19
想定していなかった質問に対し、ボドワンは歯切れ悪く答える。だがそれが許されるような相手ではなかった。
「思い出せ」
「ええ……そうですね、たしか――」
ぶつぶつ言うボドワンが、あわや看守から拳を見舞われそうになったとき。
「ベルリオーズとか言っていたようです」
答えたのは妻ナタリーだった。
はっとしてボドワンが妻を見やると、そこには見慣れぬ表情が浮かんでいる。
「貴族様、ええ、イシャスはベルリオーズから来たと聞いています」
ナタリーの両頬は朱に染まり、両眼にはたしかに憧憬と呼ぶべき色が浮かんでいた。完全に貴族の若者に心を奪われているようである。
「ベルリオーズ……」
若者がつぶやく。
ボドワンの背中をいやな汗が流れた。
「……ベルリオーズか」
なにやら考えこみながら再び若者がつぶやく声が、ボドワンには、ひたひたと近づく死神の足音のように聞こえる。
それから不意に、冷たい青灰色の瞳がボドワン夫妻を見やった。
「イシャスは、なにか変わったところはなかったか」
「いえ特には――」
答えかけたボドワンの声は、ここぞとばかりにしゃしゃり出たナタリーにかき消される。
「あの子は、初めからおかしいと思っていたのです。浮浪児のわりに落ち着いていて、なにを考えているのか知れない不気味な雰囲気がありました。王宮で泥棒でもしようと考えていたのかもしれません」
ボドワン夫妻の回答に貴族の若者はうなずきもせず、これ以上有益な情報を引きだせそうにないと思ったのか、犬でも追い払うかのような軽い仕草で看守に合図した。もう二人を下がらせろという意味だ。
唐突な退去命令に、わけもわからぬままボドワンとナタリーは部屋を辞し、再び監房へ戻っていく。
看守とボドワン夫妻が去った部屋では、若者が長身の異国人を見上げて尋ねた。
「エフセイ、偽りは?」
「ほとんど真実でしょう、フィデール様」
エフセイと呼ばれた若者は淡々と答える。
「ほとんど、とは」
「彼はひとつだけ嘘をつきました」
「それは?」
「息絶えた少年を、ごみといっしょに燃やしたということです」
「息絶えたことか、もしくは、ごみと共に燃やしたということ――、どちらが虚言だ?」
「そこまでは私にも。あるいは両者共に虚言だった可能性もあります」
寵臣の返答に、フィデールは笑った。
「おもしろい。ボドワンは私に嘘をついたか」
これまでの話を総合すれは、次のようになる。つまり、ベルリオーズ領内の田舎町から王都へやってきた孤児が、ボドワンと出会い煙突掃除の仕事に就き、そして王宮で遭遇した貴族の少年をかばった。
不自然――といえば、不自然である。
彼がカミーユを守った理由が、依然としてわからないのだ。
しかし、ボドワン夫妻はイシャスの素性を知らぬようである。このことについて彼らが嘘をついていないことは、エフセイが認めたのだから疑いようのないことだ。
ならばこれ以上二人を追及しても、イシャスという十二歳の少年がカミーユをかばった理由はわからない。「ベルリオーズ」という言葉も気にならないわけではなかったが、今の時点では判断材料が他になく、そのなかで想像力をふくらませても所詮想像の域を出ない。
ただ、ボドワン夫妻がひとつだけついた嘘については、少なからず興味深いものがあった。
「息絶えたこと」が偽りであるなら、イシャスは生きている可能性があるということになる。
「ごみと共に燃やしたこと」が偽りであるなら、それを隠す理由はなんであろう。
どちらにせよ、二人がついた嘘はなにかしらの意味があるはずだ。
「ボドワンらとは、また近いうちに面会しよう」
すぐに再び会おうとしなかったのは、近頃機嫌の悪い主君ジェルヴェーズのそばを、長いこと離れるわけにはいかなかったからである。
――しかし、それは無用な心配だった。
フィデールが監獄塔の鉄門をくぐったとき、眼前に姿を現したのは、すでに最悪なまでに機嫌の悪い第一王子ジェルヴェーズであった。
+++
木漏れ日が揺れている。
光のもとで笑っているのはだれだろう。
カミーユ……?
