7
ベルリオーズ公爵の書斎に入るとすぐに、アベラール侯爵が椅子から立ちあがり、リオネルとディルクを迎えた。同行していた騎士らは扉のまえで待機を命じられ、クロードとベルトランのみが入室を許可された。
そうそうたる面々のみが集まるなか、アベラール侯爵が真っ先に尋ねたのは、リオネルの体調のことである。
「リオネル様、毒の影響は――」
「服毒する直前に解毒薬を飲んでいたので、このとおりまったく問題ありません。アベラール侯爵にも、ご心配をおかけしました」
リオネルの返答に、アベラール侯爵は胸を撫で下ろす。発言こそ控えているものの、クロードも同様だっただろう。
「お身体に異常がないとは聞き及んでいたのですが、実際にお会いするまでは安堵できませんでした。即効性の毒で、一切の影響がでないというのは奇跡のようなもの。お父上もおそらく私と同様にご心配なさっていたことでしょう」
アベラール侯爵がクレティアンを見やると、彼は深くうなずいた。
「早くそなたの無事な姿を見たかったが、五月祭の時期が終わってもなかなか戻らず、どれほど気を揉んだことか」
「戻らぬ理由については、手紙でお伝えしたとおりです」
そっけなく答えるリオネルに、ベルトランが瞬時に目配せする。
――これ以上、アベルのことで公爵様と揉めるな。
ベルトランの視線は、たしかにリオネルにそう伝えようとしていた。
手紙で伝えたとおり――つまり、アベルの体調が回復するまでは、ベルリオーズに戻ることはできないという内容の手紙を、リオネルは公爵に送っていたのである。
「ああ、戻らない理由とやらについては、手紙を受け取るたびに読んだ」
いつになく機嫌の悪い様子の息子に、クレティアンは淡々とした口調で話しかける。
「今回の帰館も、アベルのためであると」
「ええ、彼の希望を尊重した結果です、父上」
リオネルの返答もまた冷然としたものであった。
「アベルの希望よりも優先すべきことがあるだろう」
「帰郷は父上の意向にも沿ったものだったはずです」
厳然としている公爵と、冷静なリオネルの静かな言い合いは、気性の激しい者同士の喧嘩よりもなにかおそろしいものがある。その雰囲気は、鈍感なクロードさえも感じとることができるほどだった。
「それは偶然結末が一致したというだけのこと。おまえの命を救ったことに関する感謝の気持ちに偽りはないが、アベルの親族をここに住まわせることについては、私の意向ではない」
クレティアンが口にした「アベルの親族」とは、つまりイシャスのことである。
あと数日のうちに到着するだろう彼を、ベルリオーズ家本邸に住まわせることは、館内の規則に反することだった。
家族のある騎士は、館の外に居を構え、家族と共に住まうのが決まりである。
ベルリオーズ邸で生活することを望むか、もしくはその必要が生じた際には、家族は当然自らの館に残してこなければならない。
「今回のことは私が決めたことです」
「だれが言いだしたかはともかく、規則違反に変わりはない。アベルに関してはこれまでも大目に見てきている。規則を破るのは、これが最後ということだ」
「アベルは身寄りがなく、彼の弟イシャスはまだ二歳です。幼い二人に、ここ以外のどこに住む場所があるというのです。それを規則違反と仰るなら、規則というものそれ自体に私は疑問を抱きます」
しばし黙した公爵だが、すぐに気持ちを改めたようである。
「もういい、今日のところは、これ以上この話はしない。規則云々をはじめ、宮殿で起こった事件や、シャルム国内の対立、大陸北方の話も含めて今日は厳禁とする。山賊討伐が終わった直後に王都へ旅立ち、ゆっくり話す機会もなかったのだ。話しあうべきことは山ほどあるが、半年ぶりにこうして皆が無事な姿で集まったのだから、少なくともこの一日くらいは笑顔で過ごそうではないか」
「まったく同じ思いでございます」
アベラール侯爵がクレティアンに賛同して、その場の空気は幾分か和らいだ。
「父上は随分長くここに滞在していらっしゃるようですね」
機に乗じて侯爵に尋ねたのは、ディルクである。雰囲気を変えようとしている努力が、この青年にしては珍しく見られた。
飄々(ひょうひょう)としているディルクにとっても、ベルリオーズ家の父子が言い争っているのは落ちつかないようである。
「いや、リオネル様の無事な姿を見なければ帰れないと思ったのだ。今日、リオネル様にお会いできて思い残すことはない。明日、明後日には帰るつもりだ」
