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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
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第三部最終回 45





 蝋封された手紙を受けとり、アベルはそれをしばし見つめた。

 このなかに、カミーユが書いた文字が連なっているのだと思うと、胸の奥から、あたたかい感情が止めどなくあふれてくる。


「読まないのか?」


 不思議そうにディルクが尋ねる。


 嬉しかった。

 カミーユの書いた手紙を受けとることができて、本当は、言葉に表せないほどうれしい。

 けれど、読んだら涙を止められなくなってしまうかもしれない。

 ここで手紙を読み、万が一にも泣いてしまったら、皆から不審に思われるに違いない。リオネルは勘がいい。彼のまえで、デュノア家と自分のつながりを示唆するような失態を犯すわけにはいかなかった。

 どう言い訳しようか迷っているところへ、珍しくマチアスが発言する。


「こんなにたくさんの人に囲まれていては、アベル殿も手紙を読みづらいのではないでしょうか」

「ああ。……たしかに、それもそうだね」


 ディルクは納得したようだった。アベルは胸をなでおろす。そして、心のなかで密かにマチアスの気遣いに感謝した。

 皆が去ったらゆっくり読むといい、と言ってから、ディルクは真剣な様子でアベルに向き直る。


「それと、おれからも、あらためて礼を言わせてほしい」


 皆の視線がディルクに集まった。


「リオネルを救ってくれて、そしてカミーユを救ってくれて、心から感謝している。二人とも、おれの大事な人だ。ありがとう」


 こんなふうに礼を述べられると、くすぐったくて仕方がない。

 なんと答えてよいかわからず、


「わたしは、なにも」


 とだけつぶやくアベルの傍らで、リオネルが形のよい眉をひそめた。


「けれど、アベルは無理をしすぎだ。自分自身のことも、もう少し考えてくれ」


 いつもの小言に、普段は気を落とすアベルだが、このときは小さく笑った。


「……笑い事ではないよ」


 少し怒ったようなリオネルの口調に、アベルは笑いをおさめて、主人を見つめる。

 昨日、リオネルはアベルが命令に背いたことを、一切咎めなかった。

 本当はこれまで幾度も口にしてきたように、「なぜ指示に従わないのか。どうして自分を大切にしないのか」と言いたかったであろうに、リオネルは「アベルをベルリオーズに置いてきた自分が悪い」と己の責任にした。そうすることで、これまで幾度も重ねてきた平行線の議論を繰り返すことを避けたのだろう。

 今更ながら、彼の深い思いやりが、アベルの心に沁みる。


 アベルは手を伸ばした。そして、小卓上にある花冠を手に取ると、手紙と一緒にそっと胸に抱きしめる。


 リオネルが作ってくれた花冠。

 ディルクが持ってきてくれた、カミーユからの手紙。

 これらには、皆の優しさと思いやりが詰まっている。

 ……アベルにとっては、かけがえのない宝物だった。


 これまで失ったものは数え切れず、哀しみは計り知れないが、だからこそささやかな幸福の大切さがわかる。


「……みなさまのおかげで、素敵な、本当に素敵な五月祭です」


 素直なアベルの言葉に、室内の空気がわずかに変化する。リオネル、ディルク、ベルトラン、レオン、そしてマチアス――、それぞれの顔に柔らかい表情が浮かんでいた。


「おれはなにもしてないよ。アベルに感謝しているから、こうしてリオネルが花冠を贈ったり、カミーユが手紙を書いたりするんだ」


 ディルクの言葉に、リオネルが深くうなずく。


「おれにとっても、きっと皆にとっても、アベルは大切な存在だから」


 くすぐったく、そしてもったいないほどの言葉だった。

 アベルはリオネルに視線を向ける。水色と紫色の瞳が互いをとらえ、そして二人の顔にほのかな笑みが広がった。


「おれも、ようやく本調子に戻り、平和な日々が返ってきたような気がする」


 しみじみとレオンは語ってから、ふと思案に沈むような顔つきになる。


「そういえば、あのときおれを助けてくれたレオン王太子の幽霊……、考えてみれば、どこかで見たことがあったような……」

「おいおい、レオン殿下。なにを今更。それはアベルしかいないだろう」


 呆れたようにディルクが言い放った。


「まさか」


 レオンは信じられぬようである。――周囲からすれば、「レオン王太子の幽霊」のほうが、よほど信じられないのだが。


「そうなのか、アベル?」

「今頃気づいたのか?」


 容赦なく問い返したのは、むろんアベルではなくディルクである。

 憮然とした表情のレオンに、アベルは遠慮がちに言った。


「あのような姿では、気づかないのも当然です」


 するとレオンは頭に手を置き、大きく深呼吸した。


「そうか、あれは幽霊ではなくアベルだったのか。そうか、水色の瞳。どこかで見たことがあると思ったのだ。なぜ気づかなかったのだろう」

「それだけ弱っていたということだと思うよ」


 同情するようにリオネルが言う。


「リオネルやカミーユだけではなく、おれもアベルに助けられていたとは。――礼を述べなければ」

「ほら、アベルは直接感謝されるのは苦手だから」


 すかさずディルクが指摘すると、


「ではどうすればいいのだ」


 とレオンが片方の眉を寄せる。


「カミーユのように、レオン殿下お得意の美しい字体で、感謝の手紙を書けばいいじゃないか」


 ことさらに字が美しいと強調されれば、それだけが取り柄のように聞こえて、あまり気持ちのよいものではない。やや不機嫌な面持ちになりながら、けれど他によい方法も思いつかないので、レオンは「そうするか」と真面目に答えた。


