12
初夏の日差しが降り注ぐ王宮の庭。
その景色を地上階の回廊から眺めながら、少年は物思いにふけっていた。
思い出すのは、姉や乳兄弟と多くの時間を過ごした故郷の庭園。そして、自分たちをそっと見守っていてくれたやさしい乳母のエマ。
デュノア邸を離れてみて、カミーユにはわかったことがあった。
厳格な父と、病弱なため寝台に伏せってばかりいた母のあいだに生まれながら、あれほど毎日が楽しく輝きにあふれていたのは、姉のシャンティ、トゥーサン、そしてエマの愛に包まれていたからではないだろうか。
知らず知らずのうちに、自分は彼らの愛に守られていたのだ。
その深い愛に、今なら気づける。
シャルム宮殿は華やかで美しく、人々の顔に笑みが絶えぬ場所であるが、なにかが足りなかった。
初夏だというのに、ひどく寒い。おそらく、真夏になっても寒いはずだ。――凍えそうなのは、身体ではなく心だから。
どのように表現すればよいのか、カミーユにはわからない。
王宮にいる者は皆、なにかに怯えているか、もしくはなにかを猛烈に欲しているかのどちらかのように見える。王族の機嫌ばかりをうかがう貴族らも、暇つぶしのように色恋沙汰に身を投じる人々も、まるで出世だけが人生のすべてであるような役人たちも、だれもが大切ななにかを忘れて生きているように見えた。
むろん、そうでない人たちもいる。
しかし、そうでない人たちが生活しにくい空間であるように、カミーユには感じられた。
王宮は、王族の寵にも、恋愛にも、出世にも、権力にも興味がなく、日々のささやかな出来事に幸福を感じるような者が住まう場所ではない。なぜならこの王宮においては、ささやかな幸福など、人間の欲や野望、弱さに、容易に踏みにじられてしまうからだ。
叔父であるノエルや、従兄弟であるフィデールが、なにを感じながら――あるいはなにを黙殺しながらこの場所で生活しているのか、カミーユにはわからなかった。
淡々と王宮で生活しているように見える彼らも、自分のように感じることがあるのだろうか。
姉の婚約者であったディルクが去った王宮は、カミーユにとっては寂しい場所となった。
デュノア邸にいたころには、こんなふうに感じたことはなかったというのに……。
おそらく、デュノア邸にいたころの自分は満たされていたのだろう。故郷に残してきた者たちを、カミーユは思い出す。
エマはまだ水色の花を、シャンティの部屋に活けつづけているだろうか。
母ベアトリスは、再び体調を崩したりしてはいないだろうか。
自分に仕えてくれていた使用人たちは、元気にしているだろうか。
そんなことを考えながら広大な庭を眺めていたカミーユが、突然「あ!」と声を上げた。見知った顔が視界に飛び込んできたからだ。
不思議と明るい心持ちになった自分を感じながら、カミーユは一目散に走りだす。
回廊を抜け、広間のバルコニーからではなく、使用人らが使用する小さな戸口から庭に出ると、カミーユは目的の人物に向けて疾駆した。
その勢いに驚き、相手の周囲を守っていた近衛兵らが、長剣に手を置いたのも無理からぬことである。
けれどそれは、守られる立場にいた青年の手によって制された。
「あれは知っている者だ」
青年が言い終えるのと、カミーユが相手の名を呼ぶのが同時だった。
「レオン殿下!」
こんなに嬉しそうに駆けてきて名を呼ばれれば、レオンとて嫌な気がするはずがない。
「元気そうだな、カミーユ」
そばまで来たカミーユは息を切らしていた。
「おまえが元気すぎて、もう少しでシモンとクリストフが剣を抜くところだったぞ」
「ごめんなさい」
荒く呼吸を繰り返しながら、カミーユは遠慮がちにレオン付きの近衛兵らを見やった。
いつもレオンのそばにいる彼らの顔は、カミーユも見知っている。そして、小声で付け加えた。
「でも、そんなに元気なわけではありません」
「おれには元気そうに見えるが?」
