23
「あれ? 一週間前のレオンみたいな顔だね」
朝方ベルリオーズ家別邸から王宮に戻ってきたリオネルを見て、ディルクが言った。
急遽、ひと晩だけ邸に戻るというリオネルを送り出したのは昨晩のことである。翌朝、とんぼ返りをしてきた彼の表情は冴えなかった。
二人は芝生の上で立ったまま、レオンとシュザンが来るのを待っている。いつもリオネルの傍らにいるベルトランはというと、稽古中は木立や池の畔など、少し離れたところから見守っている。
今、リオネルとディルクの近くには年次が違う従騎士たちが数人、同じようにして立って師匠を待っていた。彼らは、シャルム国の第二王子であるレオンやベルリオーズ家の嫡男であるリオネルには近寄りがたいようで、挨拶程度の会話は交わしても、それ以上の付きあいはない。
稽古を始めれば身体は温まるが、なにもしないで待っている時間は寒い。
二の腕をさすりながら、ディルクが人懐こい笑顔をつくった。
「まあ、同じ王都で近いといっても、昨夜行って今朝早くに戻るんじゃ、それは疲れるよね」
「とくに身体が疲れたわけではないのだけど……」
「精神的に疲れてるの?」
「そういうわけでもないんだが……」
「なんだか歯切れが悪いね。別邸でなにしてきたんだ?」
「……ちょっと」
「拾ってきた猫の世話?」
「…………」
意外なディルクの鋭さに、リオネルは内心でどきりとする。
「なんていうのは冗談だけど。……猫にはもう引っ掻かれない?」
「引っ掻かれはしないが、いろいろ手がかかって」
「ああ、猫は人にはなつかないからね。手に余るなら自然に戻しちゃえば?」
「病気なんだよ。しかも、お腹には子供がいる」
「……もしかして、本当に、その猫の様子を見に戻ったわけ?」
「え……いや、そんな、まさか」
「そう、だよね」
「…………」
「子猫が産まれたら、一匹ちょうだいよ」
「…………」
「猫は何匹か産むだろう。子猫のころから育てれば、大抵なつくよ」
「……ディルクが猫好きだとは知らなかった」
「おまえもな。で、館にはどうして戻ったの?」
改めて聞かれて、どう答えようか迷っていたところへレオンが現れた。
「リオネル、もう戻っていたのか? 早いな」
「こっちはこの寒空の下でずっと待っているんだ。遅いぞ、レオン」
リオネルが返事をするまえに答えたのはディルクだ。
「遅いとはいっても、どのみちシュザンが来なければ始まらないじゃないか」
「一緒に寒さを共有することが大事なんだよ」
「なんだそれは? 急に仲間意識のようなものを持ち出して」
「急にじゃないよ。おれはいつもレオンを大切な仲間だと思ってるぞ」
「おれは思っていないぞ」
「ひどいなあ」
心がこもらない声でディルクが言うとリオネルが笑った。
「お、シュザンだ」
正騎士隊の練習場から出てこちらに近づいてくる騎士を、ディルクが真っ先に発見する。
「すまない、待たせたな」
そこで待っていた従騎士ら全員に向かって謝ったシュザンもまた、わずかな疲労感を漂わせている。シュザンの立場が大変に忙しいことを、皆が知っている。いっそ過労で倒れないのが不思議なほどだ。
けれどリオネルだけは普段と異なる雰囲気を察してシュザンを見た。
「なにかありましたか?」
近くにいた二人は、質問をしたリオネルに顔を向けてから、シュザンに視線を戻す。
「ん、まあ、たいしたことじゃない」
勘の鋭い甥にシュザンは苦笑した。
「さあ始めようか」
シュザンが声をかけると、従騎士たちはシュザンに向かって一礼する。全員で稽古をするときもあれば、年次ごとに稽古をするときもあった。
「まずは全員で身体を温めるために掛り稽古をしよう」
シュザンが稽古用の長剣を抜き放つ。青年たちも各々、刃をつぶした長剣を抜き払い、シュザンに向かって構えた。次々に青年たちがシュザンに長剣を撃ち込んでいく。彼らのほとんどが十合ほど撃ち合ったのちに、雪の上に倒されていく。
三人のうちでは最初に切り込んだのはディルクだった。他の者よりは好戦するが、最終的にはディルクの剣が雪の上に落ちる。
次に向かったのはレオン。彼も何合か打ちあったが、シュザンの一撃に身体ごとよろめいて地面に手をついた。
