14
馬の鬣が、なびいている。
風は暖かい。
馬をかけているあいだ、ディルクは寡黙だった。
彼が元婚約者の家であるデュノア邸に赴くことを決めたのは、ベルリオーズ邸を去り、アベラール邸に到着してから三日も経たぬうちのことである。
ベルリオーズ邸で父侯爵から聞いた話が、少なからずディルクを落ち着かなくさせていた。
ベルリオーズ公爵夫人アンリエットが、亡くなる一年ほど前に、シャンティとディルクの婚約を取り持った。そのことに、どのような意味があるのか。
アベラール家。
デュノア家。
ブレーズ家。
そして、ベルリオーズ家。
貴族間の複雑な関係のなかにいた、ひとりの少女。
アンリエットが、彼女とディルクの婚約を望んだ理由はいったいなんだったのか――。
主人らよりも真実に近い場所にいるマチアスでさえ、それは見当もつかないことだった。
シャルムでは珍しく、湿気を帯びた生温かい風が吹いている。
夏が来る。
大陸全土に住む人々が焦がれる夏。
――と同時に、夏は嵐の季節でもある。
なんの前触れもなく雷雨に襲われることが、この季節にはしばしばある。
一切の表情を消し去ったまま、ディルクはひたすら無言で馬を駆けていた。
アベラール領の中心都市セレイアックから南西へ。
婚約者であったシャンティが亡くなってから幾度も訪れている、デュノア領マイエ。
馬を駆ければ半日ほどで辿りつけるこの場所に、なぜもっと早く行かなかったのかとディルクは思わずにはおれなかった。
――なぜもっと早くに、シャンティに会いにいかなかったのか。
会っていたら、彼女を救うことができたのかもしれない。
十一年ものあいだ婚約していたというのに、自分は彼女の顔も声も知らない。髪の色も、瞳の色も、どんなふうに笑うのかも、どんなふうに怒るのかも。
ハンカチと押し花を贈ってくれた少女がこの世を去ってしまった今、幾度デュノア邸を訪れたとしても、彼女が生きていたころの姿を知ることはできないのだ。
マイエに向かう二人の若者は始終押し黙っていたが、デュノア邸に到着してその門をくぐると、ディルクは普段どおりの明るい表情を浮かべて城主らに挨拶した。
……奔放な主人ではあるが、処世術についてはマチアスも学びたいところがある。
客間に通され、互いの近況や山賊討伐についてなど話すべきことをひととおり話し終えると、ディルクが用件を切り出すまえに、伯爵のほうから質問が投げかけられた。
ディルクもマチアスも予測していたことである。王都から戻ったばかりのディルクから、従騎士として王宮で生活する嫡男カミーユの様子を聞きたいと願うことは、当然のことだろう。
「ところで王宮では、カミーユとはお会いになられましたかな」
「ええ、もちろん」
ディルクは笑顔で答えた。
「大変元気な様子でした」
デュノア伯爵は「さようですか」とうなずきながらも、さらなる説明をディルクに期待するようである。
伯爵が求めているものを知りながら、ディルクはあえて別の話をした。
「ご子息はしばらく見ないうちに背が伸びましたね。近衛の制服がとても似合っていました」
可能なら、ディルクは相手が求める話題に触れたくなかった。けれど、デュノア伯爵はそれを許してはくれないようだった。
「背は伸びても、中身が伴わねばどうにもなりません」
「…………」
「カミーユが、ジェルヴェーズ殿下のご不興を買ったという噂を聞きましたが、ディルク殿が参られた折はどのような様子でしたか」
やはり伯爵はこの件について、ディルクから話を聞きたかったのだ。
カミーユがジェルヴェーズから買った不興――。
それは二度ある。
ディルクはその二度の出来事を、カミーユの口から聞いて知っていたが、おそらくデュノア伯爵が耳にした「噂」というのは最初の事件だろう。
