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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第四部 ~波乱に満ちた誕生日と、切なる祈り~
226/513







 あたたかな陽気に浮かれたサン・オーヴァンの街の片隅に、ボロ布を纏ったひと組の夫婦の姿がある。


 一ヶ月ほど前までは、裕福とは呼べないにしろ住むところがあり、着る服もあり、食べるにも困っていなかった。それは、身寄りのない子供たちに過酷な労働を強いた結果ではあるが、現在のような生活にまで落ちぶれた今でも、特段そのことを〝悪いこと〟であったとは思っていない。


 悪いのは、すべて「イシャス」という名の少年である。

 あの得体の知れぬ少年を煙突掃除夫として雇ったせいで、二人は今、このような目に遭っていると信じていた。


 肉屋街の道路の隅にうずくまっているのは、ボドワン夫妻である。

 時折「ごみ」として捨てられる肉片を、野良犬と競い合いながら拾って食べることで命を繋いでいる。


 煙突掃除をさせていた子供たちは、国の役人が連れていってしまった。

 実の子供たちはというと、すでに手放している。――人買いに売ったのだ。他人の子供たちを金で買って過酷な労働をさせていた二人が、今度は自分たちの実の子を売らねばならなくなったというのは皮肉なことである。


 王宮でアベルが騒ぎを起こし、その直後に頼みの綱であるジェレミーが出ていったのだから、ボドワン親方のもとには王宮内の煙突を掃除できる少年がいなくなってしまった。

 ようするに責務を全うできなかったのである。


 しかし、だからといって、即座に重い罰が下されたわけではなかった。なぜなら、少年を煙突掃除夫として働かせてはならないという法律がシャルムにはあるので、ボドワンを公然と罰すれば、法を守るべき立場にあるはずの国が、少年らに王宮の煙突掃除をやらせていたと露呈する可能性があったからだ。


 しかし、ボドワン夫妻はわかっていた。自分たちの身に悲劇が訪れるのは、時間の問題であると。


 なぜなら、王宮の役人が徹底的に法を犯した事実を隠蔽しようとするなら、二つの方法しかありえないからだ。

 ひとつは、少年を働かせていたことを役人側は知らなかったと言い張り、ボドワン夫妻を違法行為者として厳しく罰すること。いまひとつは、ボドワン夫妻を密かに葬り去ることで完全に事実を隠すことである。

 いずれにせよ、夫婦の未来は明るくない。

 逃げ出すことを、ボドワン夫婦は即座に決意した。


 けれどすぐに行動を起こすことができなかったのは、家の周囲を王宮の役人が見張っていたからである。恐怖のなかで来る日も来る日も王宮からの沙汰を待ったが、ジェレミーがいなくなり半月が過ぎても、なにも起こらない。


 一ヶ月近く経ち、役人のほうもボドワンらがおとなしいので気を緩めたそのとき、ボドワン一家は行動に出た。

 夜中のうちに、こっそり裏庭から抜け出したのである。

 老いた母親は置き去りにし、子供たちは伴った。しかし、五人もの人数で行動していれば目立つことは明らかだ。三人の子供を売り払ったのは、家を出た直後のことだった。


 ボドワン夫妻は知らないが、彼らが逃亡を図った日の翌朝、フィデールの命を受けた役人が二人の身柄を拘束するためにボドワン邸を訪れていた。まさに絶妙の間合い――寸でのところで二人は自由を手にしたのである。


 だが、子供たちを売った金など、数泊の宿代と、ボドワンのやけ酒に消えた。

 こうしてこの数日、二人は野良犬と餌を奪いあう生活を続けているのである。


「厄病神のイシャスめ……」

「恩知らずのジェレミーのやつ……」


 これがもっぱら二人の口癖であった。


 けれども二人が逃亡した背景には、もうひとつの理由があった。――イシャスことアベルを、リオネルが連れ帰ったことに、ボドワン夫妻は恐怖を覚えていたのだ。


 もし、死すべき少年がリオネル・ベルリオーズのもとで一命を救われていたら、そしてもしそのことをジェルヴェーズ王子が知ったら――。


 ジェルヴェーズとリオネルのあいだにある因縁を知らぬ者は、このシャルムにはいないだろう。また、ジェルヴェーズ王子の側近であるフィデールは、ベルリオーズ家と長年対立するブレーズ家である。