「こんなに近くにいるのに、変じゃないか?」


 とリオネル。アベルは慌てて、


「わ、わたしのことで、そのような手間をかける必要などありません。たいしたことをしたわけではありませんから」


 と、かぶりを振る。


「いや、感謝している。おれはあのとき本気で死ぬかと思った」

「揃いも揃って身分の高い騎士たちが、十五歳のアベルに頭が上がらないとは」


 微笑しながらベルトランがつぶやいた。


「本当にそうですね」


 同意するマチアスの声は、部屋中に漂う花の香に溶けて消えていく。


「アベルが元気になるまで、毎日、皆で見舞いにくるっていうのはどうだ?」


 ディルクが提案すると、レオンが賛同した。


「それはいいかもしれない」

「見舞いもなにも、おれはずっとアベルのそばにいるつもりだ」


 平然とリオネルは言う。

 ――が、アベルは再び気が遠のきそうになった。

 シャルム王国第二王子レオン、ベルリオーズ家嫡男リオネル、そしてアベラール家嫡男ディルク……彼らに毎日見舞いにきてもらうなど、身分不相応にも程があるというものだ。


「このままだとアベルが寝込むぞ」


 ベルトランが苦笑したが、その傍らで、マチアスが思いもよらぬことを口走る。


「ディルク様も、花冠を作ってアベル殿に贈られてはいかがですか?」


 これ以上、花冠を贈られたらアベルは倒れてしまうだろう。ベルトランがぎょっとしてマチアスを見やるが、ディルクは明るく同調した。


「ああ、それはいい案だね。これから作ってこようか」


 うなずくことも断ることもできずにいるアベルの脇で、自分のことは棚にあげて、リオネルが心配そうな顔をする。


「そんなにたくさんあっても、アベルは困るんじゃないか」


 そのとき、扉が勢いよく開き、これまでよりさらに花の香が広がった。何事かと皆が扉口へ視線を向ければ、ジェレミーが花の塊を持って立っている。


「アベルに花冠を作ったんだ。うまく作れなかったけど、お見舞いに」


 さらなる花冠の登場に、アベル以外の皆が虚を突かれて笑った。


「どうかしたの?」


 ジェレミーは不思議そうな面持ちである。


「そうか、そうだった。ジェレミーの花冠を忘れていたよ。――楽しいね、ここは」


 ひとしきり笑ったあと、ディルクが部屋にいる面々を見渡して目を細める。

 だれもが同じ気持ちだった。

 皆が無事な姿で、ひとつの場所に集まり、笑っている。

 ――この時間、この空間が、かけがいのないものだった。


「ありがとう、ジェレミー」


 そう口にしてから、アベルは心の中であらためて思う。

 ありがとう、と。

 今、アベルの胸にあふれる感謝の気持ち。

 遠く離れた人たちにも、この気持ちを届けたい。

 姉として慕ってくれたカミーユ。エマやトゥーサン、侍女たち。

 そして今、アベルという人間と関わってくれている人たち。

 感謝の気持ちは尽きない。


 失った多くのもの――。

 けれど、自分は今、こんなにあたたかい人たちに囲まれている。


「――とても似合っているよ」


 花冠に囲まれたアベルを眺め、リオネルが眩しいものをまえにするように、目を細めた。


 花の香りと、大切な人たちに囲まれて過ごす今日の五月祭を、アベルは一生忘れないだろう。


 花弁が舞う。

 笑い声が散る。

 春の日差しはあたたかく、こんな時間が永遠に続くようにと、アベルは祈った。






















『親愛なるアベル殿


 体調はいかがですか。

 貴方に命を救われたのに、このような形で見舞うことを許してください。直接会うことができないとのこと――他に方法がなかったのです。


 私は貴方にどのように感謝し、そして謝罪すればよいのかわかりません。貴方が助けてくれなかったら、私はどのような運命を辿っていたかわからないのですから。

 怪我を負ったと聞いていますが、神々が貴方の命をお守りくださったことを、深く感謝しています。


 私は今、従騎士として王宮で生活をしています。王宮に来てから、納得できないものばかりを目にしてきました。詳細を語ることはできませんが……。それを目にするたびに、自分の正しさがわからなくなるのです。

 けれど、そのなかで私は貴方と出会い勇気をもらいました。

 自分の正しさを、もう一度信じてみようと思います。私は、命だけではなく、魂も貴方に救われたのだと思っています。


 いつか、貴方の気持ちが変わる瞬間があったら、私と会ってくれませんか。

 そのときは直接、「ありがとう」の言葉を伝えさせてください。


 限りない感謝の気持ちをこめて カミーユ・デュノア』









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