第二章 ラベンダー畑の追憶 16
なにか重要なことに気づけないでいるような気がする。
繋がりそうで、繋がらない。
少年とすれ違ったとき彼が覚えたのは、そんな感覚だった。
その少年は生意気で甚だしく不愉快な相手だったが、ブレーズ家の血縁であり、フィデールやノエルから助命を求められたこともあり、ジェルヴェーズは手が出せずにいる。
あの事件以降、フィデールの従兄弟カミーユはおとなしくしており、今も大回廊を歩む自分に対し、周囲の者と同様に最敬礼をとっていた。
忌々しいことだがブレーズ家との関わりがある以上、ジェルヴェーズとしてもカミーユには直接手を下したくはない。このままカミーユには大人しくしていてもらうことが、ジェルヴェーズにとっても望ましいのだった。
むろんフィデールにも告げたとおり、今後カミーユが自分に刃向かうような態度をとれば容赦はしないが。
それにしても。
あの生意気な顔を見るとなにかが引っかかるのは、なぜだろうか。
その理由を考えようとすればするほど苛立つ。
苛立つといっても、五月祭の前日にリオネルを毒殺する計画が失敗してからというもの、ジェルヴェーズは絶えず苛立っているような状態であった。
足早に大回廊を通り過ぎたが、なにかが脳裏から離れない。
思い浮かぶのは、先程敬礼していたカミーユの姿ではなく、過去の出来事だった。
――やめろ! この人は……。
あれは彼がクラリスを宮殿から連れ出そうとしたときのことだ。
あの日のことはなるべく思い出さぬようにしていた。あえてカミーユへの怒りを再燃させて、ブレーズ家との関係を悪化させる必要もないからだ。
しかし、なにが引っかかるのだろう。
違う。
カミーユ自身のことではないのだ。彼を見ていると、なにかを思い出せそうな気がするのに、思い出せない。
なにかが繋がりそうで、繋がらない。
「なんだ……?」
そのもどかしさを不愉快に感じながら、ジェルヴェーズは腹心らが集う部屋へ入っていった。
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かなり控えめな――それはほんとうに小さな音だったにもかかわらず、肩がびくりと震えたのは、アベルがかなり疲れていたからかもしれない。
午前中にアベルやリオネルにたっぷり遊んでもらったイシャスが、ようやく寝ついたところだった。
些細な物音でイシャスが起きてしまうのではないかと、神経質になっていたこともある。
とにかくアベルは、そのかすかな音に驚き、そしてそんな自分自身を情けなく思いながら小さな寝台を離れ、扉を開けにいった。
扉を大きく開けなかったのは、やはりイシャスを起こしたくなかったからだ。
子供が眠っている時間は、母親という存在にとって唯一ほっとできる時間のはずなのに、アベルは緊張しっぱなしだった。ここがベルリオーズ本邸であるということや、日頃エレンに任せきりにしていたせいでもあるだろう。
細く開いた扉の隙間から来訪者が見たアベルの顔は、強張り、疲れきっていたに違いない。
「イシャスは寝た?」
尋ねるリオネルの声は、いつもと変わらず優しく穏やかだった。
その声を聞くだけで、アベルは肩から力が抜けていくような気がする。
「はい、ようやく。今朝はご面倒をおかけしました」
この日は、仕事を早朝に片付けたリオネルが、イシャスの遊び相手を引き受けてくれた。
リオネルは子供の相手がうまい。
いや、子供があれだけ楽しそうにリオネルと遊ぶというのは、ただリオネルの扱いが巧みであるだけではなく、彼が抱くイシャスへの愛情ゆえであるとしか思えなかった。
アベルはリオネルの好意に感謝したが、やはり遊んでいる最中にイシャスがいたずらをしないか、なにかリオネルや他の者に非礼を働かないか、気が気ではない。
結局アベルは直接イシャスの相手をしてなくとも、あれこれ心配してしまっては精神的にへとへとに疲れてしまうのだ。
「リオネル様に遊んでいただき、とても楽しかったみたいです」
ありがとうございます、と疲労の滲む笑顔で礼を述べるアベルに、リオネルはふと気がかりげな表情を向けた。
「アベル、その……最近、身の回りで変わったことはないか」
「変わったこと?」
思いもかけぬリオネルの質問に、アベルは不思議そうに首を傾ける。その仕種がなによりもの答えであり、リオネルは安堵した。
――ラロシュ邸で蜂蜜酒に毒が混入されて以来、リオネルはアベルの身辺を警戒している。
けれど、アベルの反応を見るかぎり、とりあえずなにも起こってはいないようだった。
