13
浅く溜息をつくと、アベルも最上階へと駆けあがる。
二歳と二ヵ月になったイシャスは、もう赤ん坊というより、子供と呼ぶべき存在となっていた。
危なげなく歩き、走り、周囲の言っていることの大半を理解し、言葉もたどたどしいながらしっかりと話す。子供の成長とは驚くべきものだとアベルは感じた。
自分が二歳のころの記憶など残っていはいない。また、カミーユが二歳であったころの記憶も曖昧である。
二歳という年齢の幼児がこれほどまでにしっかりとした存在であるとは、アベルにとっては新鮮でもあり、そしてなにかおそろしくもあった。
イシャスが、「アベル」という存在をどう捉えているのか――母親がだれなのか、どうして父親がいないのか、そういったことを理解しうる年齢になってきているということに、アベルは戸惑うのだ。
そして、彼のなかに、アベルさえ見たこともない、彼の父親の面影を見ることが怖い。
「お母さん」――そう呼ばれることは、怖かった。
けれど、人間の気持ちとは、そう単純なものではない。
本当の気持ちなど、本人にもわかりはしないのだ。
その証拠に、母と認識されることを恐怖しながらも、イシャスがエレンを「ママ」と呼んでいるのを耳にすることは、アベルにとって複雑な思いもある。
未知なる存在であるにもかかわらず、イシャスは紛うことなく己の腹を痛めて産んだ子だった。
愛しているのかもしれない。
――愛していないのかもしれない。
愛されたいのかもしれない。
――愛されたくないのかもしれない。
けれど、自分がどのように感じようと、実の「母」であるという事実には変わりなく、それと同時に、自分はイシャスを育てることよりも、ベルトランの従騎士となってリオネルのそばにいることを優先させたのだという事実にも変わりはなかった。
たとえイシャスへの愛を自覚したとしても、イシャスから愛されることを望んではいけない。そのことを、アベルはよく理解していた。
一方で、成長するにつれてはっきりとしてくるイシャスの容姿の特徴は、わずかにアベルを安心させた。
眩い金糸の髪は、アベルによく似ている。
そして、その瞳の色。
笑い方。
何気ない表情。
それらは、自分よりもむしろ、カミーユや、母ベアトリスに似ている気がした。
イシャスのなかに垣間見える懐かしい家族の面影に、アベルは時折とてつもなく愛おしく、そして切なくなるのだった。
大階段をアベルが登りきったとき、イシャスの姿は最上階の回廊から忽然と消えていた。
いや、まさか消えるはずがない。
アベルはいやな予感がした。
最上階にあるのは、領主一族の寝室や書斎、それに賓客室である。
このようなところで「いたずら」をされては一大事である。リオネルの書斎にある飾り物のひとつでも壊したら、アベルが一生働いても弁償することはできないだろう。
「イシャス、どこ? 出てきなさい」
廊下は静かだった。
追いかけっこのあとは、かくれんぼのつもりだろうか。
「イシャス……イシャス」
やや声の調子を落としながら、アベルは名を呼ぶ。リオネルやベルリオーズ公爵がいるだろう部屋の周辺で大声をあげるわけにはいかないからだ。
最上階にあるいくつかの部屋は、扉が開け放たれている。熱を帯びた空気と、斜めから差し込む陽光によって部屋が蒸し暑くなるため、窓と扉の双方を開けて風を通しているのだ。
リオネルの部屋の前をそっと通り過ぎる。
彼の部屋の扉がかたく閉ざされているのは、政務に集中するためだろうか。
まさかイシャスが自分で取手を握って扉を開けることはできないだろうから、出入口が開いたままになっている部屋だけを捜索し、小声で名を呼びながらアベルは回廊の奥へと進んでいった。
もちろん、彼女が通る気配にリオネルやベルトランが、気がつかないはずがないのだが、アベルはイシャスを探すことに必死でそのことには思い至らない。
そして廊下が突き当たり、左にしか曲がることができなくなったとき、アベルはうろたえた。
この先にはベルリオーズ公爵の部屋がある。
家臣といえども、むやみに近づくことはできない。
もしイシャスがこの先へ行ってしまっていたとしたら、衛兵に止められ、こちらまで連れてこられているはずだ。イシャスはこれまでに通りすぎた部屋のどこかにいるに違いない。
そう判断してアベルが踵を返しかけたときだった。
――回廊の左奥から、笑い声が聞こえた。
