18
少女が幸福な夢のなかに沈んでいったころ。
ベルリオーズの遥か東方にある王都のシャルム宮殿では、第一王子ジェルヴェーズが足早に回廊を歩む音が響いていた。
明らかに苛立ったその足取りに、周囲の者は慌てて道を譲り臣下の礼をとる。けれどジェルヴェーズは彼らに目もくれず、不穏な空気と、香水を纏った微風だけを残して去っていくのだった。
つい先程まで、ジェルヴェーズは忠臣らと集まっていた。
集ったのは、五月祭の直前に、共に姦計をめぐらせた面々である。
ジェルヴェーズの他には、ルスティーユ公爵とベルショー侯爵、それに今回は大神官ガイヤールを新たに加えた四人である。
ガイヤールを加えたのは、ジェルヴェーズにとっては「フィデールの代役」といった位置づけだった。
もともとジェルヴェーズはフィデールを信頼しており、彼こそを相談役に選びたいと考えていた。しかし、リオネル暗殺の計画にフィデールを加えることに反対したのは、伯父ルスティーユ公爵である。
その背景には、ルスティーユ公爵自身の野心や、慎重で鋭敏なフィデールをやや扱いづらい相手として捉えているといった事情があった。
これまで率先してリオネル暗殺を謀ってきた重鎮であり、近しい親類であることもあり、ジェルヴェーズはルスティーユ侯爵の要求を呑んだ。けれどその結果、フィデールに相談せずにリオネルを陥れる計画を企み、そして失敗するはめになった。
だれか新たな知恵を授けてくれる存在が必要になったが、ルスティーユ公爵への配慮からフィデールを加えるわけにはいかない。
そこで思い立ったのがガイヤールだった。
小部屋に集まった四人の議論は、これからいかにしてリオネルを亡きものにするか――ということよりも、なぜ五月祭の前日、姦計が失敗に終わったのかということに終始した。
それが発展的な討議ではないことは明らかだ。
けれど皆、不可解だった。
あれほど完璧であったはずの計画が、なぜ成功しなかったのか。毒杯をあおったはずのリオネルは、なぜ死ななかったのか。
大きな謎だった。
リオネルが死ななかったということについては、二つの可能性が考えられる。
ひとつめは、杯に毒が入っていなかったという可能性。もうひとつは、リオネルが解毒薬をあらかじめ飲んでいたという可能性である。
前者の仮定はすぐに打ち消すことができる。
杯に毒を入れたのはジェルヴェーズ自身であるし、容器に付着していた残りの毒を魚の泳ぐ水に入れたら即座に絶命した。
ならば、リオネルが解毒薬を飲んでいたということになるが、もしそうだとすれば、この暗殺計画をリオネルは事前に知っていたということになる。
――そんなわけがない。
ここにいる者以外、知り得ぬ計画だったのだから。
ルスティーユ公爵が裏切るわけがない。
初めに疑われたのはベルショー侯爵だったが、けれど、どう考えてみても陰謀を敵に洩らすことで彼が得る利益などなかった。ベルショー侯爵は熱心で忠実な国王派であるし、王や王子らの覚えもよい。逆に王弟派からは嫌悪されており、もし国王派を裏切りリオネル側に取り入ったとしても、彼の居場所は貴族界から永久に失われるはずだ。
計画は外部に漏れていない……とすれば。
いったいなぜ計画は失敗したのか。
いくら集まって話し合ったところで、不毛な議論が続くだけだった。
けれど前にも進めない。なぜなら、完璧なはずの計画が失敗したあとで、新たな妙案を生むことなどできるはずがないからだ。
――惨敗の理由がわからぬかぎり、次も負ける可能性がある、ということである。
議論を続けているあいだも、ジェルヴェーズはもやもやとした感覚から解放されることはなかった。
なにかがひっかかっている。
カミーユ・デュノアの生意気な顔が思い出される。
クラリスを連れだそうとしたあの一件と、今回の姦計の失敗と、なにかが繋がりそうな気がして、しかし、そんなはずはないので、頭のなかからカミーユの一件を消そうとする。
しかしまたなにかが気になり、再び同じことを考える。
その繰り返しで、ジェルヴェーズは苛立っていた。
思考の連鎖と、腹立たしいほどの苛立ちを断ち切ったのは、今回新たに加わったガイヤールの言葉だった。
「物事を整理させましょう」