いや、違う。
女の人だ。
光にかき消されそうなほど淡い色の髪が、揺れている。
優しい声が自分を呼んでいる。
行かなくちゃ――。
アベルは彼女の名を知らない。
けれど、夢のなかでたしかにアベルはその人の名を呼んでいた。
風に吹かれながら、彼女は両手を広げている。
必死でたどり着いたとき、細い腕に抱きしめられて、アベルは満ち足りたものを感じた。
なんという幸福感だろう。
――目覚めたくない。
どこまでが夢で、どこまでが現実なのかわからない。
アベルは無意識のうちに感じていた。
これは、夢だと。
目覚めたくない――、と。
けれど終わらぬ夢はない。幸福な夢も、悪夢も、いずれは終わる。そして瞳を開けたとき、そこにあたたかい現実が待っていてくれたなら……。
それは、どれほど幸せなことだろう。
アベルが切ないような感覚を抱いたまま目を覚ますと、そこには深い、深い紫の瞳があった。
束の間、自分がどこにいるのかわからない。ただ、そこが安心できる場所だということだけはわかっていた。
そして目の端をそっと拭われたことで、自分は泣いていたのだと知る。
「おはよう、アベル」
アベルはただ紫色の瞳を見つめた。
失いたくない幸福感が、そこにはあった。
「辛い夢を見ていたのか?」
問われて、アベルは答えを探すように間を置く。
そして、未だに夢を見ているような声で答えた。
「とても幸せな夢を見ていました」
「そうか、それならよかった」
心配そうだった顔に笑みを浮かべ、リオネルは再び流れたアベルの涙を拭う。
自分がなぜ泣いているのか、アベル自身にもわからなかった。
「リオネル様……?」
ようやく自らの置かれている状況を理解し、アベルの幸福感は揺らぎはじめる。
「わたし――」
なにか言いかけたとき、アベルの唇をリオネルの人差し指が塞いだ。
「おれが最後に話したことを覚えているか?」
しばしリオネルの瞳を見つめながら思い返してみるが、耳に残っているのは心地よい音としてのリオネルの声だけで、意味を伴った言葉はひとつも思い出すことができない。
小さく首を横に振るアベルに、リオネルは安堵したような――けれどわずかに落胆したような表情で、「そうか」とつぶやいた。
一方、徐々に現実感を取り戻しつつあるアベルが、現在の状況に冷静でいられるはずがなかった。
自分はあろうことか、リオネルの腕のなかで眠ってしまったのだ。仕える主人であり、王家の血を引くベルリオーズ家の嫡男の腕のなかで、しかも薄布一枚という姿で――。
身の程知らずとはこのことである。
慌ててリオネルの身体から離れると、アベルは耳まで赤くして謝罪した。
「ご、ごめんなさい。わたしは、リオネル様の腕のなかでずっと――」
すると、その反応を予期していたように、リオネルはそっとほほえみ、アベルの言葉を遮る。
「謝ることなんてなにもないよ。むしろ、謝らなければならないのは、おれのほうだ。怖い思いをさせてすまなかった。それに――」
サクランボのように赤らむアベルをまえに、リオネルは戸惑ったように視線を逸らした。
「――いや、なんでもない」
なにか言いかけたようだったが、リオネルはすぐにこの話題を打ち切り、そして逸らした視線を建物の窓へ向ける。
「嵐は去ったようだね」
今、窓から降り注いでいるのは雨や風ではなく、眩い白光。
かすかなラベンダーの香りと共に、鳥の歌声が流れこむ。
嵐は去った。
夏の嵐は突然に訪れ、そして去っていくが、嵐によって乱された心は、再び訪れた平穏にただ戸惑い立ちすくむ。
薪の火が消えかけている。傍らに並べてあった服を拾いあげ、リオネルがそれらの感触を確かめてからアベルに手渡そうとした。
「よく乾いている。よかった」
けれど、服を受けとるはずのアベルは、驚いたように建物の内部を見渡していた。
嵐が去り恐怖が去ったことで、アベルははじめて自分がいる場所に視線を向ける余裕を取りもどしたのだ。
「ここは……」
「そう――礼拝堂だよ」
リオネルが静かに答える。
これまで気がつかなかったが、ここは古い礼拝堂だった。
……古いといっても、並みの古さではない。数百年の歴史を感じさせるなにかが、この礼拝堂にはあった。
埃と砂を被った石の床。その上に、朽ちかけた木製の椅子が転がっている。民家よりも天井は高く、けれど、一般の礼拝堂より遥かに狭く、説教壇や告解室もない。
