5
もうすぐでラトゥイの中心都市アルクイユに到着するというところで、一行は突然の雨に見舞われた。
「ついてないなあ」というディルクのつぶやきどおり、あと少し早くアルクイユに到着していれば――もしくはあと少し雨が降りだすのが遅ければ、アルクイユの食堂あたりでゆっくりと雨をしのぐことができたはずだったのに。
馬上で主人らの乗る馬車を守っていたベルトランやマチアス、そして護衛の騎士らは雨外套を着るまもなくずぶ濡れとなった。
かくして、服を着替える必要に迫られた一同は、アルクイユに到着すると食堂へ向かうより先に、旅籠の空き部屋を借りることとなった。
今になって雨脚は弱くなりつつある――通り雨のようだ。
間が悪かったとしかいいようがない。
騎士らが二部屋に分かれて着替えをしているころ、近くの小部屋では、ささやかな論争が繰り広げられていた。
「単独行動は認められない」
この部屋にいるのは、馬車に乗っていたために濡れずにすんだ三人――つまり、リオネル、ディルク、そしてアベルである。あえて別室で待つことにしたのは、女性であるアベルに配慮してのことだ。
濡れずにすんだのだから、これ幸いと長閑に休んでいるのかと思いきや、うち二人は一歩も譲らぬ体で己の意見を主張しあっていた。
「単独行動というほどのことではありません。皆さまが昼食を召しあがっているあいだに、行って戻ってきます」
「短時間でも長時間でも、単独行動には違いない――アベルをひとりで行かせるわけにはいかない」
「危険な場所にいくわけではありません。なにも戦場に赴くわけではないのですから、自分の身くらいは自分で守れます」
きっぱりと言い切るアベルに、リオネルの秀麗な顔立ちがたちまち曇る。
「たしかに戦場ではない。けれど、どこでなにが起こるかだれにも予測できないんだ。なにかあってからでは遅い」
「なにが起こるというのですか?」
わずかな間を置いてから、リオネルはしかたなさそうに答える。
「……メオドルで、突然いなくなったきみを再び見つけたとき、きみは真っ青な顔をしていた」
「あれは……」
わずかに言い淀んでから、アベルは拳を握る。
あのときは、自分でも理解できない状態に陥っていたのだ。本来なら、自力で客引きなど振り切ることができたはずだった。けれどそれができなかったのは、突然頭のなかが混乱し、なにも考えられなくなってしまったためである。
あんなことは、滅多に起こることではない。
いや、むしろはじめてのことであったし、金輪際起こらない可能性のほうが高いのだ。
「……少し、ぼんやりしていただけです。あのときのことは感謝しています。けれど、必要以上の心配は無用です」
「必要以上だって?」
リオネルの声音が固くなる。すると、親友とその家臣の論争を黙って聞いていたディルクが、これ以上聞いておられぬといった様子でとりなしに入った。
「まあまあ、リオネル。アベルにも事情があるんだろう」
だが、リオネルはディルクの声が聞こえていないかのように続ける。
「必要以上と言うが、一ヶ月前には、全身に痣や傷だらけであまつさえ肺炎を患っていたきみを、どうして心配せずにいられるというんだ」
主人の語調の強さに気圧され一瞬言葉を呑んだアベルに、リオネルはたたみかけた。
「きみがおれのそばからいなくなるたびに、おれは寿命が縮まる思いだ。単独行動などもってのほかだ。許可することはできない」
いつになく苛立ったリオネルの様子に、アベルは言葉の意味を考える以前に、疑問を抱かずにはいられない。
「……わたしは、それほどリオネル様に心配ばかりかける家臣でしょうか」
「そんなことを言ってるんじゃない」
「仰っているように聞こえます」
今度はアベルの勢いに圧倒されて、ディルクが唾を飲んだ。
「失礼を顧みずに申しあげれば、リオネル様は、わたし以外のご家臣に対しては忌憚なく単独行動を要する仕事をお命じになりますが、わたしにはけっして命じてくださいません。力の足りない未熟者と自らわきまえてはいますが、もう少し信用していただきたいのです」
「違う、信用の問題じゃないんだ」
「ならば、年齢ですか? 立場ですか? わたしが、十五歳の従騎士だからですか?」
ほとんど泣きそうな声で質問を重ねられて、リオネルは頭痛を覚えたかのように頭を押さえる。
――好きだからだ。
だれよりも愛おしく、大切だから――。
そう答えられたらどれほどらくだろう。
アベルのことを家臣だなどと思ったことは、一度もない。
