第一章 祈りの行方 1
空気は乾燥している。
砂埃を舞い上げて、なだらかな斜面を荷馬車が走っていく。あたりは丘陵地帯で、丘の連なりは果てしなく続いているように見えた。
荷台の後部に腰かけた少年は、車に揺られながら、この丘をいくつ超えたら故郷に辿りつくのだろうと思いを馳せる。
心にある懐かしい風景のなかで、今も、両親や祖父、そして弟や妹たちがひとりも欠くことなく元気で暮らしているだろうか。
少年は、手のひらほどの大きさの布包みを大事そうに持っている。まるで親の形見か、大切な人からの贈り物を握りしめているようだった。
この荷馬車では、途中までしか行けない。その先は、再び故郷サローヌ方面に向かう馬車に乗りかえるか、運が悪ければ徒歩である。
日差しは夏の気配を帯びはじめ、少年の肌を小麦色に焼いていた。
最近まで少年は痩せ細り、青白く擦り傷だらけの肌をしていたが、この一ヶ月あまりで年相応の健康的な姿になっていた。顎を引き、しっかりと前を向く様子は頼もしく、今や自信のようなものまでみなぎっている。
実際、この一ヶ月で少年は字を読めるようになったし、ひととおりの武術まで身につけた。少年に漂う自信は、そういうところからも生じているのかもしれない。
王都にある、夢のようなベルリオーズ家別邸を発ち、アベルと離れひとりで旅するのは寂しくないといえば嘘になるが、少年は後悔していなかった。
こうする道を選んだのは他でもない自分である。
故郷に戻り、家族と再会したいと、ジェレミーは願ったのだ。
たとえ、自分を売った両親であったとしても、それは貧しさゆえである。自分を愛していなかったからだとは、けっして思わない。兄弟のうちでもっとも年長のジェレミーが家族のために働きに出るのは、当然のことなのだ。
アベルは自分と共にベルリオーズ家に仕えるよう提案してくれたし、リオネルもまた、ベルリオーズ家に留まってもかまわないと言ってくれた。けれど、ジェレミーは彼らの申し出に感謝しつつ、自らの力で道を切り開くことを選んだ。
故郷に戻り、家族を探し出して、無事を確かめたい。それから先のことは状況次第ではあるが、けっしてアベルやベルリオーズ家に頼ろうとは考えていない。
そして、ジェレミーの決断に、アベルやリオネルも納得してくれた。
『必ずベルリオーズへ行くよ。アベルに会うために』
別れ際、ジェレミーがそう告げると、アベルは空色の瞳にうっすらと涙を浮かべた。
『待っています。シャサーヌで、いっしょにエシャロットスープを食べましょう』
『そのとき、おれは身長も伸びてるはずだよ』
ジェレミーの言葉にアベルは、ふふと笑う。
『貴族みたいにはなれないけど、ちゃんと働いて貯金するよ。勉強もして、腕も鍛える。自分の足で立って、自分の力で生きるんだ』
『そうですか』
まぶしいものを見るように目を細めたアベルから、ジェレミーは小さな布包みを渡された。
『これは?』
『砂糖菓子です』
驚いたジェレミーは、包みを見下ろしながら「砂糖菓子……」と小声で繰り返す。
『ええ、苺とか、サクランボとか、いろいろ入っています』
『おれに?』
『餞別です』
砂糖菓子など、これまでジェレミーが食べたことのない高級品である。包みが重たいのは、いくつかの小瓶に分かれて入っているからだろうか。
菓子を贈られたというのが、やや子供扱いされているような気がしないわけではなかったが、それ以上にアベルの心遣いが嬉しく、さらに「砂糖菓子」を食べることができることに胸は高鳴った。
『お腹が空いたときや、困ったときは、ぜひ食べてください』
『困ったとき?』
『甘いものを食べると、妙案が浮かぶでしょう?』
茶目気のある笑顔で言われ、ジェレミーはつられて笑った。
『ありがとう、アベル』
『あなたに会えてよかった、ジェレミー』
『それはおれの台詞だよ。アベルはおれを救ってくれた神様みたいだ』
