20
デュノア邸を訪問してから三日が経つ。
シャンティの身に起こった痛ましい事実について、ディルクは父親であるアベラール侯爵にはなにも告げなかった。事実を知れば、アベラール侯爵はおそらく心を痛め、アンリエットとの約束を破った自分自身を責めるだろうからだ。
苦しむのは、自分ひとりで充分だ。
――そうディルクは考えていた。
淡々としたディルクの態度からは、周囲の者はなにも気づかない。ただマチアスだけは主人の心のうちにある苦しみを理解していた。
そんなマチアスが、アベラール侯爵の書斎に書類の束を持ってきたのは、昼前のことであった。
「ディルク様が処理されたもので、侯爵様のご署名が必要なものです」
要領よく書類の中身を説明し、マチアスは部屋を去ろうとする。
その後ろ姿へ、アベラール侯爵は声をかけた。
「マチアス」
振り返ったときの表情が、彼女によく似ていると感じたのは、あの人物がここを訪れる日が近いからかもしれない。
マチアスは二十一歳……。
二十一年もの歳月が流れたということだ。
立派な若者に成長したと、侯爵は思った。
「はい、侯爵様」
「以前からそなたには言っておこうと思っていたのだが」
いったん言葉を区切り、そして侯爵はマチアスの表情をうかがうように告げる。
「ヴェルナ侯爵の来訪が決まった。今月後半になるだろう」
わずかに表情が動いたようだったが、マチアスは常の冷静な態度を崩さなかった。
「さようでございますか」
「おまえの顔を見たいそうだ」
黙すマチアスに、アベラール侯爵はなるべく淡々とした口調で続けた。
「会いたくないなら会わなくてもかまわない。なにか言い訳はこちらで考えよう」
淡々とした口調であったが、それがアベラール侯爵の気遣いであり、優しさであることをマチアスはよく承知している。
「お気遣い、感謝いたします」
マチアスは頭を下げた。
「けれど、私はあのお方となんの関係もございません。会っても会わなくても、同じことです」
「向こうは、そうは思っていないだろう」
「いいえ、必ず同じお考えでおられるはずです。私などに会いたいなどというのは、ただの気まぐれに違いありませんから」
それ以上語る言葉を探すことができず、アベラール侯爵はマチアスの退出を許可した。
息子のディルクには、事前にこの話を知らせてある。ヴェルナ侯爵が来訪すると聞くとディルクは、「あんな男を、この館に入れてやる必要はない」などと苛立っていた。
丁寧に一礼して部屋を辞すマチアスを眺めていると、アベラール侯爵はひとりの女性を思い出さずにはおれなかった。
よく磨かれた銅貨のようにつややかな、赤銅色の髪。
不思議な魅力を秘めた黒い瞳。
赤銅色の髪は息子に受け継がれなかったが、マチアスの漆黒の瞳は間違いなく母親譲りである。マチアスの母の名を、ルシールといった。
アベラール侯爵夫人の侍女であった娘だ。
ルシールがはじめて館に来た日のことを、アベラール侯爵はよく覚えている。
両親を失った哀しみをおくびにも出さず、背筋をしゃんと伸ばし、こちらを見つめていたあの強い眼差し。
そのときルシールはまだ十二歳という幼さだった。
彼女はもともと、アベラール邸に出入りしていた商家の娘だったが、不慮の事故で両親ともに他界し、十二歳で孤児となった。
そのまま孤児養育院へ引きとられる運命であったはずの彼女が、それを免れたのは、顔見知りであった者の親族ということもあり、アベラール侯爵がルシールを下働きとして引きとったからだった。
ルシールはよく働く娘だった。口数は少ないが、真面目で器量もよく、アベラール侯爵夫人に見初められて十六歳で侍女に取りたてられた。
貴婦人の侍女というものは、本来なら少なくとも貴族の端に連なる者でなければならない。けれど、商家の娘であったルシールがその仕事に就くことができたのは、大きな幸運と、アベラール侯爵夫人のこだわりのなさ、そしてルシール自身の努力と魅力の賜物だった。
公爵夫人の侍女となったルシールは、活き活きとして、充実した毎日を送っていた。
けれど、彼女の幸福が崩れ去ったのは十九歳になったときのこと。
夏――社交の季節に、ひとりの領主がアベラール邸を訪れた。
ヴェルナ侯爵である。
彼はルシールの美しさに惹かれ、宴が終わり、皆が寝静まった真夜中に言葉巧みに近づき、彼女を抱いたのだ。