最後に向かったのはリオネルだ。二人の剣の構えは非常に似ていた。ディルクもレオンも従騎士になる前には、別の師について剣を習っていたが、リオネルは幼いころから叔父であるシュザンに習うことが多かったためである。
リオネルが繰りだす攻撃を、シュザンは軽々とはね返していく。その様子に危なげはないものの、リオネルにも疲れた様子はなく、勝負はつかない。
いつまで続くのだと皆が傍観していたそのとき、彼らの視界の端に馬にまたがった騎士の集団が映った。
「?」
正騎士隊の者たちがその姿を確認して一斉に練習をやめ、その場に跪く。
ディルクらも正騎士隊がいるところの様子に気がつき、そちらを見やる。
馬上にいたのは、国王とその近衛兵だった。
「げっ」
ディルクが呟く。と、レオンが呆れ顔でディルクを見た。
「国王に向かってさすがにそれはないだろう」
騎乗の集団は正騎士隊の者としばらく言葉を交わしてから、レオンたちのいるほうへと向かってくる。
ディルクが鋭い声でシュザンとリオネルを呼んだ。
寸時に打ち合わせるのをやめた二人は、ディルクを振り返り、次いでディルクの視線の先へ目を向けた。王と近衛騎士隊の姿を確認した二人は、ディルクとともにその場に跪く。
離れたところにいたはずのベルトランが、いつのまにかそのすぐ後ろまできて、同じように片膝をついている。けれどその右手は、いつでも剣を抜けるように、左脇の柄のある部分に隠されていた。
目前まで来た王にレオンは呟く。
「父上――」
「レオン、しっかりやっているか」
「はあ……」
なにしに来たのだろうと、レオンは訝しげに父王を見上げた。
五十三歳になるシャルム国王は、足元に跪く若者たちを、馬上から堂々と見下ろす。
「シュザン、ご苦労」
「は、お心遣い感謝いたします」
シュザンはわずかに顔を上げて答えた。
王はシュザンからその脇に視線を移す。
「そなたはリオネルか。顔を上げよ」
「はい」
リオネルの深い紫色の瞳が国王を見上げた。
「……久しぶりだ、リオネル」
「国王陛下におかれましても、ご健勝のことと存じます」
「今しがたの稽古を見たぞ。そなた、シュザンとこれほど剣を交えることができるとは、よほど腕が立つのだな」
「いえ、叔父上が手加減をしているからです」
リオネルは目線だけを下げて言った。
「謙遜せずともよい。私も、甥であるそなたが立派に成長していく姿を見るのは嬉しい。二年ぶりに会うが、ますます亡きアンリエット殿に似てきたな」
「は……」
「そうであろう、シュザン」
「はい。姉によく似ていると思います」
そう言われても、リオネルは母の顔を鮮明に記憶してはいなかったので、よくわからなかった。脳裏にこびりついて離れない母の顔は、まぶたが閉ざされていて、永遠に開くことはない。
「クレティアンは息災か」
「父は元気にしております。陛下にご挨拶をと考えているようですが、職務に追われ、叶わぬことを残念がっておりました」
「さようか。私も久しぶりに会いたいと思っていると伝えてほしい」
なにかの台本を読み上げるような会話だった。
「そなたはこれからもっと強くなるであろうな。シュザンをも越えるやもしれぬ」
「そのようなことは――」
「そうなる前に、一度私と剣を交えてみるか」
二人の会話を聞いていた周囲が息を呑む。ベルトランの右手が拳を握った。
リオネルが返事をしないでいると、王は高らかに笑った。
「戯れだ。クレティアンとアンリエット殿の大事な一人息子に、剣は向けられぬ」
「…………」
「この国で腕の立つ者は貴重だ。リオネル、私やジェルヴェーズに忠誠を誓い、我々に仕え、この国に貢献できる者となれ。しかと心得よ。よいな」
「……心いたします」
頭を下げたリオネルを、国王は黙って見下ろしていた。それが、どれほどのあいだだったかわからないが、そこにいた皆にとっては長く重苦しい時間だった。
「邪魔をしたな」
低い声音で静寂を打ち破り、王は馬首を巡らせる。近衛兵があとに続く。
彼らの馬が雪を踏みしだいて去っていくと、茶色く汚れた地面と静寂が残った。
「なんだ、あのクソ髭じじい」
しばらくして立ち上がって悪態をついたのは、ディルクである。
「ディルク」
ディルクを諌めたのはシュザンだった。けれどそれ以上はなにも言わない。
「クソ髭じじい……たしかにね」
