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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第四部 ~波乱に満ちた誕生日と、切なる祈り~
220/513







 ベルリオーズ本邸。溜息をつく公爵の傍らで、ディルクの父であるアベラール侯爵は苦い笑みを浮かべた。


「互いに、跡取り息子には手を焼きますね」


 現在ベルリオーズ家に滞在しているアベラール侯爵もまた、息子であるディルクには手を焼いていた。シャンティ・デュノアとの婚約を破棄してからというもの、女遊びの噂を立てて良縁を拒否しては、


「以後、だれとも婚約するつもりはない」


 と言い張るのである。


 リオネルとディルク――将来有望かつ名実ともに秀外恵中の若者らは、ただ結婚に関しては、親にとってまったく意のままにならぬ存在であった。


 二人ともまだ十八歳である。結婚には早いが、正式な婚約者がいて然るべき年齢である。相手が定まらないままとあれば、方々からぜひ娘を嫁がせたいという話が舞い込む。


 それだけならまだよい。大切な嫡男が、どこかの身持ちの悪い娘にでも惚れ込んでしまっては大変なことだ。

 それにくわえ、リオネルが従騎士のアベルに対して強い思い入れを抱いているようであることに、ベルリオーズ公爵は漠然とした不安を抱いていた。


 早いところ、良家の令嬢と縁談を結んでおきたいというのが、名門家を担う当主らの本音である。




 双方の思惑や、真の経緯はともかく、こうしてリオネルらは公爵の望みどおりベルリオーズ領へ戻ることとなった。そしてそれは間違いなくアベルが望み、導いた結果であった。

 つまりアベルがリオネルに対し、ベルリオーズに戻りたいと申し出たのは、リオネルとベルリオーズ公爵のあいだに軋轢を生じさせたくなかったためである。それが、自分の怪我のせいだったならば、なおさらのことだった。











 王都サン・オーヴァンの別邸を出てから二日が経つ。

 ようやく広大な直轄領ラ・ヴァルバレルを抜けヴァナード領へ入り、この日の夜は領内の小さな町メオドルでの宿泊となった。


 往路のように貴族の館を宿泊地としなかったのは、リオネルの判断だった。

 貴族の館では、リオネルやディルクのような高位の貴族を客人として迎えるからには、必ず華やかな晩餐会が催される。従騎士であるアベルは、末席であるといえどもそれに参加せねばならない。

 毎夜の宴会は、病後のアベルにとっては負担になるに違いなかった。


 それに加え、リオネルの立場では常に従騎士のアベルのそばにいることはできない。寝室を離されては、いざというときに彼女を守ることができない。

 それならば――と、サン・オーヴァンからベルリオーズ領の中心都市シャサーヌへの帰途の途中にある数々の貴族らからの誘いを断り、リオネルは旅人が普段から利用するような一般の宿に泊まることを選んだ。


 その結果、ベルリオーズ家の紋章が入った馬車ではなく、ある程度の身分の者が乗っているだろうとしか推測できぬ馬車での移動となり、さらに、ベルリオーズ領から同行してきた護衛の騎士たちは数を半分に減らし、なるべく目立たぬように、つかず離れず主人らの警護にあたることとなった。


 残りの騎士らはというと、一日遅れで王都を出立したエレンとイシャスが乗る馬車の護衛についている。女子供の旅であるから、警護を厚くしたのである。


 この二人――エレンとイシャスがベルリオーズ領の本邸で生活することは、以前から決まっていた話であったが、山賊討伐や五月祭などが続き、実現されずにいた。

 リオネルたちの帰還を機に、実現させる運びとなったのである。


 ちなみに二人と共に医師であるドニも同行するはずであったが、抱えている患者のためにサン・オーヴァンを離れることができなかった。


 イシャスらの馬車が、リオネルらが出立した一日後の出立という微妙な距離をとったのは、リオネルが刺客に襲われた際に、彼らが巻き添えを食わぬようにするためである。

 リオネルのそばにいるということは、ただそれだけで、命の危険にさらされることだからだ。








 メオドルの中心街。

 月明りの眩しい夜。


 命の危機に晒されているはずの若者らは、けれど、そのような緊張感は微塵も感じさせぬ様子で食事をしていた。


「食べないのか、アベル? うまいぞ」

「いえ、ベルトラン……あの」

「食欲がないなら、無理をしなくていい。今日は、朝も昼もがんばって食べていたからね」


 ベルトラン、アベル、そしてリオネルが話すのを聞きながら、ディルクがすかさず口を挟んだ。


「食欲がわかないのは、こいつらのせいだろう」


 木机の上に据えられた皿を、ディルクが指差す。


 彼らがいるのは、「東の翼」という看板を掲げた料理屋だった。

「東の翼」――つまり、国土が竜の形をしたシャルム王国において、右翼に位置する南東地方の名物料理を出す店なのである。


 大都市ではしばしば見かける地方料理専門店だが、このような小さな町にあるのは、ここが、王都サン・オーヴァンからさほど離れておらず、そのうえ、王都とベルリオーズ領の中心都市シャサーヌを繋ぐ直線状にある町だからであろう。


