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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第四部 ~波乱に満ちた誕生日と、切なる祈り~
221/513







 夜も更けたメオドルの街は、非常に賑やかである。


 小さな町だが、交通の要所であるがゆえに旅人の数は多い。おそらく町の住人よりも、他所から訪れている者の数のほうが多いだろう。

 旅人が滞在中に落としていく財で栄えている町だった。


 そういう町であるから、当然、様々な客商売が流行る。そのうちの最たるものは、宿屋と飲食店、そして売春宿である。


 特に売春宿の場合は客引きが肝心であり、店の主たちは道行く旅人たちにしきりと声をかけ、同業者間で激しく争っていた。

 大きな町であれば、そういった商売は花街として一角に集中しやすいが、このような小さな町では、宿屋と飲食店、そして売春宿は混在している。




 雑多な喧騒のなか、「東の翼」から宿に向かっている途中のことだった。

 リオネルらの後方について歩んでいったアベルは、ふと気になって、ひとりの花売りの娘を目に留めた。


 まだ十三、四歳ほどであろうか。見るからに貧しそうな身なりで、他の花売り娘のように元気よく客に声をかけるでもなく、売春宿の壁のまえでぽつんと立っていた。

 手に持つ初夏の花々は美しいが、少女の表情には陰りがある。


 賑やかな街のなか、沈んだ表情でひとり佇む少女の姿は、かつての自分の姿と重なった。


 デュノア邸を追放され、過酷な日々の末に辿りついた王都サン・オーヴァン。活気に溢れ、眩しいほど華やかな街のなかで、アベルはただひたすらに孤独だった。

 花売りの少女は、その頃の記憶を呼び起こさせる。


「ひなげしと白詰草シロツメクサを、ください」


 気がつけばアベルは、リオネルたちから離れ、少女の前に立っていた。

 花を買って戻るだけならば、すぐに主人らに追いつくだろう。仮に追いつかずとも、今夜の宿はすでに決まっているので困ることはない。


 声をかけられた少女は、怯えたように肩を震わせた。

 けれど、おずおずと視線を上げ、アベルの顔をはじめて直視すると、少女はやや驚いたような面持ちになった。


 なにか驚くようなことがあっただろうかとアベルは思ったが、なにも思い当たらなかったので、曖昧な笑顔を浮かべる。


「花を――」


 花を買いたいのです、そう言いかけたとき、だれかに肩を抱かれた。それはけっして強い力ではなく、媚をも感じさせるような、柔らかい触れ方だった。


 はっとしてアベルは振り返る。

 アベルの肩を抱いていたのは、肩や胸元の大きく空いたドレスを纏った、若い女性である。その世界に疎いアベルでも、ひと目で商売がわかる相手であった。


「なあに、ぼうや。そんなぺんぺん草みたいな女を相手にしなくても、わたしがもっといい思いをさせてあげるわよ」


 お金はあるんでしょう、と女は測るようにアベルの瞳をのぞきこむ。


「どういうことですか」


 生真面目な口調で問い返すアベルに、女は唇を近づける。血のように赤い唇だった。


「あら? とぼけているの? それとも、本当になにもわかっていない純粋なお坊ちゃんなのかしら」


 寄せられる唇に、アベルは不快感を覚えてわずかに眉を寄せる。その表情を目にすると、女は赤い唇に妖艶とも呼べる笑みを浮かべた。


「売春宿のまえで花を持って突っ立てる女が、ただの花売りのはずがないでしょう? この子は、商売女よ。わたしと同じ」


 アベルは信じられぬ思いで、花売りの少女へ視線を向ける。

 すると、少女は顔を赤く染めてうつむいた。


「かわいいのね、坊や」


 花売りの少女を見つめていたアベルの顔を、女は両手で包みこんで自分のほうへ向かせる。


「まだ経験したことがないのかしら? わたしが、見たこともない世界を見せてあげる」

「……けっこうです」

「お客さん。この子は、うちの店でも一番評判がいいんだ。どうだい。まだ若いようだし特別に安くしておくよ」


 会話に割って入ってきたのは、女が働いている店の主らしき男である。アベルは途端に息が詰まるような心地になった。

 降りしきる雨のなかの記憶。

 そしてもうひとつ、雪が舞い落ちるサン・オーヴァンの街で見た悪夢。

 寒い夜。指の先さえ動かせぬほど弱り切っていたあのとき、はからずも座りこんでいたのは売春宿のまえだった。


 アベルは重い眩暈を覚えた。

 しかし、青ざめた表情のアベルを、店の主と商売女は二人がかりで説得しようと躍起になっている。明らかにまだ年端のいかぬ少年を、客として引きこもうとしているのは、アベルの身なりがきちんとしていたからだ。

 服装に派手さはないが、生地の質や仕立てはよい。腰に下げた長剣は、少なくとも騎士の身分に準ずるものであることを現していた。――この少年が、お金を持っていないはずがないのだ。

