ思いでいるだろうことを、レオンは察する。


「ただ、このまま剣を教え続けるなら、最後まで立場は明かさないほうがいいだろう」

「承知しています」

「おまえに稽古をつけてもらっていることを、嬉しそうにおれに話していた。まっすぐで純粋なやつだ。よろしく頼む」

「……かしこまりました」


 純粋な気持ちから生じたささやかな交流など、この王宮においては、簡単に踏みにじられてしまう。それを守るためには、多くを語らないほうがよい。そのことを二人ともよく理解していた。


「もうすぐリオネルの誕生日だな」

「覚えていらっしゃいましたか」


 二人のあいだを、心地よい風が吹き抜けていく。


「いちおう従兄弟だからな。今年は直接祝えないから、酒でも届けさせるかな」

「とても喜ぶと思います」

「ディルクあたりは、ベルリオーズ邸に押しかけるに違いない。またマチアスが苦労することだろう」


 ちらとレオンの横顔を見やったシュザンは、そこに憂いの色がないことを少し意外に思った。長いあいだ共に過ごした友人と離れていることは、さぞや寂しいことだろうと思ったからだ。


 けれど淡々とした様子は、レオンらしいといえばレオンらしい。

 寂しくないわけではないだろう。けれど、不思議な落ち着きと強さをレオンは持っていた。


 シュザンは空を見上げる。

 抜けるような晴天が、そこには広がっていた。








+++








 風が、優しくカーテンを揺らしている。


 小さな声で口ずさむ子守唄。

 静かな歌声に安堵し、子供は呼吸を深くする。


 幼子の瞳は閉じかけては、眠りを拒むがごとく開かれる。けれど、次第に閉じている時間は長くなり、ついに瞳は開かなくなった。

 子供が眠りについても、子守唄はしばらくやまない。


 静かな歌声だけが存在感を示すこの場所に、ひとりの青年が訪れた。


 その顔を見て、女性はやや気まずそうに、子守唄を口ずさむのをやめて立ち上がる。

 眠りについた子供を気遣い、青年は小声で尋ねた。


「落ち着いたか」


 青年が、落ち着いたかどうかと尋ねたのは、眠りについた幼子のことではない。歌を口ずさんでいた女性――エレンについてだった。


 エレンが、イシャスのことでアベルを責めたのは昨日のこと。

 リオネルはエレンを彼女の自室へ送り、それから頃合いを見計らって、イシャスを彼女のもとへ連れて行った。そうすることが、エレンだけではなく、今はアベルのためにも最善の道だと判断したからである。


 けれど、それは「最善の道」であるというだけであり、アベルが本当に望むことかどうか、リオネルにはわからなかった。


 たしかにアベルには余裕がない。イシャスの面倒を見ているときのアベルは、精神的にも手いっぱいになっているように見受けられた。

 けれど……。

 子を産んだ母の気持ちというものは、男であるリオネルにはわからない。

 子供の気持ちもまた然り。

 エレンを「ママ」と呼ぶイシャス。けれど、イシャスの本当の母親はアベルだ。

 血のつながりが人間にもたらすものを、リオネルは計りきれずにいた。


「昨日の非礼をお許しください」


 深々と頭を下げるエレンに、リオネルはそっと首を横に振ってみせる。


「いいんだ。エレンの気持ちも理解してやれず、すまなかったと思っている」

「いいえ、わたしはベルリオーズ家に仕える者です。主から申し付けられた仕事は、口答えせずにただ励むべきなのです。それを、あれこれと無作法なことを申し上げました」

「謝らなければならないきみの立場もわかるが、そんなふうに言わないでほしい。口にしてもらうことで、エレンが抱くイシャスへの思いはしっかりと伝わったのだから。エレンに深く愛され、守られているイシャスは幸福だと思う」


 穏やかなリオネルの声音に、安堵とも感動ともつかぬ思いがこみあげ、エレンは目尻を指先でぬぐった。昨日は立場をわきまえない態度でリオネルのことも責めたのに、このような言葉をかけられれば、心が動かないはずがない。