ルシールの本心はわからない。けれどヴェルナ侯爵にとってその夏の数日間は所詮遊びであったのだ。ルシールは、そのことをだれにも告げず――いや、沈黙することでなにかを守ろうとした。
束の間の夏が去り、秋が訪れ、ルシールは自らが孕んでいることを知る。
秋に落葉した木の葉を、冷たい雪が覆うころ、周囲もまたそのことに気づきはじめた。最初に気がついたのは、アベラール侯爵夫人だ。
父親がだれであるかを明かさぬまま、周囲が止めるのも聞き入れずに、ルシールは働きつづけた。そして臨月になったある日、ルシールはアベラール邸を密かに去ったのだった。
失踪した彼女を、アベラール侯爵夫妻は懸命に探した。
しばらくしてルシールが見つかったのは、アベラール領最大の都市セレイアックの街外れ――だれも住んでおらぬ粗末な掘っ立て小屋のなかだった。
アベラール邸に連れ戻されたものの、ルシールの衰弱は甚だしかった。
なぜ館を出たのだと嘆く周囲に、ルシールは「お世話になったアベラール侯爵様並びに侯爵婦人様にご迷惑をおかけするわけにはいかないのです」と答えるばかりである。
ついに赤ん坊を出産したが、ルシールにはもう生きる力は残されていなかった。
『かわいい……わたしの赤ん坊』
頭のすぐ横に置かれた赤ん坊を見て、ルシールはつぶやいた。
『……ご領主様、私は勝手に館を出た者です。赤ん坊をひとりで育てていこうと思っていました。けれど、このような身体になってしまった今、わたしにはもうこの子を育てることはできません。厚かましい願いと知りつつ、どうかわたしの赤ん坊を、ここで育ててはくださらないでしょうか……』
『もちろんだ、なにも心配するな』
答えたアベラール侯爵を、侯爵夫人リゼットはきつく睨みつける。
『違うでしょう、あなた。ルシールは生きて、自分の手でこの子を育てるのです。わたしたちと共に』
妻の言葉に、侯爵はやや慌てて『ああ、そのとおりだね』と答えた。
そんな夫君にかまわず、リゼットはルシールに向きなおる。
『あなたが育てなくてだれが育てるの、しっかりしなさい』
ルシールはかすかにほほえみ、うなずく。
その様子を目にし、リゼットは涙を禁じ得ず、それをごまかすように尋ねた。
『生まれてきた子供に、名前はつけたの?』
『……マチアス。この子の顔を見ていたら、マチアスという名が思い浮かびました』
マチアスという名が、ルシールが赤ん坊に授けることのできた唯一の贈りものだった。
『マチアス、愛しているわ。愛してる……』
力なく、だが、繰り返し――繰り返し同じ言葉を赤ん坊に投げかけながら、ルシールは息を引き取った。
マチアス、愛してる――。
二十歳のルシールの死。
それはアベラール家のだれにとっても、言葉に尽くせぬほど哀しい出来事だった。
赤ん坊の父親は、ずっとわからないままだった。
頑ななまでにルシールが父親の名を語らなかったのは、後にアベラール家とヴェルナ家のあいだにわずかにでも反目の種になるものを残したくなかったからだろう。それは、彼女なりの責任感であり、切なる願いでもあった。
けれど、彼女の願いは儚いものだった。
『あの赤毛と黒い瞳の侍女は、息災ですかな』
マチアスが十歳になったころのことだった。
社交の季節に、ヴェルナ侯爵は再びアベラール邸を訪れた。
宴の場で、彼はリゼットの周囲を見渡し、そして尋ねたのだった。
――あの黒い瞳の侍女は息災か、と。
『ルシールのことでしょうか』
問い返すリゼットが不穏な空気を纏ったのは、直感と呼ぶべきものであったかもしれない。
『ええ、彼女です』
『ルシールは産後すぐに亡くなりました』
その言葉を聞いたヴェルナ侯爵は、一瞬衝撃を受けたような面持ちになり、それから落胆とも悲嘆ともつかぬ様子でしばし黙していた。
なにを期待していたのか――、彼自身にもわからなかっただろう。
『それは……気の毒なことです。あのような美しい女性を妻に迎えた男は、どなたですかな?』
『ルシールは結婚しておりません』
ぴしゃりとリゼットは答える。
そのときヴェルナ侯爵の顔に浮かんだ驚きの色は、そしてその表情が示す真実は、だれの目にも明らかなものだった。
『赤ん坊は……その侍女が産んだ子は、今どこにいるのですか』
尋ねるヴェルナ侯爵の声は、彼自身にも理解できぬ感情から震えている。
返事の代わりにリゼットがヴェルナ侯爵を睨み返したそのとき、ちょうど宴の場に、自分より三つ年下のディルクを連れた十歳のマチアスが現れた。