「そうですか、せっかくお会いできたのに残念です」
「おまえも帰るのだぞ」
「え」
すかさず告げられて、ディルクは瞬時に目を丸くした。
「私も、ですか」
「『え、私もですか』――ではない。おまえは、どれだけアベラール領を不在にしていると思っているのだ」
命を受けてラロシュへ出兵したのが三月初旬のことであり、それから一度も戻っていないため、ディルクは三ヶ月ものあいだアベラール領を離れていることになる。
「しかし、リオネルの誕生日が七月です」
「それまでにまだ一ヶ月ある。一度アベラール領に戻ってから、再度赴けばいい」
「面倒では?」
「面倒なものか。おまえは馬を駆けて、一日でここまでくるではないか」
父親の有無を言わさぬ態度に、ディルクは軽く溜息をついた。従わないわけにはいかなそうだ。自領に戻れば、気が遠くなるような政務が待っているだろう。
「ところでマチアスはどこだ」
突然、従者のことを問われ、ディルクは言い淀んだ。
「ええっと、どこだろう」
アベルのそばにいることはわかっている。だが、再びアベルの話題をここで持ち出すのは避けたいところだった。
同じ思いだったらしいベルトランが、ひとつわざとらしく咳払いをする。
「バルナベ殿の近くにおられたようでしたが」
助け船を出すかのようにクロードが発言したのは、けっして気を利かせたわけではなく、ただ単に事実を述べただけであった。けれど、ディルクはその幻の船にしがみつく。
「そ、そうだ、バルナベとなにか話があるとか……ないとか……」
バルナベというのは、アベラール家に仕える若い騎士で、マチアスとは同世代であるため親しい。
だが苦しい言い訳だった。主人であるアベラール侯爵との挨拶より優先しなければならないほどのことなど、滅多にあるものではない。それが、バルナベとの話などということはまずありえない。
ディルク自身、マチアスがアベルを気にかけていることは知っていたものの、これほどまでとは意外だった。
親友のリオネルといい、従者のマチアスといい、自分の周囲はアベルを心配する者ばかりだとディルクは思う。むろん、ディルク自身もアベルのことを大切に思っているのだが、自分のことにはだれしも気がつかぬものである。
「まあいい、マチアスには直接話そう」
「なんのお話でしょう」
「近々、ヴァルナ侯爵が来訪する」
アベラール侯爵の回答に、ディルクは途端に表情を険しくし、不愉快げに眉根を寄せた。
一方、階下の「アドリアナの間」では、騎士たちがアベルを囲い、賑やかな様相だった。
「王宮ではなにがあったんだ? なにしろ、おまえとマチアス殿がリオネル様の危機を救ったということはラザール殿から聞いたが、その詳細については『知らない』の一点張りだ」
「そうだ、そうだ。聞かせてくれよ、ラ・ヴァルバレルでどんな冒険があったのか」
「リオネル様を襲った危機というのはどんなものなんだ?」
「アベルはどうやってリオネル様をお救いしたのか、教えてくれ」
方々から質問を浴びせられ、アベルは困り顔で詫びた。
「すみません。ラザールさんと同様、お教えできないのです」
すると、今度は批難の嵐である。
「随分、ケチなことを言ってくれるじゃないか」
「ラザールと口裏を合わせているのか?」
「教えないとは、どういう道理だ」
「アベルの英雄伝は、後世まで語り継がれるかもしれないぞ?」
あれこれと文句を言われながらも、アベルは小さく首を横に振った。
「お許しください。リオネル様から、詳細については語らぬようにと申しつけられています」
「では、マチアス殿にうかがおう」
騎士のうちのひとりが提案すると、皆の視線がいっせいに、窓際の一角でアベラール家の者たちと雑談していたマチアスに集まる。
夕陽が射しこんだ「アドリアナの間」は、部屋そのものが橙色の光を放っているかのように明るい。
ベルリオーズ家の騎士らの視線を受けて、マチアスは顔を上げると、だれにともなく告げた。
「王宮での一件について知りたいということでしたら、どうぞ皆様、私にお尋ねください」
マチアスの言葉に、ベルリオーズ家だけではなくアベラール家の者も、驚きの表情になる。どうやら、マチアスもアベラール家の者から質問攻めにあったうえ、回答を拒んでいたようである。
「するとマチアス殿は、詳細を教えてくださるのか?」
「いいえ、主人から他言せぬよう命じられています」
「なに、それではアベルに尋ねても、貴殿に尋ねても同じことではないか」