「いや、なにもなければいいんだ。おかしなことを聞いてすまなかった」
未だに疑問符を浮かべるアベルを、リオネルは柔らかい表情で見つめる。
「アベルにお願いがあるんだ」
自分に頼み事とはなんだろうと、アベルは再び首を傾げた。
「ちょっと城外へ行きたいのだけど、いっしょに来てくれないか?」
「どちらへ?」
生真面目なアベルの問いに対し、リオネルが「秘密だ」と冗談めかして答えたので、アベルは束の間きょとんとする。
今のアベルは、冗談が通じるような状態ではない。
「ですが、出かけているあいだにイシャスが起きてしまいます」
「戻るまではベルトランが面倒を見ていてくれる」
そう言ってリオネルが背後を振り返ると、いつもよりもやや仏頂面のベルトランが小さくうなずく。
用心深いベルトランが、リオネルと離れて行動することなど滅多にないことだ。戸惑いながらアベルは答える。
「イシャスは手がかかります。ベルトランに迷惑をかけるわけにはいきませんし……それに、ベルトランがリオネル様のおそばを離れるのは危険です。いつ刺客が狙ってくるとも限らないのに」
真面目すぎるアベルらしい返答だったが、リオネルはそれを予測していたかのようだった。
「毒杯の事件以降、刺客のほうはめっきり鳴りを潜めているから心配いらないよ。しばらく動きを見せないだろう」
「そんなこと――」
そんなことわからないではないか、そうアベルが答えようとすると、ベルトランが言葉を遮った。
「おまえの言いたいことはわかる。おれも同じ思いだ。だが今日だけは、リオネルの警護をアベルに任せる。イシャスの面倒を見ることだけが、おまえの仕事ではないだろう?」
難しい面持ちで師匠を見上げたままアベルは押し黙る。
たしかにベルトランの言うとおりだ。
けれど自分は怪我をして以来、まったく剣を握っていない。一ヶ月も剣を握っていない自分が――体調も完全に回復しているとは言い難い身体で、リオネルを守りきれるだろうか。
それにイシャスのことも心配だ。
なかなか首を縦に振ることのできないアベルに、リオネルが笑いかけた。
「アベルも久しぶりに馬に乗りたいだろうと思って。もう長いこと騎乗していないだろう?」
リオネルの説得は巧みだった。
――アベルがなによりも乗馬が好きであることを熟知しているのだ。
王都からベルリオーズに戻る際も、怪我のために騎乗を許されず、馬車で旅をしてきた。リオネルの発言は、つまり騎乗を許可するということである。
主人の言葉を聞いたアベルの瞳がたちまち輝いた。
これまでの疲れた表情が一変し、ぱっと光が射したようだ。
「馬に乗ってもいいのですか?」
「アベルはがんばっているから、今日だけは特別に」
「……今日だけ、ですか?」
途端に表情を曇らせるアベルに、リオネルは淡々と答える。
「おれがそばにいるときだけ、という意味だ。完全に許可してアベルになにかあっては困るから」
「…………」
「それで――いっしょに来てくれるのか?」
しばし主人の顔を見つめ、そしてアベルは長い呪縛から解けたように破顔した。
「はい」
リオネルやベルトランが久しぶりに見る、アベルの明るく屈託のない笑顔だった。
+
――眩しい。
気温は暑いほどで、時折、牧草の香りを乗せた強い風が吹きぬける。
家畜小屋の脇では鶏があちこちで地面をつついており、乾燥した砂利道を何台もの牛車が通りすぎた。
シャサーヌから離れるほどに民家は減り、長閑な田園地帯が広がる。
羊の群れが丘の上を流れ、遠くには濃い色をした森、しばらくすると遥か彼方にはルエルやアンオウェルの山並みが霞んで見えてきた。
想像していたよりも長いことアベルは馬を駆けている。
アベルの少し前には、愛馬ヴァレールに跨るリオネル。
久しぶりに騎乗するアベルを気遣うように、リオネルはゆっくりと馬を駆けている。
行き先は告げられていないが、リオネルはシャサーヌの南西へ向かっているようだった。それは、アベラール領――ひいてはデュノア領がある方角である。
ベルリオーズ領は広大で、デュノア領まで見渡せるはずがないのに、この先に生まれ育った故郷があると思うと、アベルは懐かしさと共に胸の痛みを感じた。
どれくらい駆けただろうか。
もうそろそろイシャスが一度目の寝返りを打つころではないかと、アベルが感覚的に感じるころ。
小高い丘の麓まで来ると、リオネルは馬の速度を緩める。丘の麓部分は絶壁になっており、その先は道が分岐していた。