ヴェルナ侯爵には、すぐにわかったのだろう。
『その子は――』
立ちあがり、マチアスのもとへ歩み寄る。つられてリゼットも立ちあがったが、アベラール侯爵に手を抑えられる。
貴族らが囲む食卓のそばにある扉近くでは、マチアスがディルクを背後に守るようにしながら、警戒心を込めた瞳で目前のヴェルナ侯爵を見返していた。
『そなた、名をなんと言う』
『私……ですか?』
主人であるディルクではなく、自分の名を問われたことに、マチアスはやや戸惑っているようだ。
『ああ、そなただ』
『……マチアスです』
『その瞳の色……おまえがルシールの子か』
マチアスは黙っていた。
『私の子か』
ぽつりとつぶやかれたヴェルナ侯爵の言葉に、その場の空気は固まった。
宴の音楽が流れている。
会場では、着飾った男女による優雅な踊りが繰り広げられている。
けれど、ヴェルナ侯爵を睨みつけるマチアスの視線だけは、その場の雰囲気とは似つかわしくないものだった。
自らの母親の運命を、マチアスは周囲から聞かされて知っていた。そして、自らの父親が何者かを、このときマチアスは初めて知ることとなった。
『こちらへ来なさい』
ヴェルナ侯爵はマチアスの肩を引き寄せようとする。
『マチアスと呼ばれているようだが、もっとふさわしい名前を授けよう。父の顔も母の顔も知らずに育ったとはかわいそうなことだ。私が父だ。こちらへ来なさい』
布巾を握りしめるリゼットの手が思わず震えた。
『その子は……ルシールは――っ』
リゼットはなにかを言いかけたが言葉が続かない。すると次の瞬間、マチアスは文句のつけようがないほどの丁寧さで、ヴェルナ侯爵に向かい頭を下げていた。
『私の父と母は遠い昔に亡くなりました。どなたか人違いをされているのではないでしょうか。お心遣いは感謝いたしますが、憐れみは無用です』
ヴェルナ侯爵を苛立たせたのは、言葉の中身よりも、丁寧すぎるその態度だったかもしれない。年端もいかぬ少年が――それも、血の分けた子供が、このように突き放した態度をとったのだから。
それは完全なる拒絶であり、ヴェルナ侯爵にとっては失意と屈辱以外のなにものでもなかった。
『生意気な子だ。私がせっかく父であると認めたというのに』
『だれが認めても、私は認めません』
はっきりとマチアスは言う。その言葉に、ヴェルナ侯爵は激昂した。
『口を慎め!』
手を振り上げた瞬間、リゼットは小さな悲鳴を上げる。
マチアスは微動だにしなかった。
けれど、次の瞬間マチアスが咄嗟に動揺を示したのは、目前にひとりの人物が立ちはだかったからだった。
――ディルクである。
『だめだ! マチアスにひどいことをしたら許さない!』
アベラール侯爵家の嫡男に手を上げるわけにはいかず、ヴェルナ侯爵は振り上げた手のやり場をなくして固まる。
直後にアベラール侯爵の声が響いた。
『ヴェルナ侯爵殿、相手は子供です。乱暴はおやめください』
彼らの周辺は静まり返っていたが、会場内は依然として軽やかな楽曲が流れている。その落差が、滑稽なほどで……。
我に返ったのか、ヴェルナ侯爵はひとつ咳払いをすると、自席に戻った。
挨拶が済んだら部屋に戻るように言われたマチアスは、アベラール侯爵によってディルクがひととおり来客らに紹介されると、共に会場を辞したのだった。
マチアスがヴェルナ侯爵の子供であるということは、だれにとっても予想外のことだった。
ルシールとヴェルナ侯爵のあいだになにがあったのか。
なぜルシールは頑なに父親の名を明かさなかったのか。
皆が理解したのである。そしてルシールが懸念したとおり、ヴェルナ侯爵に対する憎しみはアベラール侯爵夫妻にとっては抑えがたいものとなった。
けれど、ルシールが自らの命を犠牲にしてまで願ったこと。それは自らがけっしてアベラール家と他家のあいだの火種になってはならないということである。
そのことを理解していたからこそ、アベラール侯爵夫妻は、ヴェルナ侯爵を面と向かって糾弾するような真似はしなかった。
ヴェルナ侯爵は来訪直後に、一度だけアベラール家に対し、密かにマチアスを自分のもとで住まわせたいと申し出た。むろん自分の子であるとは表立って言えないため、自らの「侍従」として引き受けたいと言ってきたのだ。
その申し出を、アベラール侯爵は丁重に断った。ヴェルナ家にはすでに跡継ぎの子供がいる。今更マチアスを手元においてどうするつもりなのか、まったく彼の意図が見えてこない。
