21
シャルム西方で噂されていたレオンは、王宮の庭で大きなくしゃみをしていた。
「風邪を召されましたか、殿下」
問われてレオンは顔をしかめる。
「いや、どこかでだれかが、おれの話でもしているに違いない」
「だれでしょう」
「そこまではわからないが……まあどうせディルクあたりが、おれの悪口でも言っているのだろう」
レオンの言葉を聞き、おかしそうに笑ったのは、シャルム正騎士隊隊長シュザン・トゥールヴィルである。
「その後、お身体の調子はいかがですか」
初夏の花々が、短い命を燃やすように咲き乱れる花壇のなかを、二人は歩いていた。
……甘い香りは、薔薇か、百合か。
風は涼やかで、庭園には多くの貴族らの姿が見受けられた。
王子という立場にあるものの、レオンは近衛兵らを伴ってはいない。シュザンひとりで、百人の兵士にも勝る。あえて供をつける必要はなかった。
「おかげでもう完全に回復した。シュザンには世話になったな」
「いいえ。私ではなく、貴方の窮状を知らせた……ええと、レオン王太子の幽霊のおかげでしょう」
かつてレオンが主張していたことを否定するわけにいかず、シュザンはしかたなく「レオン王太子の幽霊」と述べた。けれど、レオンのほうは、とうにその正体を知っていたので、シュザンの言葉に苦笑する。
「違うんだ、シュザン。気を使わせて悪かったな。あれは、リオネルの家臣だったのだ」
「は?」
唐突に真実を告げられ、シュザンは面食らった。あれほど幽霊説を唱えていたのに、いつのまに生身の人間だということになっていたのか。
「ベルリオーズ家の者だった、ということですか?」
「シュザンにはまだ伝わっていなかったのだな。すまない。弓を放ったのは、アベルだったんだ」
「アベル……」
「知っているだろう?」
「はじめて耳にする名です」
「それは意外だな」
リオネルの叔父というだけではなく、ベルトランとも親しいシュザンであるから、当然アベルのことは聞いているものとレオンは思っていた。
「ベルトランの従騎士をしていて、剣術にも弓術にも優れた十五歳の少年だ」
「その従騎士は、どうやって貴方の窮地を?」
「煙突にいたからだ」
怪訝な面持ちになるシュザンに、レオンは確認する。
「リオネルを毒杯から救った者がだれか、聞いているだろう?」
「マチアス殿が陰謀を知り、解毒剤を手渡したと」
「そのマチアスに情報を伝えたのが、アベルだ。彼は煙突掃除夫になりすまして宮殿に入り込み、各所を偵察していたらしい」
「――なるほど」
しばらく考え込むと、シュザンはつぶやいた。
「煙突を通じて諜報活動をするという方法は、考えもつきませんでした」
「身体の大きい者にはできないからだろう。煙突に入れるのが子供だけだからこそ、だれも煙突などに間諜がいるとは思わない」
「十五歳の男児が、煙突などに入れるものでしょうか」
「アベルは細身だから」
説明を聞き終えると、納得したのかどうか曖昧な様子でありながらも、シュザンはうなずく。
「あれほどの腕を持つ少年なら、将来が楽しみですね。私も一度会ってみたいものです」
「ああ、アベルは素晴らしい騎士になるだろう」
遥かベルリオーズ領にいる甥に、シュザンは思いを馳せる。遠くから守ることしかできないシュザンにとっては、リオネルの周囲に頼もしい家臣がいることは、なによりもありがたいことだった。
「そういえばシュザン」
庭園をゆっくりと散策しながら、レオンは急に思い出したように尋ねる。
「この王宮内で、頻繁に温室の脇を通りかかる若い騎士などいるだろうか?」
質問されたシュザンは軽く咳払いをした。
「なんのお話でしょう、殿下」
「知り合いの少年が、温室のあたりで、見ず知らずの若者に剣術の手解きを受けているという。随分変わったやつが、この王宮にもいるものだと思ってな」
再びシュザンは気まずそうに咳払いをした。
「知っているのか」
「さあ、だれでしょう」
「……ん?」
「なんですか?」
「まさか――」
信じられないという面持ちで、レオンはシュザンを見やった。
「おまえか、シュザン」
シュザンは無言だった。
「…………」
レオンもしばし黙す。
二人はしばらくそのまま無言だったが、その沈黙に耐えかねてシュザンはとうとう白状した。
「……私です、殿下。驚くほどがむしゃらに剣を振るっていたので、声をかけてしまいました」
「別におれは咎めていないぞ。だが、相手がだれか知っているのか?」
「存じ上げません」
再びレオンは驚いた様子でシュザンを見やった。やはり自分の周囲には、個性の強い者ばかりが集まると、レオンはあらためて実感する。
「互いに知らないまま稽古をしていたのか。変なやつらだな」