ひととおりの議論を聞き終えると、一度すべてを整理させようと、ガイヤールは提案した。
「まず、毒を杯に入れたということは間違いないわけですね」
「さっきから言っているとおり、たしかに私はこの手で杯に粉を入れた」
「残りの粉で魚が死んだのですから、殿下がお入れになったのは毒だったわけです」
すべてを見透かすような独特の眼差しで、ガイヤールは皆を見渡す。
「つまり、リオネル様は毒を飲んだ――それは確かなのです」
「そのとおりだ」
うなずいたのはルスティーユ公爵だった。
「しかし、リオネル様は亡くならなかった。つまり、解毒薬を飲んでいたということです」
「用心して、毎回飲んでいたということでしょうか……?」
ベルショー侯爵がつぶやいたが、ガイヤールは首を横に振る。
「いいえ、使用したのは即効性の毒ですから。直前か直後か――ほぼ同時くらいの間合いで解毒薬を飲まなければ助かりません。リオネル様が、ひと口酒を召し上がるたびに解毒薬を飲んでいたと考えるのは不自然です」
「つまり計画を知っていたということだな」
「少なくとも、その杯に毒が入れられている可能性が高いということくらいは、ご存じだったということになります」
ガイヤールは慎重に言葉を選んで答えた。
「毒を入れたことを、気づかれたということですかな?」
確認したベルショー侯爵を、ジェルヴェーズは軽く睨む。
「私は気づかれるような失態はしない」
恐縮するベルショー侯爵をちらと見やりつつ、ガイヤールは語った。
「毒を入れたのは殿下ご自身の杯であり、リオネル様の杯ではありません。リオネル様やその側近が、殿下の杯にまでいちいち注意を払うとは考えにくいでしょう」
「ではやはり、計画を知っていたのか」
「先程も申しあげたとおり、その杯に毒が入れられている可能性があるということを、リオネル様か、あるいはその家臣はご存じだったのだと思います」
「どういう意味だ?」
意味ありげなガイヤールの言葉に、だれもが眉を寄せる。一方、ガイヤールはかすかな笑みを浮かべたままだった。
「あらかじめ解毒薬を飲んでおくためには、計画すべてを知らずともよいということです」
なにかが繋がりそうで繋がらない。
そのもどかしさが、ジェルヴェーズのなかで最大限に膨らんでいた。
「例えば、の話ですが――なんらかの拍子で何者かが、毒を入れるということを耳にし、飲む瞬間までにリオネル様に伝えることができたら、リオネル様はお命を落とさずにすみます」
「毒の混入を知りえた者というと……バベットが、裏切ったのか」
バベットというのは、リオネルがジェルヴェーズの杯に毒を入れたのを見たと騒ぎ立てた女中である。王族を陥れようとした罪で、バベットは既に監獄塔で刑に処されていた。
「いや、薬を調合した薬師かもしれない」
ルスティーユ公爵とベルショー侯爵が口々に言うなか、ジェルヴェーズは、なにかに思い至ったように視線を部屋の一箇所へ向けた。
彼の瞳に映っていたのは――。
「暖炉だ」
ジェルヴェーズがつぶやく。
「は?」
ルスティーユ公爵が聞き返すと、ジェルヴェーズは目を大きく見開いたまま立ちあがった。
「――あのとき、フィデールが部屋に入ってきて、暖炉に気配を感じたと言った」
その言葉を聞き、ルスティーユ公爵とベルショー侯爵は思い返す。たしかに計画を議論していた日、フィデールは途中から部屋に入ってきて、すぐに、なにかを感じると言って暖炉をのぞきこんだ。
「暖炉……煙突……カミーユ・デュノア……煙突掃除夫……」
謎の言葉を羅列すると、ジェルヴェーズは大きく息を吸い込み、そして座っていた椅子が倒れるのもかまわず勢いよく歩き出した。
「まさか、あの煙突掃除夫か!」
皆が驚くほどの剣幕で叫ぶと、ジェルヴェーズは部屋を出ていく。
回廊から聞こえてきたのは、「フィデールはどこだ」と近衛兵らに怒鳴る声だった。
こうしてジェルヴェーズは、周囲の者が慌てて道を譲らねばならぬほど、苛立った足取りで宮殿を歩くこととなった。
不穏な空気と、香水を纏った微風だけを残して。
+
天窓から差し込む白光が、室内の床に小さな日溜まりを作っている。
ジェルヴェーズが部屋を出るより、少しまえのことだった。