 王宮で出会ったジェルヴェーズ王子の恐ろしさ、そしてアベルを助けにきたときのリオネル・ベルリオーズの気迫を思い出すたびに、ボドワンはなにかとんでもないものに巻きこまれてしまったような気がしてならないのだ。これ以上、関わりあいたくない。


 すべての元凶は、「イシャス」との出会いだ。

 あの酒場で彼と出会ってさえいなければ、妻の忠告に耳を傾けて家から追い出していれば、今頃はまったく異なる結末を迎えていたに違いない……。


「あんた、早くサン・オーヴァンから逃げたほうがいいんじゃないかい」


 責めるような妻の台詞に、ボドワンはちっと舌打ちする。


「とっくにわかってる、そんなことは。逃げる金がないから、ここにいるんだ」

「あんたが飲んじまったんだろう」

「おまえが宿になんかに泊まりたいといったからじゃねえか」

「あんたの酒代に比べりゃ、宿なんて――」

「うるせえな! 全部おれのせいだって言うのか」

「そうさ、全部あんたのせいだよ、この愚図亭主!」

「言ったな、この雌鶏が!」

「雌鶏は卵を産んで役に立つんだ、この役立たず亭主!」


 賑やかな喧嘩の声が、日も暮れた肉屋街に響きわたっていた。









 サン・オーヴァンの街を、遠方に見下ろすシャルム王宮。


 松明の光が揺れる温室オランジュリーのそばをシュザンが通りかかったとき、普段は感じられない気配があった。


 温室は宮殿の北西に位置するので、庭園を横切らずに――つまり目立つことなく騎士館から宮殿へ移動したいときにシュザンが使う経路の途中にある。


 装飾美しい建物の影、松明の光も届かぬような場所で、剣を振るっている者がいた。


 だれと撃ち合わせているわけでもない。単身で練習に励んでいるようだ。

 温室は、王族や貴族が散策したり、ときにはなかで小規模な宴が催されたりすることもある。このような場所の脇で鍛錬する度胸のある強者はだれであろう。

 シュザンは興をそそられて近づいた。


 懸命に素振りをしているようであるが、国の正規軍を率いるシュザンからすれば、やや未熟すぎる剣裁きのようである。もっといえば、基本の形からして崩れている。


 しかし、それもそのはず、剣を振るっているのは、浮き上がる影から察するに年若い者だ。顔は判然としないが、体格からすると十三、四歳といったところであろうか。


 その頃のリオネルやディルクは、目前で剣を振るう少年より遥かに優れていたが、それは彼らが特別秀でていたからにほかならない。「普通」というものがいったいこの世のなかに存在するのかどうかわからないが、あえて「平均的」な水準というものがあれば、こんなものであろう。


 シュザンの気を引いたのは、少年の真剣な様子だった。


 一心不乱に練習に打ち込む姿は、なにかにかれたようでもある。

 松明の明りを映して時折光る瞳は、剣の先より向こう、闇の彼方よりも遥か遠いところを見据えているようだ。

 なにを信じれば、もしくはなにを求めれば、これほど純粋な眼差しでいられるのだろうか。


「身体の重心位置が安定していない、腰をもう少し下げろ」


 気がつけばシュザンは、自らの従騎士に対してするのと同じように指南していた。

 驚き、動きを止めてこちらに顔を向ける相手の様子を気にとめず、シュザンは続ける。


「わかるか。重心がずれると、全体の均衡が崩れる」

「……均衡、ですか?」


 戸惑いながら尋ねる声は、まだ子供らしさを残している。


「そう、均衡が崩れると、どこを狙って剣を振りまわそうと力が入らない。言葉を返せば、重心を常に制御できていれば、腕力がなくても結構な力が発揮される」


 親切に教えてくれるらしい見ず知らずの相手に対し、「はい」と返事をした少年は、腰を下げて剣を構えなおした。


「下げ過ぎだ。ただ下げればいいというものではない。自分の重心がどこにあるかということを意識するんだ」

「こうでしょうか」

「先程よりはいい」


 少年が素直に助言を聞き入れる態度であるので、シュザンはそれからしばらく手解きを与えてやった。

 温室の脇、わずかな松明だけが頼りの場所で稽古はいつまでも続くかのように思われたが、やや唐突にそれは終わりを迎えた。シュザンが我に返ったのは、時間の経過を感覚的に察したからである。


