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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
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 聞えるよ

 春の詩


 風が歌っているよ

 春の詩


 さあ 踊ろう……



 王都サン・オーヴァンの五月祭は、その活気と賑わいで名高い。

 宮殿には国内外の貴族らが、街には行楽客らが集い、普段は聞くことのできぬ大規模な音楽隊の演奏や、舞台、踊り、そして、夜には盛大に打ち上げられる花火を各所で見ることができる。


 街中を歌声や拍手、笑い声が埋めつくす、そんな日。


 けれど、アベルは動かすことのできぬ身体を寝台に横たえていた。

 歌や楽の音も届かず、使用人の多くもこの日だけは休暇をとっているために、ひとけも感じられぬこの場所で、刻々と時間だけが過ぎていく。


 かような時間の経過のなかで、アベルは身体の痛みや倦怠感、そして漠然とした寂しさと戦っていた。

 部屋にはだれもいない。

 数刻前までリオネルが座っていた肘掛椅子が、主を失って所在無げにじっとこちらを向いている。


 レオンは立場上いったん宮殿に戻らねばならず、ディルクは所用があるといって朝方から外出しており、ジェレミーは急に文字を覚えるだとか武術を学ぶとか言い出して部屋を出ていったきり、どこでなにをやっているのかわからない。


 一方リオネルは、宮殿から戻ってからというもの、片時もアベルのそばから離れずそばにいたのだが、その彼をこの部屋から出したのは他でもないアベルだった。


 午前中、熱のせいか薬のせいか、しばしば襲ってくる眠気に勝てずにアベルはうとうととしていた。そのあいだ、主人であるリオネル、そして分離することのない影のように従うベルトランが、そばについていてくれていた。


 目が覚めるたびにリオネルの姿がある。

 そのことにアベルは安堵した。

 リオネルがそばにいると思うと、その安心感から、よけいに眠気を感じて夢か現実かわからぬ世界をさまよい続ける。


 けれども、せっかく一年に一度の祭だというのに、ベルリオーズ家の跡取りともあろう者に、病人の付き添いなどというつまらぬ役目を負わせるのは、ひどく気が咎めた。

 リオネルは、自分だけの主ではないのだ。ベルリオーズ家に仕える家臣や使用人の上に立つ者であり、ベルリオーズの地で生活する民の領主なのだ。


 昼前にようやく意識がはっきりしたアベルは、いたたまれぬ思いに駆られて、遠慮がちに告げた。


『王宮に赴く必要がないなら、どうぞ街の祭りを見にいかれてください』


 リオネルは紫水晶の瞳を、わずかに驚いたように見開く。


『街の祭りへ?』

『せっかくのお祭りの日に、こんな場所にいてはなんにもなりませんし……、なにより退屈ではありませんか?』


 質問というよりは、そうであるに違いないという確信を込めるアベルをまえに、リオネルはやや困ったような表情になった。


『けっして退屈なんかじゃないよ』

『どうか、祭りを見てきてください。サン・オーヴァンにいるといえども、ベルリオーズ家のご嫡男様が五月祭に参加しないでは、ベルリオーズの地に春が訪れません』


 ベルリオーズ家の嫡男――そう言われたリオネルは、寂しげにアベルを見つめ、尋ねた。


『どうしても行かなければならないか』

『はい。ベルリオーズの春のために』

『きみをここに置いて?』

『わたしのぶんまで楽しんできてくださったら嬉しいです』


 しばし物言いたげな表情で黙っていたリオネルだが、なにかを決断した様子で席を立つ。


『では、ベルリオーズ家の跡取りとして、祭りに行ってくるとしよう』


 背後のベルトランに目配せして、彼を伴いリオネルは部屋から出ていった。

 主人の足を、五月祭で沸くサン・オーヴァンの街へ向かわせるためには、もう少し長い時間と説得が必要かと思っていたが、案外にあっさりと聞き入れられたようだ。


 かつてアベルは、二度ほどリオネルと共にサン・オーヴァンの五月祭を過ごしたことがある。一度はベルトランと三人で、もう一度は、それにディルクも加わり四人で街の祭りに繰りだした。


 その華やかさといったら。

 どこか別の世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚えたほどである。



 今、病を患うアベルのため閉めきられた部屋には、花の香りさえ漂わない。この部屋には、祭の気配がまったく感じられなかった。

 窓が開き外気が流れこんでいたなら、少しは寂しさが紛れただろうか。


 それでも、これでよかったのだとアベルは思う。

 ベルリオーズ家の跡取りであるリオネルが、五月祭の当日に病人の付き添いなどしていてはならないのだ。街へ出て春の到来を、祝福するべきなのだ。そうしてこそ、ベルリオーズ領に春と平和が訪れるはずである。


