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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
211/513

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今回イシャスが登場します。

イシャスに関しましてはこれまでもご意見等いただいていおり、今回分を投稿するかどうか迷いましたが、流れを考え、投稿することとしました。

アベルとイシャスの関係などご不快に感じられる方がいらっしゃいましたら、どうぞ読まずにスルーしてくださいm(_ _)m









 寝台の脇で、人形のように固まったまま椅子に座る少年がいる。


 刻々と過ぎていく時間の速さに、この部屋だけは取り残されているかのよう。

 静かで、動くものはなく、空気さえ流れを止めているようだった。


 けれど、すっと雲間から差しこんだ夕陽が、突如として部屋の床に日溜まりを落とし、窓からの筋道に埃をきらきらと映しだした。


 はじめから陽が差しこんでいたら、それは変哲のない夕暮れの光景だったかもしれないが、これまで陽光が雲に隠れていたからこそ――長いこと室内を影が支配していたからこそ、突然現れた光の光景は、はっとするほど美しい。


 ジェレミーはようやく顔を上げた。


 今、彼を支配しているのは深い罪悪感だが、そんな彼の心にも、夕暮れの光は差しこむ。

 ほんのわずかに心が軽くなった気がした。



 今、目前にある寝台で、瞳を閉じて眠っているのはアベルだ。


 長い金色の睫毛が、夢を見ているのか、時折震える。

 天使のようなその姿を、ジェレミーは自らが夢を見ているような気持ちで眺めていた。


 ほんの一ヶ月ほど前は、自分が、ボドワン夫妻に銅貨を投げつけて我が身を買い戻し、アベルと共にベルリオーズ家別邸にいるとは想像もしなかったことである。


 けれどもそれは、必ずしも夢のようなに楽しいばかりの現実ではない。

 自分はアベルを見殺しにしかけ、あまつさえ、リオネルに託された伝言のことまで完全に失念していたのである。


 アベルの身に、そしてリオネルの身になにかあれば、それは己の責任であると、ジェレミーはひどく気に病んでいた。


 そんなジェレミーがふと顔を扉口に向けたのは、声が聞こえたような気がしたからだった。

 ――子供の声。


 しばらくして、扉のまえで大人が小声で話すような音が、この静かな部屋に伝わった。


 ジェレミーはわずかに警戒する。

 動けぬアベルを守るように、マチアスから託されたのは、他でもない自分だ。

 非力であることはわかっている。自分がなにをできるわけではないこともわかっている。それでも、マチアスから預かった短剣を、ジェレミーは握りしめた。


 扉のほうへ向かい、様子をうかがおうとしたが、その必要もなく扉を叩く音がする。

 どう返事をしようかためらっているうちに、相手はしびれをきらしたのか、扉が薄く開いて、若い女中が顔を出した。


 その女性を、ジェレミーは知っている。

 アベルを診察する医師の手伝いをしており、また、ジェレミーを風呂場まで案内してくれた人だ。おかげでジェレミーは今さっぱりとした身なりで、アベルの寝室にいる。


「エレンさん」


 相手の名を呼ぶと、彼女のドレスの後ろから、またたくまに小さなものが飛びててきて、寝台へ走り寄った。

 ジェレミーは目を丸くする。


「こら、イシャス。走ってはいけないのよ」


 小動物かなにかかと思ったが、その小さなものは、幼い子供だった。

 さらにその子供は、自分がこれまで幾度も口にした名で呼ばれていた。


「イシャス……」


 小さくつぶやいたジェレミーの声を、しかしエレンはたしかに拾って、呆然としている少年に顔を向ける。


「ごめんなさいね、ジェレミー。突然に来てしまって」


 ジェレミーは黙っていた。


「この子は、イシャス。アベルの……弟よ」

「アベルの、弟?」


 たしかにアベルには弟がいると、リオネルは説明してくれた。


 柔らかそうな金髪の幼い男児を、ジェレミーはじっと見つめる。

 アベルと同じ色の、かわいらしい巻き毛だった。

 弟の名をアベルは拝借していたのだと、このときはじめてジェレミーは知った。


「こんなに幼くてもね、ちゃんとアベルのことを覚えていて、会うって言って聞かないのよ。だから、少しだけ姿を見せてあげようと思って」


 ジェレミーはうなずく。