「すまないが、人と会う約束がある。これ以上は見てやれない」


 シュザンが詫びると、少年は素直に聞き入れ、礼を述べた。


「私もちょうど戻らなければならない頃合いです。ありがとうございました。とても勉強になりました」


 そのまま立ち去ろうとしたシュザンだが、ふと気になって去り際に尋ねる。


「きみは、どなたかの従騎士か」

「はい、従騎士になったばかりですが、師がとても忙しいので、こうしてひとり稽古をしていました」

「そうか。ここでやるときは、温室に来訪者がいないかどうか気をつけたほうがいい」

「承知しています」


 少年の返事を聞いて軽く安堵すると、シュザンは窓からもれる光を眩しく感じながら、宮殿のほうへ向けて歩き出した。






 一方、 残された少年は、宮殿の裏口へ向けて走り出す。

 相手の名前を尋ねなかったのは、師のもとへ戻らなければならないと慌てたために聞き忘れていたからではない。


 あえて尋ねなかったのだ。


 カミーユは最近思う。

 相手がだれでもかまわないではないか。

 こうして、偶然闇のなかで出会い、稽古を施してくれた。公爵家でも名もない下級貴族でも、国王派でも王弟派でもかまわないではないか。


 名乗った途端に、だれそれは王弟派の有力貴族だからつきあってはならないとか、だれそれは国王派の一族だから話してもよいとか、そういうことが決まってしまうのがカミーユはいやだった。


 今回は、相手も自ら名乗らず、こちらの名を尋ねてこなかったから幸運だった。

 あの場所で練習をしていれば、再び会えるだろうかとカミーユは思う。


 従騎士として王宮に移り住んだものの、近衛騎士隊副隊長のノエルは忙しく、なかなかじっくり手解きを受ける時間がない。だからこそ、カミーユは見知らぬ騎士から指南を授けられたことが、嬉しくてしかたがなかった。


 自由な時間ができたら、またあの場所でひとり稽古をしようと、カミーユは胸を躍らせるのだった。


 戻ってきた従騎士の顔を見て、ノエルはわずかに不思議そうな顔になるが、なにも尋ねない。かような態度は、とてもノエルらしいものであった。

 代わりに尋ねたのは、ノエルのもとを訪ねていた従兄弟のフィデールである。


「機嫌がよさそうだが、なにかいいことがあったのか?」

「はい、庭で稽古をしていたら、指南してくださる御仁と出会いました」

「だれだ?」


 にわかに厳しくなったフィデールの視線に気づかぬふりをして、カミーユは明るく答える。


「知りません。互いに名乗りませんでした」

「どんな風貌だった」

「真っ暗だったので、ほとんど見えませんでした」

「…………」


 黙したフィデールをノエルがちらと見やったが、二人はなにも語らなかった。


 クラリスの一件以降、フィデールはカミーユが関わる人間に対して非常に敏感になっていた。これ以上問題を起こされては困るからだということを、カミーユは知っている。

 だが、それはフィデール自身の保身のためではなく、従兄弟である自分を守るためであるということも、カミーユにはわかっていた。


 フィデールほどの立場の者であれば、カミーユが起こした問題事などに巻きこまれることなく、従兄弟といえども冷淡に切り捨てることができるはずだ。

 それをせず、むしろカミーユを危険から遠ざけようとするのは、フィデールがカミーユのことを案じてくれているからにほかならない。


 交友関係や行動を、厳しく見張られているような気がして窮屈な気はするが、自分を守ってくれる年長の従兄弟にカミーユは感謝もしていた。


「叔父上とフィデール様にご迷惑をかけるようなことはしないので、安心してください」


 カミーユが言い足すと、フィデールはなにも答えず――表情さえ変えずにノエルへ視線を移し、カミーユが戻るまで交わしていたらしい会話を再開させた。


 叔父と従兄弟がなにについて話をしているのか、カミーユはわからなかったが、「ボドワン」とか、「失踪」「捜索」などという言葉が、断片的に聞こえてくる。


 それが例の騒動のときに居合わせた煙突掃除夫の親方のことであるなどとは、また、自分を救った少年について調べるためにフィデールがボドワンを探しているのだとは、カミーユは夢にも思わなかった。











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