17
……ベルトランがベルリオーズ邸へ来たのは、アンリエットの死から間もなくのことだった。
リオネルは思う。
ルブロー家から来た赤毛の少年が自分の用心棒になったから、行かなくなったのではない。
――母が死んだから、行かなくなったのだ。
なぜだろうか。
それはリオネル自身にも判然としないことだった。
ラベンダー畑は、たしかに幼いころのリオネルを癒してくれた存在だ。
ここへ来ることは小さな冒険であり、リオネルが実行した数少ない「いたずら」であり、そしてこの景色は、この世の暗く汚れたものすべてを浄化してくれた。
アンリエットの死後、なぜここへ来なくなったのだろうか。
館に自分を待つ母がいたから、すべてのことに意味があったのかもしれない。
無二の理解者であり、だれよりも信頼していた母が待っていてくれたからこそ、冒険やいたずらには行う意味はあった。
それに、紫は母の色だった。
もちろん自分にも受け継がれている色だが、やはりいつも見ていた母親の瞳の色なのだ。
最後にここを訪れたのは、忘れもしないアンリエットの死の直前――はじめてディルクを連れてきたときのこと。
いつもはひとりで来ていたのに、あの日はどうしてもひとりでここを訪れる勇気が出なかった。だからディルクを誘ったのだ。
あのときの太陽の眩しさを、ラベンダーの香りを、そして胸にせりあげてくるような痛みを、リオネルは今でも鮮明に思い出すことができる。
けれど今、愛する少女を伴って見るこの景色は、あの日となんら変わらないはずなのに、記憶のなかの風景とは異なって映った。
たしかに同じ風景なのだが、けれど、違う場所のようにさえ感じられる。
――なんと鮮やかなのだろう。
天を覆う空は、どこまでも深い蒼をたたえ、丘を埋めつくす花たちは、少し強い風に吹かれて音にならぬ曲を奏でているようだ。
最後に自分が訪れたときは、このような安らかな光景ではなかった。
あの日以来、空や花に変化があったのか、それとも、自分が変わったのか――。
その答えはひとつである。
リオネルは答えを待つ少女を振り向く。
そして言った。
「怖かったからかもしれない」
そうだ、怖かったのだ。
この場所は、自分にとって大切な場所だった。
母の死後ここを訪れることで、この景色が哀しいだけのものになることが怖かった。
母が生きていたころの幸福の余韻を、忘れたくなかった。
最後にここを訪れたとき――母が死に瀕していたあのとき、わざわざディルクを誘ったのも、怖かったからだ。この景色に求めているものを見いだせないときがくることを、恐れていた。
そしてそれは、現実となったのだ。
あの日の景色の哀しさ。
祈りは、神に届かなかった。
――――。
……いや、そうだろうか。
あの日の祈りは、本当に届かなかったのだろうか。
「怖かった? ベルトランがですが?」
大きく水色の瞳を見開いて尋ねるアベルに、リオネルは息がつまるほどの愛しさを覚える。
つないだままだったアベルの手。
そのほっそりとした手を握る力をわずかに強め、リオネルは歩き出した。
「なにもかもが、だよ」
――ラベンダー畑のなかへ。
大切なものをひとつずつ失ってきた。
乳母も、忠実な家臣たちも、「無邪気」という世界にしかありえぬ子供の心も、そして最愛の母も、生まれることのなかった弟妹も――。
なにもかもが怖かった。
「洗練されている」と人は呼ぶような賢さのなかに、落ち着いた態度のなかに、失うことへの恐怖を――失ったものへの哀しみを隠してきた。
あのときの自分は、なにもかもが怖かったのだ。
なにかにひどく怯え、恐怖していた。
だが今の自分はどうだろう。
――いつからか、なにかが変わった。
「アベル、いっしょに来てほしいところがある」
ラベンダーの花に囲まれた丘の真中で、リオネルは足を止めてアベルに向き合う。
アベルはおかしそうに笑った。
「そのつもりで来ました。館を出るまえにも、同じことをおっしゃっていたではありませんか」
発言の重複というリオネルらしからぬ事態に、アベルはなんだか不思議な心持ちがする。
けれどリオネルはいたって真面目であった。
「あのときとは少し意味合いが違うんだ」
真剣な面持ちで言われ、アベルは相手の瞳を見返す。紫の花よりも、花の香よりも――なによりもこの瞳に、アベルは思考を奪われてしまいそうだった。
「もちろん、お供します」
そう答えたとき。
地響きと共に遠くで轟いたのは、雷鳴だった。
