プロローグ
――ねえ、リオネル。この先にはなにがあるの?
小鳥の羽根のように、白く軽い雪が、霞むように舞い落ちている。
雪はあまりに軽く、触れても冷たささえ感じらない。そして、その人はあまりに白く美しく、まっすぐに見つめることがためらわれるほどだった。
「あんなふうに氷を叩いて、危なくはないかしら」
彼女は庭園の大運河のほうを見やりながら、心配げに小首を傾げる。
「ご心配には及びませんよ、アンリエット殿。この時期の氷は厚いはずです」
隣を歩む麗人を安心させるために、アベラール侯爵は言った。
一年も終わりに近づき、まもなく新年を迎えるというころ。
ベルリオーズ邸に集まっていたのは、アベラール侯爵夫妻とその長男ディルク、そしてエルヴィユ侯爵と、同じくその長男シャルルである。数日前までカルリエ伯爵家の一族も滞在していたが、すでに自領へ戻っていた。
ベルリオーズ家の広大な庭園の先にある、「大運河」と呼ばれる池で遊んでいるのは、共に五歳のリオネルとディルク、そして八歳になったばかりのシャルルである。
ディルクとシャルルはしきりに氷の上で走り回り、飛び跳ね、剣の柄で氷の表面を叩いている。時折、シャルルの父エルヴィユ侯爵に注意されているが、二人は元気な返事をするだけで、あいかわらず盛んに氷の上で暴れている。
一方、リオネルは共に遊びながらも、彼らよりはるかに落ち着きがある。まだ五歳だというのに、二人よりも年長であるかのような風情であった。
「リオネル様は、聡明でいらっしゃる。あの年にしてこの落ち着き、我が子にも見習わせたいものです」
子供たちの遊ぶ様子を眺め、軽く溜息をつきながらアベラール侯爵がつぶやくと、アンリエットはやや複雑な表情でほほえんだ。
「あの子には、もう少しやんちゃになってほしいと思っているのです」
二人の前方では、アベラール侯爵夫人リゼットがいつものように愉快な話をベルリオーズ公爵とエルヴィユ侯爵のまえで披露し、明るく楽しげな雰囲気で雪道を散策している。
彼らの笑い声を耳で捉えながら、アベラール侯爵はアンリエットを見つめた。彼女の柔らかな表情の底に、哀しみが隠れているような気がしたからだ。
「リオネルは常に、どんなものからも距離を置いているようなのです」
つぶやくようにアンリエットは言った。
「距離――ですか?」
「まるで、夢中にならないようにしているとでもいうのかしら、冷静さを失わないよう己を抑えているように、わたくしには見えます」
アベラール侯爵は押し黙る。たしかにベルリオーズ家の跡取りである五歳の少年は、侯爵の目にもそのように映ることがあったからだ。
「我を忘れてなにかに没頭することも、人の心の成長には必要だと思うのです」
「なるほど、そうかもしれません」
「わたしにはわかるのです。あの子がなぜ冷静さを失わないようにしているのか――」
そこで、アンリエットはアベラール侯爵に、深い紫色の瞳を向けた。それは、苦悩と葛藤の滲んだ、美しくも苦しげな眼差しだった。
「――なぜ、あの子が普通の子供ではいられなくなったのか」
「アンリエット殿……」
「リオネルの命を奪おうとする者たちを、わたしは憎く思います。彼らは、あの子から無邪気な心を奪ったのですから」
アベラール侯爵は思わず唾を飲んだ。アンリエットの声に、深い怒りが込められていたからだ。
穏やかで優しげな彼女が、ひとたび真の怒りを表に出せば、天下無双の猛者もひるむほどのすごみがある。そしてそれば、間違いなくリオネルにも受け継がれている要素だった。
けれど、アンリエットの怒りの向こうにある深い苦しみと哀しみが、アベラール侯爵には手に取るようにわかる。だから、慰めの言葉を必死に探そうとした。
彼女の心を少しでも軽くしてあげられたなら――。
侯爵はちらと大運河で遊ぶ子供たちを見やってから、なにか思いついたように声を発した。
「おっしゃるとおりです。ですがディルクと二人でいるときなど、私の目には、リオネル様は大変伸びやかであるように感じられます。大丈夫ですよ、まだリオネル様のうちには、宝石のように輝く幼子の眼差しが秘められています」
わずかにうつむき、アンリエットは微笑する。それから顔を上げ、まっすぐに侯爵を見上げた。
「貴方のご子息には、心から感謝しています」