そう呟いたのは、「クソ髭じじい」の次男坊レオンである。
四人の背後で赤い影が動いた。振り返れば、ベルトランが再び木立のほうへ戻っていくところだ。
ディルクはその後ろ姿を見て身震いする。
「あれはかなり頭にきてるようだね」
「そうかな」
「あのとき、ベルトランがいつ剣を鞘走らせるんじゃないか、気が気じゃなかったよ」
「そんなわけないだろう」
リオネルは笑った。
「おまえもよく平然と当たり障りなく話したね」
「そうでもないよ」
「父上と手合わせになどならなくてよかった」
そう言ったのはレオンだ。
「父上はなにを考えているのだ」
レオンにも王の真意は分からないようだった。兄のジェルヴェーズやルスティーユ公爵のほうが、目的は明快で分かりやすい。それに比べ、かつてリオネルの父親から王座を奪ったエルネスト王の思うところは、いつも霧に包まれていた。
「稽古を再開しよう」
シュザンの一言で、皆、我に返ったが、いましがたの出来事が、頭からすぐに離れることはない。
身の入らない練習が昼の休憩まで続いた。三人以外の従騎士たちは、特にシュザンが本来の持ち場に戻ってからは、国王を間近に見たことに浮足立っている。
けれどリオネルは彼らの様子を気にもとめず、黙々と練習に打ち込んでいた。
真剣な表情で剣を振るいつづける十六歳の青年が、なにを思っているのか、だれも知り得なかった。
「ベルトラン」
練習をひとたび終えたリオネルは、木立のなかにいるベルトランを迎えにいく。
いつもなら、休憩に入る少し前までにはそばで待機している彼が、このときは練習が終わったことにも気がついていなかった。
「休憩だ。ご飯を食べよう」
リオネルはそんな様子を追求せずに声をかける。
「リオネル……? ああ、終わっていたのか。すまない」
「いいよべつに」
おそらくベルトランが、先ほどの王の来訪について考えていたのであろうことは、容易に想像できた。
「陛下は、母上のことをよく知っているんだね」
「…………」
あえて政治的な話ではなく、母親の話題を切りだしたリオネルに、ベルトランは内心でぎくりとする。
「おれ自身がよく覚えていないのに、不思議な気分だ」
「……そうだな」
「おれは母上に似ているか?」
「おれもおまえの母上を見たことがない」
「そうか、そういえば、そうだったね」
ベルトランが、ベルリオーズ家に来たのは、リオネルの母が死んだ直後だった。当時、リオネルは六歳、ベルトランは十歳。
「シュザンに聞いたらどうだ?」
「……そうだね」
リオネルは、曖昧に返事をする。
「さっきはあれでよかったのだろうか」
「充分だ」
「伯父上の髭は、長くなっていたね」
「それに白くなった」
その言葉にリオネルは笑ったが、ベルトランの次のひと言に笑顔は消えた。
「あいつの目的は、跪くおまえを、馬上から見下ろすことだ」
「…………」
「ほかにもいろいろあったとは思う。おまえの成長の様子を見ること、牽制すること……だが」
ベルトランの目が剣呑に光る。
「あいつはおまえを跪かせ、見下ろすことで、おまえが家臣であることを、おまえ自身と、周囲に見せつけようとした」
「…………」
「おまえに屈辱を味あわせたつもりかもしれないな」
リオネルは、なにも言わなかった。ベルトランが指摘したことは、リオネル自身も、おおよそ察していたことだったからだ。
「おまえの成長を見て、さぞ慌てていることだろうな。まさかこれほど腕が立つとは思っていなかっただろう」
「刺客の水準が上がるかな?」
「いままでの刺客が、あの男からの贈り物だったら……な」
「ベルトランはそう思ってないんだね」
「今日の様子から、あいつはおまえを殺そうとしているようには思えなかった」
「そうかな?」
どうしてわかるのだろうという視線を紫色の瞳から向けられると、それから逃れるように、ベルトランは目を逸らす。
「エルネスト殿は、今のところは、おまえに忠誠を誓わせて、手なずけておきたいのだろう」
「父上との関係と同じだな。これからもそれで満足するだろうか?」
「……少なくともジェルヴェーズ殿や周囲の者は、しないだろうな」
二人は顔を見合わせる。
「そのときは、そのときだ……」
赤毛の若者の右手は、剣の柄を弄んでいた。