まぎれもなく、それはイシャスの声。
アベルの顔面が蒼白になったのも無理はない。
この先にあるのは、公爵の寝室と書斎――。
青白い顔で廊下の先を見やったアベルの瞳に、信じられぬ光景が飛び込んできた。
二歳ほどの幼児が、長身の逞しい腕に抱かれている。
抱いているのは、ほかでもない、ベルリオーズ公爵その人。
おそろしいことに、公爵の顔を叩いたり、前髪や口髭を引っ張ったりして楽しげな笑い声をあげているのは、ほかでもない息子のイシャスだった。
彼らの周囲で、衛兵がどうしてよいものか戸惑っている。
なぜ衛兵らはイシャスを止めてくれなかったのか。
想像を絶する光景に、あわやアベルは悲鳴をあげるところだったが、その衝動をどうにか抑えてイシャスのもとへ駆け寄る。
「イ、イシャス! なんてことを」
慌てるアベルを笑顔で振り返ったイシャスは、
「これ、ひっばる」
と意味のない宣言をして、再び公爵の短い口髭を遠慮なく指先で引っ張って遊びはじめた。
痛みに軽く顔をしかめながらも、ベルリオーズ公爵はイシャスを叱ることはしない。
「申しわけございません!」
アベルは必死で謝罪し、公爵の腕からイシャスを引き取ろうとした。
だが、留め金でくっついているかのように、イシャスは公爵にしがみつき、離れようとしない。その力たるや、驚くほどである。
「イシャス、だめです、いいかげんにしなさい」
幾度か厳しい口調で叱ると、イシャスは顔をくしゃくしゃにして、今にも泣きだしそうな顔になった。
泣きたいのはアベルのほうである。
イシャスが館に住まっていること自体が規則違反であるのに、加えて、公爵に対しこのようなことをするとは。二人とも館を追い出されても文句を言えない事態だ。
そのとき、
「アベル」
廊下によく通る声が響く。
泣きそうな顔で振り返ったのはイシャスではなく、アベルのほうだった。
廊下に現れたのは、リオネルとベルトラン。
リオネルの瞳に飛び込んできたのは、ベルリオーズ公爵の髭を掴んだまま泣き出す寸前の顔のイシャスと、なんともいえぬ表情の公爵、うろたえる衛兵らと、そして、困り果てたアベルの姿である。
「父上……」
つぶやくリオネルの声は、笑いを押し殺していた。
もちろんアベルにとって非常事態であることは理解できるが、子供を腕に抱き、髭を掴まれたまま困惑する父公爵の姿は、リオネルにとっては新鮮であり、おかしくもある。
「髭は痛くありませんか?」
「痛いというか……なぜ、この者がここにいる」
痛いかどうかという質問に対する公爵の返答はどこかはっきりとせず、だが、イシャスが最上階にある自室に入り込んだことについては、だれに対するともなく咎めるような口調だった。
それは、監督が行き届いておらぬアベルに対し、もしくは入室を許した衛兵らに対して責任を追及しているようにも聞こえる。
「走り回る子供をひとりで見きれるものではありません。それに、イシャスを厳しく叱ったりしないようにと衛兵らに命じたのは私です。彼らがイシャスを止められなかったのは、私の責任です。申しわけございません、父上」
クレティアンに対してリオネルが謝罪すると、衛兵らはひどく恐縮した様子になり、アベルは複雑な表情でうつむく。
謝罪されたクレティアンはひとつ溜息をつき、そして、しかたなさそうに腕のなかの子供を見やった。
すると、公爵に見つめられたイシャスは、すっと泣き顔を改め、満面の笑みを浮かべる。
クレティアンが苦笑いしたのは、イシャスの笑みにつられたとしか言いようがなかった。
「アベルに似ているな」
思いもよらない公爵のつぶやきに、リオネルは笑顔で「そうですね」と答えるが、アベルは黙していた。
それからクレティアンはなにも語らずイシャスをアベルに預けると、踵を返し、自室に向けて歩き出す。イシャスのほうも抵抗せず、おとなしくアベルの腕に抱かれていた。
衛兵らがリオネルに向けて一礼し、公爵を追って去っていく。
残されたのは、イシャスを抱くアベルと、リオネル、そしてベルトランだった。
「扉の前をきみが通る気配は感じたのだけど、イシャスには気がつけなかった。おれが気づいていれば止められたのに、すまなかった」
アベルは首を横に振る。
至らなかったのは自分だ。
自分がもっとしっかりしていれば、イシャスを公爵の部屋まで行かせることはなかった。