アベルが座っていた個所は、祭壇へ登るための石段だった。
祭壇の中心にあるのは、三人の女性の像――三美神。
建物の古さに比して、彼女たちは見えぬ力によって守られてきたように、美しい形をとどめていた。
「ご存じだったのですか?」
三美神を見つめたままアベルが問うと、リオネルはそっと祭壇へ近づく。そして答えた。
「行きたいところがあると言ったのは、ここだったんだ」
アベルはリオネルを振り返る。リオネルは先程までのアベルと同じように、三美神を見上げていた。
「ここへ?」
「ああ、ずっと昔に来たことがあって」
三美神の眼差しは強く、そして優しさと愛に満ちている。
リオネルは思い出す。
最後にここを訪れたときのことを。
あのときの祈りを――。
「美しい場所ですね」
つぶやいたアベルを、リオネルはそっと見やった。
「美しいと……アベルも、そう思ってくれるか?」
「ええ、それになぜだかとても落ち着きます」
視線を感じ、アベルもリオネルを見つめ返す。
顔を見合わせ、そしてわずかにはにかんだように二人は笑った。
「……こんなところで愛する人と、将来を誓いあたいと思っていた」
将来を誓う――それは、婚礼の儀式を行うということ。
アベルは驚き、尋ねた。
「シャサーヌの大聖堂ではなく?」
リオネルほどの身分であれば、シャサーヌのサン・テルシア大聖堂でも足りないくらいであるというのに。
「こんなことを言っては罰が当たるかもしれないけど。もちろん、サン・テルシア大聖堂も素晴らしい。けれど――」
三美神を見つめるリオネルの瞳は、アベルがかつて目にしたことのないような、少年の輝きを秘めていた。
「――だれも知らない教会で、だれも見ていない場所で、愛する人と二人だけで式を挙げたいと思った。恥ずかしながら、今も思っている」
振り返り、
「おかしいかな」
と、小さく笑うリオネルに、アベルは胸をしめつけられるような切なさを感じる。リオネルの思いは、アベルにも理解できるような気がした。
「いいえ、リオネル様。わたしにも、わかるような気がします」
アベルの返答に、リオネルは幸福そうにほほえみ、そして「ありがとう」とつぶやいた。
+
リオネルとアベルがベルリオーズ邸に戻ったのは、陽が沈み、西の空が落陽の残照に輝くころだった。
空気は清々しく、風が心地よい。馬に乗りラベンダー畑に行ったことで、アベルは自分が感じている以上に、気分転換をすることができたようだった。
けれど、ただひとつアベルにとって気がかりだったのは、イシャスのことである。
昼寝からはとっくに目覚めているはずだ。ベルトランが面倒を見てくれることになっていたが、アベルは不安でしかたがなかった。
そしてその不安が的中したとわかったのは、アベルの部屋でイシャスの相手をするベルトランを見た瞬間だった。
無敵の強さを誇る騎士の顔に、幾筋ものひっかき傷。ベルトランの表情は困惑しきっていた。
彼に傷を負わせることができる者は、今のところこの世でひとりしか思い当たらない。つまり、ベルトランが手加減せねばならぬほど未熟な相手である。
「ベルトラン」
さすがにリオネルも驚いたらしく、忠臣の名をつぶやく。
だが、主人ほど冷静でおれなかったのは、アベルだった。
「イシャス、なにをしたの」
現に今もイシャスは、遊んでいるのではなく、部屋中のおもちゃを壁に投げつけて癇癪を起こしているだけである。
「やめなさい」
叱るとイシャスは火がついたように泣きだした。
「あなたがベルトランの顔をひっかいたの?」
尋ねても返ってくるのは盛大な泣き声だけである。
「血が出たら痛いでしょ。わかる?」
「大丈夫だ、アベル。子供にひっかかれたくらい、痒くもない」
イシャスに言い諭すアベルへ、ベルトランはやや戸惑いながら告げた。
「それに、おれが子供に慣れていないせいもあったんだろう。もう少しうまく遊んでやれたらよかったのだが」
けれどアベルは、イシャスをこのままにしておくわけにはいかなかった。
物を壊すのはしかたがない。だが、人を傷つけたとなると、「しかたがない」ではすまないのだ。
「イシャス、どうしてひっかいたりなんかしたの。だめでしょう」
いくらアベルが言ったところで、イシャスは泣くばかりである。
男二人は、怒る母と泣く子をまえに、言葉が出ない。アベルの責任感の強さを知るだけに、安易に「まあまあ、アベル」とは言えない雰囲気なのだ。
