9
青年が、恋しい相手の部屋を訪れたのは、夜も更けたころである。
風が強く吹き、窓枠をかすかに揺らす宵。
耳を澄まし、心を安らかにし、そして過去に囚われた心が解放されていたなら、彼の想いは、扉を優しく叩くその音からでも気づくことができたかもしれない。
だがそれに気づくには、少女はまだあまりに幼く、そしてあまりに深く傷ついていた。
暖かかったはずの場所、美しかったはずの世界が、一瞬にして荒野と化したその日から、アベルの心は固く閉ざされたままである。それでも、扉を叩く音に気がつき、それを開けたのは、意識の遥か底に、リオネルの深い想いが届いていたからかもしれない。
でなければ、アベルは扉の音に気づかぬふりをしていただろう。ひどく疲れていたからだ。
――リオネルの存在だけが、今はアベルの心を動かし、アベルを生かしていた。
「リオネル様」
主人を迎えたアベルの顔には、深い疲労の影が差していたが、それでもたしかに、柔らかな笑みがそっと浮かんでいる。
「どうなさいましたか?」
その表情を、目を細めて見やりつつ、リオネルは夜の来訪を詫びた。
「夜分にすまない」
「いいえ――」
淡い笑みを浮かべたままうつむくアベルは儚げで、どこからか入りこむ風に揺れる燭台の炎のように、ふっと消えてしまいそうである。
目の前にいる少女を、力のかぎり抱き寄せたいという衝動を、リオネルは覚えずにはおれない。彼女の痛みをすべて奪い去ることができたら、どれほどいいだろう。
「疲れただろう」
扉を半分ほど開け放したまま、リオネルは尋ねた。もし扉を後ろ手に閉ざしてしまったなら、相手をかき抱いてしまうような気がしたからだ。
「わたしよりも、リオネル様のほうがお疲れだと思います」
アベルの回答にふと笑んでから、リオネルは寂しげに言う。
「アベルは、おれに心配をさせてくれないのだな」
「……主人に心配をかけぬ臣下でありたいと考えています」
「おれはきみのことが心配だ」
そのとき初めて、疲れてどこかぼんやりしたようなアベルの顔に、はっきりと「意識」の色が浮かんだ。
アベルはなにか伝えたかったが、なにを言ってよいかわからない。言葉を探すうちに、リオネルが続ける。
「心配なんだ。心配でしかたない。怪我や身体のことだけではなく、心のこともだ」
「…………」
「父が言ったことを、気にしないでほしい」
リオネルの父――ベルリオーズ公爵が口にしたこと。それは、アベルが「規則違反」を犯したということである。アベルは、そっと瞼を伏せた。
再びなにか言おうとするが、疲労のせいだろうか、言葉は浮かんでこない。
病み上がり、かつ怪我が治ったばかりの身体で長旅を続けた。体力的にはもう限界だろう。だがそれだけが、疲労の原因ではない。
真の疲労は精神からくるものだ。
旅の途中でリオネルにぶつけた言葉――あのような言葉を口にし、あのような態度をとっていながら、まだ謝罪もしてない。
公爵の厳しい言葉、そして、それに起因する公爵とリオネルの言い争い。
売春宿の前で目にした花売りの少女……。
この一週間、様々なことが起こった。
しかしこれからは、これまで以上に予想のつかない事態が起こるはずだった。
「父は厳しい人だ」
ベルリオーズ公爵が心優しくも、当主として厳格な人物であることは、この館で知らぬ者はない。アベルは小さくうなずく。
「だが、アベルはおれの家臣だ。なにがあっても、おれが守る」
――きみも、イシャスのことも。
リオネルが付け加えた言葉に、アベルは、はっとした。
アベルの瞳に映った不安の色に、リオネルはほほえんで見せる。
「イシャスのことは心配いらないよ」
途端に、アベルは瞼の奥が熱くなるのを感じた。
己の涙腺の弱さに、アベルは呆れずにはおれない。疲れているからだろうか。知らぬうちに、どれほどの不安を抱えていたのだろう。