「少し違います。私に尋ねてくだされば、アベル殿をこれ以上困らせないですみますから」
淡々とマチアスが答えると、皆が束の間、虚をつかれた面持ちになる。
その直後、「アドリアナの間」に、明るい笑声が広がった。笑っていたのは、老騎士ナタルである。
「マチアス殿のおっしゃるとおりですな、これ以上アベルを困らせても気の毒というもの」
あたたかい眼差しで、ナタルはアベルを見やる。
「真面目なアベルに、主人の申しつけに背かせるようなことをしてはならない」
「ですが、アベルはリオネル様の命を仰がず、勝手に館を出ていきましたが?」
アベルを目障りに思うらしき騎士のひとりが指摘をすると、ナタルが静かに答えた。
「それはリオネル様のことを案じたうえでの行動。なにか感じるものがあったのだろう。アベルが好んでリオネル様の命に背くはずがない。そうだろう?」
水を向けられて、アベルはわずかに戸惑いながらもうなずいた。
ナタルの言うとおりである。できるなら、リオネルの指示に従っていたかった。規則など破りたくない。
けれど、すべてを投げ打ってでも、リオネルを守りたいと思った。だからこそ、あのような大胆な行動をとったのだ。これから先も、おそらく自分は変わらないだろう。
どのような命令や規則があろうとも、大切なものを守るためには、なにもかもを捨てて救いに行くに違いない。
もう二度と、大切なものを失いたくないからこそ。
自分の手で、大切なものをしっかりと掴んでいたいのだ。たとえその先に、どんな苦難が待ち受けていたとしても。
これほどまでのアベルの覚悟を、ここにいる騎士らのほとんどは気づいてはいないに違いない。もし察することができる者がいたとすれば、それはマチアスと、老騎士ナタルだったかもしれない。
「そういえばアベル、あと数日で、おまえの弟がここへ来るというのは本当の話か?」
「ええ、ラザールさん。……弟は二歳で、名はイシャスといいます」
小さな声で答えるアベルに、しかしラザールは屈託なく笑った。
「そうか、それは楽しみだなあ。アベルの弟なら別嬪に違いない」
和やかな雰囲気で談笑が続く部屋は、しだいに落陽の光を失い、そのかわり燭台にあたたかな色の火が灯る。
笑顔の騎士たちにアベルが囲まれている。
その様子をマチアスはそっと見守りつつ、ふと視線を部屋の隅に向けた。
十人に満たぬほどのベルリオーズ家に仕える騎士らが、遠巻きにアベルのほうを見ている。
一見、他の騎士らと変わらぬ様子である。睨んでいるわけではない。ただ見やっているだけといえば、見やっているだけである。
だが、彼らの眼差しの奥に潜むものは、どうやらアベルを囲う騎士らの瞳のうちにあるものとは異なるようだった。いや、まったく違うといってよいだろう。
――嫉妬。
そして嫌悪。
マチアスがあえて、ディルクとともに最上階へ向かわなかったのは、単にアベルのことが気になったからであり、特段、騎士たちの様子に不審を抱いたからではなかった。
だがまさか、一部の騎士らがアベルに対して抱く敵意を知ることになるとは思ってもみなかった。敬愛する主人らに悟られぬように、公爵やリオネルのまえでは平然と振る舞っているらしい。
マチアスは双眸を細める。
男の嫉妬は案外、陰湿で質が悪いものだ。
アベルに敵意を向けるベルリオーズ家の騎士らのうち、数人の名をマチアスは知っていた。ジェローム・ドワイヤン、ロベール・ブルデュー、トマ・カントルーブ、そしてオクタヴィアン・バルト。
彼らはそろって高貴な出自であり、なおかつベルリオーズ家――ひいては「正当な血筋」に対し並々ならぬ忠誠心を抱いている者たちである。
それはそれで評価すべきことではあるが、一方で、諸刃の剣という側面も否めない。忠誠心が、戦場で発揮されるときは素晴らしいが、ある種の忠誠心は排他的であり、狂信的でもある。野心と合わされば、なおさら厄介な代物だ。
仲間に囲まれて少しはにかむような、そして少し困ったようなアベルの笑顔に、密かに突き刺さる剣呑な眼差しを、マチアスは警戒心を込めて見やった。
けれども、この場でだれよりも激しい嫉妬をアベルに対して抱いていたのは、嫌悪感をわずかでも面に出す騎士たちではなく、彼らからは離れた場所に立ち、アベルの帰還を喜ぶ者たちに混ざって笑みをたたえる十六歳の従騎士――ジュストだった。
ジュストがかぶっていたのは、誠実で優しげな仮面。巧妙に秘められた彼の感情に、だれも気付くことはなかった。