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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第一部 ~婚約破棄された伯爵令嬢は、男装して旅に出る~
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 一方、ベルリオーズの別邸では、与えられた部屋ではない一室で、アベルは寝台に身を横たえていた。


 アベルがここに来て七日経つが、ほとんど部屋から出ずに過ごしている。

 広くて豪華な部屋は身に余るので、使用人の部屋を使わせてほしいと、エレンを通じてリオネルに頼んでもらったのだが、その返事は、


「病人を、粗末な寝台では寝かせられない」


 というものだった。

 アベルの要望は受け入れてもらえなかったので、リオネルがいるあいだは王宮のような客室で過ごし、彼が不在になったその夜、アベルは無断で場所を移動した。空き部屋をエレンからそれとなく聞きだし、荷物もないので、身ひとつだけで移動した。


 そこは使用人の部屋のなかでも最も粗末な一室である。宿の個室ほどの広さはあったが、書き物机と丸椅子、寝台が一つあるだけの、侘びしい場所。館の半地下に位置するので、壁の上部にある鉄格子のはめられた丸い窓からは、太陽の光もほとんど入らず、さながら程度の良い牢獄のような雰囲気だ。


 アベルが、世話になっている身でありながら、勝手なことをしていることは、重々承知していた。けれど移動した先の部屋は、床の上や、干し草のなかに比べれば、はるかに快適だったし、壮麗な客間に比べれば、はるかに落ち着くことができる。


 リオネルとベルトランには、初日以来、顔を合わせていなかった。

 ただ二人が王宮に行く前日に、一度だけリオネルはそのことを直接告げに来た。


「しばらく自分たちはここを不在にするけれど、ゆっくり休んでいてほしい。困ったことがあれば、エレンか、医師のドニに相談するんだよ」


 そんなことだけを告げて、彼は去っていった。

 どこか頑なな態度の少女を、リオネルとベルトランは扱いかねているようにも思われた。

 ここにいていいのだろうか、とアベルはずっと思い続けている。

 リオネルのことが、苦手だった。

 正確に言えば、リオネルの優しさが、怖かった。

 だれかの中途半端な優しさが、アベルの心の、最後の息の根を止めることができるものであることを、アベルは身に沁みて知っていたからだ。


 それでも、ここにいることを選択したのは、心も身体も疲れはてていたからか、それともあのとき、舞い落ちる雪の欠片が白い花弁に見えたからか。

 束の間の身に余る生活は、アベルの心を蝕むだろう。だからこそ、贅沢な暮しをすることには抵抗があった。市井に戻るまでのあいだ、ひっそりと、質素に暮らしていれば、アベルを見捨てた神も、ひどい仕打ちをしないのではないかと思った。そう、願った。


 アベルは、館のだれからも隠れるように――まるで追いかけてくる悪夢から逃げるように、狭い部屋の寝台で、毛布をかぶって過ごした。


+++


 馬の嘶く声が、ベルリオーズ家の別邸の前庭に響く。

 雪の降り出しそうな重い空が、闇に染まろうとしている時刻。

 青白く積もった雪に、すでに描かれていた馬の足跡に加えて、馬から降りた人の足跡が模様を加えた。

 吐く息を白く染めながら玄関まで歩んできたのは、リオネルとベルトランだ。


 二人が王宮に赴いてからまだ七日ほどしかたっていない。普段ならあと三週間ほどは顔を見せないはずだったので、館で働く者は一様に驚いていた。


「リオネル様」


 館の管理を任されている初老のジェルマンが、リオネルを玄関先で迎える。


「この時分にご帰宅なされるとは、いったいどうかなされましたか?」

「いや……なんとなく」

「なんとなく」


 ジェルマンは耳にした言葉に驚いた様子で、リオネルの台詞を復唱した。そのままジェルマンは視線をリオネルの背後に移したが、長身の用心棒の表情は普段どおりで、そこからはなにも読みとれない。