涙を流すまいとして、アベルは息をつめた。
「二年前、子供を愛せないというきみに、おれが代わりにイシャスを愛すると誓った。彼のことは、おれが責任を負う。なにがあっても、きみとイシャスを守るから」
アベルは言葉が出なかった。
ずいぶん長いあいだ、言葉を発していないような気がした。
こんなにも、リオネルは自分のことを理解してくれている。抱いている不安まで、すべて知っていたなんて。
「……リオネル様」
ようやく出てきたのは、小さくかすれた声である。
そのかすかな声を聞き逃すまいとするように、リオネルが「なに?」と尋ねながら軽く顔を寄せる。そうされていることが、なんだか恥ずかしく感じられて、アベルはうつむいた。
「ごめんなさい」
いや――、恥ずかしかったのは、己自身の愚かさだ。
「なにを謝る必要がある?」
「…………頑固で、偏屈などと言って――」
リオネルの表情が一瞬驚きの色に染まる。
「あのようなことを口にし、生意気な態度を取ったことを、後悔しています」
相手からは沈黙だけが返ってきたが、アベルは言葉を続けた。今こそ伝えなければならないと思ったからだ。
「リオネル様が赦してくださることはわかっているのです。ですが、わたしは自分を深く恥じています」
言い終えた瞬間――。
アベルの身体は、透明感のある、どこか懐かしい香りに包まれていた。
華奢な身体を包んでいたのは、青年の力強い腕である。
あたたかい。
そして、安心する。
服を通して感じるリオネルの逞しい身体が、不思議とアベルの心臓に早鐘を打たせた。
「リオネル様……?」
戸惑うアベルの耳に、低い美声が響く。
「おれのことを、本気で頑固で偏屈だと言ってくれるのは、アベルだけだ。そんなアベルだからこそ、おれにとっては何者にも代えがたい存在なんだ」
うつむいたまま、アベルは涙がこぼれそうになった。
――ああ、リオネルはすべてを受け止めてくれている。
「頑固で偏屈」という言葉の裏にある、アベルがリオネルに対して抱く親しみと反発の双方に、リオネルはとっくに気づいている。
なぜ、そのことを知りながら、幾度も見失うのだろう。
「ごめんなさい」
再びアベルは謝罪した。
あの言葉で傷ついたのはリオネルではない。――真に傷ついたのは、言葉を発したアベル自身だ。そのことに、リオネルも、アベル自身も、このときはじめて気がついたのだった。
「今から、ディルクやベルトランやマチアスと、おれの部屋で少し飲もうと思っているのだけど、アベルもよかったら来ないか?」
抱きしめられた腕のなかから、アベルはそっと顔を上げてリオネルを見上げた。
するとリオネルは、瞳に愛情と切なさをこめてアベルを見下ろす。それからゆっくりと、腕のなかの少女を解放した。
「疲れているだろうから、けっして無理強いはしないよ」
その瞳に映る感情を判じることができるアベルではなかったが――。
「参加します」
リオネルに向けた、わずかに照れたようなアベルの笑顔は、咲きかけの蕾のように柔らかだった。
アベルの参加を手放しに喜んだのは、リオネルの部屋で自室にいるかのようにくつろいでいたディルクである。
「来てくれたのか、よかった。アベルがいないと華がないからな」
アベルが女性であることを知らぬはずのディルクの発言に、一同は一瞬ぎくりとするが、ディルク本人はにこにこしており、特別な意味を込めたわけではないようだ。レオンがこの場にいればすかさず、「男に『華』があるというはおかしいだろう」と文句を言っていたことだろう。
「長旅で疲れてはいませんか」
気遣うマチアスに、
「最初だけご一緒させていただこうと思いまして」
とアベルは笑って見せる。
「蜂蜜酒を追加しよう」