 ディルクが「こいつら」と指差したのは、窪みのある鉄皿にはまっている、くるくると螺旋状に渦巻いた物体である。

 シャルムの南東部――つまり、リオネルの母方の郷里トゥールヴィル領周辺の名物であった。


「そ、そんなことは、ありません」

「べつにリオネルに気をつかうことはないよ。初めて見るなら、驚くのも当然だ」

「いえ、あの……」


 返答に困ってアベルは視線を泳がせる。だが、ディルクの鋭い指摘を受けて、ついに白状した。


「……すみません」


 アベルは正直に答える。


「カタツムリは、雨の日に見たことはありますが、食べたことはありません」

「エスカルゴだ」


 平たい口調でベルトランが訂正したが、


「同じ生き物だろう」


 と、ディルクが苦笑する。


「これを食べないと、人生の半分を損するぞ」


 長い鉄製の針のような器具で、カタツムリの殻から器用に中身を取り出し、ベルトランは口に入れる。その仕草たるや、熟練者よろしく手慣れたものである。


 同じくらい器用に、しかも心底からおいしそうに食べているのが、リオネルだった。

 絶世の美女として名を知られるリオネルの母の故郷トゥールヴィル領は、葡萄酒やエスカルゴが特産であり、そして彼の地と隣接するルブロー領は、他でもないベルトランの生まれ故郷であった。

 つまり、二人は幼いころからエスカルゴには馴染みがあるのだ。


 だがシャルムの最西端、ローブルグとの国境にある田舎で生まれ育ったアベルは、南東部の料理など触れる機会がなかった。


 ましてやカタツムリである。

 カタツムリは、雨の日に、デュノア邸の庭園に茂る草木に張り付いている独特な生き物である。それなりの愛らしさを感じ、弟のカミーユと鑑賞したことはあったが、それはけっして口に入れて、味を堪能するような存在ではなかった。


「そうか、食べたことがないのか」


 しみじみとリオネルがつぶやくと、ディルクは再び苦笑した。


「南東部出身でないかぎり、なかなか食べる機会はないだろうね。おれだって、おまえのところに遊びに行ったときにしか食べてないよ。ベルリオーズ家でこれが当然のように出されていたのは、おまえの母上殿が好きだったからだろう」

「たしかにそうなんだろうけど、おれにとってはパンや肉と同じような位置づけだから、食べたことがないと言われると不思議だ」


 カタツムリをつまみに、アベル以外の者は、いかにもおいしそうに葡萄酒を口に運んでいる。両者は、よほど相性がいいのだろう。


 だが、蜂蜜酒が好きなアベルにとり、葡萄酒と相性のよい料理などには興味がない。にもかかわらず、恐る恐るエスカルゴに手を伸ばしたのは、アベルなりの忠義だった。


「無理して食べなくていいんだよ」


 ディルクに言われたが、アベルは手を止めなかった。

 銀色の長い針で、殻のなかを突いてみる。香辛料で焼き上げてあるので、食欲をそそる匂いはするが、針の柄から伝わる感触に鳥肌が立つ。

 煮ても焼いても、なんといってもカタツムリだ。


「アベル?」


 無理をしてまで食べようとするアベルを、リオネルが不思議そうに呼んだ。するとアベルは、主人にきっぱりと告げた。


「リオネル様のお母君がお好きだったものを、食わず嫌いでいることはできません」

「…………」


 想像もしていなかった返答に、リオネルは束の間、言葉を失う。代わりにディルクが言った。


「そんな理由で食べなくてもいいよ。体調も万全じゃないんだし」

「これは、わたしの問題なのです」


 生真面目な顔つきで言い、アベルは殻から時間をかけてほじくり出したカタツムリの身を、睨んだ。まるで、騎士としての人生をかけた決闘がはじまるかのような気迫である。

 だが、実際にアベルが向き合っているのは、ただのカタツムリだ。

 両目をつむり、アベルが針に刺さったカタツムリを口に入れようとしたが、その瞬間、なにか別の力が働き、針はアベルの手から遠ざかる。


 あれ、と思って目を開いてみれば、リオネルがアベルの手から針を奪い、その先に刺さったエスカルゴを、止めるまもなく口に入れていた。


「リオネル様」


 驚いた声音でアベルが主人の名を呼ぶと、リオネルは涼しげな微笑を頬に浮かべる。


「すまない。せっかく食べようとしたところだったのに」


 わずかに抗議を含んだ視線で主人を見返したアベルだが、リオネルがあまりに穏やかな表情をたたえていたので、心のなかでは密かに困惑していた。


「ここのエスカルゴもおいしけど、せっかく生まれてはじめて食べるものなら、今度ベルリオーズ邸で、アベルのために用意したいと思ったんだ。母の好物だったから、きみにも好きになってもらえたら嬉しい」