先程から吹いていた風が、湿気と冷気、そして雨の香りを運んでくる。
二人は空を見上げた。
あ、という口をしただけで、アベルは声を発しない。
「――雨が降る」
リオネルが呟いたときには、またたくまに二人の頭上を、悪魔の衣のように黒ずんだ雨雲が覆いはじめていた。
なんという急激な天候の変化だろう。つい先ほど見上げたときは、抜けるような空だったのに。
雲は、空の蒼さとラベンダーの濃い紫を、一瞬にして暗灰色に染め上げた。
「アベル、走れるか」
確認するリオネルの声を、二度目の雷鳴がかき消す。
途端に大粒の雨が地面を叩く音が響いた。
リオネルは返事を待たずに、アベルの手を握りなおし、走り出す。
叩きつける雨は、痛いほどだった。
アベルはこの感覚をよく覚えている。
頬を打つ雨粒の感触。
――あの日も、突然の嵐だった。
恐怖は、心以上に、身体が覚えている。足がすくみ、リオネルに手を引かれてなければ、その場にしゃがみ込んでいたことだろう。
怖かった。
悪魔は、嵐と共にやってくる――。
叩きつけるような驟雨のなかを、二人は走った。
ラベンダーが雨風に打たれて、斜めに傾きながら激しく揺れている。
花は地面に縫い付けられ逃げることができない。ただ雨に打たれていなければならない花たちの姿が、かつての自分と重なるような気がした。
アベルの足は、恐怖で今にも動けなくなりそうだった。
けれど、けっして離すまいとするように、リオネルは強くアベルの手を握っている。
力強い手に導かれ、嵐のなかを無我夢中で走り続けていると、気がつけば石造りの建物の前に辿り着いていた。
迷うことなくリオネルはアベルを伴い、建物のなかへ入っていった。
朽ちかけた木製の扉が、ぎしぎしと軋んでいる。
建物に足を踏み入れると、なかの空気はひんやりしており、かすかに黴臭いような――だが、どこかで嗅いだことのあるような匂いがした。
暗い。
暗くて全体の広さはわからないが、石の壁に数ヵ所ある小さな縦長の窓からは、かすかな光と、雨が入りこんでいる。雨風から身を守るには充分な場所だ。
リオネルはアベルを建物の奥へと促し、床にある段差を椅子代わりにして座らせた。
「たくさん走らせてすまなかった。大丈夫?」
心配そうな声に、アベルは無言でうなずく。
肉体的な疲労よりも、過去の傷跡から生じる恐怖のほうが遥かに苦しかった。
「少し待ってて」
そう言うと、アベルが止める間もなくリオネルはさらに建物の奥へと歩んでいく。
――そばにいてほしい。
伝えたい言葉は声にならず、アベルはただ石段のうえに座り、小さくなって震えていた。
しばらくするとリオネルが、なにかを携えて戻ってくる。
暗くて、彼がなにを手にしているのかわからない。
するとリオネルは遠慮がちに口を開いた。
「その……服が濡れたままでは風邪をひいてしまう。乾かしたほうがいい。古いものだけど、薄布を見つけたから、乾かしているあいだはこれをまとっていてくれないか」
「服を、脱ぐ……ということですか?」
思わずアベルが確認すると、リオネルは一拍おいてから返答する。
「その……けっして無理強いするつもりはない――ただ、アベルの体調を再び悪化させたくない。こんな場所で薄布一枚になるのは抵抗があるとは思うけれど、どうしても嫌でなければ……どうか聞き入れてくれないか」
――絶対に着替えを見たりはしないから。
そう付け加えられたリオネルの台詞に、アベルは束の間きょとんとし、それから無性に恥ずかしくなってうつむく。
あえて「着替えを見ない」などと言われれば、女性として意識されているようで気恥ずかしいではないか。むろん、どれほど「男として扱ってほしい」と主張していたとしても、人前で着替えをするわけにはいかないので、リオネルの台詞も当然のことなのだが。
「わたしのために、すみません」
承諾の代わりにアベルが薄布を受け取ると、リオネルはほっとしたように「ありがとう」と言った。アベルは礼を言われるような立場ではない。むしろ、感謝をしなければならないのはこちらのほうだ。
けれど、雨の音と、これから着替えることの恥ずかしさで、アベルはこれ以上なにも言うことができなかった。
アベルが着替えるあいだ、リオネルはこちらに背を向けて床に座りこみ、なにやら作業をしていた。
ベルリオーズ家の嫡男であるリオネルが、固い床のうえで「作業」をしている姿など、滅多に目にするものではない。忠臣らがこの場にいたら卒倒しただろう。
