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光の降り注ぐ回廊を、緊張した面持ちで歩む男がいる。
がっしりとした大柄な体躯、うっすらと髭に囲われた精悍な顔は一見怖そうだが、よく見れば人情味に溢れている。
ラザールである。
王都サン・オーヴァンの遥か西に位置するベルリオーズ領。
その広大な公爵領を治める領主から、今朝ラザールは呼び出されたのである。
普段はどんと構えている彼が、緊張を身にまとうのも無理はない。
なにしろ、時期が悪い。
五月祭当日。
公爵のひとり息子であるリオネルが、王宮に招かれているこの日、未だにラザールは己の成すべき仕事をこなせずにいる。
書庫の整理ではない。
――アベルの居場所を、つきとめられずにいるのだ。
ベルリオーズ領の中心都市シャサーヌから捜索範囲を広げ、周辺の町や村まで調べているが見つからず、遠く王都の別邸に密かに手紙を送ったが、アベルに関する情報は寄せられていない。
十五歳の従騎士が姿を消してから半月。無事でいるのだろうか。
ラザールは焦りはじめていた。
自らが公爵に呼ばれた理由について、本件以外に思い当たるものはない。
この状況で、どのような顔をして公爵に会えばよいのか。豪胆なラザールもうろたえずにはおれない。
三十年近く生きてきて、これまで一度も主から叱りを受けたことはないが、この日はついになにか言われるのではないかとラザールは危惧していた。
心のなかで、先祖に詫びる。
数百年にわたりベルリオーズ家に仕える騎士の家系の者として、任務を遂行できずに主から不興を買うことは無念であった。
重厚な扉の前に立ち、深呼吸する。
脇に立っていた公爵の護衛が扉を開けると、ラザールは一礼して入室し、即座に頭を下げた。
背後で扉が閉まる。
「ラザールか」
壁際の長椅子に腰かける公爵が、銀杯を卓に置いた。
「申しわけございません」
閉ざされた扉の前で深々と頭を下げたまま、ラザールは謝罪した。
「なにを謝る」
「アベルを未だに見つけだすことができません」
「ああ、そなたを呼んだのはまさにそのことだ」
やはり、と思ったラザールは声を震わせる。
「力が及ばず――」
言いかけたラザールの言葉を、ベルリオーズ公爵クレティアンは遮った。
「アベルは見つかった」
豆鉄砲を食らったようにラザールは目を丸くし、顔を上げる。
「アベルが……見つかった、と?」
「今朝、リオネルから手紙が届いたのだ」
そう告げる公爵には、どういう理由か疲労感が滲んでいる。
「アベルがいた場所は、そなたが探して見つかるようなところではない」
「それは?」
「王都にあるシャルム宮殿の……煙突のなかだったらしい」
「煙突?」
ラザールはなにがなんだかわからなかった。
なぜアベルが王都の――、シャルム宮殿の――、それも煙突のなかなどにいたのか。
呆気にとられるラザールに、公爵は卓上にある一枚の紙を指し示した。読んでみろということだ。
おそらく、それこそがリオネルからの手紙であろう。
「私めが、拝見しても?」
「かまわない」
ラザールは一礼して公爵のほうへ歩むと、手紙を手に取った。
「拝読いたします」
伝書鳩が運んできたものらしく、小さく折りたたまれていた痕跡が残る紙だった。筆跡は間違いなくリオネルのもの。
文字を追うラザールの表情が、次第に驚愕へと変わっていく。
「これは――」
そこには驚くべきことが記されていた。
ベルリオーズ邸を出てからのアベルの行動もさることながら、宮殿で起こったおそろしい陰謀は、ラザールを震撼させた。
「このようなことが、リオネル様の御身に……!」
手紙を持つ手が震える。
けれど、読みすすめていくうちに、怒りは次第に別のものへと変化していった。
そして読みおわるころには、身体の大きなラザールがしょげたように、ひとまわり小さくなっていた。
「おまえの責任ではない。あれも、私の指示だとわかっている」
「…………」
手紙の後半は、ほとんどリオネルの怒りの言葉だった。