おおげさな言い方を、アベルは冗談と受け止め、笑う。
『煙突を自在に上る、真っ黒な神様ですね』
『もうあんな危ないことはしないほうがいいよ』
『ジェレミーに言われるとは思いませんでした』
二人の別れを見守っていた皆がいっせいに笑った。
暖かい場所。
――けれど、別れのときであった。
『身体を大切にしてください』
『アベルこそ』
二人は軽く抱擁を交わす。
親切にしてくれたリオネルやベルトラン、それにディルクと、武術の手解きをしてくれたマチアス、なにかと世話になったエレンや、共に遊んだイシャスにも別れを告げ、ジェレミーはベルリオーズ家別邸の門を出た。
夢のような一ヶ月だったが、それはたしかに現実のことだった。それを証明するのは、読めるようになった文字であり、たしかについた腕への自信であり、そして、アベルがくれた布包みであった。
物思いに耽っていると、小さな村の脇道で荷馬車が止まる。
「小僧、連れて行ってやれるのはここまでさ」
シャサーヌで仕入れた日用品を、この村で売り歩くらしい商人は、ジェレミーに荷台から降りるよう促した。
「助かったよ、おじさん」
ジェレミーは礼を述べ、ついでにサローヌへは、どの道を行けばよいのかと尋ねた。
「小僧、まさか今から行くわけじゃないだろう」
「今すぐ行くよ。なんで?」
「子供の足じゃ、次の村に着くまでに日が暮れちまう。悪いことは言わねえ、今夜はこの村で宿を探したほうがいい」
「泊まれたらいいけど、お金がないんだ」
実際、煙突掃除をしていたときに貯めた小遣いは、数枚の銅貨だけである。それに加え、ベルリオーズ家別邸にいたときに、皿洗いや、掃除を手伝って、五十枚ほどの銅貨をもらった。それは労働の内容に比して高い額である。
あわせて五十枚弱の銅貨だったが、これまでの食事で二枚使っている。この先、故郷サローヌに辿りつくまでの生活費として大切にしなければならない。
といっても、足りなくなることは必然である。手元の資金がなくなれば、農業の手伝いでも、店の客引きでもなんでもして当面の生活費を稼がなくてはならない。そうなれば、仕事を探すのも一苦労であろうし、時間も大幅に費やすことになろう。さらには、栄養不足による病気、怪我、人さらい、そして強盗には気をつけねばならない。
サローヌまでの道は遠く、危険に満ちていた。
「無理にとは言わねえが……それにおまえ、昨日からろくに食べてないようじゃないか。サローヌがどうのこうのってまえに、へばっちまうぞ」
「空腹には慣れてるから」
「へえ」
親切にいろいろ言ってくれるが、金や食べ物は施さない。当然のことである。皆、ぎりぎりの生活をしている。余剰があるなら少しでも贅沢をしたいというのが、人間の本音であり、性である。見ず知らずの他人に分け与えるものなど持ちえない。
「まあ、そういうことなら好きにすりゃいいが」
荷台に乗せてくれてありがとうと、いま一度礼を述べてから、ジェレミーは歩き出した。けれど、いくらか歩いてから、ふと立ち止まる。
サローヌへの道を聞き忘れたのだ。
すぐに振り返ったが、もう荷馬車とその主の姿はなかった。
深く溜息をつき、ジェレミーは途端に空腹を覚えた。
今日は朝から、以前購入したパンの残りしか食べていない。空腹には慣れているといえども、これでは荷馬車の親父の言うとおり、早々に参ってしまいそうだ。けれど、どうしてもここでお金は使いたくなかった。
なにも持たぬジェレミーだからこそ、いざというときには、お金だけが頼りであることを知っていた。
お腹は空いている。
道はわからない。
日没までに、次の村には辿りつけそうにない。
けれど、今夜の宿のあてはない。
ようするに、八方ふさがりの状況で、困り果てたのだ。
お腹が空いて困っている――といえば。
思い浮かんだものがあった。
アベルからもらった「砂糖菓子」である。
――甘いものを食べると、妙案が浮かぶでしょう?