「夕餉はいかがなさいますか」

「まだ食べていない。適当なものでいいのだけど、なにか身体の温まるものがあれば嬉しい」

「かしこまりました」


 ジェルマンは、背後にいた使用人に短く命じて厨房に向かわせる。


「お帰りなさいませ」


 出迎えた女中メイドのひとりに外套を手渡して、リオネルは奥へと歩いていく。その背後をベルトランとジェルマンが続いた。

 向かう先は、すでに暖炉に火がくべてある居間。リオネルらが帰ることを想定していなかったため、書斎や寝所は用意がされていなかったからだ。


 まずは雪に濡れた靴を換える。長椅子に腰かけると、かじかんだ手に暖炉の火の熱気が染みた。ベルトランもリオネルの向かいの長椅子に長身をもたせかける。

 リオネルは近くにエレンが控えているのをみとめ、近くに来るように命じた。


「エレン、アベルはどうしている?」

「え、はい……あの……」

「どうかした?」

「その……」


 言い淀むエレンに、リオネルは軽く首を傾げる。


「わたしは止めたのですが、その、なんと言いますか、頑固でして……」

「なんだ?」

「その……地下の使用人部屋で、過ごしていまして……」


 エレンの言葉を聞いて、リオネルは耳を疑った。


「地下の……というと、あそこか」


 ベルトランが呟く。

 リオネルは、アベルが当初、寝所を移動したいと言っていたことを思いだした。それにしても、地下の使用人部屋など考えられない場所だ。

 表情を曇らせたリオネルに、エレンは慌てて言い足した。


「申し訳ございません。わたしがきちんと見ていればよかったのですが、移動してしまったあとでは引きずり出すわけにもいかず……」

「いや、きみが悪いんじゃない」


 リオネルの声に、咎める響きはない。

 先程ジェルマンに問われて、「なんとなく」と答えたが、今回これほど間をあけずにこの屋敷に戻ってきたのは、たしかにアベルの様子が気になったからだった。

 美しいのに警戒心が強く、お転婆で掴みどころのない、哀しく澄んだ涙の色をした瞳の少女が、ちゃんとおとなしくしているか自分の目で確かめたい気がしたのだ。


 まだ幼いから、病気だから、身ごもっているから、死にかけていたから、なにを言い出すかわからないから……と、アベルのことが気になる理由はいくらでも思いついたけれど、最も肝心な理由は他にもあるような気がしていた。けれど、それがなんなのかはっきりとわからない。思い出せそうなのに、どうしてもあと一歩のところで思い出せない記憶のもどかしさにも似ていた。


