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突然、雨が降り出したのは、正午を過ぎたころだった。
午前中は、夏が近いと感じさせるほどの陽気であったのに、またたくまに雲が広がり、そこから雨粒が滴りはじめた。雨雲からもたらされる水滴は、乾ききった地上を一瞬にして濡らしていく。
突然の天候の変化が、若者にかつての出来事を思い出させ、その白い顔に影を落とした。
雨が室内に降りこまぬように、窓を閉める。小さな金属音を立てて窓の鍵をかけ終えると雨音が遠のき、かすかに安堵した。あの日の記憶が、少し遠ざかったような気がした。
だが次の瞬間、
「エフセイ」
と主人から名を呼ばれ、若者は内心でやや動揺する。
心のうちを見透かされたような気がしたからだ。
けれど振り返ってすぐに、エフセイは己の考えを打ち消す。主人の顔には、自分への関心などまったく現れていなかったからだ。
それもそのはず。
心のうちを見透かすもなにも、この人は初めからわかっている。
すべて知っていて、この人は自分と接している。ならば、なにも恐れることはない。いや、はたしてなにかをおそれる必要があるのかどうかも、エフセイにはわからなかった。
人より多くのことがわかるというのに、自分自身のことはわからない。不便なことである。むしろ逆であったなら、どれほど生きることがらくだっただろうか。
「だれかが――」
主人である貴族の若者は、その冷ややかな青灰色の瞳を、どこか遠くを見つめるかのようにエフセイに向けていた。
「だれかが自らを犠牲にしてでも、他人を救おうとするとき、そこにはどのような理由があるとおまえは思う?」
唐突な質問だった。
だが、エフセイは戸惑いを見せない。彼には、主人がなにを考えていたのか、おおよそ察することができていたからだ。
「あくまで私の考えということでよければお答えします、フィデール様」
「かまわない」
「大きく分ければ三つの理由が考えられます。ひとつは、相手が己にとり大切な人であるとき。もうひとつは、そうすることが己の役割であるとき」
「最後のひとつは?」
「自分でも理解できぬ衝動にかられたとき――でしょうか」
最後の回答に、フィデールは微笑する。
「それは、おまえ自身のことを言っているのか?」
「いいえ、一般論です」
微笑を崩さぬまま、フィデールは質問を重ねた。
「その衝動というのは、正義感や使命感とは違うのか」
エフセイはわずかなあいだ考えてから、「少し違います」と答える。
「正義というからには、そこには『悪』が存在しなければなりません」
「なるほど。では使命感は?」
「使命感を分類するなら、二つ目の『役割』でしょう」
「では、衝動というのはどんなものだ」
肘掛椅子に深くもたれ、肘をついた片手に頭を傾けながら、フィデールは尋ねる。
「神の啓示のようなものです」
「私は神を信じない」
即座に回答を否定され、エフセイは表情を動かさぬまま束の間無言になると、慎重に言葉を選んだ。
「懐かしさ、にも似ているかもしれません」
フィデールは黙したまま、エフセイを見つめる。
「まるで逆のようですが、そうすべきことが生まれたときから決まっていたかのような、そのような感覚ではないでしょうか」
わずかな間を置いて、フィデールは小さく笑った。それがけっして馬鹿にして笑ったのではないことを、エフセイは理解している。むしろ、己が理解できぬ領域に思いを馳せるような、だが、そこからあえて距離を置こうとするような笑いである。
「そういうものがあるとすれば」
フィデールは肘をつくのをやめて、まっすぐにエフセイを見やった。
「あの少年も、懐かしさとやらを覚えたということか?」
エフセイは口をつぐむ。
あの少年――それは、かつてカミーユの危機を救った煙突掃除の少年のことである。
フィデールは今更ながらに疑問に感じていた。なぜ煙突掃除夫は、己を犠牲にしてまでカミーユをかばったのか。
当時は、ジェルヴェーズ王子の手からカミーユを救うことばかりに気を取られており、さらに、その後まもなく弓試合での毒混入騒動があり、フィデールはこの疑問について思い至る余裕がなかった。
