11
――それは、小鳥の羽根のように白く軽い雪が、霞むように舞い落ちる日。
凍った池にディルクが落ち、リオネルが彼を追って飛び込んだが、二人は助かった。アンリエットが、夫であるベルリオーズ公爵クレティアンに内密でアベラール侯爵のもとを訪れたのは、その夜のことだった。
ベルリオーズ公爵夫人はひとつだけ、アベラール侯爵に頼みごとをした。
「母が貴方に、デュノア家ご令嬢とディルクの婚約を勧めた……?」
考え込むようにリオネルは呟く。
「私にはわかりませんでした。アンリエット殿がなぜ、公爵様に内密でこの婚姻を後押ししたのか」
一同は黙り込む。
侯爵は続けた。
「私はアンリエット殿の真剣なご様子に動かされ、ディルクとシャンティ殿の婚姻を了承しました。けれど……」
ディルクは瞼を伏せる。
――この婚約に待っていたのは、残酷な結末だった。
「私が懸念したとおり、ディルクは成長するにつれて、ブレーズ家の血を引く令嬢との婚姻を憂慮するようになりました。そしてそれは、私も長いこと同じ気持ちだったのです。だからこそ、私はディルクをシャンティ殿に会わせようとはしませんでした……いずれ、この関係が崩壊する日を予感していたのです。アンリエット殿が、あれほどまでに望まれた結婚だったというのに」
語るアベラール侯爵の顔には、深い罪の意識がはっきりと浮かんでいた。
「アンリエット殿が亡くなられたのは、婚約が成立してから一年も経たぬうちのことでした。それから十年が経ち、従騎士となったディルクが、婚約を破棄する意向を私に伝えてきたときには、私は長い年月を経て、アンリエット殿の申し出が幻だったかのように感じられていました。そうして私はデュノア伯爵に婚約の解消を伝えたのです」
風が窓を揺らす音がやけに大きく聞こえる。
「その直後――いえ、その当日です。シャンティ殿は亡き人となりました」
侯爵の言葉は、リオネルの部屋に哀しく響いた。
「このような結末を迎えて、私ははじめて思い至りました。アンリエット殿は、シャンティ殿の身を――その幼い命を、私とディルクに託したかったのではないか。あのお方はシャンティ殿の身に起こることを予見していらしたのではないか、と」
だれもが声を発せずにいる。
あまりにも不可解な話であった。
「婚約が成立してから、破棄されるまでの十一年間、我々とのつながりがシャンティ殿の身を守っていたのではないかということに、私は初めて思い至りました」
「まさか……」
かすれた声を発したのはディルクである。
「私は、アンリエット殿のご遺志を裏切り、このような結果を導いてしまったのではないかと考えています。天におられるアンリエット殿に、私は会わせる顔がありません」
「……シャンティは、死ぬべくして死んだと?」
ディルクの声には困惑以上のものがにじんでいた。その声に、アベラール侯爵は答えうるかぎりの返答をするしかない。
「わからない。なにが起きているのかは、私にはわからない。だが、アンリエット殿はなにか我々には知りえぬことをご存じであったのではないだろうか」
「母上はいったいなぜ、父上に内密にしてまで、この婚約を後押ししたのでしょうか」
リオネルのつぶやきは、質問というよりは独り言に近かった。アンリエットが、デュノア家とアベラール家の婚約を、後押しする理由に見当もつかない。仮にそれが「良縁」であると信じていただけだとしたなら、なぜ夫であるクレティアンに隠す必要があるだろう。
「父上には、このことを?」
「いいえリオネル様。公爵様には伝えないと、私はアンリエット殿に誓ったのです。これ以上、あの方との約束を破るわけにはまいりません」
「なるほど」
リオネルはベルトランと顔を見合わせた。つまり、ベルリオーズ公爵から本件についての手掛かりを得ることはできないということである。
「リオネル様、くれぐれも――」
「もちろん、父上には伝えません」
「申しわけございません」
会話が途切れると、ディルクが深く溜息をついた。
ここにいるだれもが、シャンティの死について多かれ少なかれ疑念を抱きはじめている。
シャンティ・デュノアが「アベル」と同一の人物ではないかと考えるマチアスにとっても、それは大きな謎であった。アンリエットはなにを知り、なにを予見したのか。シャンティの身に、なにが起きたのか。
