10
「なんで知っているんだ?」
ディルクが目を丸くしている。
「夢で――夢で、見たような気がするのです」
「夢?」
「いえ……」
とても信じてもらえないだろうということはわかっている。幼い子供が膨らませた空想や妄想のようなものを、うっかり口走ってしまったかのような気がして、アベルは恥ずかしくなった。
「あの……話を聞きながら想像していたのかもしれません。そんな感じの方かな、と」
だれもが黙してしまったので、アベルはさらに顔を赤らめる。言わなければよかったと思った。
けれどそのとき。
「いや、おれはあのとき、アベルの声が聞こえた気がした」
「え?」
「――きみの声が聞こえたから、咄嗟に避けることができたんだ」
アベルは信じられぬような思いでリオネルを見上げた。
「あれはたしかにアベルの声だった」
「…………」
「おれは今回の旅で、二度もアベルに救われていたんだな」
深い紫色の瞳に宿るのは、言いあらわせぬほどの感情である。
「そうか、あのときおまえが、声が聞こえたような気がしたとか言ってたのは、アベルの声だったのか」
なにかを納得したような様子でディルクが腕を組む。
「しかし、不思議なことがこの世には起こるものだな」
ベルトランがつぶやいた。
皆、アベルの話を信じてくれているようである。
不思議なこと――といえば、アベルは今回の旅で幾度も不思議な経験をした。
夢のこともそうだが、タマラの過去を見抜く力、そして、ミーシャの予言……。
あの夜、リオネルの夢を見て彼を救うことができたのは、二人の不思議な力のおかげだったのだろうか。
けれど、今アベルが最も気になることは、不思議な力や、予言やら夢などではなく、より現実的な世界の――いや、世俗的と呼ぶべき世界のことであった。
「あの……」
聞きづらそうにアベルは口を開く。
その遠慮がちな視線を受けて、リオネルは嫌な予感がした。問われるまえから、全身全霊で否定したい衝動に駆られたが、まさかそうするわけにもいかず、とりあえず質問の内容を待つ以外にない。
「その……、リオネル様は、もうすぐフェリシエ様とご婚約するのに、カルノー家のご令嬢様にも想いを寄せているのですか?」
間違いなくそれは、男性に対する不信感を秘めた眼差しだった。フェリシエという女性を愛していながら、別の女性と夜を過ごすことができるのか――と。
「違う。違う、まったくの誤解だ」
これほどまでにうろたえるリオネルを、幼馴染みであるディルクも、常にそばにいるベルトランも、そしてマチアスもはじめて目にする。
「そもそもフェリシエ殿のことは……いや、とにかくすべてが誤解だ。ジャンヌ殿とのことは、罠だと知っていたからこそ、騙されるふりをしたんだ。けっして彼女とどうこうと思ったわけじゃない。互いになんとも思っていなかったんだ。信じてほしい」
リオネルの弁解は涙ぐましいほど必死だった。
そのひたむきな姿勢に、ベルトランは若い主人を、心から気の毒に思うと同時に、尊敬の念も抱いた。自分だったらこんなふうに弁解できただろうか。いや、おそらく黙りこくってしまうに違いない。
「それでは、リオネル様のお気持ちが変わったというわけではないのですね?」
少女の透きとおった青空色の瞳からは、今まさに不信感が消え去ろうとしていた。
軽薄な男ではないと、信じてもらえそうであること、また、「本当に愛しているのはフェリシエか」などという確認のしかたではなかったことに、リオネルは二重の意味で安堵した。
「むろん、おれの気持ちは変わっていない。愛する人は、ただひとりだ」
答えるリオネルの様子は、アベルが戸惑うほどに真剣である。
アベルはほほえんだ。
「はじめて、夢というものを見てよかったと思いました」
「なぜ?」
「あなたの命を救うことができた……のかも、しれないのですから」
いたずらっぽく笑うアベルを、どうしてリオネルが抱き寄せたいと思わずにいられただろう。
けれどリオネルは自制した。短時間のうちに、幾度も抱きしめていてはさすがにアベルに不信がられるに違いない。
軽薄な男という印象を払拭した今、再び自らを窮地に追い込むことだけはしたくなかった。
「すごいね、アベルは。離れていてもリオネルを助けるなんて」
ディルクが深く感服すると、マチアスがしみじみと言った。
「それだけ強い思いがあるのでしょう」
「おまえはどうなんだ? 離れていても、おれを危険から遠ざけることができるのか?」
「貴方のような方には、危険のほうから真平御免と逃げていきますよ」
「たしかにな」
同意したのはむろんディルクではなく、ベルトランだ。
「なんだよそれ」
そう言いつつも、ディルク自身おかしそうに笑っていた。
「アベルの忠誠心に乾杯」
ディルクが杯を持ち上げると、皆がそれに倣った。
「無事の帰郷に乾杯」
とベルトラン。
「皆さまの健康に」
とマチアス。