 ひたと向けられる深い紫色の瞳と、素直な言葉に、アベルは自分の顔が赤くなるのを感じた。

 そばでリオネルの言葉を聞いていたベルトランが、左手で頭をかく。


 ――母の好物だったから、アベルにも好きになってもらえたら嬉しい。


 この台詞が、ベルトランの耳には愛の告白以外のなにものにも聞えなかったからである。

 一方、マチアスは表情ひとつ崩さず食事を続けており、ディルクはにやにやと笑っていた。


「あいかわらずだね、リオネル」

「なにが?」

「いいや」


 笑顔のまま、ディルクは諦めたように首を振る。


 狭い店内は旅人でにぎわい、満席だった。六月に入っても未だに涼しいが、この日は暖かく、初夏を感じさせる生ぬるい風が小さな窓から店内へ吹き込んでいる。


 店は、酒と料理、旅人たちの汗の匂いに満ち、そこへ生ぬるい風が入りこみ、あらゆる匂いを混ぜ合わせ、独特の香り漂う空間を作り出していた。


 もっときちんとした場所で、丁寧に用意した料理をアベルに食べてもらいたいというリオネルの気持ちも、わからないではない。


「アベルの気持ちが嬉しかった」

「え?」


 なんのことかわからぬ様子で、アベルはリオネルを見つめたが、優しい主人はただほほえむだけである。アベルは軽くまばたきして、そしてつられるようにして笑った。


 主人が自分のために、エスカルゴを用意してくれるというのだ。アベルこそ、この青年の気持ちが嬉しかった。


「楽しみにしています、カタツ……エスカルゴ」

「じゃあ、おれも御相伴に預かろうかな」


 ディルクがそう言いながら、先程から寡黙なマチアスをちらと見やる。


「おまえもいっしょにどうだ? これを機に、エスカルゴを食べられるようになったら僥倖ぎょうこうじゃないか」


 突然、話を振られたマチアスが、めずらしく慌てた様子で咳きこんだ。


 そう言われてみれば、先程からマチアスだけはエスカルゴに手をつけていない。目を丸くしているアベルに、ディルクはおかしそうに説明した。


「マチアスは、子供のころ間違えて殻ごとエスカルゴを食べて、それ以来、カタツムリは見るのも嫌なんだよ」

「マチアスさんにも、苦手なものがあるんですね」


 アベルが意外そうにディルクの優秀な従者を見やると、彼は小さく咳払いをする。


「ええ……まあ」

「たしかにカタツムリを食べないと、人生の半分を損するとはさっきは言ったが、食べなくても死にはしない」


 ベルトランが出した助け船で、卓上になごやかな笑いが広がる。


 しかし、笑いながらもアベルの表情はどこか憂いを含んでいた。――小さな不安があるのだ。

 もうすぐベルリオーズ邸に、我が子であるイシャスが来る。


 サン・オーヴァンの別邸とは違い、ベルリオーズ本邸には、公爵や、数百人の騎士がおり、厳格に守らねばならぬ規律も多い。本来なら、ベルリオーズ家に仕える家臣が自らの子供を館に住まわせることは規律違反である。

 だが今回、リオネルが話を進めた結果、イシャスはサン・オーヴァンの別邸から移ってくることになった。


 規律を侵しているということが、アベルにとっては心苦しい。それに、自分のことだけで精一杯であるのに、幼子の面倒をしっかり見ることができるだろうか。

 子供と共に住めるという安堵のような感情と共に、今後の生活への不安や責任感から生じる心の重圧も大きかった。


 己の責任を全うしながら、リオネルを守るという重大な役目をこなしうるだろうか。真面目な性格がアベルをひどく落ち着かなくさせていた。

 密かに抱いている不安――。一方、揺るぐことのない決意。


「あれは、はじめてマチアスが、ベルリオーズ邸でエスカルゴを食べたときのことだったね」


 思い出しながらつぶやいたリオネルの口調は、なぜだか申し訳なさそうだった。


「食べ方を伝えておけばよかったのに、気が利かなかったばかりに、嫌な目に遭わせてしまった」


 謝罪を受けたマチアスは、


「とんでもございません。すべては私が無知だったためです」


 と、恐縮の体である。


「今はこんなふうだけど、あのころはマチアスもまだかわいいところがあったんだなあ。ベルリオーズ邸の晩餐会で、緊張して食べ方をだれにも聞けず、殻ごとカタツムリを食べるとは」

「食べなくても死なない料理ですが、あのときは、食べたせいで死ぬかと思いました」


 マチアスが苦い口調でこぼすと、再び笑いが広がった。 


 大切な人たちと笑いあうこの瞬間を、アベルは心から愛おしいと思う。イシャスとの生活も、皆にとって――そしてだれよりイシャスにとって笑いのある毎日になればいいと、願わずにはいられないのだった。







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