「いいえ、リオネル様のせいではありません。お騒がせして、申しわけございませんでした」
気落ちした様子で謝罪するアベルの腕のなかでは、イシャスが、光を紡ぎあげたようなアベルの髪を持ち上げてはふわふわと落ちる様子をじっと眺めている。
先程から同じ動作を繰り返しては、輝く髪を見つめていた。
そんなイシャスの様子をちらと見やってから、リオネルは視線をアベルへ戻し、安心させるかのように柔らかくほほえむ。
「父上もけっして怒っていたわけではないから。気にすることはないよ」
アベルは返事ができなかった。
気にしなくてよいと言われても、気にならないはずがない。
うつむいたアベルの顔を、リオネルは花に触れるかのような優しい仕草で触れて、上向かせた。
リオネルにそうされていることが恥ずかしくなり、アベルは頬を染めるが、目の前の相手はいたって冷静で、そして真剣だった。
「アベル。いいか。子供の行動は予測できない。家族だろうと他人だろうと周囲にいる者皆で、子供を守らなければならないんだ。その子が行ったことが、すべてたったひとりの監督者の責任であっていいわけがないんだ」
「…………」
「きみは面倒を見ることを怠っていたわけじゃない。エレンが倒れてからアベルは頑張っている。そのことを、おれは知っているから」
――あとは、自分で自分を赦すだけだ。
目の奥が熱く感じられて、アベルはイシャスの柔らかい身体に軽く顔を押しあてる。
泣いてはいけない――。
何度、主人のまえで涙を見せるつもりなのか。
そう自分を叱咤しながら、アベルは小さな声で答える。
「……リオネル様は、わたしを甘やかしすぎです」
「アベルが自分に厳しすぎるんだ」
そう言ったリオネルの声はどこまでも穏やかで。
ふわとアベルはなにかに包まれたと思ったときには、リオネルはイシャスごとアベルを軽く抱き寄せ、そしてイシャスの髪にそっと口づけていた。
「前にも言ったけど、イシャスのことはおれが責任をとる」
透明感のある香りが、アベルの思考を麻痺させる。泣いてしまいそうだったことも、一瞬のうちにアベルは忘れていた。
「だからアベルは、なにも心配せずにただイシャスと遊んでいたらいいんだよ」
自分が抱き寄せられたのか、それともイシャスが抱き寄せられただけなのかわからないまま茫然とするアベルを、リオネルは解放し、そして歩きだすよう軽く背を押して促した。
促されてはじめてアベルは気がつく。いつまでも公爵の部屋のそばでぐずぐずしているわけにはいかないのだ。
書斎の前まで共に歩むと、リオネルはイシャスの髪を撫で、
「あまりアベルを困らせてはいけないよ。時間ができたら遊んであげるから」
と、優しく語りかけてからアベルへと視線を移した。
「イシャスとの約束を守るためにも、早く仕事を終わらせるようにするつもりだ」
主人が処理せねばならぬ仕事の量を知らぬアベルではない。とても「早く終わる」ようなものではないはずだが、そう言ってくれるリオネルの気持ちが、畏れ多いと同時に嬉しくもあった。
「ありがとうございます、リオネル様」
暴れまわって疲れたのか、腕のなかでは、イシャスがアベルの髪に触れたままうとうととしはじめている。
窓の外では初夏の太陽が沈み、闇があたりを支配しつつあった。
廊下の壁や絨毯は黒く滲んでいるが、開け放した窓から吹き抜ける風はまだ暖かかい。
リオネルとベルトランが書斎へ入っていく。
眠ってしまったイシャスの重さと、訪れた静寂、そして頬を撫でる風の温もりに、アベルはわずかにほっとした。
従騎士であり、母親でもある少女がひとときの安堵を得る。
立ち入ってはならぬ場所へ踏み込んだといっても、所詮は子供の他愛ないいたずらである。クレティアンもそのことは充分に承知していたし、この事件はそのまま何事もなく収束するはずであった。
けれど、イシャスが公爵の部屋まで侵入したことを、すぐに衛兵らから聞きだし、噂を広めた者がいた。
――ジュストである。
彼がこの一件について密かに周囲に吹聴したのは、最終的に特定の人物の耳に入れるためだった。
その人物とは、アベルに対し嫉妬と嫌悪感を抱く騎士たち――ジェローム・ドワイヤン、ロベール・ブルデュー、トマ・カントルーブ、そしてオクタヴィアン・バルトらである。
そしてもうひとり。
イシャスの母親代わりであるエレンの耳に届くよう、密かに仕組んだのだった。