……異臭がする。
血の匂いか、汗か、腐った肉の匂いか、幾日も身体を洗っておらぬ自らの体臭か、錆びた鉄鎖か、それともそれらすべてが混じりあった匂いか。
ボドワン夫妻は寒い日に寄り添う子猫らのように、狭い個室の隅で固まり怯えていた。外見からだけでいえば、子猫という表現にはやや語弊があるが。
建物内では、いたるところで拷問が行われ、不気味な音と悲鳴とが反響しつづけていた。
宮殿の騎士館からほど近い場所にある監獄塔。
ここは政治犯や外国人犯罪者、サン・オーヴァンで特に凶悪な事件を起こした者や、王宮内で生じた事件の被疑者を収容、尋問する場所である。ここで命を落とす者もいれば、最終的にサン・オーヴァンの南西にそびえる「恐怖の塔」に幽閉される者もある。
よほど運がよければ、再び輝く陽光の下に戻れることもあるかもしれないが……。
ボドワン夫妻は、これから待ち構えている運命に対し、明るい希望を抱くことは困難だった。
「厄病神のイシャスめ……」
「恩知らずのジェレミーのやつ……」
二人はあいかわらず同じ文句を繰り返している。
逃亡中であったはずの夫妻が、役人に捕まったのは昨日のことだった。
今から思えば、生肉を食べることに飽きたために、肉屋街を出てサン・オーヴァンの華やかな街なかへ移動したことが大きな間違いだった。街は人の数が多い。彼らのおこぼれに与かることができるとも、大勢に紛れていたほうが見つからないとも考えていたのだが。
それは誤算だった。
街なかでは憲兵が絶えず巡回している。
残飯を漁る見慣れぬ中年夫婦が、お尋ね者の二人であることに彼らが気づくまでに、さほど時間はかからなかった。
大衆食堂の脇でお縄となり、連れていかれたのは王宮内の監獄塔だった。
取るに足らぬ犯罪であれば街の裁判所で裁かれる。自分たちのような薄汚い平凡な市民が、このような大仰な場所に連れてこられた理由はひとつしか思い当たらない。
……雇用していた少年イシャスが、第一王子ジェルヴェーズに対して働いた非礼である。
宮殿内の煙突掃除をやりとげることができなかっただけで、このような場所に入れられるはずがないのだった。
「だから早くサン・オーヴァンを出たらよかったんだよ」
責めるような妻の台詞に、ボドワンはちっと舌打ちする。
「しかたないだろう、逃げる金がなかったんだから」
「あんたが飲んじまったからだろう」
「おまえが焼き菓子なんか食べたからじゃねえか」
「あんたの酒代に比べりゃ、焼き菓子なんて――」
「うるせえな! すべておれのせいだって言うのか」
「そうさ、全部あんたのせいだよ、ぼんくら亭主!」
「言ったな、この雌豚が!」
「雌豚は小豚を産んで薬役に立つんだ、この穀潰し!」
ここ数日のあいだで幾度繰り返したかわからぬ論争を、再び繰り広げる賑やかな声が牢内に響きわたっていた。
このとき、開いたままになっていた覗き窓の向こうで数人がなにやら話していたが、二人は気がつかない。ボドワン夫妻が看守の来訪を知ったのは、鉄扉が開いて怒号が飛んだ瞬間だった。
「うるさい! 静かにしろ」
二人は途端に口を閉ざして身を正す。
殴られるかと思ったが、看守は低い声でついてくるように告げただけだった。それは殴られるよりもさらに恐ろしいことだった。
拷問部屋に連れていかれるのではないか――いや、このまま処刑されるかもしれない。
ボドワン夫妻の顔面からは血の気が引き、恐怖で足がもつれた。薄暗い廊下を歩み、螺旋階段を上る。
しかし恐怖におののく二人が連れていかれたのは、拷問部屋でも、処刑室でもはなく、唐草模様の絨毯と濃紺色のカーテンで飾られた優美な一室だった。
監獄塔にこのような場所があるとは思いもよらぬことだった。
拍子抜けするボドワン夫婦だったが、美しい部屋に連れてこられたからといって二人の立場に変化があったわけではなく、看守の態度は依然として横柄だった。
「部屋の調度品を汚さぬよう、おまえたちはここで立っていろ。絨毯に触れれば鞭を打つぞ」
ボドワンも妻ナタリーも、緊張しきって口内が乾き、声が出ないため、返事の代わりに幾度も首を縦に振った。