「名乗らなかったのは、少年のほうが、身元を明かすことを拒絶していると感じたからです」
カミーユの顔を思い出しながら、レオンは考えこむ。彼が身元を明かさず、そして相手のことも知りたがらない理由が、レオンには少しばかり想像できた。
「そういうことなら、おれもなにも言わないでおくことにしよう」
「そうしていただけると助かります」
国王派に属するか、王弟派に属するかというだけで、敵か味方か明白に別れてしまう。
逆に、なにも語らなければ、個々の人間どうしの関係でいられる。その気軽さは、この王宮では――いや、今のシャルムにいるかぎり、なかなか味わえないものだ。シュザンもカミーユも、同じ思いでいるだろうことを、レオンは察する。
「ただ、このまま剣を教え続けるなら、最後まで立場は明かさないほうがいいだろう」
「承知しています」
「おまえに稽古をつけてもらっていることを、嬉しそうにおれに話していた。まっすぐで純粋なやつだ。よろしく頼む」
「……かしこまりました」
純粋な気持ちから生じたささやかな交流など、この王宮においては、簡単に踏みにじられてしまう。それを守るためには、多くを語らないほうがよい。そのことを二人ともよく理解していた。
「もうすぐリオネルの誕生日だな」
「覚えていらっしゃいましたか」
二人のあいだを、心地よい風が吹き抜けていく。
「いちおう従兄弟だからな。今年は直接祝えないから、酒でも届けさせるかな」
「とても喜ぶと思います」
「ディルクあたりは、ベルリオーズ邸に押しかけるに違いない。またマチアスが苦労することだろう」
ちらとレオンの横顔を見やったシュザンは、そこに憂いの色がないことを少し意外に思った。長いあいだ共に過ごした友人と離れていることは、さぞや寂しいことだろうと思ったからだ。
けれど淡々とした様子は、レオンらしいといえばレオンらしい。
寂しくないわけではないだろう。けれど、不思議な落ち着きと強さをレオンは持っていた。
シュザンは空を見上げる。
抜けるような晴天が、そこには広がっていた。
+++
風が、優しくカーテンを揺らしている。
小さな声で口ずさむ子守唄。
静かな歌声に安堵し、子供は呼吸を深くする。
幼子の瞳は閉じかけては、眠りを拒むがごとく開かれる。けれど、次第に閉じている時間は長くなり、ついに瞳は開かなくなった。
子供が眠りについても、子守唄はしばらくやまない。
静かな歌声だけが存在感を示すこの場所に、ひとりの青年が訪れた。
その顔を見て、女性はやや気まずそうに、子守唄を口ずさむのをやめて立ち上がる。
眠りについた子供を気遣い、青年は小声で尋ねた。
「落ち着いたか」
青年が、落ち着いたかどうかと尋ねたのは、眠りについた幼子のことではない。歌を口ずさんでいた女性――エレンについてだった。
エレンが、イシャスのことでアベルを責めたのは昨日のこと。
リオネルはエレンを彼女の自室へ送り、それから頃合いを見計らって、イシャスを彼女のもとへ連れて行った。そうすることが、エレンだけではなく、今はアベルのためにも最善の道だと判断したからである。
けれど、それは「最善の道」であるというだけであり、アベルが本当に望むことかどうか、リオネルにはわからなかった。
たしかにアベルには余裕がない。イシャスの面倒を見ているときのアベルは、精神的にも手いっぱいになっているように見受けられた。
けれど……。
子を産んだ母の気持ちというものは、男であるリオネルにはわからない。
子供の気持ちもまた然り。
エレンを「ママ」と呼ぶイシャス。けれど、イシャスの本当の母親はアベルだ。
血のつながりが人間にもたらすものを、リオネルは計りきれずにいた。
「昨日の非礼をお許しください」
深々と頭を下げるエレンに、リオネルはそっと首を横に振ってみせる。
「いいんだ。エレンの気持ちも理解してやれず、すまなかったと思っている」
「いいえ、わたしはベルリオーズ家に仕える者です。主から申し付けられた仕事は、口答えせずにただ励むべきなのです。それを、あれこれと無作法なことを申し上げました」
「謝らなければならないきみの立場もわかるが、そんなふうに言わないでほしい。口にしてもらうことで、エレンが抱くイシャスへの思いはしっかりと伝わったのだから。エレンに深く愛され、守られているイシャスは幸福だと思う」
穏やかなリオネルの声音に、安堵とも感動ともつかぬ思いがこみあげ、エレンは目尻を指先でぬぐった。昨日は立場をわきまえない態度でリオネルのことも責めたのに、このような言葉をかけられれば、心が動かないはずがない。
「ただひとつだけ、おれの考えも聞いてほしいと思って、今日は来たんだ」