だが、あれから一ヶ月が経ち、元凶となったクラリスは王宮を去り、カミーユは以前のようにノエルの従騎士としての生活を再開し、毒の一件から続いていたジェルヴェーズの一触即発といった不穏な空気もいくらか和らいだ。
こうして余裕が生まれてみれば、大きな怪我をしていたときは気にならなかった掠り傷が突然疼きだすかのように、途端に気になりだしたのだ。
カミーユが過去に煙突掃除夫と接触した様子はない。あのとき、本人もなにが起こったのかわからないようだった。
ではなぜ、たかが煙突掃除夫が、見ず知らずのはずのカミーユを、身を挺して守ったのか。
むろん、フィデールにとっては願ってもない事態であった。
煙突掃除夫が現れなければ、フィデールは剣を抜いてでもジェルヴェーズを止めねばならぬ状況だったのだ。たとえカミーユを助けることができたとしても、ひどく不興を買っていたに違いない。
それを免れたのは、他でもないあの少年のおかげなのだが。
罪を被ってもらうからには、相応の罰を与えなければならなかった。そうでなければ、ジェルヴェーズの怒りが収まらない。激しい暴行を加えられた少年は、ジェルヴェーズの命礼どおり、手当てを受けずに捨て置かれただろうか。
はたして死んだだろうか……。
なにかの奇跡が起きぬかぎり、死んでいることだろう。
ならば、今更真相などつきとめようがない。
いや、気にするほどのことではないのかもしれない。すべてはうまくいったのだ。どのような理由で少年がカミーユを救ったかなど知らずとも、この先なんの問題も生じない。
――だが。
フィデールはやはり気になるのだった。
人間という名の生き物が、己が身を犠牲にしてまでだれかを守るということ。
それは、生半可な思いからではできないものだからだ。
エフセイの言うところの「衝動」だったのだろうか。だれからの命令もなく、見ず知らずの人間をたかが十二、三歳の少年が救おうとするだろうか。
それとも――。
フィデールは静かに命じた。
「処遇を定めていなかった煙突掃除の責任者だが」
「はい」
「王宮に呼び寄せろ」
「かしこまりました」
ボドワン親方に対しては、手が回っておらず未だになんらの処遇も示していない。これを機に宮殿に呼び、あの少年について尋ねるのも一案である。
雨が降り出した窓の外を見やり、フィデールはもどかしい気持ちになった。
なにかがわかりそうで、わからない。
自ら命じたものの、煙突掃除の責任者を呼んだところで結局、一番知りたいことはわからないような気がしてならなかった。
もしくは、それは当然のことかもしれない。
真に知りたいことそれ自体が、フィデール自身にとっても判然としないのだから。
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降りはじめた雨の音が、竪琴の柔らかい音と重なりあい、これまでとは違った音色に聞こえる。
その音色を、レオンは肘掛椅子に深く腰掛け、心地よく聞いていた。
普段は雑音のように聞こえる雨音だが、竪琴の音色があると、不思議とそれは背景に沈まない。
これがフィドルなどの弦楽器ではそうはいかないだろう。弾くような雨音は、オルゴールにも似た音質の竪琴だからこそ、溶けあい、混ざりあうように調和するのだ。
過ぎていくのは、おだやかな時間である。
共に修業に励んだ従騎士仲間が王都を去り、なにかぽかんと胸に穴が空いたような寂しさと、時間がゆっくりと流れるような妙に寂然とした感覚だけが残された。
けれど、昨年の秋に騎士として叙勲され、その直後に、兄ジェルヴェーズに宮殿の地下墓地に監禁されて以来、単身でアベラール領へ赴いたり、山賊討伐に参加したり、それらを無事に終えたと思ったら今度は兄ジェルヴェーズに毒を飲まされ体調を損なったりと、波乱万丈な日々が続いていた。
それを考えれば、今は平穏な時を過ごしているといえよう。
竪琴と雨音が奏でる音楽を静かに聞いていれば、ふと自分という存在さえ忘れてしまいそうになるほど、それは静穏な時間だった。