だがアベルには、リオネルの行動を気にするほどの余裕はなかった。
水浸しになった服を脱ぎ、埃っぽい薄布を纏うと、アベルは小さな声で、
「もう大丈夫です」
と、リオネルの背中へ声をかける。
するとリオネルはアベルの姿からあえて視線を外しながら、灯りはじめたばかりの火種を持って、部屋の中央へ移動した。彼は壊れた椅子の破片を拾い、それを薪にしようとしているようだ。
乾いた木片に火が勢いよく燃えだすと、リオネルも断りを入れてから、上着だけを脱ぐ。
火のまわりに衣類を並べて乾かしているあいだ、二人はわずかに距離を置き、沈黙したまま石段のうえに座っていた。
建物のなかはひっそりとしており、けれど、外の嵐の音は凄まじく、叩きつける雨音、吹き付ける風の音、そして不定期に落ちる雷の轟が地面を震わせた。
薪のおかげで、建物のなかは明るい。
それでも、アベルはずっとうつむいたまま震えていた。
夏の嵐。
雨に濡れた感覚。
激しい雨音を聞いていると、アベルは否応なくあの瞬間を思い出すのだ。目隠しをされ、なにも見えない世界のなかでの恐怖。あの永遠とも思える絶望のなかで、アベルは「幸福」の儚さを思い知った。
悪魔は突然に現れる。そして大切なものすべてを奪い去り、束の間の嵐のように去っていくのだ。
届くことのなかった叫び。叶うことのなかった祈り。
もしあのとき、自分の声がだれかに届いていたら――。
「アベル」
名を呼ばれたことに、しばらくアベルは気づくことができなかった。
再び声をかけられて、ようやく我に返る。
けれど、リオネルを見返すアベルの心は、まだ恐怖に凍りついたままだった。
「寒いのか?」
いつもと変わらぬ優しい声で問われ、アベルは素直に首を横に振った。
しばしの沈黙ののち、ややためらうような語調で再び問われる。
「……怖いのか?」
なぜこの人には見透かされてしまうのだろう。
なにも言わなくとも、リオネルは理解してくれている。アベルという人間を、本当の意味でリオネルは見ていてくれているのだ。
言葉を尽くしても伝わらない相手というのは、心の目が開いていない。けれど、しっかりと心の目を見開き、耳を澄ませていれば、言葉はなくとも理解は生じうることを、リオネルは証明していた。
アベルは顔を上げた。
そしてリオネルを見つめる。
あの日、届くことのなかった声。
けれど、今。
――ここにはリオネルがいる。
「怖いです」
アベルは答えた。
「すごく、すごく怖くて――」
答える間に、涙が溢れ出る。
リオネルの紫色の瞳がわずかに驚きの色をたたえ、アベルを見つめる。
だがアベルは涙を止められなかった。
癒されぬ傷跡。心は血を流し続けている。
「――どうしたらいいか、わからないのです」
リオネルの耳には届いただろう。実際に言葉にはならないけれど、懸命に助けを求める少女の声が。
目の前でアベルが助けを求めている――理由はわからないが、それが過去の傷跡であることを、リオネルが想像できぬはずがない。
次の瞬間、アベルは青年の逞しい腕に包まれていた。
どうしてリオネルが抱きしめずにいられるだろう、怯えて瞳を濡らすアベルを前にして。
強く抱きしめられ、アベルは双眸を細めた。
細めた瞳から、涙が零れ落ちる。
それはアベルの陶器のような頬を伝い、リオネルの乾きかけの白いシャツに小さな染みを作った。
アベルから遠ざかっていったのは底知れぬ恐怖であり、代わりに訪れたのは、深い安堵である。
あの嵐の日からこれまでに、多くのものを失った。
この手に残っているものはなにもなく、そして、掴み出すこともできない。
けれど、アベルにはただひとつ、この場所があった。
安心できるあたたかい場所。
繰り返し気づかされる。
自分は、リオネルを守っているのではない。
自分は、リオネルに守られているのだ、と。
「おれでは力不足かもしれないけど」
耳元でリオネルの低い美声が響く。
雨の音が遥か遠くに聞こえた。
「持てる力のかぎりで、アベルを苦しめるすべてのものから、アベルを守りたい」
間近で感じるリオネルの息遣い。薄い布越しに感じるのは、リオネルの心臓の鼓動と、力強い身体。
アベルは言葉を発することができなかった。
「おれはいつもアベルのそばにいる」
リオネルの声が、鼓動が、体温が――心地よい。
悪魔は去り、悪夢は霧のごとく散り、すべての雑音が遠のく。
「アベルのそばに、いさせてほしいんだ」
――きみを……。
リオネルの声を遠くに聞きながら、アベルは深い眠りについていた。