「リオネル様にこのことをお伝えしたのは、私の懺悔にほかなりません。アンリエット殿に直接謝罪できぬ今、せめて貴方に詫びたかった。そして、ディルク」
侯爵は、浮かぬ面持ちの息子へ気遣わしげな視線を向けた。
「おまえにも、私が至らなかったために辛い思いをさせた」
詫びる父に対し、ディルクは視線を上げずに「いえ……」と答える。
「婚約の破棄を決断したのは私自身です」
皆が握る銀杯の中身は、話を聞いているあいだ、ほとんど消費されていなかった。侯爵が語った話の重苦しさと奇妙さに、とても酒を飲む気持ちになどなれない。
心地よい酔いは、とっくに醒めていた。
この場にアベルがいなくてよかったと、リオネルは思う。
なにも考えずに眠っていてほしい。哀しい話はもう充分だ。
「アベラール侯爵殿」
黙り込んだ侯爵を、リオネルが呼んだ。
「私は、母がなにを知り、なにを思い、貴方に婚約を受け入れるよう頼んだのかわかりません。ですが、母の気持ちを真摯に受け止め、こうして話してくださったことを感謝しています」
「リオネル様……」
言葉もないといった様子でアベラール侯爵はうつむく。
「生前の母の願いを聞くことができてよかった。母の願いは私の願いです。残念ながらデュノア家のご令嬢は亡くなりましたが、母がなぜ二人の『婚約』を願ったのかということを、私なりに調べてみたいと思います。それが、シャンティ殿の死の真相につながるかどうかはわかりませんが」
「死の真相?」
思わず問い返したのはディルクである。
「シャンティの死には裏があるというのか」
「自殺だったとしても、もしそれを母が予期していたとすれば、おれたちが知りえない事実が隠されているかもしれない」
「…………」
「おれは母上の意思を知りたい。そして真実を知ることで、亡き母、そしてシャンティ殿に花を手向けることができればいい」
もしこのままなにもしなければ、事実は深い過去の底で永遠に失われるだろう。アンリエットの意思も、そして、シャンティの身に起こったことも。
「デュノア家を訪ね、伯爵と話をしてみようと思う」
だれも予想していなかったリオネルの発言に対し、即座に難色を示したのはベルトランである。
「相手はブレーズ家の縁戚だ、不用意に近づくな」
縁戚といっても、現ブレーズ公爵の妹が嫁いでいるというだけだ。それほど警戒する必要があるのかリオネルには判然とはしなかったが、ベルトランの有無を言わさぬ口ぶりにひとまず口をつぐむしかない。
代わりに名乗りを上げたのは、ディルクだった。
「デュノア邸にはおれが行く」
皆の視線がディルクに集まる。
「領地に戻ったら、弔花を手向けに行こうと思っていたところだ」
周囲は案じるような視線をディルクに向けたが、だれも反対することはできなかった。だれよりも真相を知りたいのはディルクに違いない。
ディルクとシャンティが婚約に至るまでの、不可思議な経緯。
それぞれの胸に様々な疑問や思いを与えながら、最後の夜は刻々と更けていった。
+++
木々の枝が――葉が、揺れている。
陽光を弾いて輝く風が、眩しく感じられた。
エマは目を細める。
痩せた腕は、領主の子らを含めて三人の子供を育てあげたとは思えないほど弱々しい。
希望を失った瞳が映すのは、デュノア邸の庭に未だ残る、過ぎ去りし日の残像だった。
笑い声が聞こえる。
長剣を片手に握りながら庭をかけまわっているのはシャンティ、そのあとを必死に追いかけるのはカミーユ、そして二人を見守っているのは息子のトゥーサンだ。
風に吹かれ、シャンティがまとう薄紅のドレスの裾が翻る。
振り返ったシャンティの金糸の髪が風に流され、初夏の陽光を反射した。まるで白い光が大気にたなびき、幻のごとく消えたようだった。
『剣を持ってむやみに走ると危険です、シャンティ様』
トゥーサンが叫んでいる。
けれど、シャンティは笑っただけだった。
――大丈夫よ、と。
カミーユも手に長剣を握っている。だが、姉のシャンティよりも二歳年下のカミーユは、まだ姉ほど速く走れない。
花が咲き乱れるデュノア邸の庭園を、二人は蜜蝶のように戯れ、駆けまわっていた。