 それに、年若ければ若いほど、言いくるめるのも惑わすのも容易である。


「坊や、年はいくつ? 十四? 十五? 本当は、こういうことにすごく興味があるんでしょう?」

「どなたかお偉いさんについて旅をしているのだろうけど、大丈夫、時間はかかりませんから。ご主人様に気づかれずに戻れますよ」

「放っておいてください」


 立ち去ろうとするが、血の気のないアベルは足がもつれる。

 重たい眩暈のなかで、記憶が錯綜する。

 あのとき、降っていたのは雨だったか、雪だったか。

 なぜ相手の顔を覚えていないのだろう。

 あの日、自分はどうして館の外へ出たのだったか……。

 懐かしい面影が脳裏によぎり、吐き気をもよおした。


「わたしにかまわないでください」


 拳を握りしめ、手に力を入れることで、アベルはようやく立っているという状態だった。


「足元がふらふらしちゃって、緊張しているのかしら。本当、かわいいわ」


 女がアベルの手をとる。


「さあ、こっちよ」


 店に引きこまれそうになったときだった。アベルは、力強い手に肩を引かれるのを感じた。

 自分の名を呼ぶ低い声に、不思議なほど安堵を覚える。

 振り返ったアベルの顔は、今にも泣きそうだったに違いない。


「私の連れだ。手を離せ」


 低いリオネルの声。リオネルが怒っていると、アベルはすぐに気がついた。

 しかし、よほど鈍感なのか、それとも自信があるのか、女は動じておらぬようである。


「まあ、素敵な殿方ですこと。そんなに怖い顔をしないでくださいな。この坊やのご主人様? お二人ともお相手いたしますわ」


 冷ややかな視線をリオネルは女に向けてから、アベルを守るように自らの背後に隠し、そのまま無言で立ち去ろうとする。

 だが、女はリオネルの腕を即座に掴み、やんわりと自らの唇を青年の耳に寄せた。


 女がリオネルの耳元でつぶやいたのは、とてもアベルには聞かせられぬような言葉である。二十歳にもならぬ青年が聞けば、かわいらしく頬を染めるとでも女は思ったのかもしれない。

 けれど振り返ったリオネルの、冷酷なほど鋭い眼差しに射られ、女は身をすくめた。ようやく色仕掛けが通用しない相手だと悟ったようだ。


「貴女がだれを誘惑しようとかまわない。だが、私の連れに手を出すことは許さない」


 女は押し黙り、店の主は旗色が悪いと判断したのか、早々に別の場所で客引きをはじめていた。

 黙り込んだ女に再び目をくれることもなく、リオネルはアベルを促し、大事な少女をその場から遠ざけようとする。

 不意に我に返ったアベルは、けれどすぐに足を動かすことができなかった。売春宿のまえに立っていた花売りの娘の姿が、忽然と消えていることに気がついたためだ。


「アベル?」


 心配そうに顔をのぞきこまれ、アベルは視線をリオネルに向ける。


「……リオネル様」

「大丈夫か」


 うなずきつつも、アベルは当惑したように声を発した。


「店の前にいた、花売りの子が――いません」


 黙ってリオネルはアベルの示したほうを見やる。そして表情を曇らせた。


「花を買おうとしたのか?」

「……はい」

「振り向いたら、きみがいないから引き返してきたんだ」


 アベルはうつむく。リオネルが怒っていると思ったからだ。実際に、リオネルの声には不機嫌な響きがにじんでいる。


「すみませんでした」


 アベルが謝罪すると、リオネルは一拍置いて、ややためらうように確認した。


「……そこに立っていたということは、ただの花売りでないことは、わかっているね?」


 うつむいたままアベルはうなずく。それから、ぽつりぽつりと説明を加えた。


「はじめはわかりませんでした。話しかけた直後に、先程の女性が抱きついてきて教えられました」

「なるほど、それであの娼婦に声をかけられたのか」


 会話に参入してきた声は、ベルトランである。背後で密かに経緯を見守っていたらしい。


「おまえのような騎士の卵が花売りと話していたら、それは他の女も放ってはおかないだろう」


 ベルトランが言うところの「おまえのような」という意味がわからず、けれど、つきつめて問うことが怖いような気がしてアベルは黙っていた。


「とにかくアベル。黙っておれのそばからいなくならないでくれ。きみの姿が見えなくなるたびに、おれは心臓が止まりそうになる」


 アベルの耳には大袈裟に聞える表現だったが、リオネルにとってはけっして大袈裟ではなかった。

 実際に、宿へ向かう途中、マチアスと話していてふと背後を振り返ったとき、アベルがいないと気づいてどれほど焦慮にかられたか。あまつさえ、アベルを見つけたときには、あわや売春宿に引き入れられるところだった。

 あのまま宿に連れていかれていたら、どんなことになっていたか。このような場所では、密かに多くの犯罪が横行する。何事もなかったとはけっして言いきれない。

 この世界において恐ろしいのは、リオネルの命を狙う刺客だけではない。本当に恐ろしいのは、日常に潜んだ悪なのだ。


 けれど、この世界がいかに危険なのか、そのことをアベルにいくら説いたところで意味がない。なぜなら、彼女は知っているはずなのだ。自分と出会うまでにアベルは少なからず過酷な経験をしているだろうことは、リオネルも察している。