「……アベルのことですか?」
わずかな間を置いて、そうだ、とリオネルは答えた。
「今からおれが言うことを、アベルを甘やかしているからこそ出た言葉だと思うなら、本当にそうなのかもしれない。そのときは、聞き流してくれていい」
「…………」
「今、話してもかまわないだろうか」
確認されて、エレンはうつむいたまま了承する。
短く礼を述べてから、リオネルは話しだした。
女中を相手にしているにもかかわらず、このような細やかさを忘れないのは、リオネルの美点といっていいだろう。背後に控えるベルトランには、真似できないものだった。
「アベルは、イシャスが来るまえからずっと不安そうだった」
エレンは長い睫毛を伏せる。
「そして、ここへ着いてすぐエレンが体調を壊すと、アベルは必死でイシャスの面倒を見た。想像してみてほしい。アベルはまだ十五歳で、子供の面倒を見ることに慣れていない。それでもあんなに――がむしゃらなほど懸命に面倒を見ているのは、あの子がイシャスを愛しているからだと、おれは思う」
眠るイシャスの妨げにならないよう、リオネルは静かに話す。
子供が眠る部屋には穏やかな時間が流れており、イシャスの寝息が、リオネルの言葉の合間に聞こえてきた。
「それに……どんな理由があるにせよ、腹を痛めて産んだ子供が、自分以外の者を母親だと信じている――そのことが、母親にとって辛くないはずがあるだろうか」
「…………」
「けれどアベルはあえてイシャスを、エレンのもとに残した。それは、アベルがイシャスの真の母親だからではないだろうか。自分のもとでなくともかまわない。だれのもとであっても、イシャスが幸福であってくれたらいいと願っているから――違うかな」
エレンは黙ってうつむいている。
「たしかにアベルは、かつて子供を愛していないと言った」
背後に控えるベルトランも、言葉を発せず、ただリオネルの考えを聞いていた。
「だが、イシャスをエレンに任せていたのも、イシャスを厳しく叱るのも、すべて愛情からくるものなのではないだろうかと、おれは思うんだ」
「……わたしにはわかりません」
突き放すような口ぶりで、エレンは答える。
「そうだね」
と、リオネルはかすかにほほえんだ。
エレンのなかには消化しきれない感情があるのだろう。それは、ジュストによって吹聴された噂によるところもあったが、エレン自身の葛藤でもあった。
――母親の代理としての立場。
自分は本当の母親にはなれない。こんなにイシャスを大切に思っているのに。
アベルは血のつながった母親であるにもかかわらず、自らの命を大切にせず、イシャスのことは面倒見切れないうえに、きつく叱ってばかりいる。
この状況に、エレンが気持ちを乱すのもいたしかたのないことだった。
「きみが言ったとおり、アベルは逃げているのかもしれない」
エレンは顔を上げた。
意外な言葉だったからだ。
「イシャスからも、自分からも」
「……自分から?」
「イシャスを愛しているという、自らの気持ちからだ」
返す言葉が見つからず、エレンはリオネルの顔を見つめていた。
「子供を愛していないと口にしたときの、母親の痛みが、おれには想像できない」
――それはひどく苦しいに違いないから。
心のなかでどれほどの血を流しながら、その言葉を口にするのだろう。
愛せないのではない。我が子を愛していない、と言わなければならないほどの苦しみが、アベルにはあるのだ。
「だれが正しいとか、なにが間違っているとか、そういうことを言うつもりはない」
長居はしないという気配を漂わせつつ、リオネルは最後に言った。
「イシャスの面倒を見てくれて、エレンには本当に感謝している。アベルもおそらく同じ気持ちだ」
風が、優しくカーテンを揺らす。
幼子が、小さな寝台で眠る。
そのあどけない寝顔。
「アベルは今後、エレンの気持ちを乱すことはけっしてしないだろうと思う。交代でイシャスの世話をする者をあと数名つけるから、エレンは自分の身体の様子を見つつ、イシャスとゆっくり過ごしてくれ」
イシャスの寝顔を見ていれば、小さな声で口ずさむ子守唄が、どこかから聞こえてくるようだった。
「アベルは――」
気がついたときには、エレンは声を発していた。
「――アベルは今、どうしていますか?」
部屋を去ろうとしていたリオネルが振り返る。
なにかを測ろうとするようにエレンを見つめてから、リオネルは答えた。
「仕事に精を出しているようだ」
「そう……ですか」
力が抜けたように、エレンはつぶやく。
リオネルが口にした言葉の意味が、エレンには漠然と理解できた。それはエレンを、ひどく割り切れない気持ちにさせた。