もしアベルの身に取り返しのつかぬことが起きたら――と考えると、呼吸さえ苦しくなるほどだ。だからこそ、ほんの一瞬だって目の届かぬところへいってほしくない。
あれほどの危険を冒してまで、リオネルの命を救ったアベルである。あらゆる意味で、リオネルはこれまでにも増して、気がかりでならなくなっていた。
「とにかく、指示には従ってもらう。きみはおれのそばを離れてはいけない」
頭ごなしに希望を退けられたアベルは、もどかしさに加え自分でも理解できない感情を覚える。そして言い放った。
「リオネル様は、普段は寛容でいらっしゃるのに、ときに偏屈で頑固です」
思わず吹きだしそうになったディルクだが、かたやリオネルは不機嫌な顔で、
「偏屈でも、頑固でもけっこうだ。だが、指示には必ず従ってもらう」
と短く言い捨てる。
そのとき、三人以外の者の声が部屋に響いた。
「いったいなにが起こっているんだ?」
開いたままだった扉口に、着替えを終えたベルトランが目を丸くして立っている。そのかたわらには、心配そうな様子のマチアスの姿もあった。
二人とも服はさっぱりとしたが、髪はまだ濡れている。
「いや、まあ、仲がいいほど喧嘩するっていうのか……」
リオネルもアベルも共に声を発しないので、しかたなくディルクが答えた。
「……ちょっとした、考え方の食い違いだよ」
けれど、「仲がいいほど」などと言われて、アベルはいたたまれない思いに駆られる。
主人をこれほど苛立たせているのは自分だ。大切な主人と喧嘩がしたかったわけではない。
アルクイユで世話になったタマラとミーシャに、ひと目会って挨拶したかっただけだ。特に自分のことを心配してくれていたミーシャには、無事に戻ったことを知らせておきたかった。
しかし、たったのひとときでさえ隊を離れることを許可されず、願いは完膚なきまでに打ち砕かれてしまった。
心配してくれるのは、ありがたいことなのかもしれない。だが、行動を制限されるのは窮屈でしかたがない。
ただわずかな時間、タマラとミーシャに会いたいだけなのに。
アベルはリオネルとディルクに一礼し、ベルトランらの脇をすり抜けて部屋を出る。
「アベル」
ベルトランに声をかけられたが、小さく頭を下げただけで、アベルは廊下を歩み去っていった。咄嗟にリオネルとディルクに目配せしたマチアスが、視線だけで主人らの了承をえてアベルのあとを追いかけていく。
二人が去り、重い静寂の訪れた部屋で、リオネルが押し黙ったまま深く溜息をついた。
偏屈で頑固か……とディルクはアベルの言葉を繰り返す。
「そんなふうにだれかがおまえのことを言うのをはじめて聞いたが、それが、よりによってアベルとはね」
ディルクは笑いを押し殺しているようだった。おかしくてしかたがないが、ここで笑うわけにもいかないといったところか。
「なにがあったんだ。アベルがおまえのことを偏屈で頑固などと言うのは、よほどのことだろう」
ベルトランが怪訝な顔をすると、
「よほどのことだったとしても、許可できることと、できないことがある」
とリオネルは、どこか自分を納得させるかのように低い調子でつぶやいた。
リオネルとてアベルと言い争いたかったわけではない。
想いを寄せる相手と口論して楽しいわけがない。アベルが部屋を出ていった今、リオネルはやるせない気持ちを持て余していた。
アベルはけっして我儘を言う性質ではない。むしろ、周囲の要望や仕事を優先し、自分のことは後回しにしすぎるくらいである。だからこそなおさら、アベルの望みはできるかぎり叶えてやりたい。
けれど、今しがたつぶやいたとおり、叶えてやれることと、そうでないものがある。
単独行動などを許すくらいなら、それこそ彼女の食べ物に睡眠薬を混ぜ、眠ったアベルを抱きかかえてベルリオーズ領まで戻ったほうがましだ。どれほどアベルの怒りを買おうとも、彼女が危険な目に遭うよりは幾倍もよい。
「なるほど、そういうことか」
これまでの経緯をディルクから聞いたベルトランが、苦い口調と眼差しをリオネルに向ける。
「おまえには、他に選択肢はなかっただろうな」
黙したまま、リオネルは椅子に深く腰かけていた。ディルクが遠慮がちに言う。
「それにしても、もうすこしやんわりと諭すこともできただろうに。事情くらい聞いてあげてもよかったんじゃないのか」
「……聞けば最後だ。事情を聞いたら、おれはアベルに否とは言えなくなっていた」
疲れたように答えてから、リオネルは友人らから顔を背けて瞳を閉じた。
