15
釈然としない気持ちを抱きつつ客間を辞し、ディルクはマチアスと共に池に向かった。
デュノア邸に到着したのは昼過ぎのことだ。伯爵との話が長引いたため、時刻はそろそろ日が暮れはじめるというころになっていた。
婚約とアンリエットの関係はわからないままである。
シャンティの死についてはともかく、アンリエットの件については、デュノア伯爵は偽りを語っているようには見えなかった。ならばアンリエットが婚約を後押ししたのは、伯爵とはまったく無関係の――彼の知りようもない事情ゆえということになる。
アンリエットとデュノア家をつなぐものが見つからない。
ではアンリエットは、気まぐれにアベラール家とデュノア家の婚姻に口出ししたのか。
否、それは考えにくい。アンリエットは賢明な女性である。なにか訳があったはずだ。
婚約とアンリエットの直接的な関係が見いだせない以上、シャンティを襲った運命から謎を解いていく必要がありそうだった。
けれど、こちらの切り口から紐解いていく作業は、ディルクにとっては苦しいものだ。
シャンティはなぜ死んだのか――。
それを考えるほどに、彼女の死に向き合い、己の残酷な決断を直視しなければならなかった。
もしシャンティの身を守っていたのが、アベラール家との「婚約」であったなら……。
自分のせいでシャンティを死なせたのではない。
――この手でシャンティを殺したも同然である。
デュノア伯爵と別れ、マチアスと二人きりになると、ディルクは再び寡黙になる。そのような主人を、マチアスは物思わしげに見つめた。
シャンティは生きている。
――アベルと名を変えて。
そう告げられたら、マチアスはどれだけ気持ちがらくになるだろう。
けれど、ものごとがそう単純には解決しないことをマチアスはよく知っていた。
真実を告げることで――真実を知ることで、人は救われるのだろうか。
違う。
十一年ものあいだ婚約していた女性を、親友のリオネルが愛していると知ったら、ディルクはどのような思いを抱くだろうか。それは、ディルクの揺るぎないはずの信条を揺さぶりうる、唯一の感情だろう。
彼は今以上に苦しむことになるかもしれない。
それに素性が周囲に知られたそのときには、アベルことシャンティは自分たちのもとにいられなくなる。アベルの性格からすると、マチアスはそのような予感がしてならない。
もしそうなってしまったら、真実を明かすことでいったいだれが幸福になるというのだ。
リオネルからも、アベルが女性であることは他言しないよう命じられている。
苦しいが、このままでいいのだ。
シャンティの身になにがあったかはわからない。
けれど、真実を追求しすぎれば、その先には残酷な運命が待っているような気がした。
ただ、主人が目の前で苦しみつづけるのを、そばで見ていなければならないマチアスもまた、辛いのだった。
橙色を帯びはじめた陽光が、デュノア邸の庭を包んでいる。
空にはぽつりぽつりと小さな千切れ雲が浮かんでおり、彼らは澄んだ水色の空を、帰り道を失ったかのように所在無げに流れていた。
帰る場所のある者は幸福である。
死んだものとされたシャンティは、今はリオネルのもとで、帰る場所を見つけられたのだろうか。マチアスが「ディルク・アベラール」という場所を見つけることができたように。
シャンティ・デュノアという女性についてはわからないが、同じように主人に仕える家臣として、マチアスにはアベルの気持ちが少しだけわかるような気がした。
小ぢんまりとしていながらも、管理の行き届いた花壇の脇を通り抜ける。
色とりどりの花や、花壇の向こうに茂る木々の緑は美しいが、ブレーズ邸の広大な庭園と比べれば、この庭では物足りなく感じられるだろう。
揺るぎない愛を貫いたすえにブレーズ家からここへ嫁いできたとき、ベアトリスはなにを思い、なにを感じたのか。
花壇が終わり、木立を奥へと進めば、その先にシャンティが眠る池がある。かすかに吹く冷やかな風が、池が近いことを教えてくれていた。