女中を処刑するようにという命に背いたため、カミーユはジェルヴェーズに首を刎ねられかけたが、ノエルとフィデール両名の助命嘆願により死を免れたのである。
この話を、デュノア伯爵はどこからか聞き及んでいるようであった。
「私はその一件が起こった際には、王宮にはおりませんでしたので」
はぐらかすふうでもなく、ディルクは事実だけを述べる。
「ですが私が赴いた折には、カミーユ殿はノエル殿に従い、自らの務めに忠実に励んでいるようでした。私には、彼が浅はかな考えから問題を起したとはとても考えられません。ジェルヴェーズ殿下のご気性は、伯爵殿も聞き及んでいるとおりです。ご不興を被ることになったのは不運でしたが、カミーユ殿が責められるようなものではなかったと、私は思います」
客人の話を聞き終えたデュノア伯爵は、溜息交じりに低く唸った。
政治感覚に優れた人物にとって、他の貴族、まして王族とのあいだに諍いや問題が生じることは赦しがたいことなのかもしれない。
「殿下のご気性であるからこそ、その下で働く者は誠意を持ってお仕えすると同時に、不始末がないよう細心の注意を払わねばなりません。そうは思われませんか、ディルク殿」
問われてディルクは黙した。
性格が破綻しているとしか思えぬあの王子のご機嫌をうかがいながら日々生きなければならないとしたら、それは奴隷に下ったと同然である。
ならば、剣を手に取り戦うか、それができないならば舌を噛み切ったほうがましだと、ディルク自身は思う。
けれど、デュノア伯爵の考えは少し違うようだった。
国王派及び王弟派の双方と良好な関係を築くことで、国境沿いの自領を守ろうとするこの男を前にすると、自分より位の高い者であっても気に入らない相手には従えないと考える自分は、まだまだ甘いのだろうかとディルクは感じる。
それが若いゆえであるならば――年齢を経るごとに守るものが増え、長いものに巻かれるようになっていくというならば、人間とは哀しい生き物だ。
大切なものを守るために、自分にとっては「魂」に最も近い場所にある大事ななにかを捨てなければならないのだから。
「カミーユは、昔は大人しく素直な性格でした。かつてのカミーユならば、殿下のご不興を被るような生意気な態度はとらなかったでしょう。いつからでしょうか、カミーユはシャンティのように気が強く、融通の効かぬ性格になってしまいました」
愚痴をこぼすようにぽろりと伯爵の口からこぼれた言葉は、しかし、ディルクにとっては聞き流すことのできないものであった。
「気が強く、融通が効かない?」
死した娘に対する言葉にしては、ずいぶんと冷たい言いようである。
デュノア伯爵はわずかに眉を寄せて答えた。
「ええ、シャンティは気の強い娘でした。自分が納得できないことがあるとすぐに反発し、私が強く叱っても、言葉では謝罪するのですが、顔には『自分は悪くない』と書いてあるような者でした。それに比べ、カミーユは素直に反省するような子です」
意見の述べようがなく、ディルクは閉口した。
一度も会ったことはないが、「婚約者」として慕っていた娘である。婚約破棄をしてまで、守ろうとした少女である。
今は亡きその人を、実の父親が厳しく評したのだ。
ディルクは複雑な思いがすると同時に、伯爵に対して不快感を覚えずにはおれなかった。
自分が納得できないことに反発してなにがいけないのか。
けっして逆らうことのできぬ父親に対し、娘が口では謝罪しなければならなかったのは当然のことである。自らの正当性を信じる者にとり、それはどれほど悔しいことか。
一方マチアスの脳裏には、伯爵の話から実際にその光景を見たことがあるかのように、ひとりの人物が目に浮かんだ。
融通が効かないと思わせるほどに、まっすぐな性格の少女。
たしかに気が強いところもあるし、純粋だからこそ、納得できないことについてはだれに対してもその考えを曲げない。
――アベルその人ではないか。