単独行動を禁止されている身である。
ふらりとどこかへ行きたいような衝動に駆られたが、命令に従わないわけにはいかず、主人らの部屋を出たアベルが辿りついた先は、騎士らが着替えをする部屋より少し先へいったあたりの廊下だった。
壁にそっと背中を預けると、その硬く冷ややかな感触にかすかな安堵を覚える。
窓から見える景色は、雨も上がり、全体的に明るくなりつつあるというのに、アベルの気持ちは、空とは正反対に暗く沈みこんでいきそうだった。
――リオネル様は、普段は寛容でいらっしゃるのに、ときに偏屈で頑固です。
――偏屈でも、頑固でも結構だ。だが、指示には必ず従ってもらう。
頭のなかで先程交わした台詞が繰り返され、アベルの心の深い場所を苛む。
あのような心ない言葉を、ぶつけたかったわけではない。偏屈で頑固だなどと……。
ただ、ささやかな願いを聞き入れてもらいたかっただけだ。
我儘だっただろうか。
手前勝手な願いだっただろうか。
自分が間違っていたのかどうかもわからないのに、アベルはひどく自己嫌悪に陥る。
そうなのだ。どちらが正しいかなどということは、重要なことではない。自らの願いを通そうとすることで、リオネルと対立したことが、今はただ情けなく、切ない。
リオネルは主人なのだ。
彼が是と言えば是であるし、否と言えば否なのだ。
家臣である自分は、それが正しかろうが正しくなかろうが、ただ従うべきなのだ。
どうしてあのように反抗的な態度をとってしまったのだろう。
……おそらく、リオネルの返答が、自分への心配から生じたものだったからだ。
それがもし、アベルに別の仕事をさせるためであったり、なにか不都合を生じさせたりするという理由から生じた回答だったならば、もっと素直に受け入れられただろう。
だが、そうではなかった。
ただ単に、「アベルのことが心配だから」――そう言われてしまうと、なぜだか無性に心が乱れた。子供扱いされたような気がしたし、リオネルから自分は信頼されていないような気がしてならなかった。
……けれど、それだけだっただろうか。
そもそも、このように感じることそれ自体が、自分が子供っぽい人間であることの証なのかもしれない。
――きみがおれのそばからいなくなるたびに、おれは寿命が縮まる思いだ。
リオネルの言葉が、苦しいほど切なく思い出される。
なにかを全力で否定しなければ、これまでの自分を見失う気がした。
「アベル殿」
突然声をかけられて、アベルは顔を上げる。
声の主はわかっていた。
迷惑をかけていることを申しわけなく思いつつも、これまでの思考を断ち切られたことに、アベルは密かにほっとする。
「ごめんなさい、マチアスさん」
謝罪するアベルを、マチアスはわずかなあいだ見つめ、そして微笑した。
「なぜ謝るのですか?」
「…………」
「おひとりでいるところを邪魔して、謝罪しなければならないのは私のほうです。申しわけありません」
アベルは大きく首を横に振る。
わかっている。マチアスが、リオネルやディルクの意を受けて、自分の様子を見るためにここへ来てくれたことくらい。マチアスに対しては素直に感謝の気持ちを持てるのに、どうしてリオネルに対しては反抗的な態度をとってしまうのだろう。
「なにがあったかは存じあげませんが、リオネル様が下された指示であれば、必ず貴女のことを心から考えたうえでのことです」
咄嗟にどう答えればよいか、アベルはわからなかった。
自分のことを考えてくれていることは、アベルとて理解している。だが、そのうえで自分自身にも理解できない感情が存在しているのだ。
だからこそ、もどかしく、そして、いたたまれないのだ。
「そのことを前提としたうえで、アベル殿にはどのような事情があったのでしょう?」
問われてアベルは正直に答えた。王都へ赴く途中で世話になった老婆とその孫に、ひと目会い、礼を述べたいのだと。
黙ってアベルの話を聞いていたマチアスは、最後に小さくうなずき、そして尋ねた。
「そのことを、リオネル様はご存知でしょうか」
「……いいえ」
「そうですか」
なにかを理解したように、マチアスはそっとほほえむ。
「どのような事情があろうとも、リオネル様のご指示に背くことはできません」
「わかっています」
短くアベルが答えると、マチアスはひとつだけ確認をした。世話になった二人の家は、アルクイユを囲う城壁の東門近くにあるということで間違いないかと。
間違いないと答えるアベルに、マチアスは淡々と告げた。