そう言って笑ったときのアベルを思い出すと、ジェレミーは自然と明るい気持ちになった。
きっとなんとかなる。
不思議とそんな心持ちになった。
道端の草原に腰をおろし、大事に携えていた布包みを開く。贈りものをもらったことなど、一度もない。包みを開く瞬間というのが、これほど胸高鳴るものなのだということを、ジェレミーは生まれてはじめて知った。
なかからは、小瓶が二つと、小さな革袋が出てきた。
小瓶には、色とりどりの果物の砂糖漬けが入っている。その明るく愛らしい色を見ているだけで、幸福な気持ちになる。食べてしまうのがもったいないほどだ。
革袋の中身はなんだろうとそっと開いてみて、ジェレミーは我が目を疑った。
傾きはじめた太陽の光をきらきらと反射しているのは、銀貨である。
「本物……?」
気づかぬうちにつぶやいていたジェレミーは、アベルが偽物などくれるはずがないと、すぐに疑惑を打ち消す。
たしかにアベルはたくさんの銀貨を持っていたのを、ジェレミーはかつて目にしたことがある。そのなかから、彼女は一部をジェレミーにくれたのだ。
十枚はあるだろう。これだけあれば、サローヌにある故郷の村マノまで、毎晩、安価の宿なら泊まることができ、さらに食べることに困ることはない。
ジェレミーは感動とも、安堵ともつかぬ感情から、目頭が熱くなった。
おそらく、銀貨だと言って手渡せばジェレミーが受けとらぬことを知っていて、アベルは砂糖菓子とともにこれを渡すことにしたのだろう。
人間は、お金がすべてではない。だが、お金がなければ、生きてはいけない。
十三歳で路頭に迷い、過酷な生活を強いられたアベルだからこそ、そのことを骨身にしみるほど承知しており、ジェレミーに銀貨を贈ったのだ。
ジェレミーは、アベルの気遣いに心から感謝した。
たしかに、直接手渡されていたら、断っていただろう。けれど今のジェレミーには、この銀貨がどれほど自分にとって必要なものか理解できる。
この身を買い戻した銅貨一枚でさえ、これから先、毎日食事をし、健康な身体で生き抜いてこそ、アベルに返すことができるのだ。アベルに返さなければならないお金は一挙に増えたが、そんなことは、今は大きな問題ではなかった。
死んでしまっては、アベルに会うこともできない。
生きて、生きて、生き抜こう。
ボドワンのもとで過酷な生活を強いられ、学んだ教訓はこれだけである。
死んだ仲間のぶんまで、自分は生きなければならない。
生きて、仲間を見殺しにしてきた十字架を背負いながら、同時に、彼らの代わりに広い世界を見なければならないと思うのだ。
「アベル、ありがとう……」
立ちあがったジェレミーは、近隣の村のほうへ足を向けた。
少年の背中に、迷いはなかった。
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「食べないのか、アベル? うまいぞ」
問われた従騎士の少年――実のところ十五歳の少女であるアベルの前には、一枚の皿が据えられている。皿の上に並んだものを見つめながら、少女は遠慮がちに首を横に振った。
「いえ、ベルトラン……あの」
その様子を目にしたリオネルが、優しく声をかける。
「食欲がないなら、無理をしなくていい。今日は、朝も昼もがんばって食べていたからね」
シャルム宮殿において、アベルがジェルヴェーズ王子によって怪我を負わされたのは一ヶ月余り前のことである。ボドワンの庭からリオネルに助けだされた直後は、肺炎を患い、通常の食事もとれぬような状態であった。
そのころのアベルは、風が吹いたら飛ばされてしまいそうなほど弱々しく、スープ以外のものを口にできるようになるまで、リオネルは気が気でなかった。
ドニの治療と、エレンやリオネルの献身的な介抱のおかげで順調に回復に向かったわけであるが、それでも長旅に出るには、まだまだ心許ない身体である。
六月初旬。
王都サン・オーヴァンから、ベルリオーズ公爵領へ帰還する途中だった。