 ――アベルを案内したかったんだ。


 ふとリオネルの言葉が脳裏によみがえった。


 ――そして、いっしょに祝いたかった。この街に訪れた春を。


 共に祝いたいと言ってくれたリオネル。

 瞳を閉じる。

 あれは、今から考えれば、サン・オーヴァンに同行できぬアベルを慰めるための言葉だったのかもしれない。

 けれど、どのような意味合いであったとしても、かまわない。

 あの言葉があるだけで、自分は幸福である。共に五月祭に参加することはできなかったが、「いっしょに祝いたかった」とリオネルは言ってくれたのだから。


 窓の外はなんと明るく輝いているのだろう。

 アベルは瞳を細める。

 壁の向こう側の世界に思いを馳せた。


 カミーユはなにをしているだろうか。

 宮殿で会ったときは近衛の制服を着ていたが、だれかの従騎士になったのだろうか。ならば今頃は、宮殿の宴に参加しているだろうか。

 イシャスは、休暇中のエレンと共に街へ行っているだろうか。それとも、エレンの家族と賑やかな食卓を囲んでいるだろうか。


 遠く、故郷であるデュノア領の中心都市マイエでも、盛大に五月祭を祝っているだろうか。トゥーサンやエマ、侍女のカトリーヌや使用人らは、元気でいるだろうか。

 自分も怪我と病を治し元気になったら、いつか彼らと再びまみえる日が来るだろうか。

 いや、それは叶わぬ願いである。

 二度とデュノアの地に足を踏み入れてはならないと、家族と会ってはならぬと言った父の言葉を、アベルは生涯忘れることはない。


 ――シャンティ・デュノアは死んだ。

 けれどせめて……せめて喜ばしいこの祭りの日だけは、愛おしい人々、懐かしい日々に思いを馳せることが、許されはしないだろうか。

 怪我と病から弱気になりがちな思考回路のなかで、アベルは瞳を閉じ、遠い過去の故郷へと帰っていった。




『なんだこりゃ、牛車にでも引かれたのか?』


 何年前のことだっただろうか。デュノア邸で過ごした最後の五月祭だったかもしれない。

 シャンティの作った花冠を見て、カミーユが青い芝のうえを笑い転げている。


『これじゃあ、なにを作りたかったのかもわかんないや』

『う、うるさいわね! 返しなさいよ、カミーユ』

『結婚するまでに花冠くらい作れないと、ディルク様に呆れられて、婚約を取り消されるよ?』

『そんなことないわよ! ディルク様は、そんなことなさらないわ』


 涙目になりながら、シャンティは弟の手から花冠……らしき物体を、取り返そうとする。

 まだ身体の大きさはシャンティのほうが勝っているし、機敏さもカミーユの上をいく。

 走って逃げようとするカミーユにすぐに追いつき、シャンティは難なく弟の手から、複雑にからみあった花の束を取りかえした。


『あなたのせいで、余計にぐちゃぐちゃになっちゃったじゃない』


 怒りに声を震わせながらシャンティが叫ぶと、


『はじめからこんなんだったよ』


 とカミーユが生意気な口を利く。

 普段ならただの喧嘩で終わっていたはずだ。けれど、そのときシャンティは、悔しさとも、哀しみともいえぬ気持ちから、泣きだしそうになった。

 花冠がうまく作れなかったとこと、それ自体を気にしているのではない。ディルクに婚約を取り消されると言われたことが、自分で考える以上にこたえていたのだ。


 なにも言い返さない姉の顔を、カミーユが不思議そうにのぞきこむので、シャンティは顔を背ける。そして、そっと手のひらで目元をぬぐった。


 カミーユは黙りこんだ。

 姉にいつもの元気がないことに気づいたからだ。けれど、そのことに気づいていないのは、周りの侍女たちである。


『シャンティ様は、ブレーズ家の血を引くご令嬢であらせられるのですから、花冠くらいは上手に作れないと……』

『さあ、もうひとつ作ってみてくださいな。今度はもう少し丁寧に』


 幼い主人に対し、おせっかいな侍女たちが口々に言う。

 それを聞いていたカミーユが顔を蒼くした。これ以上言ったら、けっして涙を見せることのない姉が、泣いてしまう。カミーユはそう思った。


『い、いいよ。花冠はもう作らなくて。よく見てみると、姉さんの花冠、上手にできてるし。ねえ、トゥーサン』


 慣れない世辞を言わねばならなくなったカミーユは、かたわらにいたトゥーサンに賛同と救いを求めた。


『ええ、とてもうまくできていると思いますよ』


 トゥーサンはカミーユとは違い、すらすらと花冠を褒める。


『あと少し練習すれば、アベラール家の跡取り様に見せることができるくらいになるのではないでしょうか』


 花冠など作ったことのないトゥーサンの褒め言葉は、あながち無理につむぎだしているようには聞えない。花冠には様々な形があり、このような突飛なものもあるのだとでも思っているのだろうか。