――なぜアベルが行方知れずになったことを、即座に教えてくれなかったのか。むろん行動に移したのはアベルではあるが、失踪についてはベルリオーズから一報ほしかった。いったいどういうつもりで伝えなかったのか。
……このような言葉が、リオネルの美しい筆跡で延々と綴られている。
アベルのことを任されていたのは自分だ。ラザールは、身体が芯から凍りついていくのを感じていた。
「わ……私はもう、次期公爵様にお仕えすることは、できません」
がっくりと頭を垂れて、ラザールは嘆いた。
「クレティアン様。貴方にお仕えするのが、私の人生で最後の務めです」
「まあ、そう言うな、ラザール」
対するクレティアンは、軽い苦笑でラザールの落胆を受け止めた。
「さっきも言ったが、あれが責めているのはおまえではなく私だ。だれの指示なのか、リオネルがわからないはずがない」
「しかし、直接アベルのことを任されていたのは私です」
「勝手に出ていったのだ。私もそなたも責められる筋合いはない。本来なら許可を得ずに行動したアベルを、罰せねばならないところだ」
「たしかにリオネル様も書かれている通り、自ら出ていったのはアベルですが、その事実を伝えなかったのは我々です」
「考えてみなさい。アベルを連れ戻していたら、リオネルは毒を干して命を落としていたかもしれない。アベルが王都へ行ったからこそリオネルは助かったのだ」
「そ、それは――」
それはたしかにそうである。
たしかにそうなのだが。
「よかったのだ、これで。すべてこれでよかったのだ」
「…………」
ラザールは顔をうつむけた。そして、ひどく言いにくそうに、けれど反発するようにつぶやく。
「私は、リオネル様のためなら危険を顧みないアベルのことも心配です」
「言っただろう、それはあの少年が自分で選んだ道だ」
「せめて私がそばについていたら……」
「おまえの身体では煙突には入れまい」
「リオネル様を救うためならアベルはどうなってもかまわないと……?」
ラザールにしては非常に珍しいことに、クレティアンに向けて直接的な意見をぶつけた。
けれどクレティアンは驚いた様子もなく、冷静な眼差しを家臣に返す。
「そうは言わない。ベルリオーズ家の従騎士は我々にとり大切な者だ」
その意見には、ラザールも心から賛同する。
「だが、これはアベル自身が望んだこと。養生させるために、わざわざリオネルは私につまらぬ嘘までついてアベルをここに残したのだ」
つまらぬ嘘とは、書庫が「かなり混沌とした状態」であるため、整理が必要だと言い張ったことだろう。
「これほどまでリオネルに守られていながら、アベルは自らここを出て王都へ行った。それは、アベルがなにがなんでもリオネルを守りたいと、そう願ったからだ。そしてその願いは叶った。結果としてリオネルは助かった」
「…………」
「我々が、アベルが失踪したことをリオネルに知らせていたら、アベル自身の願いも叶わず、リオネルも謀略にはめられていただろう。それが最良の結果だったか? それが、アベルの望んだ結末か? ――違う。すべてはこれでよかった。そうは思わないか」
ラザールはすぐには返答ができなかった。
たしかに公爵の言うとおりではあるのだが、すべて結果論であるような気もする。
だが、やはり公爵の話は筋が通っており、納得せざるをえないのだ。
黙っているラザールに、クレティアンはやや複雑な笑みを向けた。
「そなたも、よほどあの従騎士のことが気がかりと見えるな」
「は……」
自らの心を読まれたようで、ラザールはわずかに動揺する。
「騎士である我らが、守らねばならぬ立場の者でありますので」
「――従騎士か。そうだな。リオネルはそれ以上の愛着をもっているようだが」
「彼のひたむきな姿に心を動かされれるのでしょう。かくいう私も同様でございます」
ラザールは正直に答えた。
控えめだが、それでもアベルに対する思いを明確にするラザールをしばし見据え、それからクレティアンは立ち上がる。
「アンリエットが生きていれば、あれからも私は今回のことで責められていただろうな」
「……さようなことは」