二人が間近で顔を合わせるのは、半月ぶりのことである。カミーユはノエルについて近衛の仕事をしている際に、レオンの姿を見ることがあるが、かといって話す機会があるわけではない。
カミーユ自身が自由な時間で、かつレオンが政務に就いていたり、だれかと会話を交わしたりしていないという条件が重ならなければ、わざわざ面会を願い出ないかぎり会話する機会は訪れない。
最後に言葉を交わしたのは、ディルクがまだ王都にいてベルリオーズ家別邸やアベラール家別邸、そして王都のあいだを行き来していたころである。
リオネルはほとんど王宮に顔を出さなかったので、ディルク、レオン、そしてカミーユの三人で騎士館近くの林を歩いたのだ。
そのときカミーユは、自らの命を救ってくれたリオネルの家臣が、順調に怪我と病から回復しつつあるということ、そしてそれに伴い、ディルクもリオネルと共にもうすぐ自領に戻ることになりそうだということを聞いた。ディルクらが王都を出立したのは、それから一週間も経たぬうちのことである。
「ディルクがいなくなったのに、元気なんか出ません」
カミーユが視線と声の調子を同時に落とすと、レオンはやや困ったような面持ちになった。
慰めや、励ましの類は苦手である。
そして、子供の相手はもっと苦手である。五歳という年の差は、レオンにとって微妙なところだったが。
「まあ……そのうちすぐにまた王宮に来るだろう。来たら来たでうるさいやつだから、平穏な今このときを満喫するといい」
我ながら、なかなかうまい励ましの言葉を見つけたとレオンが自ら感心していると、カミーユのまっすぐな視線がこちらを見上げていた。
「なんだ?」
「そんなこと言いながら、レオン王子こそディルクに会いたいのではないですか?」
「…………」
「遠くからレオン殿下のことは何度か見かけていたんです。ディルクがいなくなってからは、あまり活き活きとしているように見えません」
子供と思って慰めてやれば、返ってきたのはなんとも生意気な返答である。
レオンが閉口していると、カミーユは屈託なく笑った。
「私たち、ディルクがいないとだめですね」
咄嗟にレオンは反発したくなった。ディルクがいないと元気が出ないなど、心外の極みである。
だが、ひとまず苦笑いで済ませたのは、十三、四歳の相手に対し、むきになって言い返すのも大人げないと思ったからだ。
それに、少年の言うことには真実も含まれていた。リオネルやディルクがいないと、毎日が退屈でつまらない。そう感じている自分がいることは否定しようのないことであった。
「それはそうとして――どうだ、武術の鍛錬には励んでいるか」
無理に話題を変えたのは、やや気恥かしかったからである。
「はい、頑張っています」
「ノエルは忙しそうだが、稽古をつけてもらう時間などあるのか?」
近衛隊の隊長が国王の警護につきっきりであるため、副隊長であるノエルは王族の警護の他に、近衛隊全体の統括や管理をせねばならない。その忙しさは、正騎士隊隊長であるシュザン以上かもしれない。
「もちろん時間ができたら叔父上に教えてもらっていますが、でも、最近はもうひとり師匠がいるんです」
「もうひとり?」
レオンは首を傾げる。
「だれだ?」
「秘密です」
「秘密……」
狐につままれたような顔をするレオンに、カミーユはいたずらっぽく笑った。
「ごめんなさい。本当は、私も知らないんです。温室の脇で、ひとりで練習していたら指南してくれる人がいて、それからその場所で会うたびにいろいろ教えてくれます」
「変わったやつがいるのだな」
「いつも暗くてよく見えないけど、声からすると若そうな人です。すごく腕が立ちそう」
「腕が立つなどと、なぜわかる?」
「なんとなく、です」
しばしレオンは考えこむ。
……温室の脇を通りかかることのある、腕の立つ若者。