自分は端から疑っているからそう思うのだろうか。この話を聞き、なぜ己の主人がアベルのことを思い出さないのか、マチアスには不思議に感じられてしかたがなかった。
つまりそれだけ、ディルクにとって「シャンティ」の「死」は衝撃的な出来事であり、死した彼女の存在と、生きている少年「アベル」とは結びつきようがないのかもしれない。
黙りこくったディルクの様子になにか気がついたのか、デュノア伯爵はさりげなくつけくわえた。
「女というものは、皆、気の強いところがありますから。特に城の奥で育てられた娘というのは、世間知らずで我儘になります。いえ、女性だけではなく、カミーユも大事に育てすぎたのかもしれません。少し王宮で、荒波にもまれてくるのも良い経験になるでしょう」
すっきりとしない面持ちのまま、ディルクは一瞬だけ笑顔を見せて「ええ」と答えると、ちらと背後にいる従者を振り返った。
厳密に言えば、己の従者が手にしているものを見たのである。マチアスの手には、甘い香りを放つ可憐な花束があった。
相手の視線につられてデュノア伯爵が花束を見やる。
「そうでした。ディルク殿はシャンティを弔うためにここへいらしたのでした。長いこと私の話につきあわせて申しわけありません」
「いいえ。ご令嬢の話を聞くことは、私の喜びです」
ディルクがそう返事をすると、デュノア伯爵は複雑な面持ちになる。婚約の破棄を申し出たのはディルクだ。娘シャンティに対し好意的な感情は抱いていないと信じているはずだった。
弔花を手向けるのは、罪の意識から――。そう信じていた伯爵にとっては、先程のディルクの言葉は不可解である。
さらに、ディルクが発した質問はさらに不可解であった。
「ひとつ、うかがってよろしいでしょうか」
「なんなりと、ディルク殿」
「今となっては遥か昔の話なのですが――」
ディルクは束の間、言葉を溜めてから尋ねる。
「――私とシャンティ殿の婚約は、伯爵殿がお望みになったことだったのでしょうか」
束の間、質問の意味がわからぬかのように、デュノア伯爵はディルクの顔を見た。正確には、質問の意味ではなく、なぜそのようなことを問うのか――質問の意図がわからなかったのだ。
伯爵は、それまでよりわずかに表情を固くしたものの、
「ええ、そのとおりです。私が望んだことです」
と答える。ディルクとマチアスが聞くかぎり、少なくともその言葉に偽りの響きはない。
「なぜそのようなことをお尋ねになります?」
「過去の話で恐縮です」
言葉を濁しながらも相手の疑問には答えず、ディルクは再び質問を投げかけた。
「もうひとつうかがってもよろしいでしょうか」
デュノア伯爵は是とも否とも答えないので、それを都合よく「是」と受け止め、ディルクは言葉を続けた。
「伯爵殿は、ベルリオーズ家に嫁いだアンリエット様をご存じでしょうか」
今度こそ伯爵は、怪訝な面持ちで眉を寄せる。
「……ベルリオーズ公爵夫人は、もう十年以上前に亡くなられた佳人ですね」
「ええ、現トゥールヴィル公爵様の姉君にあたられる方です」
「王宮で催された舞踏会ではお見かけしたことがありますが、言葉を交わしたことはありません。アンリエット様のほうは、私のことなど顔も名もご存じなかったでしょう」
それもそうだろう。
デュノア伯爵は、辺境の領主でありながら、舞踏会や宴に出席すれば少なからず貴婦人から注目を浴びた。
男前でありながら、硬派な雰囲気をまとい、積極的に恋愛に身を投じないものの、女性への礼節を怠らない真面目な態度――それが女性を惹きつけたのだ。
政治感覚に優れた男というものに、女は敏感なのかもしれない。伯爵に心惹かれた貴婦人らのなかでも、最も彼に惚れ込んだのは、言うまでもなくブレーズ家令嬢ベアトリスである。