哲学者ベネデットが言うところの、「意識を放棄するのではなく、逆に意識を最大限に引きだし、ただひとつの物事に集中させることで、人間ははじめて自我という監獄から解放される」ということであろうか。
余韻に浸っていたせいか、気がつけば竪琴の演奏が終わりを迎えている。
それを奏でていたのがだれだったか、レオンは束の間失念していた。
我に返って竪琴の奏者に視線をやれば、あたたかな眼差しと、優しげな微笑がこちらへ向けられていた。
「母上、素晴らしい演奏でした」
母親の表情と眼差しにやや戸惑いながら、レオンは演奏を讃える。
自分のために弾いてくれたのだ。感謝の念が自ずと湧かぬはずがない。
シャルム王妃である母グレースに、自室で竪琴を奏でるので聴きにくるよう誘われたのは、これまで数え切れないほどだ。グレースは度々こうして夫であるエルネストや、二人の息子、親しい友人らなどを招いて演奏会を開くのである。
グレースの竪琴の腕は、音楽家を生業としている者たちに劣らぬほどである。これほど音楽の才能に恵まれている母を持ちながら、なぜ自分には音楽的素質が受け継がれなかったのか、レオンは不思議でならなかった。
悔しいことに、兄ジェルヴェーズにはそちらの才がある。
どのような楽器を持たせても、たとえそれが初めて手にするものであっても、ジェルヴェーズは「感覚的」に弾きこなせてしまうのだ。そのなかでも、特に演奏が困難であるとされるツィンクを奏でさせれば、聞き惚れるほどの素晴らしさである。
――あの短気で気難しく、悪魔よりも残忍な兄に、神は音楽の才を与えるとは。
レオンは納得がいかなかった。
その才能を与えるべきは、どう考えても、争いごとを好まず、哲学を趣味とする自分ではないのだろうかとレオンは思うのだ。
けれど、生まれながらにして備わっていなかったものは、今更どう足掻いてもしかたがない。レオンは、奏でるほうではなく、ひたすら聴くことに専念すると決めていた。
「あなたにこうして演奏を聴かせるのは、久しぶりのことですね」
深くもたれていた椅子から立ち上がり、レオンは母王妃のほうへ行くと、彼女に向けて軽く一礼してから近くの椅子に座りなおす。
「私が、長いあいだ不在にしておりましたので」
「突然姿を消したと思ったら、冬のあいだずっと帰ってこないのですから」
怒っているというよりは、いたずらを咎めるような含み笑いでグレースは息子を見ていた。
「母上にはご心配をおかけいたしました」
「よほど楽しかったのですね」
「は?」
「お従兄弟君や、ご友人と過ごす時間です」
「え、ええ……まあ」
楽しかった――といえば楽しかった。
が、かといって、意図した結果だったわけではない。
ジェルヴェーズに監禁されなければ「西方国境の視察」などに行くことはなかったし、王都への帰還が遅れたのは、山賊討伐に参加するよう命じられたからである。
だが、たしかに楽しかった。
友人らと過ごす時間は、宮殿で兄ジェルヴェーズや国王派貴族に囲まれ、倫理的にいかがかと思われる議題を論じているより、よほど愉快で心地よい。
けれども、まがりなりにも現王家の一族として、王弟派の者たちとの交流が心地よいだなどとは大声で言えないのだった。たとえ母グレースが、父や兄とは違って、リオネルに対し敵意を抱いてはいなくとも。
「リオネル様は、母君に似て美しい青年に成長しましたね」
「……私は、ベルリオーズ公爵夫人を知りませんので、なんとも」
「アンリエット様はとても美しい方でした。だれもが心奪われるほどに」
だれもが心奪われるほどに――とグレースが言ったとおり、アンリエットに心酔していた者のうちのひとりは、他でもないグレースの夫であり、レオンの父でもあるエルネスト王である。
過去になにがあったのか知らぬレオンは、興味なさそうに「さようですか」と答えた。
グレースは優しげな微笑を崩さずに続ける。
「初めてお子を出産したと聞いたとき、それが男の子だと知り、わたしは心の底で安堵いたしました」
「なぜですか?」
「……なぜでしょうね」
笑みをたたえた顔を、グレースはそっと窓へ向けた。