見ず知らずの少年に稽古を施すような、心に余裕のある若者が、この王宮にいただろうか。
「しかし、カミーユ。温室は父上や母上に加え、兄上やら気難しい高位の貴族やらがよく訪れる。稽古のときには、気をつけたほうがいい」
「みんな同じことを言うんですね」
カミーユはおかしそうに笑う。
「みんな?」
レオンが尋ねると、カミーユは直接質問には回答せず、
「ちゃんと、気をつけていますよ」
とだけ答えた。……王宮の窓から降りそそぐ、冷ややかな視線には気がつかぬままに。
庭園を見下ろす、最上階の窓。
「レオンと話している子供、あれはおまえの従兄弟だな」
真意の測ることのできぬ声音で、ジェルヴェーズがつぶやく。
問われて窓際まで歩んだのは、ブレーズ家嫡男フィデールだ。東花壇のあたりでシャルム王国第二王子と親しげに話しているのは、たしかにフィデールのよく見知った少年だった。
「さようでございます、殿下」
窓から視線を外し、フィデールは軽く頭を下げる。
「先日は、従兄弟カミーユがご無礼を――」
「楽しそうだな」
「は……」
「おまえの従兄弟が、なぜレオンと話しているのだ」
「……そこまでは私も」
言葉を濁したフィデールを、ジェルヴェーズは振り返り、目を細めて見やった。
「本当は知っているのだろう?」
鋭く切り返され、フィデールは返答に迷う。
ジェルヴェーズが指摘したとおり、おおよその見当はついていた。
一見関わりのなさそうなレオン王子とカミーユの二人を結びつけているのは、カミーユの亡き姉の元婚約者であり、レオンと共に従騎士をしていたディルク・アベラール以外には考えられない。
……ディルクは、生粋の王弟派貴族である。
返事をしないフィデールを前に、ジェルヴェーズは皮肉っぽく笑った。
「おまえにも守るものがあるとは、愉快なことだ」
「…………」
「フィデール、最近のレオンの様子をどう思う?」
「どう、とおっしゃられますと」
「従騎士になってからのレオンは、私にしばしば反抗的な態度をとり、シュザンをはじめ王弟派の連中と慣れ合っている。リオネルの殺害についても、本気で実行しようとしているようには見えない――ゆえに毒を飲ませたのだ」
予想はしていたことだったが、ジェルヴェーズ本人の口から、レオンに毒を飲ませた事実を聞くのはフィデールにとってもはじめてのことである。
やはり山賊討伐から帰還した直後のレオンの体調不良は、ジェルヴェーズが手を下したことであったらしい。
「おまえにとって価値のある者であっても、私の敵ならば容赦はしない」
「……心得ております」
「いつになく歯切れが悪いな」
さらにフィデールは、普段以上に口数が少なかった。
「あの者の罪は、これまで二度見逃した」
一度目の罪とは、カミーユが女中の首を斬ることを拒んだことである。
だが、二度目は――。
ジェルヴェーズが「二度」と口にしたということは、カミーユがクラリスを城から連れ出そうとしたことについて、けっしてジェルヴェーズの目は誤魔化せてはいなかったということである。
「三度目は、わかっているな」
「むろんです」
返答したフィデールの声は、ジェルヴェーズが想像した以上に淡々としたものだった。
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生暖かい風が吹いている。
名実ともに初夏を感じさせる夕暮れ時だった。
「アベルはどこにいる?」
昼過ぎごろから顔が見えぬ家臣を案じて、若い主人は友人であり用心棒でもある若者に声をかけた。
ベルリオーズ家嫡男の書斎。
窓際に据えられた書き物机には、文字どおり山のように書類が積まれている。それらはすべて、リオネルが処理せねばならない公的文書だった。
租税に関することから、訴訟、嘆願、許可申請、道路や下水の計画や修繕、犯罪、領内の法律など、多岐にわたる事由についての文書である。