遠く、運河で遊ぶ子供たちの声、そして前を歩くアベラール侯爵夫人らの笑い声が鼓膜を打つ。だが、アベラール侯爵の意識に届いたのはアンリエットの声だけだった。
「ディルク様のおかげで、リオネルはまだ子供の無邪気さを失わずにすんでいます。我が子にとっても、わたしたち夫婦にとっても、ディルク様はかけがえのない存在です」
「畏れ多い言葉です」
心から感動して、アベラール侯爵はアンリエットの右手をすくいあげる。
「我が息子にとりましても、リオネル様は他の何者にも代えがたい存在です。リオネル様は我々の希望です。ディルクがこの先リオネル様のお役に立てる存在になれるよう、私も力を尽くしたいと思っています。どうかアンリエット様はご安心なさり、健やかにお過ごしください」
そっとほほえみ、アンリエットはうなずいた。それから不意に、かすかな迷いをにじませながらなにかを言いかける。
――が、すぐに口を閉ざした。
前方を歩いていたはずのアベラール侯爵夫人リゼットが、突然背後を振り返ったからだ。
「あら、あなた、公爵様が見ていない隙に奥方様の手を握るなんて、要領のよいこと。けれど、わたくしの目はごまかせなくてよ」
「妙な冗談はよせ」
神に誓って自らは潔白であると、アベラール侯爵は心底戸惑ったように言ったが、リゼットの両脇では、ベルリオーズ公爵とエルヴィユ侯爵がおかしそうに――だが、やや気の毒そうに笑っている。
いつもこの調子で、アベラール侯爵は妻のリゼットにからかわれるのだ。
もともと陽気で快活、さらには気が強く、押しも強い彼女が、三人の娘と、跡取りの息子の計四人の子供たちを産み、立派に侯爵夫人としての役目を果たした。
その結果、結婚当初よりもさらにリゼットは自由で開放的な性格になった。
リゼットと三人の娘たちが雀のようにぺちゃぺちゃと井戸端会議を始めれば、さしものディルクも口を閉ざし、その場から逃げだす有様である。むろん五歳の息子がそうであるのだから、アベラール侯爵はなおさらである。
こうして実際に友人らの面前で妻のリゼットにからかわれると、だから彼女を伴ってベルリオーズ邸を訪れたくなかったのだと、アベラール侯爵は内心でごちた。
「さあ、アンリエット様、お身体に障りますわ。大事な時期ですもの、お腹が冷えたりしたら大変。館に戻り、温かいものでも飲みましょう。香辛料と砂糖の入った羊乳なんてどうかしら。お腹の赤ん坊がきっと喜びますわ」
リゼットに促され、アンリエットはうなずきつつ、ちらとアベラール侯爵を見やった。
なにか話があったのかもしれない。けれど、次の瞬間にはアンリエットは、多弁なリゼットから言葉の驟雨を浴びていた。それに対し、にこやかに答えながら、アンリエットは促されて館へと足を向ける。
――と、そのとき。
大運河のほうから、なにかが割れるような鋭い音がした。
同時に、子供の悲鳴が上がる。
貴婦人らが振り返ったのと、アベラール侯爵が瞬時になにかを悟り、息子の名を叫んだのが同時だった。遠目では現地の状況ははっきりと見て取れなかったが、水面の凍りついた池で起こりうる事態はただひとつである。
凍っていたはずの水面から、水しぶきが上がっているのが見える。
そして、氷の上には今、子供の姿は二人しかない。呆然と立ち尽くすシャルルと、なにを考えたのか、咄嗟に外套を脱ぎ捨てるリオネル。
――ディルクがいない。
大人たちはいっせいに理解した。氷が割れ、ディルクが池に落ちたのだと。
池の水は言葉通り、凍るほど冷たい。それに加え、ディルクは幾枚も服を重ねた上に、外套まで羽織っている。それらが水を吸って重くなれば、ディルクが泳げるはずもない。
蒼白になったリゼットが、動揺のために足元をおぼつかせる。彼女を支えたのはエルヴィユ侯爵で、アベラール侯爵とベルリオーズ公爵は咄嗟に駆け出していた。
「リオネル、なにをしている!」
必死に叫んだのはベルリオーズ公爵クレティアンである。
五歳の息子が外套に加えて上半身の衣類をすべて脱ぎ捨てたのである。考えられることはひとつだけだった。
「やめなさい!」
クレティアンは声のかぎりに叫んだが、リオネルは父親の呼びかけに振り返りもせず、両親が見守るなか、氷上にできた割れ目に躊躇なく飛びこんだ。
眩暈を覚えたのはアンリエットである。けれど、彼女は外見に反し気丈であり、今、自分にできることをすぐに実行した。
それは、ただひとつ。非力だが、なによりも力のあること――祈りである。