 アベルは知っているはずだった。この世界がどれほど冷酷で、無情であるか。

 それにもかかわらず、アベルは手を伸ばさずにはおれない。

 アベルは、救おうとする。哀しみや苦しみのなかにいる人を、彼女は放っておくことができない。

 そしてそれはおそらく、彼らの姿に重ねて見える、傷ついた己自身を救おうとしているのだということも、リオネルは薄々気がついていた。


 それでも。

 リオネルは、不機嫌な顔をしないではおれない。

 もう少し、自分を大切にしてほしい。慎重に行動してほしい。

 助けを求めてほしい。手を伸ばしてほしい。声を上げてほしい。

 なにごとにおいても、アベルが自分ひとりで問題を解決しようとするのは、他人を信じられないから――。

 リオネルにはそのことが寂しく感じられた。


「行こう、アベル。夜が深まるほど街は物騒だ」


 リオネルに促されたが、アベルは唇をきゅっと引き結んで売春宿のほうを見つめている。


「……娘を探そうだなんて、考えているわけではないだろう?」


 問われて、アベルは瞼を伏せた。

 花売りの少女に声をかけたとき、彼女はひどく怯えた様子だった。彼女自身で選択したのかどうかはわからないが、本意ではない仕事をしていることだけはたしかである。

 助けてあげたい。

 だが、名前もなにもわからないのだから、探しようがない。

 リオネルに確認されたとおり、探そうだなんて馬鹿げたことであった。


 それに――、だ。

 世のなかで苦しんでいる人は多くいるというのに、あの少女ひとりを助けることが、ただの自己充足であることを、アベルは自分自身でわかっていた。

 救いたいのは、少女ではない。

 救いたいのは、いつだって、自分の心なのだ。癒されることのない、過去に負った心の傷。


「宿に――」


 宿りに戻りましょう、と答えるアベルの声は沈んでいた。

 安堵の表情のなかに、複雑な色を織り交ぜて、リオネルはかすかに息を吐く。


「わかった」


 リオネルはなにかを決意したようにそう言った。

 なにが「わかった」のか。いつも、アベルにはリオネルの「わかった」の意味がわからない。

 瞼を上げたアベルに、リオネルは告げた。


「花売りの娘を、手の空いている騎士らに探させてみよう。見つけたら保護する」


 主人の言葉を耳にしたアベルは、喜び以上に驚きのほうが大きかった。


「だが、明日の出立は早い。夜半までに見つからなければ、できるかぎりのことはしたと諦めてくれるか?」

「わたしに探させてもらえませんか」


 咄嗟にアベルはそう口にしていた。けれど、次の瞬間、自らの発言を後悔する。わかっていたからだ。


「それができないから、騎士たちに任じるんだ。なぜかということは、きみ自身よくわかっているだろう」


 答えるリオネルの口調は、落ち着いているものの、苛立ちにも似た感情がかすかに混ざっている。

 当然のことだ。

 ――わかっていた。

 どのような言い訳があるにせよ、リオネルに助けられたという事実に変わりはない。今のアベルは、リオネルに対して強く主張できる立場にいないのだ。

 結局、アベルはリオネルの提案に同意した。


 とぼとぼと口数少なく宿に戻ると、心配顔のマチアスに出迎えられ、そして、楽天的なディルクの笑顔に少し救われた。


「アベルは美女に誘われていたのか。そうか、せっかくの機会を、心配性のリオネルに邪魔されてかわいそうに。今度はおれがリオネルを引きとめておくよ」


 明るく冗談を言い放つディルクに、周囲は閉口していたが、アベルだけは少しだけ心がらくになったように感じた。笑い飛ばしてもらったほうが、気持ちが軽くなることもある。

 けれどすぐに親友のリオネルに鋭く睨まれ、ディルクは肩をすくめると、黙りこんでしまった。


 騎士らの報告は、数刻後にもたらされた。

 過度な期待をしていたわけではなかったが、やはり少女が見つからなかったと知り、アベルは落胆する。と同時に、自らの願いを受けて調査にあたってくれた彼らに、心から感謝した。


 報告によると、あの少女は、毎日あの場所に現れるわけではないという。

 五月祭のころから、週に数回ほど花売りの格好で売春宿の前に立つようになった。直轄領近くの町であるため、旅人や流れの民がひっきりなしに突然現れてはまたどこへともなく消えていく。花売りの少女もそのような人種のひとりだろう――調査にあたった騎士のひとりダミアンは、そう語っていた。




 メオドルの夜は更けていく。


 この町のどこかで、この月のもとで、花売りの少女はきっと震えている。

 生きることの哀しさに濡れ、それでも息をせねばならぬことの苦しさに喘ぎながら。


 そして同じこの町で、主人や仲間と共にいる安らぎの片隅で、癒えぬ傷を抱えたままのアベルも震えていた。――少女の怯えた瞳が思い起こさせた、過去の記憶に。

 いつ再び訪れるともしれぬ嵐、いつ再び噛み合わなくなるかもしれぬ運命の歯車に。







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