やわらかな木漏れ日が、踏みしだく地面にまだら模様を作っている。風が吹くたびに光のまだら模様は形を変え、地上の草木を気まぐれに照らし出していた。
視界が開けて池が見えたとき、ディルクとマチアスは即座に彼女らの存在に気がついた。
池のほとりで花冠を作っていたのは、若い侍女と、使用人とも貴族とも判断のつかぬ服装の婦人。
侍女と婦人は、ひとつの花冠を二人で作っている。三分の二ほどできあがっているその花冠は、薄紅色を基調としていた。
どこかで見たことのある花冠だと、ディルクは思う。
そのとき若者らの存在に気がつき、二人の女性は花冠を作る手を止める。
ディルクとマチアスの姿を目にした二人は、驚きと警戒心を顔に滲ませたが、先に年配の女のほうがディルクの顔をしばらく眺めたあと、はっとした表情になった。
「ごきげんよう」
ディルクは他愛のない挨拶をしたが、年配の婦人は狼狽したようにその名を呼んだ。
「ディルク・アベラール様……」
面識はない。
けれど名を聞かずとも、ディルクにもその人がだれなのかがわかった。
婦人らの目前まで来ると、ディルクは静かに尋ねる。
「貴女がエマ殿か?」
すると婦人は慌ててディルクから視線を逸らし、顔をうつむけた。
「ええ、わたしはエマでございます」
「シャンティ殿の乳母の……」
「はい、さようございます」
「なぜ私がディルク・アベラールだと?」
「あなたさまが、度々花を携えて池を訪れていらっしゃると、聞き及んでいたからです」
「なるほど――、そして貴女も花を?」
ディルクはエマの背後に立つ女性の手にある、作りかけの花冠を見やる。
「この者は、シャンティ様の侍女をしておりましたカトリーヌです。共に花を手向けることを思い立ちまして」
「なぜ花冠なんだ?」
「ええ、それは、お嬢様にお似合いになると思ったからでございます」
恐縮したというよりは、なにかにひどく怯えるように、エマはすべての質問に当たり障りなく答えていた。
それらの返答のなかで、ひとつだけエマは偽りを述べていた。
花冠を手向けようと思ったのは、シャンティに似合うと思ったからではない。
――夢を見たからだった。
少し大人っぽくなったように見えるシャンティが、秀麗で優しげな青年に花冠をかぶせてもらい、恥ずかしそうに――けれど幸せそうに笑っている夢を見た。
その夢から目覚めたときの幸福感といったら。
エマは布団の中で泣いた。
あんなふうにどこかでシャンティが幸せに笑っていてくれたら、どんなに救われるだろう。けれど、シャンティが死んだと聞かされている彼女にとっては、それは儚い願いだった。
エマは夢の話を侍女だったカトリーヌに伝え、夢のなかに出てきた花冠を実際に作ってみることにしたのだ。池に眠るシャンティに贈るために。
「皆、花冠が好きみたいだね」
ディルクは背後のマチアスに向けて笑った。
「五月祭を思い出すよ」
「ええ、ディルク様」
「なんだかこの花冠も、あいつが作ったものに似ている気がするし」
「本当ですね」
マチアスはカトリーヌが持つ花冠に視線を向ける。
実際にそれは、リオネルがアベルに贈った花冠と不思議なほど酷似している。
なにかの偶然だろうか。
それとも、なにかの魔法だろうか。
「私も花を用意してきたんだ。一緒に手向けさせてもらえないだろうか」
「もちろんです。どうぞお願いいたします」
丁寧だが、けっして顔を上げず、視線を合わせようともしないエマの態度は、ディルクと話をすることを避けるようにも見えた。
その態度が、ディルクにとっては気にならないはずがない。
すぐに花を手向けると思っているのか、池の畔に突っ立ったまま黙っている二人に、ディルクは言った。
「貴女たちが花冠を作り終えるまで待っているよ。このあと急ぐ用事があるわけではないから」
言われたことが理解できず、しばし二人はぽかんとした顔になる。けれど、すぐに状況を飲み込むと、エマはすかさず頭を下げた。
「お気遣いは大変ありがたく存じますが、わたしたちがこれを完成させるまでには、まだ大変な時間がかかります。ディルク様はどうぞお先に」