「これから、ここへ、さる高貴な方がお越しになる。不用意な発言は慎み、聞かれたことだけに答えろ。非礼を働けば、鞭打ちでは済まないと心得ろ」
いったいこれからなにが起こるのか。
不安な気持ちで来るべき人物を待っていたのは、わずかなあいだだったかもしれないが、それは数時間にも感じられた。
眩暈がしそうなほどの長い静寂ののち、突然、看守から頭を下げるように命じられ、ボドワン夫妻はそれに従った。
規則的な足音が近づく。
それはひとりではないようだった。
足音の主らは扉をくぐると、ボドワン夫妻の目前を通り過ぎて部屋の奥へ進む。
それから顔を上げる許可が下りるまで、再びひどく長い時間が経過したような気がした。
顔を上げた二人の目に飛び込んできたのは、窓際の肱掛椅子に座す美貌の貴族と、その背後に佇む長身の異国人だった。
銀色の髪と漆黒の瞳を持つ異国人をボドワンは知らなかったが、いまひとりの優雅な若者には見覚えがある。
――あの日、ジェルヴェーズのそばに控えていた貴族だ。
命じられてもいないのに、ボドワンはもう一度、深々と頭を下げた。
ボドワン夫妻の体臭はひどく、距離があっても、同じ部屋にいるだけで強烈な匂いがする。けれど、高貴な雰囲気の若者も、いま一人の異国人も、それをいっこうに気にする様子はなかった。少なくとも表面上は。
「ボドワン。長々と話すつもりはない」
端正な顔立ちの若者は単刀直入に切り出した。
「おまえに聞きたいことは、煙突掃除の少年のことだ」
ボドワンは一度だけ顔を上げたが、相手と視線が合うと、慌てて再び項垂れた。
「――あの少年は、イシャスと呼ばれていたようだが」
「そ、そうですイシャスでございます」
答える声がひどくかすれていたので、ボドワンは咳払いをする。
「イシャスは、私たちとはまったく関わりのない者なのです」
「聞かれたことだけに答えろ」
看守に後頭部を殴られて、ボドワンは倒れそうになるが、「絨毯を踏むな」と言われたのを思い出し、必死に踏みとどまった。
「あの少年はどうした」
「し、死にました」
「いつごろ、どのように」
「家に連れて帰ったときにはほとんど意識がなく、動くこともできないような状態でした。そのまま裏庭に放置し、数日後には息絶えておりましたので、ごみといっしょに燃やしました」
この監獄塔に連れてこられた日から、幾度も頭のなかで繰り返し暗唱してきた言い訳を、ボドワンはこのとき一句違うことなく口にすることができた。
――リオネル・ベルリオーズが連れて帰ったとは、口が裂けても言えぬ。
隠し通さなければ、自分は殺される。
ボドワンは必死だった。
練習の成果があったのか、美貌の若者はそれ以上、少年の死については追求しなかった。
「イシャスはいつからおまえのところで働きだした」
質問の方向性が変わったことでボドワンが安堵したことは、想像に苦しくない。
「五月祭の直前です。あんな悪餓鬼だと知っていたら、私も雇ったりは――」
再びいらぬことを口にしかけたため、ボドワンは看守に殴られることとなった。
「おまえのところで働く以前はどこでなにをしていた。なぜおまえのもとで煙突掃除をすることになった」
「自分は捨て子だと言っていました。田舎町の小さな孤児養育院に住んでいたが、そこが火事で焼け、住む場所を失いサン・オーヴァンへ仕事を探しに来たとか。イシャスとは酒場でたまたま居合わせたんです。仕事をさせてくれって言ってきたんで、しかたなく雇ってやったんです。人助けですよ。救貧院や慈善団体と同じ、尊い行動です」
余計なことをつけくわえたが、今度は看守も黙っていた。殴ろうとしたところを、貴族の若者が制したからだ。
「おまえが声をかけたわけではなく、イシャスから仕事をしたいと言ってきたのか」
「ええ、そのとおりです。私たちは困っている十二歳の子供を放ってはおけなくて、雇ってやったのです。それなのにあいつは恩を仇で――」
ボドワンが途中で言葉を切ったのは、若者に睨まれたからだった。いや、そう感じたのはボドワンの考えすぎであったかもしれない。若者はただ考えごとをしながら、ボドワンを見ただけだったのだから。
「イシャスはどこの町から来たんだ」
「え……どこだったか。いえ、たしか、どことは言っていなかったような気が……」