アベラール侯爵とクレティアンが現地に駆けつけたとき、ちょうどリオネルが自らも引きずり込まれそうになりながら、ディルクを両手で抱えて水底から這い上がるところだった。
クレティアンが水中に手を差し伸べ、しっかりと息子の腕を掴む。それから、アベラール侯爵と共に二人の子供を水中から助け出したのである。
ディルクは青白い顔で意識を失っており、リオネルもまた、血が青く凍ったような顔色で寒さに震えていた。
アベラール侯爵が大声で息子の名を幾度も呼ぶ傍ら、クレティアンは衣類をまとわぬリオネルの肩に自らの外套をかぶせながら、厳しく叱責した。
「なぜ我々が来るのを待てなかった。自分から氷のなかに飛びこむなど、無茶にもほどがある」
けれど、リオネルは青い唇を震わせて繰り返し言うのだった。
「父上、ディルクを助けてください」
ディルクを――ディルクを、お願いです。ディルクを救って。
アンリエットと同じ深い紫色の瞳に、池の水ではない水滴をためて、リオネルは必死に訴えた。今にも泣きだしそうな声は、失うことへの恐怖に揺れている。
しばし焦りも怒りも忘れ、クレティアンは言葉を呑んでから、深くうなずいた。
「わかっている。ディルク殿は必ず助ける」
隣では、アベラール侯爵がディルクの口から水を吐き出させている。ようやく浅い呼吸を繰り返すようになった我が子を、侯爵は吐息と共に抱きしめた。
クレティアンは駆けつけた兵士たちに、医者を呼び介抱のための部屋を準備するように命じる。ディルクはアベラール侯爵の腕に抱かれて、館へと運ばれていった。
「ディルク殿は助かるから、安心しなさい」
幼馴染みの少年が運ばれていく様子を無言で見つめていたリオネルに、クレティアンは安心させるように告げたが、五歳の少年は未だに思いつめた表情で震えている。
「さあ、おまえも早く館に戻り、温かい服に着替えなさい。このままでは身体を壊す」
エルヴィユ家の侍従に促され、呆然としたままであったシャルルも、館へと歩き出す。
八歳のシャルルであるが、その反応は年相応のものだろう。リオネルのような行動をとる子供の方が稀有なのである。
だが、うつむき、父の外套にくるまる少年は、寒さからだけではないものに震えているようだった。
そのリオネルを、あたたかく包みこんだのは、駆けつけたアンリエットだ。無言でしばらく抱きしめてから、アンリエットはひとり息子の顔を覗き込む。
そっとほほえんだ母の顔に、ふとリオネルが身体の力を抜いた。
「母上……」
それは、相手にだけ聞こえるほどの、小さな声である。
「ええ、リオネル」
しばらく黙してから、おそるおそるリオネルは尋ねた。
「……私の話を、信じてくれますか?」
「もちろんよ」
「母上、私は池のなかで――」
「池のなかで?」
紫色の瞳が、不安げに揺れて、母を見つめる。
「――水のなかで、小さな女の子を見ました」
「どのような?」
「とても淡い水色の瞳――月明かりのような金色の髪をした、まだほんの二、三歳ほどの子です」
「…………」
「溺れていたのに、助けられなかった」
優しくリオネルのつややかな髪をなでながら、アンリエットはある確信を抱いていた。
――月明かりのような金髪と、淡い水色の瞳の、二、三歳くらいの女児。
リオネルの話は、アンリエットが抱いていた最後の迷いを断ち切るほどの効力が、たしかにあった。
「私は、ディルクを両手に抱えていて、溺れる女の子に手を伸ばそうとしたけど、片方でも手を離したらディルクを失いそうで――それで、女の子を助けられませんでした」
「その子は、どこへ行ったの?」
「池のなか……とても深い底の方へ沈んでいきました」
「そう……」
そのときすぐ脇で、ベルリオーズ公爵が「早く館に戻りなさい」と二人を急かしたが、アンリエットは片手を上げるしぐさひとつで夫を制する。
普段は従順であるのに、こういうときのアンリエットは強い。そのことをよく理解しているクレティアンは、ひとまず口をつぐんだ。
一度だけアンリエットは深く深呼吸してから、口を開く。
「その子は、あなたではなく、わたしに助けを求めていたのですよ、リオネル」
「母上に?」
「ええ、助けることができるのは、今は多分わたしだけなのです。きっとあなたを通して、わたしに伝えようとしたのでしょう」
「…………」
「大丈夫、彼女は死んだりしていません。本当よ」