「時間がかかるなら、手伝わせてもらえないかな。私もシャンティ殿に花冠を贈りたい」
エマが束の間、口をつぐんだのは、返答に迷ったからではなかった。
生前のシャンティがディルクのこの台詞を聞いたら、どれほど喜んだだろうかと思ったからだ。そう思えば、胸が詰まり、瞼の奥が熱くなる。
いつか見た夢のなかの青年の姿が、たちまちディルクの姿と重なって思い起こされた。
だから、うなずいてしまったのは不承不承だったわけではなく、シャンティのためだったといっていいだろう。本来であれば断るべきであったのに。
「ありがとうございます。シャンティ様もあなた様が共に作ってくださったと知れば、どんなにかお喜びになることでしょう」
背後に立っていたカトリーヌが、無言のままエマの背中を見やったのは、驚きの意味だったのか、抗議の意味だったのか――。
ディルクはエマやカトリーヌに教えてもらいながら、花冠を作った。
はじめて作ってみて、ディルクは花冠を作るということの真価を知ったような気がした。
一本一本花を結わいていく作業は、すなわちその都度、この花冠を贈る相手を想うことであった。
愛らしい花を、冠にひとつずつ加えるごとに、想いを込めるのだ。
この作業を最初から最後まで、従騎士のアベルのために行ったリオネルのことを考えると、ディルクはやや恐ろしいような心持ちがするのだった。
――あの幼馴染みは、己の家臣にどれほどの思い入れがあるのか。
先程からだれも言葉を発していない。
ただ黙々と花冠を作っている。
マチアスはそばにいるだけだが、残り三人で作っているので作業は思いのほか早く進む。
もうすぐで完成するというところで、花の茎を結びながら、ディルクはさりげなく話を切り出した。
「エマ殿、ひとつ、うかがいしたいことがあるのだが」
はっと顔を上げたエマは、一瞬だけひるんだような表情になったが、それを押し隠すかのように再びうつむき、
「ええ、なんでもお聞きくださいませ」
と答える。
婚約が成立した経緯や、ベルリオーズ公爵夫人アンリエットのことを、この乳母が知りようはずがない。ならば、彼女の口から確かめられそうなことは次のことだけである。
「シャンティ殿が亡くなられた日のことを、教えてはくれないか」
シャンティを赤ん坊のころから育てたエマなら、その愛情から、なにか真実を語ってくれるのではないかとディルクは思った。
「亡くなる直前の、ご令嬢の様子を」
しかし、反応はディルクが想像したより意外なものだった。
隠しようもないほどの驚きを顔にたたえ、エマはディルクを見上げた。
驚いたのはディルクのほうである。このような顔をされるほどのことを、自分は尋ねただろうかとディルクは思う。
それとも彼女がこんなに驚かねばならぬほどの出来事が、その日、デュノア邸では起こったのか。
エマはただ驚いたのではない。――その瞳には、たしかに恐怖をたたえていた。
なにか答えようとエマは口を動かすが、声が出ない。
そして視線を花冠に落として、ようやく声を発することができた。
「ああ、あの日のことですね」
と。
しかし、それきりエマはなにも答えない。
しびれを切らしてディルクは再び尋ねた。
「シャンティ殿が亡くなった日、なにかあったのか」
エマは黙したまま花冠を見つめ、必要以上に花の茎を巻きつけていた。
しばらく返答を待っていると、答えの代わりにエマの手が震えだす。
そしてそれを抑えようとするかのように、エマは震える両手を胸元の首飾りへとのばした。
それが深い青紫色の宝石であることを、ディルクはたしかにみとめた。
「エ、エマ様はお身体が優れないのです」
侍女が慌ててエマの身体を抱きしめる。
「もう館に戻りましょう、エマ様」
大変失礼いたしましたと、カトリーヌはディルクに告げ、エマを支えて立ち去ろうとする。けれど、ディルクは思わずカトリーヌの腕を掴み、引き留めていた。
「シャンティ殿が死んだ日、ここでなにがあったんだ。教えてくれ」
大きく開かれたカトリーヌの瞳が、形容しがたい色を浮かべてディルクを見返す。