素早くベルトランが室外で待機していた女中に、アベルのための酒を用意させ、ささやかな帰郷祝いがはじまった。
リオネル、ベルトラン、ディルク、マチアス、そしてアベル――。
気のおけぬ面々だけで集まる空間ほど落ち着くものはない。ここにレオンもいれば、どれほどよかっただろう。それはだれもが感じていることだった。
「レオンはどうしてるだろうな」
ディルクのつぶやきに、
「ベネデットの哲学書あたりを読んでるんじゃないか」
とリオネル。
「いや、借りてから二ヵ月近く経つんだぞ。もう読み飽きているだろう」
ベルトランが言うと、皆いったんは納得しかけたが、
「レオン殿下ならきっと何度でも読み返しておられますよ」
というマチアスの意見に、最終的にはまとまった。このとき、王都にいるレオンがくしゃみをしていたことは言うまでもない。
「山賊討伐も長かったけど、五月祭に呼ばれてからも長かったな。行って帰ってくるだけかと思っていたら、予想もしないことばかりが起きた」
初夏といっても、ベルリオーズに吹く風は、まだけっして暖かくはない。
窓を締め切っているものの、室内は肌寒かった。この気温のなかで蜂蜜酒を飲めば、身体はちょうどよい程度に温まる。
蜂蜜酒が喉を通る心地よさに、アベルはほっとした。
ひとり部屋にこもって寝付くよりも、こうして皆と甘い酒を飲んでから眠るほうが、遥かに心地よい眠りにつくことができるだろう。
――今夜は、怖い夢を見ずにすむだろうか。
夜になれば、身体は疲れているし眠くなる。けれど、アベルは夜が怖かった。
悪夢に比べれば、どんなに過酷であったとしても、「現実」のほうがはるかにましだと感じられる。なぜなら悪夢は肉体ではなく精神を蝕むからだ。
夢は、夜な夜な、心の奥底にある恐怖と哀しみを思い出させにくる悪魔だ。
悪魔は様々な姿で現れる。
あるときは、嵐の日の出来事として。あるときは、デュノア邸を追い出されたときの、鬼のような父の形相……カミーユの悲痛な叫び声として。
故郷を出てからリオネルに出会うまでの、ひとりさまよった日々。未だに、目が覚めると、家畜小屋の片隅で眠っているような錯覚に陥ることがある。
そして、経験したことないはずの、溺れる夢。
夢も見ない深い眠りにつくことができるのは、いつも明け方近くになってからだった。
ベルリオーズ家の騎士らが口をそろえてアベルを「朝寝坊」であるというように、朝が弱いことはアベル自身も認めるが、それはそれなりの理由があるのだ。
ちなみに、「朝寝坊」と言われてはいるが、集合の時間に遅れることはほとんどない。というのも、朝はほとんど隣室のリオネルかベルトランが起こしてくれているからだ。
「本当に、王都への旅では予想を超える出来事が続いたな。アベルのことはむろん、リオネルの命が、二度も危機にさらされるとは思わなかった」
師匠ベルトランの言葉を、アベルはすかさず聞き咎めた。
「二度?」
アベルの知る限りでは、リオネルの命が狙われたのは、王宮における毒の一件のみである。他にもリオネルに危機が迫っていたとは、聞き捨てならないことだった。
ベルトランは「しまった」という表情になり、なにか誤魔化そうとして口を開くが、言葉は出てこなかった。
「ああ、そうか。最初のときには、アベルはいなかったね」
挙動不審なベルトランの代わりに答えたのはディルクである。
「王都へ行く途中、おれたちは少し用事があってカルノー領に寄ったんだ」
雰囲気を察していないのか、もしくは察していても知らぬふりをしているのか、ディルクはぺらぺらと話しだす。
またたくまにリオネルの表情が曇り、ベルトランとマチアスがそろって頭痛を覚えたように片手でこめかみを押さえた。
「カルノー領……」