母の瞳をじっとみつめる少年の眼差しには、全幅の信頼がにじんでいる。その眼差しをアンリエットはしっかりと受け止めていた。
「わたしは、彼女を助けるために、できるかぎりのことをします。あなたもいつか彼女と出会うことになるかもしれません。そのとき彼女が助けを求めていたなら、今度はあなたが手を差し伸べてあげなさい」
リオネルはしっかりとうなずく。
そうして、アンリエットに手を引かれて、リオネルは館に戻った。
館では使用人らが慌ただしく行き来し騒然としていたが、半日も経たぬうちにディルクの意識は戻り、周囲の者を安堵させた。
けれど、目覚めたディルクには、池で遊んでいた記憶しかなく、割れた氷のなかに落ちた覚えはないという。医師によれば、衝撃のあまり記憶を失っているのだということだった。リオネルに助けられたことをあとから聞き、驚きと共に、以後の人生で密かに頭が上がらなくなったのはいうまでもない。
アンリエットが、夫であるベルリオーズ公爵クレティアンに内密で、アベラール侯爵のもとを訪れたのは、その日のうちのことである。
羽根のような雪が降り続ける夜。
ベルリオーズ公爵夫人はひとつだけ、アベラール侯爵に頼みごとをした。交わされた約束は、ひとりの少女の運命を大きく左右することとなった。
アンリエットが子と共に天に召されたのは、それから一年も経たぬうちのことである。
歳月は流れ、一日、一日と月日の頁をめくるごとに人々の記憶は薄れていく。
けれど、記憶は永遠に失われるわけではなく、海の底に沈んでいた難破船の残骸が水面に浮上するように、ふとよみがえるときがくるのである。
アベラール侯爵は、ベルリオーズ邸の庭園を散策していた。
傍らには、知己であるベルリオーズ公爵クレティアン。
なぜ――、とアベラール侯爵は思う。
十年以上も前のあの夜、アンリエットは、なぜあのようなことを願い出たのか――。
そして、あの夜の約束は守られなかった。守り切れなかったがために、すべてのことは起きたのだろうか。そのようなことが一体全体ありうるのだろうか。
雪の代わりに、今はあたたかな日差しが降り注ぐこの景色を眺めながら、アベラール侯爵は思案に沈むのだった。
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――リオネル、この先にはなにがあるの?
ディルクが池に落ちた翌年の初夏。
アンリエットが亡くなる直前のことだった。
医師らによる懸命の治療も虚しく、アンリエットの容体は悪化の一途を辿っていた。
紫に染まる丘。
一面に咲き乱れるのはラベンダーだった。
『礼拝堂だよ、ディルク。とても古い礼拝堂』
――そこでなにをするつもり?
『母上の病気が治って、お腹の赤ん坊が無事に生まれてくるようにお祈りするんだ』
照りつける日差し。
むせかえるようなラベンダーの香り。
その透明感のある香りが、なにもかもを浄化するようだった。
それなのに、ひどく不安で……かぎりなく哀しくて。
――いっしょに行ってもいい?
『いいよ。でも、秘密の場所なんだ。だれにも言わないでくれるなら』
――どうして秘密にするんだ?
『大きくなって、大切な人と出会ったら、そこで二人きりで結婚式を挙げたい』
――なんで?
『その人はもしかしたら……』
そのあと、なにを答えたのか――。
今となってはリオネルにも思い出せない。
こんにちは。お読みくださり、ありがとうございます。
以前にお伝えしていたシリーズの一本化の作業など時々しつつ、公開するか非公開のままにしていくか迷いながらしばらく過ごしてきました。迷いがあるなか、いつ再び投稿できなくなるかわかりませんが、たくさんのお言葉をいただき背中を押され、いったん投稿・公開するに至りました。
ただ投稿することへの怖さがぬぐえず、もしかしたら亀更新になるかもしれません。
こんな形で申し訳ないです。どこまでいけるかわかりませんが、もしこんなでも大丈夫という方がいらっしゃいましたら、おつきあいいただければ幸いです。
(第四部は読者様にとってストレスの溜まる展開になるかもしれません。苦手な方はこのまま閉じてください)
励ましのメッセージ、温かいお言葉、投稿していないあいだにも拍手をくださった読者様に、心より感謝申し上げますm(_ _)m
たくさんのお礼とお詫びをお伝えできれば嬉しいです。 yuuHi