ベアトリス本人も人目を引く美しい娘であり、数多の求婚の申し出があったが、彼女は望まれるがまま嫁ぐでもなく、また政略結婚でもなく、自ら夫を選んだ。そのとき彼女の父母がすでに他界し、実兄が公爵となっていたことも自由な結婚を可能にしたひとつの要因だろう。
けれど結婚に至るまでには時間がかかった。一部の貴族から反対があったことや、それ以外にも双方の家による事情があり、ベアトリスの愛が形として実ったのは、彼女と伯爵が共に二十三歳のころである。
大貴族ブレーズ家と辺境の伯爵家の、身分違いの婚姻。そのような関係にある以上、デュノア伯爵がアンリエットと話すことなどできようはずがない。アンリエットは、ブレーズ家の宿敵ベルリオーズ家に嫁ぐことが決まっていたのだから。
「公爵夫人がなにか?」
「いえ、美しい方だったので、ご存じかと思いまして」
適当に答えたとしか思えぬディルクの言葉に、伯爵はやや困惑した様子だった。
「それはむろん、大変にお美しい方でしたが」
――だからといって、それがなんなのか、と伯爵は内心で首を傾げるようである。
「最後にもうひとつ」
次にはなにを聞かれるのかと、伯爵は身構える。
「シャンティ殿が亡くなった日のことをおうかがいしたいのです」
「死んだ日……?」
虚を突かれたようにデュノア伯爵は問い返した。
「ええ、池に足を滑らせる直前のシャンティ殿の様子を、教えていただけませんか」
「そのようなことを聞いていかがするのです」
伯爵は苦笑めいた笑みを浮かべる。
「あの日のことは、あまり思い出したくないのです」
かつてデュノア伯爵は、「娘は、婚約の解消のことを知らずに死んだ」とディルクに語ったことがある。伯爵がアベラール邸へ赴き、そして婚約を解消するという話をデュノア邸へ持ち帰ったときには、すでにシャンティは池で死んでいたということになっていた。
けれど、これまでのカミーユの態度は、けっしてそうではなかったことを明示している。カミーユは気持ちが乱れるたびに、ディルクを責めてきた。
――人殺し、と。
「人殺し」という言葉は、婚約の解消を知ったがために死んだからこそ、口に出るものだ。
周辺所領との関係を重視する伯爵と、純粋なカミーユ。
どちらの態度が真実を語っているかは瞭然としている。
ならばデュノア伯爵は、少なくともシャンティが婚約破棄を知らずに死んだと語っている点では、嘘をついていることになる。
デュノア邸の池に咲く蓮の花を見に行き、足を滑らせて、池のなかに落ちたシャンティ。
池の畔に残されていたシャンティの手籠と、水中から出てきた靴や耳飾り。
それらが語るものはなんなのだろうか。
「辛い記憶であると思います。ですが、シャンティ殿の思いを知りたいのです」
「いいえ、ディルク殿。娘の想いとおっしゃりますが、あれは事故だったのです。あの子は婚約の破棄のことも知らなかったのですから。それに私はあの日、貴方のお父上のもとへ行っており、シャンティの姿を目にしてはいないのです。残念ながら、お話しできることはありません」
「そうですか……」
答えつつ、ディルクは相手の表情をうかがった。
池に落ちたことが事故だったか自殺だったかは、確かめようがないことだ。だが伯爵はなぜ、シャンティが死んだのが婚約破棄を知ったあとだったということを、隠そうとするのか。
事を大きくしないためか。
それとも、ディルクの心情に配慮しているのか。
いや、デュノア伯爵はもうひとつ嘘をついている。
婚約破棄をシャンティが知っていたとすれば、その日、彼女は伯爵がデュノア邸に戻ってから死んだということになる。
先程のデュノア伯爵の返答――シャンティが死んだ日、自分はアベラール邸に行っていたため、彼女の姿を目にしてはいないと言ったことも、嘘になる。
それともカミーユが単に逆恨みしていただけで、本当にシャンティは婚約破棄を知らずに事故に遭っただけなのか。
――そんなことがあるのだろうか。