「ただひとつだけ、おれの考えも聞いてほしいと思って、今日は来たんだ」

「……アベルのことですか?」


 わずかな間を置いて、そうだ、とリオネルは答えた。


「今からおれが言うことを、アベルを甘やかしているからこそ出た言葉だと思うなら、本当にそうなのかもしれない。そのときは、聞き流してくれていい」

「…………」

「今、話してもかまわないだろうか」


 確認されて、エレンはうつむいたまま了承する。


 短く礼を述べてから、リオネルは話しだした。

 女中を相手にしているにもかかわらず、このような細やかさを忘れないのは、リオネルの美点といっていいだろう。背後に控えるベルトランには、真似できないものだった。


「アベルは、イシャスが来るまえからずっと不安そうだった」


 エレンは長い睫毛を伏せる。


「そして、ここへ着いてすぐエレンが体調を壊すと、アベルは必死でイシャスの面倒を見た。想像してみてほしい。アベルはまだ十五歳で、子供の面倒を見ることに慣れていない。それでもあんなに――がむしゃらなほど懸命に面倒を見ているのは、あの子がイシャスを愛しているからだと、おれは思う」


 眠るイシャスの妨げにならないよう、リオネルは静かに話す。


 子供が眠る部屋には穏やかな時間が流れており、イシャスの寝息が、リオネルの言葉の合間に聞こえてきた。


「それに……どんな理由があるにせよ、腹を痛めて産んだ子供が、自分以外の者を母親だと信じている――そのことが、母親にとって辛くないはずがあるだろうか」

「…………」

「けれどアベルはあえてイシャスを、エレンのもとに残した。それは、アベルがイシャスの真の母親だからではないだろうか。自分のもとでなくともかまわない。だれのもとであっても、イシャスが幸福であってくれたらいいと願っているから――違うかな」


 エレンは黙ってうつむいている。


「たしかにアベルは、かつて子供を愛していないと言った」


 背後に控えるベルトランも、言葉を発せず、ただリオネルの考えを聞いていた。


「だが、イシャスをエレンに任せていたのも、イシャスを厳しく叱るのも、すべて愛情からくるものなのではないだろうかと、おれは思うんだ」

「……わたしにはわかりません」


 突き放すような口ぶりで、エレンは答える。


「そうだね」


 と、リオネルはかすかにほほえんだ。


 エレンのなかには消化しきれない感情があるのだろう。それは、ジュストによって吹聴された噂によるところもあったが、エレン自身の葛藤でもあった。


 ――母親の代理としての立場。

 自分は本当の母親にはなれない。こんなにイシャスを大切に思っているのに。

 アベルは血のつながった母親であるにもかかわらず、自らの命を大切にせず、イシャスのことは面倒見切れないうえに、きつく叱ってばかりいる。

 この状況に、エレンが気持ちを乱すのもいたしかたのないことだった。


「きみが言ったとおり、アベルは逃げているのかもしれない」


 エレンは顔を上げた。

 意外な言葉だったからだ。


「イシャスからも、自分からも」

「……自分から?」

「イシャスを愛しているという、自らの気持ちからだ」


 返す言葉が見つからず、エレンはリオネルの顔を見つめていた。


「子供を愛していないと口にしたときの、母親の痛みが、おれには想像できない」


 ――それはひどく苦しいに違いないから。


 心のなかでどれほどの血を流しながら、その言葉を口にするのだろう。

 愛せないのではない。我が子を愛していない、と言わなければならないほどの苦しみが、アベルにはあるのだ。


「だれが正しいとか、なにが間違っているとか、そういうことを言うつもりはない」


 長居はしないという気配を漂わせつつ、リオネルは最後に言った。


「イシャスの面倒を見てくれて、エレンには本当に感謝している。アベルもおそらく同じ気持ちだ」


 風が、優しくカーテンを揺らす。

 幼子が、小さな寝台で眠る。

 そのあどけない寝顔。


「アベルは今後、エレンの気持ちを乱すことはけっしてしないだろうと思う。交代でイシャスの世話をする者をあと数名つけるから、エレンは自分の身体の様子を見つつ、イシャスとゆっくり過ごしてくれ」


 イシャスの寝顔を見ていれば、小さな声で口ずさむ子守唄が、どこかから聞こえてくるようだった。


「アベルは――」


 気がついたときには、エレンは声を発していた。


「――アベルは今、どうしていますか?」


 部屋を去ろうとしていたリオネルが振り返る。

 なにかを測ろうとするようにエレンを見つめてから、リオネルは答えた。


「仕事に精を出しているようだ」

「そう……ですか」


 力が抜けたように、エレンはつぶやく。


 リオネルが口にした言葉の意味が、エレンには漠然と理解できた。それはエレンを、ひどく割り切れない気持ちにさせた。








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