戻らなければなくなったのは、そもそもリオネルらが王都に赴いた理由が、国王から招待された五月祭に参加するためだったからである。
五月祭当日に欠席し、それ以降も王宮に顔を出さぬということであれば、必然的にリオネルが王都に留まる理由はなく、自領へ戻らねばならぬ空気が、特にベルリオーズ公爵領周辺から強く漂いはじめていた。
それを漂わせていたのは、むろんベルリオーズ公爵である。
「いつまで王都に留まるつもりか。ベルリオーズには、そなたが処理すべき政務が山ほどある」
なかなか戻らぬ跡取り息子に、公爵がしびれを切らすのも当然のことだ。
けれどリオネルは、再三にわたる父親からの催促に対し、強気で応戦した。
「アベルは私が至らなかったために、怪我を負いました。体調が回復するまでは、彼のそばにいます」
「怪我人は、完治次第ベルリオーズに向えばよい。幾人かの騎士をアベルにつけてかまわないから、おまえは先に戻りなさい」
「これ以上、彼を私の目が届かぬところにおくわけにはいきません。何卒ご理解いただきますよう」
このようなやり取りが手紙で交わされ、そして最終的には公爵の本音がでることとなった。
「七月間近になれば、おまえの誕生日を祝いに、エルヴィユ家からフェリシエ殿が訪れる。それまでに、やるべき仕事を片づけ、周辺を整理しておきなさい。アベルのことは私も気にかけている。だがそなたはまず、そなたのやるべきことをしなさい」
この手紙にはリオネルもこれまで以上に反感を覚え、再び強気の手紙をしたためた。だが、それを結局送らなかったのは、アベルの言葉があったからである。
そのころ、アベルの体調はだいぶ回復してきていた。
通常の食事をとることができ、立ち上がり歩いたりすることには、まったく問題がなくなった。本人は、馬にも乗れるし、剣を手に立ち回ることもできると訴えたのだが、さすがにドニやリオネルはそれを制した。万が一にでも、再び怪我などすれば大変なことである。
ベルリオーズ公爵とリオネルのやりとりをベルトランから聞いていたアベルは、リオネルに対して次のように申し出た。
「公爵様にも、ラザール様にも、なにも告げずにわたしは館を出てきました。動けるようになった今、早急にベルリオーズに戻り、謝罪したいと思っています」
リオネルは、これがアベルの気遣いなのか、それとも本心なのかわからなかった。
なぜなら、リオネルと父公爵との関係を心配するというのも、配慮が働くアベルらしい心の動きであるし、「周囲に迷惑をかけたから謝罪したい」というのも、律義で真面目な彼女らしい意見であるからだ。
あるいは両方の思いがあったのかもしれない。
しかし。
できるかぎり早急に戻るにしても、もう少し万全な状態に近づいてからでなければならない――そうリオネルが諭すと、アベルは今度は次のように言った。
「動くことができるようになったわたしが、必要以上に王都に留まることは許されないことと思うのです」
アベルがそう考える以上、リオネルも思案しないではおれない。なにしろ、アベルは一度そうと決めたらそれを実行に移す性質だからである。
結局、リオネルは王都を発つことを決意した。アベルとリオネルが出会ってから二年余り。主従という関係にありながら、気がつけばリオネルは、アベルに対し寛容にならざるをえない立場になっていた。
むろん、真にアベルの命にかかわることであれば、リオネルは彼女を力づくでも縛りつけてでも、どこへも行かせないようにするだろう。だが今回は、アベルが移動をすることで、大きな危険があるとはいいきれない状況だった。
譲ることができる場面では、譲る。
それが、未だ想いを告げられぬリオネルにとり、最大限の愛し方なのだった。
こうして、一度はしたためた強気の手紙をリオネルは燭台の火で燃やし、代わりに次のような文章を書いて届けさせた。
「六月初旬に王都を発ち、ベルリオーズ領へ向かいます。ですが、フェリシエ殿のためではありません。――アベルのためです」
これだけの、短い文章に目を通したベルリオーズ公爵が、深い溜息をついたのは言うまでもない。