 このように、たしかに、気にかけてはいた。けれど本当にこのような事態になっているとは、思いもよらなかった。


「あそこは、ひどい環境だから空き部屋にしてあったのだけど」

「承知しております。まことに申し訳ございません……」

「今もそこにいるのか?」

「リオネル様が出掛けられた日の夜に移り、それからは一歩も外には出ておりません」

「まさか」

「……よくあんなところに、ずっと一人でいられるな」


 呆れ声はベルトランだ。

 リオネルは、指の先でこめかみを軽く叩いて考え込んだ。それから、ゆっくりと組んでいた足をほどき、立ちあがる。


「身体が温まってから行ったらどうだ」


 ベルトランが、立ちあがった青年に言ったが、その足はすでに扉へ向かっていた。


「あの部屋は、寒い」


 リオネルはぽつりと言葉を残して、部屋を出ていく。ベルトランもまた温まりきらぬ身体で、リオネルの後を追った。


 調理場の脇を通り、使用人部屋が並ぶ廊下の脇にある細い階段から地下に降りる。地下の通路は燭台もまばらで暗かった。

 食糧庫の隣に長いあいだ使われていない使用人部屋が二部屋ある。一部屋は開け放たれていたが、もう片方は閉ざされていた。


「ここか?」


 閉ざされた扉の前でリオネルが問うと、ついてきたエレンがうなずく。

 扉を叩くが、返事がなかったのでリオネルはゆっくりそれを開ける。

 陽は落ちているので、小さな窓から入る光は朧で、室内はおおかた暗闇が支配していた。

 それでも薄ぼんやりと見えたのは、アベルの白い肌。


「アベル?」


 重い静寂に、リオネルの声が鳴る。

 驚いたような気配が闇のなかにあった。

 布団の擦れる音がする。寝台に身を横たえていたアベルが三人に顔を向けて、目を見開いた。その瞳が、窓から差し込むほんのわずかな光を映している。


「リオネル様……?」


 想定していなかった人物をみとめたアベルは、わずかに上体を起こした。

 リオネルは寝台に近づく。


「アベル、どうしてこんなところに?」

「あなたこそ、どうしてここに……」


 表情こそ互いに見えなかったが、リオネルの声音にはわずかに咎めるような響きがにじんでいる。


「こんなところにいたら、治るものも治らない」

「勝手なことをしてごめんなさい。ですが、わたしはここがいいんです」

「使用人の部屋は使わせられないと言ったはずだよ」

「空いているなら、構わないではありませんか」

「そういう問題じゃない」

「どういう問題だったらいいんですか」

「……どうしてこの部屋がいいんだ」

「以前にもお伝えしましたが、広くて綺麗な部屋は落ち着かないんです」

「ここは寒くて暗い。それに、寝台はとても硬い」

「かつてわたしが過ごしていた環境に比べれば、天国のような場所です」

「……どうしてそんなに意地を張るんだ?」

「意地なんて張っていません。素直な気持ちで言っています」

「…………」


 さしものリオネルも沈黙した。

 一方、年端もいかぬ少女に振りまわされているリオネルの姿が、ベルトランには、少なからずおかしくも思える。


「わかった。客室より地味な別の部屋を用意しよう。それでいい?」

「わざわざ地味に部屋を整えるのは、かえって手間をかけさせてしまいます。わたしはここで充分に感謝しています」


 リオネルは右手で頭を押さえた。


「……こんなところで、おれが来るまでの一週間、毎日、朝から晩まで過ごしていたのか?」

「寝ていただけなので」

「おれたちが来なければ、ずっとここにいるつもりだったの?」

「いらっしゃった今も、そのつもりでいます」


 リオネルは再び押し黙った。

 ベルトランは、二人の会話に吹き出しそうになるのを、必死にこらえている。

 リオネルの言うことを聞き入れず、彼をここまで困らせた人物は、これまでこの少女以外にいない。

 一方、憐れなエレンはこの事態におろおろしていた。自らの不手際で、少女と主人が言い争っているのだ。温和なリオネルを、この少女はそのうち本気で怒らせてしまうのではないかと危惧した。


「では、おれも今日からここで寝ることにする」

「え……?」


 驚いたのは、アベルだけではない。ベルトランとエレンも、耳を疑った。


「この隣の部屋も空いているはずだ。おれはそこを使おう」

「おい……」


 さすがに、ベルトランが口を挟む。


「冗談だろう」

「本気だ」

「騎士館にはいつ戻るんだ?」

「アベルがここから出てくれるまでは、戻らない」

「…………」


 いましがたまで、二人の会話をおもしろがって聞いていたベルトランも、悠長にかまえている場合ではなくなった。騎士見習いの身でありながらその生活を怠れば、騎士の叙任は危うくなる。

 いっそこの少女を担ぎあげて、別の部屋まで運んでしまおうかとベルトランが思ったとき、アベルが言った。


「あなたは、ずるいです」


 アベルのその一言がリオネルの紫色の瞳を眇めさせる。


「おれが、ずるいとは?」

「部屋を移ります。ですから王宮にお戻りください」


 従騎士である彼が王宮に戻らないことがなにを意味するのか、貴族だったアベルにはわかる。だからこそ、そう答えるしかなかった。助けてくれた青年の、騎士としての人生に傷をつけることは、アベルの望むところではない。


 リオネルは頭痛を覚えていた。

 かつてこれほどまでに表現しがたい感情を覚えたことはない。

 リオネルは大きく息を吐くと踵を返した。


「エレン、部屋を用意してくれ。最上階の書斎の隣の部屋だ。準備ができたらアベルを頼む」


 そう背中越しに言いながら部屋を出ていくと、ベルトランが続いて退室した。

 残ったエレンは、二人が去ると大きなため息をつき、壁にもたれかかる。


「どうなることかと思ったわよ」

「…………」

「リオネル様があれだけ困惑しているのを初めて見たわ」

「……すみません」

「知っているとは思うけど、ベルリオーズ公爵になられる方よ。それに、大きな声では言えないけど、本来であればこの国の王になるべき方だわ。失礼な態度は慎みなさい」

「……はい、本当に、申し訳ありませんでした」


 アベルはうつむいて答えた。

 謝罪は本心からだった。高貴な身分の者に口答えしたことに対してではなく、アベルを助けてくれた人を困らせてしまったことに対して、心から申し訳なく思っている。

 それでも、本人の前では謝罪の言葉を口にできそうにない。

 リオネルがアベルのことを心配して言ってくれていることはわかっている。それなのにかわいげのないことばかりを言っていると、自分でも思う。

 けれどアベルは本当にこの部屋で満足していたのだ。

 優しくなんてしてもらわなくていい。心配なんてしてほしくない。

 だれかの優しさなんて求めていない。

 ただそっとしておいてもらいたかった。

 ひっそりと時を刻み、いつかここを去る日を迎えるために。





 アベルの部屋をあとにして、リオネルはあたたかい居間に戻った。

 無言で長椅子に再び腰かけるリオネルを、ベルトランは見やる。リオネルは疲れた顔をしていた。


 扉を叩く音がして、女中が開けると、あらかじめ呼んでいた医師のドニが一礼して入室する。


「ドニ、夜にすまない」

「いいえ、私の仕事に時間は関係ありませんから」


 ドニを肘掛椅子に座らせ、リオネルは口を開く。


「アベルの体調はどう?」

「はい、よく休んでいるようで、肺炎の症状も安定しています」

「そうか」

「ただ……」

「ただ?」

「あまり食事をとっていないようでして、この状態が長引くと、いささか心配ではありますが」

「――――」

「……手のかかる猫だな」


 ベルトランが、言葉を失ったリオネルのかわりに、所見を述べた。

 リオネルは、紫色の瞳を閉じ、再度こめかみを押さえた。




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