「けれど、今となっては、アンリエット様のお子が女児であったなら……とも思うのです」
「それはまた、なぜ」
レオンは、母の横顔を見やる。
美しいとは言えないが、穏やかな性格がそのまま表に現れたような顔立ちは、女性としての艶めかしさには欠けるとしても、人間としての魅力を充分に兼ね備えている。
今、その横顔は、複雑な表情を浮かべていた。
この人にこんな表情をさせるものはなんなのか。レオンは言葉の続きを待った。
「クレティアン様とアンリエット様のお子が女児であらせられたら、ジェルヴェーズと婚姻関係を結び、いらぬ諍いを防ぐことができたはず――最近、そう思うようになったのです。国王派、王弟派などという党派ができることもなく、多くの人々のうちに葛藤と苦しみを産むこともありませんでした」
母の唇から洩れた見解に、レオンはあからさまに顔をしかめる。
「それは、リオネルが気の毒というものです」
「気の毒とは?」
「たとえ女として生を受けたとしても、兄上と結婚などさせられるくらいなら、国王派の連中に暗殺されたほうがましでしょう」
あの美丈夫のクレティアンとアンリエットのあいだの女児なら、類稀な美貌の持ち主になっていたに違いない。ジェルヴェーズにも気に入られていただろう。
だが、それで幸福だっただろうか。
あのような破綻した性格の持ち主との結婚生活が、幸せであるはずがない。
いくら幼いころから命を狙われたとしても、男として生まれ、自らの運命を己の手で切り開いていくほうがよほど幸福であるようにレオンには思われた。
グレースは哀しげに首を傾げる。
「ジェルヴェーズに嫁ぐことは、それほどまでに忌避すべきことですか」
グレースはジェルヴェーズの実母である。
先程の発言は、つい口に出てしまったレオンの本音であったが、さすがにこの人の前で口にしたことについては後悔する。グレースにとってはかわいい息子に違いないからだ。
咄嗟に弁解する言葉が出てこないレオンは、気まずい面持ちのまま無言になる。
すると、グレースはまるで泣き出しそうな顔でほほえんだ。
「あなたを困らせるつもりはなかったのです」
「いえ、母上……その」
「わかっています。あの子の性格は」
「…………」
「あなたの言うこともわかります。ジェルヴェーズは、ときにひどく短気で暴力的です」
心から賛同するが、母の気持ちを思うとレオンはどういう顔をすればよいかわからず、険しい表情で視線を床に彷徨わせる。
「けれど、もし歴史が少し違っていれば、あの子はもっと違う人生を歩めたと思うのです」
「違う人生……ですか?」
「ジェルヴェーズは不憫な子です。次期シャルム国王として生まれてきたはずなのに、陰では『簒奪者の子』と呼ばれ、正統な血筋であるリオネル様の存在に怯え、常に己の立場に不安を感じて成長してきたのです。王位を継がぬあなたにはわかりませんか?」
レオンはなんと答えればよいかわからなかった。そのような不安を感じてこなかったのは、次男であったせいか、それとも自分がどこか鈍感であったからか。
「ならば想像することはできますか? 例えば、あなたの立つその地面が、常に不安定で揺れ動いていたとしたら。ジェルヴェーズは常にそんな恐怖と不安のなかで育ってきました。いつ自らの足元にある地面が崩れ去り、『世継ぎ』という座から追い落とされる日がくるか――ただの『簒奪者の子』に堕ちる日がくるか、怯えてきたのです。あの子の我儘も、暴虐も、冷酷さも、気まぐれも短気も、すべてそこから起因しているのではないかと、わたしは思っています」
母の独白は、竪琴の音色のように雨音と溶けあい、混ざりあう。
その音は美しく、だが、あまりにも重たいものだった。
「もしジェルヴェーズがなんの憂いもなく成長できていたら――いいえ、あの子になんの心配もさせないほどの安心感を、わたしが与えることができていたら、ジェルヴェーズはきっと優しい心を持った美しい青年に育っていたと思うのです」
まるであの子が奏でるツィンクの音色のように――とつけくわえた母の声は、雨の音に溶けて消えてしまいそうだった。