「では、そのあたりを通るときに、馬車の車輪がなにかにひっかかってしばらく動かなくなることもあるかもしれません」
「え?」
「もしかしたら――の話です」
マチアスの言葉が意味するところがわからず、アベルは首をかしげる。だがその謎は、間もなく解けることとなった。
部屋を借りた旅籠の地下食堂で、簡単に昼食を済ませたあと、一行は再び旅路についた。
いつもより心なしか静かな昼食時、マチアスが密かに宿の小間使いに銅貨を持たせ、東門の方面まで使いに行かせた。
リオネルとは互いに視線も会話も交わさぬまま昼食を終えたアベルは、再び馬車に乗りこむ。外で警護に当たらないのは、「体調が全快していないアベルを、警護にあたらせるわけにはいかない」というリオネルの配慮である。
空を覆っていた雨雲は流れ、今は澄んだ青空が広がっている。
雨上がりの空は色が深く、普段の淡い水色とはまた違った美しさである。
清々しい空模様からは、先程までの雨が嘘だったかのように感じられたが、乾き切らぬ騎士らの髪と、雨水にぬかるんだ道は、たしかに雨が降った事実を示していた。
馬車は泥水を跳ね上げ、アルクイユの東西を横切る大通りを東へ抜けていく。
ガクンという音を立て、馬車が急停止したのは、もう少しで東門というあたりだった。タマラとミーシャが住む家のそばである。
「なにがあった?」
馬車のなかからリオネルが問いかけると、「車輪に木の枝が挟まったらしい」と馬上からベルトランが答える。返答を聞いたリオネルは、束の間、沈黙した。
「どれくらいかかる?」
「簡単に外せそうなものだ、すぐに出発できるだろう」
馬を降りて様子を確かめているらしいベルトランの声が、再び外から。
――もしかしたらの話です……。
昼食前にマチアスと話していたときの言葉を思い出し、アベルは思わず窓の外へ視線を向けた。マチアスの姿を探し、なにかを確かめたかったからだ。
けれど、窓をのぞきこんだアベルの目に映ったのはマチアスの姿ではなく、ぬかるんだ足場の悪い大通りの脇に立つ、老婆と若い娘の姿だった。
「タマラさん、ミーシャさん!」
気づけばアベルは窓にかじりつくようにして、二人の名を呼んでいた。
それとほぼ同時に、「もう大丈夫だ、発車するぞ」というベルトランの声があがり、馬車が再び走りだそうとする。
待って――アベルが声を発しそうになったとき、すぐ隣からよく通る声が響いた。
「馬車を止めてくれ」
リオネルの声だった。
加速しかけていた馬車が、再び停止する。
アベルが隣を振り返ると、言い争いをして以来避けていたリオネルの深い紫色の瞳が、どこまでも優しい色をたたえてこちらを見つめていた。
「行っておいで」
「…………」
「ここで待っているから」
そっと微笑を向けられ、アベルはとっさに言葉が出てこない。
深く美しいリオネルの瞳を前に、胸がじんと熱くなる。
ああやはり自分は子供だ――そして、この人はこんなにも大人だ。
「ありがとうございます」
リオネルに頭を下げると、アベルは扉を開けて馬車から降り、一ヶ月半ぶりに再会する二人のもとへ駆けていった。
馬車のなかには、アベルと入れ違いに、雨上がりの太陽の香りが流れこんだ。
「なんだかんだいっても、やっぱりおまえはアベルに甘いね」
開け放たれた扉の向こうへ去っていくアベルの後ろ姿を見送りながら、ディルクはおかしそうに言う。
「車輪のことは気づいていたんだろう?」
親友に問われ、リオネルは静かに答えた。
「事情を聞かされて、このままアルクイユを発てるわけがない」
昼食前に、リオネルはマチアスから、アベルが単独行動を求めた理由について説明を受けていた。つまりそれは、なんらかの形でアベルの願いを叶えさせてあげてもよいかという、マチアスからの遠回しな申し出でもあった。
大切な相手が、友人とひと目会いたがっているのだと聞いて、どうしてそれを阻むことができるだろう。
雨上がりの太陽がまぶしい。
濡れた地面や家、沿道の木々の葉や花たちは、虹のように光を放ち輝いていた。
ふと、ラロシュ領から帰還する道中に、アベルと共に歌った「虹の街」を思い出す。
まばゆい光のなかで、老婆や娘と嬉しそうに話すアベルを窓越しに見やりながら、リオネルは双眸を細めた。
アベルが笑っていること――それはリオネルにとって、なによりも幸福なことだった。
「アベルよりも、おまえのほうが嬉しそうだぞ」
ディルクのつぶやきにも答えず、リオネルは愛しい相手を見つめていた。