その地が、ベルリオーズ領から王都へ向かう途中に通過するノートル領の、南方に接する領地であることは、アベルもなんとなく知っていた。だが、主人らがそこに寄らねばならぬ理由まではわからない。
「その話はもういい」
ぶっきらぼうにリオネルはディルクの話を打ち切ろうとした。
けれど、話の継続を願ったのはアベルである。主人を襲った危機について聞かずにはおれなかった。
「聞かせてください。リオネル様の身になにが起きたのですか」
懇願するアベルの様子は必死ですらある。
親切なのか意地が悪いのか、ディルクは親友ではなく、ベルリオーズ家の従騎士の願いを優先した。
「カルノー邸に立ち寄ったのは、惨殺された前カルノー伯爵の遺族を弔問するためだ」
「弔問……」
「そうしておれたちはカルノー邸に一泊したが、その晩に事件は起こった」
話すディルクの様子はやけに楽しそうである。
「現伯爵の妹君にリオネルは誘惑されたんだ」
「誘惑?」
「ついに二人は寝台に入り――」
「やめろ」
「……し、寝台?」
遮るリオネルの声と、聞こえた言葉を思わず繰り返すアベルの声が同時だった。
これほど真面目そうなリオネルが、女性に誘惑されて、寝台に入るとはどんな冗談だろうか。
「まあまあ、リオネル。ここまで話したのに中断したら、変な誤解だけが残るじゃないか。いっそ最後まで話したほうがいいと思うんだけど」
「おれもそう思う」
力をこめて同意したのは、ベルトランである。
マチアスは奔放な主人の言動に呆れ返り、言葉もなかった。まさかディルクが、リオネルの恋する相手に、あの夜の出来事を語るとは……。
ベルトランにまで「最後まで聞かせるべき」と言われ、リオネルは沈鬱とした面持ちで頭を押さえた。ひどく頭痛がするらしい。
一方アベルは、最後まで聞くことがおそろしいような気もしてきていた。リオネルの濡れ話など聞きたくない。けれど、それよりも臣下として、主人の周囲にどのような危険が潜んでいる可能性があるのか、知っておきたいという義務感のほうが勝った。
「じゃあ、話させてもらうよ?」
確認するディルクに対し、反対の声はあがらない。
「寝台に入った二人がどうなったかというと――」
耳を抑えたい衝動を必死にこらえていたのは、アベルもリオネルも同様だった。
「リオネルがご令嬢の服を脱がしかけたところで、思わぬ事態が起こった。ご令嬢が突然リオネルに向けて、短剣を振りかざしたんだ」
「待て。大事なことを説明していないだろう。おれはすべてわかっていて――」
「いやいや、今、アベルにとって大事なことは、おまえの行動ではなく、相手の行動だ」
リオネルを黙らせておいて、ディルクは話を続ける。
「寸でのところでリオネルは攻撃を逃れ、彼女が持つ得物をベルトランが押さえることで、間一髪、危機を乗り越えたというわけさ。カルノー家のご令嬢は、ちょっとしたことでリオネルを逆恨みしていてね。でも、リオネルの暗殺に失敗して、兄であるティエリー殿に諭され、自分の過ちに気がついたみたいだよ。もう心配することはない」
「そう、ですか……」
うなずくアベルはどこかぼんやりしていた。ディルクの話を聞きながら、思い出すものがあったのだ。
話の情景が、すべて見てきたかのように目に浮かぶ。
今まで忘れていたが、いや、むしろ思い出さないようにしていたが、自分はたしかにその情景を夢で見ていたことを、アベルはこのとき思い出した。
あれは、ラトゥイの都市アルクイユで、タマラとミーシャの家に泊まった日の晩だった。
夢の途中、美しい令嬢がリオネルを短剣で襲おうとしたとき、咄嗟にリオネルに逃げるよう叫んで目が覚めた。
あれは、ただの夢ではなかったのか。だがまさかそんなことがあるはずがない。
「……カルノー家のご令嬢様は、赤みがかった薄茶色の髪の、喪に服した美しい貴婦人ですか?」
小声で尋ねるアベルに、皆が驚きの視線を向けた。