片方の道は平らで幅が広くよく整備されているが、もう一方は木々が茂り、緑が深い。
アベルの疲労の程度を測るようにリオネルはアベルを振り返るが、輝く水色の瞳と視線が合うと微笑し、ヴァレールの腹を蹴って木々が茂るほうの道を駆け登った。
遅れをとらずアベルも続く。
リオネルが赴こうとしている先は、いったいどこなのか。
なにか用事でもあるのだろうかと、アベルは内心で首をかしげる。伴うのがアベルひとりであるのだから、まさか政務とは関係ないはずだが。
それにしても、リオネルとヴァレールのすぐ後方を駆けていると、アベルは感嘆の溜息をもらさずにはおれない。
リオネルの髪と同じ、つややかな濃茶の毛色をしたヴァレールは実に美しい馬で、長身で手足のすらりと伸びたリオネルが巧みにヴァレールを乗りこなす姿は、公式の場で披露される乗馬の妙技を思わせた。
丘を登る途中で道は徐々に狭くなり、やがては「道」と称すべきものは消えてしまう。
二人は馬を降り、二頭を近くの木に繋いだ。
リオネルに導かれるままに、アベルは木々のあいだの道ならぬ道を歩いていく。
一度だけアベルが木の根に足を躓かせると、それからリオネルがアベルの手をしっかりと握って離さなかったので、アベルは恥ずかしさから前を向くことができなくなってしまった。
イシャスと同じだ――、とアベルは思う。
自分はイシャスと同じ扱いなのだ。リオネルにとっては、アベルは子供と同じ。
いつも我儘を言って彼を困らせ、それなのに頼りなく、こうして手を貸さねばならぬ存在――。
繋がれた手を振り切ることもできず、アベルはずっと黙っていた。
「疲れた?」
気遣うリオネルの声にも、ようやく小さな声で「いいえ」と答えるくらいである。長いあいだ目にしていたのは、木の根や雑草が覆う地面と、リオネルの足元だけだった。
沈黙のうちにかなり歩いたはずだ。
リオネルの足が止まったので、アベルも歩みを止める。うつむいたままだったが、足元の景色は明るく感じられ、そして懐かしいような香りがして、アベルは顔を上げた。
そこで目にしたのは――。
紫一色だった。
深い紫と、甘くも清々しい香りが埋めつくす丘。
一面に咲き乱れていたのはラベンダーだった。
「わあ……」
息を吐くように感嘆の声をもらしてから、アベルは次の言葉を発することができない。
デュノア領にいたころも、サン・オーヴァンで暮らしていたころも、シャサーヌ周辺においてもラベンダー畑を見たことがある。けれどこれほど雄大な景色は、初めてだった。
美しい――というより、もはや幻想的と称すべきだろう。
見渡すかぎり、紫。
風が吹くと、花は湖面の水のように波を描き流れていく。
ここに立つ自分自身も、紫色に染まってしまいそうだった。それは、花と同化するというより、この色のなかに溶けてしまうような感覚。
紫は、リオネルの瞳の色だ。
アベルはそっと隣にいる青年を見やる。
この人の瞳がたたえる紫も、うっかり見惚れてしまったら、魅入られて二度と戻れなくなってしまいそうな美しさだった。
「気に入ってくれた?」
尋ねたのはリオネルだったが、視界を埋め尽くすものすべての美しさに、アベルはしばらく声が出せない。
吹きつける風にかすかな湿り気を感じたような気がして、ようやくわずかに現実感を取り戻すと、アベルはリオネルの瞳を見返して尋ねた。
「……わたしのために、ここへ?」
少女の問いかけには微笑だけで答え、リオネルはラベンダー畑へ視線を向ける。
「小さいころ、館を抜けだして、何度もこっそりここへ来ていたんだ」
リオネルの視線の先――このラベンダー畑の真中で、幼いころの彼が佇む姿が、アベルには目に浮かぶような気がした。
そのときリオネルは、どのような思いでこの景色を見ていたのだろう。
彼の瞳には、どのような風景が映っていたのだろうか。
アベルは遠い日のリオネルの姿に思いを馳せる。
「館の方々が心配されたでしょうね」
かすかに笑いながらアベルが言うと、リオネルの顔にもいたずらっぽい笑みが広がった。
「今から思えば悪いことをしたと思っている。戻るたびに父上に叱られた」
自分の監督を任されていた者はもっと叱られたのだろうが、と苦い口調で付け加えたリオネルに、アベルは尋ねる。
「ベルトランですか?」
監督者といえば、ベルトランだろうと思ったからだ。
「いや、ベルトランが来てからは行かなくなった」
「なぜですか?」
アベルの無邪気な質問を受けて、リオネルは困ったように、だが寂しげにラベンダー畑を見やった。