ときおり陽光を反射する二人の髪と長剣の刃が、ちかちかと眩しくて、エマは眩暈を覚える。
ああ、危のうございます。カミーユ様、シャンティ様。
エマは手を伸ばした。
トゥーサン、お二人をお止めしなさい。
しかし、シャンティもカミーユも楽しそうに走り続けている。エマの声が聞こえていないかのように、トゥーサンも半ば呆れるような表情で、しかし幸福そうに、二人の姿を見つめていた。
眩しい。
なぜ、こんなにも眩しいのだろう。
光の溢れる庭。
響きわたる笑い声。
ちかちかと輝く子供たちの髪と、剣の刃。
眩しくて、眩しくて、手が届かない。
そして気がつけば――。
エマは、デュノア邸の中庭に、魂が抜けたように座りこんでいた。
庭は静かだった。
鳥がさえずり、蜜蜂が飛び回る音は聞こえるが、子供たちの声はない。
光の化身のようなシャンティも、屈託ない笑顔のカミーユも、頼れる息子のトゥーサンもいなかった。
ただ、光が眩しい。
ああ――。
エマの頬を涙が伝う。
この胸を吹き抜ける哀しみはなんだろう。
失われた日々の記憶が、エマの瞳の奥に焼きついている。
――自分は幸福だったのだ。
そうだ、自分は幸せだった。
愛する夫と腹の子を失った哀しみを乗り越えようと、必死に子供らを育てる毎日は、幸福以外のなにものでもなかった。なぜそのことに、気がつかなかったのだろう。
この幸福を与えてくれたのは、だれだったろう。
そして、この幸福を奪ったのは、だれだったか。
なんと美しく、そして哀しい庭園だろう。
エマが流した涙を、初夏の風が乾かしていく。
あとに残ったのは、一筋の涙が通った痕跡だけ。
エマは最後にもう一度手を伸ばそうと、棒切れのように細い腕を上げた。
手を伸ばしたら、もう一度だけあの日々に触れることができるような気がした。
そして震える手でなにかを取り戻そうとしたとき、エマは自らの名を呼ぶ声によって、現実に引き戻される。
「ベアトリス様……」
呆然と、エマは女主人を仰ぎ見ていた。
「そのようなところに座って、どうしましたか」
「これは奥様……大変に見苦しい姿を……」
立ちあがろうとするが、右手だけで身体を支えようとしたので、ふらついてエマはしっかり立つことができない。
そんなエマに手を貸したのはベアトリスである。
ベアトリスは無言だった。
けれど、その青灰色の瞳はひたとエマを見つめている。一方、エマは主人の瞳を見返すことができなかった。
「申しわけございません……わたしも歳をとりましたようで、このような有様をお赦しくださいませ」
ベアトリスは侍女を伴ってはいなかった。珍しいことである。
ひとりで庭を散策したい気分だったのだろうか、それとも、座りこむエマの姿をみとめてふらりと庭に出てきたのだろうか。
「庭に、だれかいましたか?」
「ええ……その……どなたかが、いるような気がいたしておりました」
エマの回答にベアトリスはしばし黙し、そして、木の葉が吹き抜けた風でざわめくと、静かに尋ねた。
「そこにいたのは、シャンティですか?」
「いえ、その……わたしには、わかりかねます」
「…………」
「お赦しくださいませ――」
なにかをひどくおそれるように、エマは頭を下げる。
そんな自分の姿を、美しい青灰色の瞳で見下ろしているだろう主人を、エマは直視することができない。
「あなたが赦しを請わねばならぬことは、なにもありませんよ」
頭上から降ってきたベアトリスの声は穏やかで、優しかった。
「エマ、あなたは立派に役目を果たしました。カミーユは真っ直ぐで心の優しい少年になりました。シャンティの身に起こった痛ましい出来事は、共に励ましあい、乗り越えていきましょう。もう憂えるのはおやめなさい」
なんと答えてよいか、エマはわからなかった。そのかわり、唇と指先が激しく震える。
憂えることだけが――哀しむことだけが、今のエマのすべてだった。
自分からそれらを奪ったらなにが残るだろう。
ベアトリスに手を引かれてエマは、繰り人形のようにぎこちなく歩き出した。
とぼとぼと足を交互に動かす、その後ろ姿――。
皮と骨ばかりのようになった左手の指の隙間から、瑞々しい水色の花束がはらはらとこぼれ落ちた。