たしかにジェルヴェーズの奏でるツィンクは素晴らしい。滅多に聞いたことはないが、幼いころに聴いたときは、あろうことかあの兄を尊敬したものだ。
だが、音色の美しさは人の心の美しさを現すだろうか。ならば、自分はどうなってしまうのだろうとレオンは思う。どの楽器を奏でても音程はとれず、リズムは滅茶苦茶。歌は調子っぱずれである。それを心の美しさだというならば、レオンは極悪非道人ということになる。
だが、母の言わんとしていることもわからないわけではなかった。
ジェルヴェーズの奏でる音は、どこか憂愁が漂って聞える。人に「美しい」と感じさせるのは、その音色に乗せられた奏者の思いのうちに、なにか深く感じさせるものがあるからかもしれない。
「母上のせいではありませんよ」
自らを責めるような口調のグレースに、レオンは短く告げた。
本当はもっと言いたいことがあった。
苦しんできたからといって、平穏な暮らしを望む人間の命を奪おうとしてよいわけではない。もとはといえば、父エルネストが、弟から王位を簒奪したことがすべての元凶ではないか。その報いを、我々は受けているのではないか――と。
だが、優しい母に向けてこのような言葉をぶつけられるはずがない。
「わたくしが至らなかったのです。そして同時に、もしクレティアン様のお子が女児であったなら、ジェルヴェーズはこれほど苦しまずにすんだのかもしれないとも思ってしまうのです」
母のつぶやきに、レオンは切ない思いに囚われずにはおれなかった。
そして、慰めになるかどうかもわからず、レオンは雨に向けて語りかけるように静かに言った。
「人間はどこかの時点で、自分自身の運命に立ち向かわねばならないときがくるのだと、私は思います。兄上には、立ち向かう勇気がないのです。『次期国王』としてだれにも文句を言わせぬような高尚な人間になるのではなく、周囲を力ずくで従わせることで権力を堅持しようとしています。過去の足枷など、もうとっくに自ら断ち切る力を持っているはずなのに、そこに固執しているのは兄上ご自身なのですから」
言葉が途切れると、グレースはゆっくりと顔をレオンに向けた。
その視線に気がつき、レオンも母を見やる。
グレースの顔には、寂しげな笑みが浮かんでいた。
「断ち切る力があることに気づけないのは、やはりあの子が、未だにもがき苦しんでいるからなのではないでしょうか」
「…………」
「あなたにも迷惑をかけているのでしょうね」
なにをどこまで知ったうえで、母がこのように言っているのか、レオンには判じかねる。
まさか、毒を飲まされたことを察しているわけではあるまいが。確信が持てぬことがなんだかおそろしいような気もした。
窓の外。
雨音が小さくなっていく。
「それでも、あなたとジェルヴェーズは、世界でたった二人だけの、血を分けた兄弟なのです」
――あの子を赦してやってください、レオン。
雨脚が弱まる気配をぼんやり感じながら、レオンは母の言葉を聞いていた。
赦す、という言葉はレオンにとり、あまりにも直感的な感覚からかけ離れていた。
赦すもなにも、とレオンは思う。
レオンは、けっして兄を恨んだり憎んだりはしていない。
そうする必要もないくらいに、レオンは兄ジェルヴェーズの存在を遠くに感じていた。彼のいる場所は、自分からはかけ離れている。離れすぎているがために、もう「しかたがない」という感覚だけが残るのだ。
「赦す」というよりは、「許容」といったほうが近いかもしれない。
血を分けた実の兄は、ああいう人間なのだ。
今更どうしようもない。
レオンはそんなふうにしかジェルヴェーズのことを考えていなかった。――それが「兄」という存在に対する「許容」であるとするなら、それは一種の兄弟愛なのかもしれないが。
「兄上が、母上のお気持ちを少しでも察していればよいのですが」
うつむいたレオンの口からこぼれた言葉が、床に散らばる。
「……そんなことは、どうでもよいことなのですよ」
グレースの穏やかな声は、このように答えたが、レオンはそうではないと思った。
母グレースの思いを理解できるようになったそのときこそ、ジェルヴェーズが真に己の運命に立ち向かえるときだと思うからだ。