『本当?』


 けれど、トゥーサンの本音と思しき言葉に、シャンティはぱっと表情を明るくする。


『ええ。花冠をかぶった姿を、早くディルク・アベラール様にお見せできるといいですね』


 トゥーサンは、五歳年下の主人にほほえむ。


 ――花冠をかぶった姿を、早くディルク・アベラール様にお見せする。

 その言葉にシャンティは俄然やる気を出して、次の花冠作りに取りかかった。傍らで、カミーユは胸を撫で下ろし、侍女たちはくすくすと笑う。


 自分のせいで気の強い姉を泣かせずにすんでよかったと、カミーユは心から思った。

 そもそも、シャンティの泣くところなど、記憶にあるかぎりほとんど見たことがない。厳しい父や、なにかのときにエマに叱られているときも、カミーユのまえではぐっと涙をこらえて耐えているのだ。もし目のまえで泣きだしたらどうすればよいのか、カミーユは途方に暮れるだろう。


『助かったよ、トゥーサン』


 カミーユが小声で礼を言うと、トゥーサンは不思議そうな顔をした。


『なにがですか?』

『……ううん、なんでもない』


 トゥーサンがトゥーサンでよかったと、カミーユがあらためて思った瞬間だった。


 その後、シャンティはいくつもの花冠を作った。それに対する評価を述べるのが嫌で、カミーユは好きでもない剣の練習をするふりをしていたが、それでも姉のそばからは離れなかった。


 カミーユの代わりに意見を述べたのは、むろんトゥーサンである。彼の素直な称賛を受けながらも、シャンティは心のなかで密かに首を傾げる。

 ――これ、やっぱり花冠としては、おかしくないかしら?

 と。

 いびつに曲がった楕円形や、羊のようなもこもこした塊、なんとも形容しがたい作品の数々。これが、花冠なのか……。


『来年の五月祭には、ディルク様にお見せできるといいですね』


 さりげなくトゥーサンが口にした言葉に、シャンティはやや慌てた。


『やっぱり、まだお会いしなくていいわ』

『なぜですか?』

『……なんとなくよ』


 シャンティは言葉を濁らせる。本当は、弟の言葉が、頭から離れなかったのだ。

 すると、会話が聞こえていたらしいカミーユが、剣を振るう手を止めて言った。


『大丈夫だよ、姉さん。花冠がどうのこうのとかいう理由で、婚約がなかったことになんてなるはずないから』

『わ、わかってるわよ、そんなこと』


 少し怒ったように、だが小さな声でシャンティは答える。


『もしディルク・アベラールがそんなやつだったら、おれがぶん殴ってやるよ』


 憧れのディルク様を殴る――そんなことを口にしたらシャンティが怒るのではないかと周囲は心配したが、予想に反してシャンティは小さく笑っていた。少し呆れたように。けれど、くすぐったそうに。


『ありがとう、カミーユ。でも心配しないで、ディルク様はそんな人じゃないから』

『また始まったよ。会ったこともないのに』


 うんざりしたようにカミーユは言ってみせたが、本心では、シャンティがいつもの調子を取り戻したことが、嬉しかった。

 そしてシャンティもまた、カミーユなりの気遣いが嬉しかった。

 平和な時間だった。

 この世に、悪魔などいないと思っていたころ。朝陽は果てしなく眩しく、空はどこまでも青いのだと思っていたころ……。





 過去をさまよっていた意識が、急速に現実に戻されたのは、突然、扉を叩く現実的な音が耳を打ったからだった。


 街の祭りに行って戻ってくるには早すぎるので、リオネルやベルトランではない。午後の診察の時間にもまだ早いし、エレンは休暇をとっているので彼女ではない。リオネルが不在なのに、レオンやディルクが館に訪れるとも思えない。


 とするとジェレミーか、それとも、ベルリオーズからリオネルに同行している騎士たちのひとりだろうか。アベルがそんなことを思っているうちに、扉はそっと開いた。


「あ……」


 思わずアベルは口を開ける。

 現れるはずがないと思っていた相手だったからだ。


「リオネル様?」


 開いた扉の向こうにいたのは、街の祭りへ向かったはずのリオネル、そしてベルトラン。

 雨が降り出したわけでもないのに、急遽ここへ戻ってこなければならぬ理由が、思い当たらない。


「お祭りは……?」


 ぽつりとアベルは尋ねる。

 アベルの寝台まで無言で歩み寄ったリオネルは、後ろで軽く手を組んでいた。

 外出して戻ってきた主人らがまとう空気のせいか、花のような、甘い香りがする。


「ベルリオーズ家の跡取りとしての自覚が足りないと、アベルに怒られるかと思ったのだけど――」


 後ろで組んでいた手をほどき、リオネルがアベルの目前になにかを差し出す。

 アベルは、大きく瞳を見開いた。


「これをアベルに」


 突如、視界飛び込んできたのは、鮮やかな色彩――美しい春の花。それは、薄紅色を基調とした、かわいらしい花冠だった。

 かつて自分が作ったものとは、比べ物にならぬほど美しいそれを、手にしているのはリオネルである。


 この状況が、アベルには咄嗟に理解できない。

 リオネルの背後で、ベルトランが無言で立っていた。







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