クレティアンがどのような気持ちで言ったのかわからず、ラザールは曖昧に否定した。けれど、言った本人は存外に明るい面持ちである。
「まあいい。私には私の役割がある」
「は……」
「何度も言うようだが、今回はすべて私が指示したこと。おまえがアベルの失踪について、リオネルから咎を受けることはない」
気に病まぬように、という公爵に対し、ラザールは再び深々と頭を下げた。
公爵は厳しく現実的な性格の持ち主であるが、その実、情が深く寛容な心の持ち主であることを、ラザールはよく理解している。
「今日は五月祭だ。このたびの一件は忘れ、気兼ねなく過ごすといい」
「ご厚情、感謝いたします」
ラザールは公爵の部屋をあとにした。
そしてしばらく、公爵が口にした言葉について、考えていた。
これでよかったのか。
考えても、考えても、わからない。
アベルの失踪についてリオネルに知らせていれば、どうなっていたのだろう。自分が王都に探しにいっていたら、アベルは傷つかずにすんだのだろうか。
手紙に記されていたアベルの状態は痛々しいものだった。
だが、クレティアンが言っていたとおり、この一連の流れがあったからこそ、リオネルは助かったのかもしれない。
結果的にはリオネルの危機を救うことができた。アベルは怪我を負ったとはいえ、命に別状はない。――これで、よかったのかもしれない。
次第に、ラザールはそんな気持ちになってきた。
やはり公爵様はすごい。
ラザールはあらためて思った。
あの人は、大きな視野でものごとを見ている。公爵自身が述べていたように、彼もアベルの身を案じていないわけではないはずだ。そうでなければ、アベルが姿を消してから、幾度もラザールに捜索状況の報告をさせたりなどしなかったのではないか。
今日は、五月祭。
春の祭りだ。
愛の祭りだ。
これでいいのだ。
すべて、これでいいのだ。
アベルが戻ってきたら、軽く頭を小突き黙って姿を消したことを詰り、それから、思い切り抱きしめて無事を喜ぼうとラザールは思った。
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五月祭で華やぐベルリオーズの中心都市シャサーヌ。
街の中央広場では、楽師が集まり陽気な曲を奏で、幼い子供から年配の夫婦までが歌い、踊っている。各国の踊り子や大道芸人が芸を披露し、街角では度々盛大な拍手が巻き起こっていた。
花が舞い、笑い声が散る。
聞こえるよ
春の詩
風が歌っているよ
春の詩
さあ 踊ろう
手をつなぎ
重ねた指先は 陽だまりのぬくもり
あなたの美しい髪に ひらり花弁が舞う
凍える夜は もう彼方
霜は溶け 朝露に変わる
――もう怖れるものはなにもない
みんなで歌おう
春の詩……
五月祭の折りには、大陸中で聞かれる歌である。
若者のそばでも、四、五歳ほどの子供が数人、輪になって踊りながらこの歌を口ずさんでいる。
その様子を意識の隅で捉えながら、若者は市場の隅にある長椅子に腰かけ、木机に片肘をついていた。
明るい金髪に、青空よりも濃く鮮やかな群青色の瞳。
髪も瞳も茶系が多いシャルムではそれだけでも目立つが、若者はさらに美形と称すべき顔立ちでもあった。
木机には麦酒で満たされた木杯が置かれているが、それが何杯目なのか若者自身も覚えていない。
「恋人を待っているの?」
愛らしく着飾った娘が、若者に声をかけた。娘の髪には赤紫色のクロッカスの花。春と愛の祭りの日に、恋人を探しているのだろう。
「そう見える?」
若者は、片肘を机についたまま娘を見上げて問い返した。
娘は困ったように首を傾げる。
「見えるような気もするけれど、そうであってほしくないと思っているわ」
若者はおかしそうに笑った。
「そうか、見えるのか」
「それでどっちなの?」
「ぼくにもよくわからないな。そう見えるなら、そうなのかもしれない」
狐につままれたような顔になりながらも娘は尋ねた。
「わたしとは踊ってくれるのかしら?」
「あいにく、ぼくは今、酒がまわって足元がおぼつかないんだ」