イシャスの泣き声は館中に響きわたるようだった。
再び訪れた嵐のような状況に、さらなる暴風をもたらしたのは、体調不良から回復しつつあったエレンである。
エレンは、アベルが戻るより前からここを出入りしていたようで、ベルトランの顔の傷を手当しようと手に消毒液や布を持ってアベルの部屋に入ってきた。
けれど、室内で繰り広げられていた光景を目にして、エレンはなにかに耐えかねたように突然大きな声を上げた。
――イシャスにではなく、アベルに対して。
「悪いのはあなたでしょう、アベル!」
その場が静まり返ったのは言うまでもない。
いや、凍りついたといってもよい。
「あなたがいなかったからでしょう」
再びエレンは叫んだ。
「イシャスを叱るのは間違っているわ。わたしも体調を崩して、申しわけなかったと思ってる。でも、昼寝から目を覚ましたら、よく知らない身体の大きな強面の男の人がいて、子供が安心して遊べるわけがないでしょう。それなのに怒ってどうするの。イシャスの気持ちを察してあげて。あなたはただ頭ごなしに言葉をぶつけているだけ」
アベルは言い返すことができなかった。そのとおりだ。エレンの言うことは、正論である。
責任感が先立ち、イシャスの気持ちを理解しようとはしていなかった。
指摘されてはじめて気がつき、アベルは崖から落とされたような気持ちになる。
一方、ベルトランはこの場の雰囲気にやや気圧されつつも、エレンが口にした「よくわからない身体の大きな強面の男の人」という表現が、まったく気にならぬわけでもなかった。
「違うんだエレン、おれがアベルを無理に誘ったんだ」
割って入ったのはリオネルである。
女性二人のあいだに漂う、この独特の緊張感に気圧されないのだから、たいしたものだとベルトランは感心せずにはおれない。これもアベルへの愛ゆえであろうか。
「アベルはイシャスを残していくことをとても気にしていた。けれど、おれが共に来てほしいと無理に外へ連れていったんだ」
けれどこのときのエレンは、いつものエレン――つまり、ベルリオーズ家に仕える女中の顔ではなかった。
ひとりの子供を育てる養母の顔だった。
「リオネル様は、口を挟まないでください」
エレンがリオネルに対してこのような物言いをしたのは、初めてのことである。いや、ベルリオーズ家の使用人で、かような台詞をリオネルに言い放ったのは、前代未聞といっても過言ではない。
だが、もはやエレンはそのようなことを気にしてはいなかった。
「これは、アベルとイシャスとわたしの話です。そうやって、リオネル様がアベルを甘やかすから、この子は保護者としての自覚にも欠けてしまうのです」
ついにエレンの瞳から涙が溢れ、声が揺れた。
「イシャスが――イシャスが、かわいそうではありませんか」
さすがのリオネルも、これ以上エレンのまえで、アベルをかばうわけにはいかない。
あたりは静まり返っていた。
イシャスさえも泣くのをやめ、二人の母親――エレンとアベルを見つめている。
アベルは金縛りに遭ったように動けずにいた。
少しでも動いたら、少しでも声を発したら、なにかが崩れてもとに戻れなくなってしまう気がした。
「アベルがこの子の面倒を見られないなら、わたしが母親代わりになってしっかりしなければって頑張ってきたんです。幸せにしてあげたいと思って、大切に育ててきたのに、イシャスを傷つけないで……」
エレンの言葉のひとことひとことが、アベルの胸に突き刺さる。
その言葉はアベルを責めたて追いつめ――そして、言葉が持つ意味以上にアベルは傷ついていた。自責の念と、イシャスへの愛情によって。
言葉は出てこない。
泣くこともできない。
この場で泣くことが許されているのは、子供のイシャス以外には、エレンだけである。
これ以上アベルはこの場にいることができなかった。
うつむき、頭を下げると、部屋を出ていく。
「アベル……!」
リオネルの声は聞こえたが、アベルは振り向くことができなかった。
「そうやってあなたはいつだってイシャスから逃げるのね」
とどめの言葉を背中に投げつけられ、アベルは胸になにかがせりあげてくるような感覚を覚える。
けれど、部屋へは戻れなかった。
――戻っても、今の自分は、イシャスを抱きしめることができない。そのことを、アベルはよくわかっていたから。