「彼女の身に起こったことが知りたい。彼女が感じていたことを知りたい。それが、私が今唯一彼女のためにできることだから」
エマを支えていたはずのカトリーヌが、ふらりと揺れる。
二人を助け起こそうとしたディルクの手を、しかしカトリーヌは跳ね除けるように拒絶した。彼女の瞳にはたちまち涙がたまり、そして、ぱらぱらと落下した。
「シャンティ様の痛みは、あなた様にはわかりません」
「…………」
「憧れ続けた相手から一方的に婚約を破棄されたうえに、伯爵様からはそのことで責められ、叩かれなければならかったお嬢様の痛みは――」
「おやめ!」
エマがほとんど悲鳴を上げるような声で叫ぶ。
「おやめ、カトリーヌ。なにを――なにを言うんだ」
後半は、半ば呆然としたようにエマはつぶやいていた。
しかし一度口に出てしまったものは取り返せない。
「責められ、叩かれた……?」
ディルクは信じられない心持で侍女の言葉を繰り返す。
シャンティが死んだ日、彼女がデュノア伯爵に暴力を振るわれたなど、これまでだれも口にしなかった。デュノア伯爵自身はむろんのこと、伯爵夫人も、執事も使用人らも、カミーユやトゥーサンでさえも。
伯爵に口止めされていたのか。
――それが、真実なのか。
「お部屋から引きずり出され……そのあとです、お嬢様が池で溺れたのは」
泣きながらカトリーヌは答える。
エマはもうなにも言わなかった。
「なぜ、おれが婚約破棄をしたら、彼女が責められるんだ」
「伯爵様は、そういうお方です。昔はそうではなかったと……いつかの時点で、伯爵様は人が変わってしまわれたと、古くからの使用人から聞きました」
「――――」
降り落ちた静寂の後、ディルクは左手で顔を覆う。
「――なんてことだ」
日が沈んでいく。
木立も池も色を失い、あたりに忍び寄る闇に、命あるものもそうでないものも、その輪郭を失いはじめていた。
父アベラール侯爵が語った不可思議な話の謎が解けたわけではない。
けれど、それを探る途中で知りえた事実は残酷なものだった。
シャンティを襲った悲劇。
「婚約」が彼女を守っていたのか、それとも、「婚約」をしていたからこそ彼女はこのような目に遭ったのか――ディルクにはわからなかった。
「違うのですよ、ディルク様……けっして、けっして貴方のせいではありません」
エマが放心したように繰り返す。
「ディルク様に、罪はないのです。罪深いのは、このエマです。シャンティ様をお守りできなかったこのわたしが罰せられるべきなのです……ディルク様のせいではありません――悪いのはすべてわたしです。ああ、シャンティ様……」
繰り返す声はまるで神に祈るようでさえあり、エマの心はもはやこの地上には存在しないかのようであった。
錯乱しているようにしか見えないエマに、カトリーヌは優しく声をかけながら館へと促す。二人は一度も振り返ることなく、薄暗い木立から姿を消した。
ディルクのせいではないと繰り返すエマ。
では、いったいだれのせいなのだ。
元凶は、どこにあるのか。
対立する政派間の婚約を望んだことがそもそも間違いだったのか、婚約は成立しなければよかったのか、破棄しなければ何事もなくすんだのか、それともまったく別の元凶によりすべては起こるべくして起こったのか。
夕陽が西の大地に沈む。
地上と水面の境目が曖昧になりつつある池の畔に膝をつき、弔花を水の上に浮かべたが、ディルクは祈ることができなかった。
どんな言葉を、彼女にかけられるだろう。
ディルクは項垂れた。
シャンティのために、なにもしてやれないことが無念だった。
「ディルク様は――」
マチアスが落ち着いた口調で語りかける。
「――充分な償いをしてきたのではないでしょうか」
薄茶色の瞳は、ただ池の底を見つめるようだった。
「貴方がこれ以上ご自身を責めることを、シャンティ様は望んでいらっしゃらない――私は、そのような気がいたします」
マチアスの声が、闇に溶けていく。
黒々として、底知れぬ恐怖をたたえた池には、ひとときの幻のように、色とりどりの花束と、薄紅色の花冠が静かに浮かんでいた。