「明日、領地にお戻りになるアベラール家の皆さまのご無事を祈って」
とアベル。
最後にリオネルが、
「皆で過ごせるこの時間に」
――乾杯。
またたくまに酒が各々の喉の奥へと消えていく。
酒が弱い者は、ここにはひとりもいなかった。
「酒がこれほどおいしく感じるのは、一生のうちで何度あることだろう」
つぶやくディルクに、リオネルが答える。
「生きてさえいれば、また何度でもあるよ」
部屋に、あたたかな笑顔が広がったときだった。
――扉を叩く音がした。
+
マチアスが開けた扉の向こうにいたのは、思いもかけぬ人物だった。
「侯爵様」
さすがのマチアスも驚いた様子である。
「やはりここだったか」
アベラール侯爵は、室内にいる面々を見渡してつぶやいた。
それから、リオネルのうえで視線を止めると軽く頭を下げる。
「夜分に大変失礼いたします」
「いいえ、皆こうして起きていたので」
そう言いながら、リオネルがディルクを見やると、ディルクも「わけがわからない」という顔でリオネルを見返した。
父親であるアベラール侯爵が、この時間にリオネルの部屋を訪ねてくる理由が思い当たらない。晩餐時にはずっと会話を交わしていたし、なにか用があるなら明日の出立までに話す時間は充分にあるはずだ。
「父上、どうかなさいましたか?」
とりあえず一同を代表してディルクが父侯爵に尋ねた。
「リオネル様に、お話ししたいことがあるのだ」
「私は退席しましょうか、父上」
「いや、おまえにも聞いてもらいたい話だ」
このように答えてから、侯爵はアベルをちらと見やった。彼が一瞥した意味がわからぬアベルではない。
アベルは侯爵に、そして主人らに向けて丁寧に一礼した。
「今夜はこれで、わたしは失礼させていただきます。楽しい場に同席させていただき、ありがとうございました」
ひとり退席させられるアベルを見つめるリオネルの眼差しは、気遣わしげである。だが、主人の気持ちを充分に理解しているアベルは、そっとほほえんでみせる。
「今夜は、楽しい夢を見て眠ることができそうです」
部屋まで送るというリオネルの申し出を一度は謝絶したが、どうしても引き下がらなかったので、アベルは恐縮しつつもそれを受け入れた。
主が家臣を部屋まで送るというのは、通常ありえないことである。くわえて、送るといっても部屋を出れば十歩ほどで辿りつく隣室だ。
リオネルとアベルが部屋を出ていくと、
「アベルの忠誠心にも脱帽するが、あいつの心配性にも感服するな」
とディルクは小声でつぶやいたのだった。そのつぶやきに、事情を知る二人も、そしてアベラール侯爵も無言だった。
リオネルがアベルを送って部屋に戻ってくると、ディルクは父親に向けて、やや責めるような眼差しを向けた。
「なぜアベルを退席させる必要があったのです? 彼は信用に足る者と思いますが」
「信用の問題ではない。これは公にできない話なのだ」
そうはいっても、ベルトランやマチアスに同席が許されて、アベルには許されないということがディルクには納得できない。
あえてリオネルが戻ってきてから、ディルクがこの件について父親に尋ねたのは、リオネルも同様の疑問を抱いているはずだったからだ。
結局、アベラール侯爵のなかでは、アベルは身元の定かではない「新参者」であり、口にこそしないが真に信頼していないのだ。アベラール侯爵だけではなく、ベルリオーズ公爵、さらにはベルリオーズ家やアベラール家に仕える一部の騎士らもそうなのかもしれない。
人間の心情など計り知れないものであるし、個人が抱く思いは外部から強制できるものではないので、それもしかたのないことだが。
「葡萄酒を用意しましょう」
暖炉側にある椅子をすすめながら、リオネルは使用人を呼ぼうとしたが、侯爵はそれを手振りで制する。
「酒はやめておきましょう。長居はしません」
「急ぎの話ですか」
「いえ、山賊討伐に赴かれる直前に、少しお話ししたことです――ベルリオーズ邸の玄関先で」
侯爵が言わんとしていることについて、リオネルはすぐに思い至った。
山賊討伐の命が下った直後のころ、アベラール侯爵は自領に戻る前に、なにか話したいことがあったが時間がなくなってしまったとリオネルに告げたことがあった。
あれから実に様々なことが起こったが、リオネルは彼の言葉を忘れてはいない。
――謝罪したいことがある。
侯爵はそのように言っていたはずだ。
ディルクが婚約していた相手について、自分にではなく、母であるアンリエットに謝りたいことがある、と。
今は亡きディルクの婚約者は、シャルム西方国境に位置する伯爵家の令嬢だった。現ブレーズ公爵の実妹が嫁いでいるということを除けば、特にその名を知られるわけでもない平凡な家柄だ。
ベルリオーズ家と対立するブレーズ家の血を引く娘と、ベルリオーズ家とは切っても切れぬ仲であるアベラール家の嫡男が婚約することに、当時、周囲からは少なからぬ反対があったようだが、それでも大きな問題なく婚約は成立したはずだった。