ルシールが生んだ赤ん坊を、リゼットは自らの子供たちの遊び相手――特に、末の子であり嫡男ディルクが生まれてからは、その目付け役として育てた。それは、ルシールへの愛情であり、彼女を最後まで守ってやれなかったことに対する、リゼットなりの罪滅ぼしだったのかもしれない。
当のマチアスはディルクの面倒をよく見ていたし、なによりもディルクをはじめ、アベラール家の皆がマチアスを慕っていた。ヴェルナ家などにやるつもりは、アベラール侯爵にはまったくなかったのだ。
それ以来ヴェルナ侯爵はマチアスを引き取りたいとは明言せず、だが、時折アベラール邸を訪ねてきては子供の顔を見ようとした。
けれどヴェルナ侯爵が来訪するたびに、ディルクはマチアスを連れてどこかへ行ってしまい、けっして二人を会わせようとはしなかった。
七歳という年齢だったが、幼いながらにディルクはヴェルナ侯爵がマチアスに手を上げようとしたことをよく覚えており、さらに侯爵がマチアスを連れていこうとしていることを察していたのだ。
かくして長いこと、ヴェルナ侯爵とマチアスは顔を合わせていなかったのだが。
今回、ヴェルナ侯爵はアベラール邸来訪に際して、マチアスの顔が見たいとはっきりと事前に伝えてきた。
こうなれば、マチアスを会わせないわけにはいかない。
アベラール侯爵は気が重いような気はしたが、しかたがなかった。マチアスもすでに立派な若者に成長しており、自らの未来は、自らの決断と才覚によって切り開くべきときがきている。
二十一年前にこの世を去ったルシールのことを思い出しながら、アベラール侯爵は目の前の書類を眺めるともなく眺めていた。
書斎に戻ってきたマチアスを、ディルクはちらと見やる。
けれどマチアスは普段と変わらぬ様子で、引き続き自らの仕事を始めた。このままではなにも聞き出せそうにないので、ディルクはしかたなく切り出す。
「なにか父上に言われたか?」
顔を上げ、マチアスは主人のほうを向いた。
「なにか――とおっしゃいますと」
「……ヴェルナ侯爵のこととか」
そのことですか、と、なんでもないような顔で、マチアスは再び自らが振り分ける書類に視線を落とす。
「うかがいました」
「どうするんだ?」
「どうすると言われましても、どうにもしません」
「どうにもしないと言ったって、どうにもならないともかぎらないじゃないか」
「では、どうなると思われるのです?」
「どうって――」
聞き返されて、ディルクは返答に迷う。一方、主人を困らせるつもりのなかったマチアスは、すぐに言葉を続けた。
「なにもありませんよ。ヴェルナ侯爵に会っても会わなくても、私はアベラール家の家臣であり、貴方の従者です」
「…………」
「ご不満ですか?」
黙っているディルクに、マチアスはさらりと尋ねる。
慌てて返事をしたのはディルクだ。
「不満とかじゃなくて……まあ、いいや」
話題を打ち切り仕事の続きを再開しようとするが、どうしてもディルクは集中することができなかった。
嘆願書の字面だけをただ目で追っていると、マチアスの声が投げかけられる。
「私の居場所は、貴方のおそばにしかありえません、ディルク様」
ディルクは顔を上げた。
漆黒の瞳がこちらをまっすぐに見つめている。
「命を賭してもいいと思えるような主人に仕えることは、私にとって、このうえない幸福です」
いつもは厳しいことばかりを言うマチアスが発した、突然の飾り気ない言葉に、ディルクは束の間言葉が出ない。
そしてようやく言われたことを咀嚼すると、再び嘆願書に視線を落としながら言った。
「おまえがそばにいてくれるのはありがたいが、命を賭すことは許さないぞ」
ディルクの不器用な言い方に、マチアスはかすかにほほえむ。
「貴方を残しては、不安で死にきれませんよ」
返ってきた台詞に、ディルクはややむっとして従者を見やった。
「いったい、おれのなにが不安なんだ?」
「私がいなくなれば、レオン殿下あたりが、大変なご苦労をされると思いますから」
従者の指摘に怒るかと思いきや、ディルクは遠い場所にいる友人を思い浮かべてふっと苦笑した。
「たしかに、おまえが死んだら、おれの次にレオンが哀しむだろうな」
「長生きをしなければなりませんね」
「よろしくたのむよ、マチアス」
二人はそれぞれ書類に向き合い、小さく笑った。