若者がやんわりと断ると、娘は「恋人によろしく」と言い残し、さっさとその場を去っていった。おそらく彼女ならこの先、自ら積極的に行動せずとも男のほうから声をかけてくるだろう。
これまでの様子を、同じ長椅子に座っていた男が見ていたらしく、身を乗り出して金髪碧眼の若者に話しかける。
「おい、色男。今回のは、なかなかかわいい子だったじゃないか。袖にするとはもったいない」
「そうかな」
今回の、と男は言った。
実はこの若者、これまでも幾人もの若い女性から声をかけられていたのだ。
まったく声をかけられぬ男は、それを横目でうらやましく思いながら見ていた。自分から行動せずとも、女のほうから寄ってくることなど、夢のようである。
「いい身分だな、おれもあんな子に声をかけてもらいたいもんだ」
若者は軽く笑ったが、自慢するふうでもなく、本人は特になんとも思っていないようである。
「その髪と目の色が、人目を引くんだろうな。あんた、ここの生まれか?」
「いや、ローブルグだ」
「お、長きにわたる、我が国の宿敵じゃないか! シャルムの女はひとりもやらねえぞ!」
酒が入っている男はいきりたって大声を上げる。周囲の客が驚いて視線を向けるが、若者は涼しげに男を眺めていた。
「シャルム人こそ、多くのローブルグ人女性を妻にしているじゃないか。返してほしいものだ」
冷静な指摘に、男は酔った頭で言い訳を考える。
「そりゃあ……、ローブルグ人には美人が多いからな」
――が、まったく言い訳にはなっていなかった。
若者は再びおかしそうに笑う。
「シャルムの女性が聞いたらきっと怒るよ」
「もちろんシャルム人女性も最高さ。もう亡くなられたが、ご領主様の細君アンリエット様は、絹のようにつややかな茶色の髪と紫水晶のような瞳の、絶世の美女であらせられたそうだ。ああ、おれもひとめ見たかった」
「ふうん」
「宮廷では数多の求婚者がいたという噂だが、幼いころからの婚約者であらせられた我らが領主クレティアン様が、最後までアンリエット様のお心を射とめておられたというわけだ。クレティアン様も、並ぶ者なき端正な顔立ちでおられるからな」
誇らしげに語る男の傍らで、なにかを思い出すように若者は腕を組む。
「茶色い髪ということは、ベルリオーズ家のお世継ぎは、母親に似たということかな」
「おお! 色男、あんたはリオネル様を見たことがあるのか?」
「まあね」
愉快げな表情のなかにわずかな苦みを織り交ぜ、若者は口端を吊り上げた。
「もう一度会いたいと思っているけど、なかなか会えないんだ」
「リオネル様にか?」
驚いた様子の男に、若者は淡々と告げる。
「いや、彼の連れにだよ」
「連れ? 変なやつだな。何の目的でリオネル様のご家来に会うんだ」
若者はなにも答えずに、軽く麦酒をあおった。その飲みぶりたるや水を飲んでいるかのようである。
「酒は強いのか」
「まあね。でも葡萄酒はそれほど好きじゃない。やっぱり酒は麦酒だろう」
「帰れ、てめえの国に!」
葡萄酒好きのシャルム人に対して喧嘩を売っているとしか思えぬ若者の台詞に、男はもれなく喧嘩を買ってみせた。だが若者のほうは、喧嘩を売った気などないようだ。
「気が向いたら戻るよ、エーベルヴァインに」
エーベルヴァインとは、ローブルグ王国最大の都市である。彼の国の宮殿や、大神殿、政治の中枢もここに集中している。
「好きにしろ。だけどシャルムの女を、泡だらけの麦酒やら豚の腸詰めやらの国に連れていったら、承知しないからな」
女性にもてないらしい男は、負け惜しみのようにそう言い捨てると、乗りだしていた上半身をもとの位置に戻した。
「渋みばかりの葡萄酒やら鳥の脂肪肝やらの国よりは、楽しいかもしれないよ」
女性なら頬を染めてしまいそうな、爽やかな笑顔を若者から向けられ、男は舌打ちして葡萄酒の杯をあおる。
大聖堂の鐘が鳴る。
その音にあわせて、色とりどりの花弁が街中に舞った。
「やはりぼくは、あの子を待っていたのかな――」
ひとりつぶやくと、若者はすっと席を立ち、祭りの喧騒のなかへ消えていった。