なぜ今頃になって、アベラール侯爵が、彼女のことで謝罪する必要があるのか――。
婚約者であった少女と、母アンリエットとの関係性についてもまったく不明である。
大げさな話ではないと侯爵は前置きしていたが、リオネルが気にならないはずがなかった。
「ディルク」
アベラール侯爵は息子の名を、重々しい口調で呼ぶ。
「はい、父上」
返すディルクの声は、飄々としていた。
「デュノア伯爵に、山賊討伐への参加を要請に行く途中の馬車のなかで、マチアスが私に『なぜ気乗りしない縁談を受けたのか』と尋ねたことがあったな」
「はい。いずれリオネルも含めてお話してくださると、父上はおっしゃっていました」
「今日は、その話をするため、ここへ来た」
「やはり、ベルリオーズ邸を発つときに、リオネルにいずれ話すと伝えたのはこの話なのですね」
ディルクもまた、かつての父の言葉を忘れてはいなかった。
「リオネル殿が討伐から戻られたらゆっくりお話ししようと思っていたが、帰還した直後に王宮へ赴かれることになり機を逸してしまった。王都からお戻りになった今こそ、そして私が明日には戻らなければならない今こそ――」
アベラール侯爵はリオネルに視線を移す。
「――お話しておきたいのです」
「おうかがいします」
静かなリオネルの返事を得て、アベラール侯爵はゆっくりと語りはじめた。
それは十一年前、アベラール家とデュノア家のあいだで、婚約が結ばれた経緯についての話だった……。
「隣り合う領地であるため、アベラール家とデュノア家は古くからつきあいがありますが、縁談話がでたのは、初めてのことでした。デュノア伯爵が私に縁談を持ちかけてきたのは、シャンティ殿が生まれてから間もなくのことです」
「私が三歳のときですね」
かすかにディルクが驚いた様子だったのは、縁談話をするにはあまりに幼い年齢だったからだ。相手はまだ生まれたての赤ん坊ではないか。
かつてシャルム王国においては、貴族のあいだで政略結婚のために幼い子供たちが婚姻関係を結ばされる事態が相次いだ。そのため、前国王の時代に一定の年齢に達しておらぬ者の結婚は禁止されたが、婚約はそのかぎりではない。
「デュノア家は代々、軍事力ではなく、政治的手段でローブルグと接する自領を守ってきました。ベアトリス殿との婚姻でブレーズ家の後ろ盾を得たうえは、娘の婚姻によって、アベラール家とその後ろにあるベルリオーズ家の力を得ることを期待したのでしょう」
ブレーズ家とベルリオーズ家という対立する二大有力貴族を味方につけ、強敵ローブルグから領土を守ろうとはまた大それた考えである。裏を返せば、遠く離れた王都にいる国王と正規軍を、有事の際には頼りにならないと踏んでいたのだろう。
「けれど、私は婚約の申し出を、長いあいだ受け入れませんでした。相手の産みの母はブレーズ家の令嬢ベアトリス殿。ベルリオーズ家とブレーズ家という対立する大貴族のあいだで、ディルクが苦しむことになるのではないかと懸念したからです」
「私はどんなことがあったとしても、ベルリオーズ家の側につきました」
「であれば、デュノア家のご令嬢殿が苦しんだ。そのことがわかっていたからこそ、おまえは婚約を破棄したのだろう?」
「……ええ」
時折、発言するものの、ディルクの表情は浮かなかった。
当然のことだろう。自らのせいで死なせてしまった可能性の高い元婚約者である。婚約の経緯を今頃になって聞かされても辛いだけだ。
息子の苦悩を、アベラール侯爵は理解していた。
けれどそのうえで、どうしても話しておかなければならないことらしかった。
「国王派貴族と王弟派貴族の血を引く婚姻は、二人を苦しめるだけではなく、必ずどこかで軋轢が生じると私は考えていました。けれど、伯爵の熱心な様子に、縁談を断りきれずにおりました。そんな折りです」
窓を強い風がたたく。
アベルは安らかな眠りに落ちただろうかと、リオネルはふと思った。
「アンリエット殿が、ぜひ縁談を承諾してほしいと私に申されたのです――それも、ご夫君であるベルリオーズ公爵様には内密に」
「母上が?」
意外そうに尋ねたのはリオネルである。
「ええ、突然の申し出に私は驚きました。それまでアンリエット殿がこの話について口にされたことさえなかったというのに」
――それは、小鳥の羽根のように白く軽い雪が、霞むように舞い落ちる日。
すみません、次回、婚約についてのすごい秘密が明らかになるわけではありません…。
中途半端なところで字数が多くなって分けてしまったため、本当に申し訳ないです。期待させてしまっては心苦しいので、一言後書きに書き加えさせていただきました。
いつもお読みくださっている読者様に感謝申し上げます。
相変わらずのペースですが、のんびりお付き合いをいただけましたら、誠に幸いですm(_ _)m yuuHi