それらすべてに目を通し、決裁を下さねばならないのだから大変な作業だ。場合によっては直接、関係者に会って話を聞かなければならないことも少なくない。
長いこと王都に滞在し、アベルや友人らとのんびり過ごしていたつけで、リオネルには多くの仕事が残されていた。
アベラール侯爵と共に、親友であるディルクがベルリオーズ邸を去ったのは三日前のことである。
そしてその日の夕方、彼らと入れ違うようにしてベルリオーズ邸に到着したのは、アベルの子イシャスを乗せた馬車だった。
馬車に同乗していたのは、イシャスの世話役であるエレンで、当初、彼女にはまだベルリオーズ公爵や女中頭などに挨拶にまわる体力が残されていたが、翌朝ついに彼女は布団から起き上がることができなくなってしまった。
長旅の疲れが出たと同時に、生まれてはじめて足を踏み入れるベルリオーズ家本邸や、ベルリオーズ公爵との面会に緊張したあまりに熱を出したようである。
倒れたエレンの代わりにイシャスの世話を率先して始めたのは、むろんアベルである。
政務に忙しいリオネル。
子供の世話に忙しいアベル。
イシャスが到着してからというもの、二人はなかなか顔を合わせる機会がなかった。
「どこにいるかは、わからないが」
文書を分類する手を止めずにベルトランが答える。
「またイシャスを追いかけているんじゃないか?」
「そうか……」
館に到着した直後、イシャスはエレンから片時も離れようとせず、新しい環境にひどく警戒している様子だった。
けれど今から思えば、それは嵐の前の静けさだった。
彼の態度が一変したのは、二日目の夕方からである。
場の雰囲気に慣れたのか――それまで大人しくしていた反動か、それともエレンが寝込んでしまったからなのか、イシャスは館のなかを走りまわり、館のなかにあるあらゆるものに触って「いたずら」をするようになったのだ。
「いたずら」というのは、大人の目線で迷惑であるからそう呼ぶのであり、子供にとっては単なる「遊び」である。
イシャスは、世に名高いベルリオーズ邸のなかで遊びまわり、破壊行動を繰り広げていた。
「イシャスは今日になって少しは落ち着いたか?」
「いや、ますますひどいぞ」
「そうなのか」
片手で羽根ペンを握ったまま、リオネルは目のまえの文書から視線を外す。
アベルとイシャスのことが気になり、リオネルは仕事に集中できない様子だった。かような主人の様子を横目で見ながら、ベルトランはぼそりと告げる。
「今朝は、『緑の間』の花瓶を割ったようだ」
「…………」
「アベルは責任感が強い。自分がどうにかしなければと思っているはずだ」
「頑張りすぎなければいいけど」
――書斎にリオネルの心配そうな声が響くころ。
イシャスは大階段を全速力で駆け上がっていた。
「イシャス、待ちなさい!」
地上階の回廊から、叫びながら駆けてくるのはアベルである。
さすがにアベルの子であるだけあって、イシャスの運動神経は抜群だった。
とうの昔から二本足で立って歩けるというのに、イシャスは両手両足を器用に使いながら階段を登る。そうすれば、大人も顔負けの速度が出るのだ。
そのようなことをいつ学んだのかと、アベルは感心を通りこして、呆れるばかりだ。
「イシャス!」
規律が厳しく静穏なベルリオーズ邸に、子供が逃げ回る足音と、アベルの叫び声が響きわたる。
二階まで登ると、イシャスは突然立ちあがり、手すりの柵のあいだに顔を突っ込んだ。
柵の合間は、イシャスの身体がちょうどすり抜けられるほど開いている。
思わず「危ない!」とアベルが声を上げると、イシャスは身体を引っ込め、無邪気に笑い声を上げる。アベルはまるでからかわれているような気がした。
「待ちなさい」
再び追いはじめると、イシャスは即座に逃げ出す。そしてあっというまに最上階まで登ってしまうと、小さな身体はアベルの視界から消えた。