 弟が唯一の肉親に会いたいと思うのは、当然のことだと思ったからだ。


 エレンの足の長さもない背丈の幼児は、寝台によりかかるようにしてアベルの顔をのぞきこんでいる。

 そして、ついには寝台によじ登りはじめた。


 寝台が揺れて、軋んだ音を立てる。

 胸元で組まれていたアベルの手が、振動でするりと布団を滑り落ちた。


「イシャス、だめよ。アベルは眠っているのだから」


 けれども彼は首を横に振り、さらにアベルに近づこうとよじ登る。その姿は、肉親のそばにいたいのか、それとも、好奇心ゆえに近づこうとしているのか定かではなかった。


 ついにエレンがイシャスを背後から捕獲すると、幼い彼の口から高い鳴き声が上がる。エレンが抱きあげ、懸命にあやすが、イシャスは泣きやまない。

 当然の結果として、アベルの双眸がうっすらと開いた。


 目のまえの光景が呑み込めず、アベルは幾度かまばたきをする。

 その目前に、ジェレミーが飛びこんできた。


「イシャス! じゃなくて、アベルさん……」


 ジェレミーが、十二歳の少年「イシャス」ではなく十五歳の女性「アベル」と対面するのは、これが初めてのことだ。


「ジェレミー……それに、イシャス?」


 高い泣き声のなかで、アベルの小さな声はかき消されてしまいそうだった。


「アベル……さん、気分はどう、ですか?」


 ぎこちないジェレミーの挨拶に、アベルは余計に混乱した。


 なにが起こっているのだろうと思い、部屋中に響く泣き声を聞きながら目を閉じる。そうしているうちに思考は徐々に明瞭になった。


「……そんな話し方を、しないでください」


 アベルは泣きやまぬ子の様子に気をとられつつも、目前で、なぜかこちらも泣きだしそうな顔で口を引き結んでいるジェレミーへ声をかける。


「聞いたのですね……」


 ジェレミーは無言で頷いた。


「……私の歳がいくつであろうと、立場がどうであろうと、これまでの『イシャス』と同じです。お願いですから、これまでどおりに接してください」

「…………」


 少しためらいを見せたが、それでもジェレミーはうなずいて見せた。

 そうすることで、アベルが喜んでくれるなら、なるべくこれまでどおりであろうと自ら決意したのだ。


「ありがとう」


 そっとアベルがほほえむので、ジェレミーは頬を染めた。


 完全にこれまでどおりとはいかない。

 なぜなら、目のまえで横たわる人は、近づきがたい存在だからだ。


 見た目で人との付き合い方をかえるわけではない。けれど、このような女性に笑顔を向けられたら、だれでも緊張するはずだ。自然と心臓が早鐘を打ち、身体が緊張してしまうのは、ジェレミーにはどうにもならないことだった。


 ほほえんでいたアベルは、ふとジェレミーから視線を移す。

 久々に再会したイシャスを見やって再び微笑したものの、アベルは室内を見まわしてから顔色を変えた。


「リオネル様は……?」

「大丈夫だよ、マチアスさんがお城に向かったから。きっと何事もなく帰ってくるよ」


 懸命に励ますようなジェレミーの口調だった。


 けれど、アベルは押し黙る。

 それがけっして責めるような態度ではないことを知りながら、ジェレミーは顔をくしゃくしゃに歪めずにはおれなかった。


「……ごめんね、アベル。おれが、ちゃんとリオネル様に伝言していればよかったのに……。どう謝っていいかわからないよ」


 はっとする表情になり、アベルは淡い空色の瞳をまたたく。

 そして、涙がこぼれそうなジェレミーに、痛む身体に力をこめてぎこちなく手を伸ばした。


 ジェレミーが視線を上げてアベルを見る。

 アベルはかすかに首を横に振った。

 そこには、自分を責めないようにという、アベルの思いが込められていた。


 ごめんね、ともう一度ジェレミーがつぶやくと、アベルはもう一度首を横に振る。


 ――今は、信じるしかなかった。

 マチアスが、リオネルの危機を救ってくれることを。

 あの優しい人を、神様が守ってくれることを。



 と同時に、アベルの意識に子供の泣き声が飛び込んできた。

 イシャスはエレンの腕のなかで泣きじゃくっている。生まれたころからよく泣く子だった。変わらないな、と思いながら幼い子供を見つめるアベルの瞳は自然と優しくなる。


 けれど、同時に彼女の瞳にはどこか切ない色も浮かんでいる。

 イシャスは自分ではなく、エレンを頼り切っている。ずっと面倒を見てきたのはエレンなのだ、当然のことだ。

 今のアベルの身体では、泣いているイシャスを抱きしめてやることさえできない。

 ……つまり、それが己の選んだ道であり、イシャスとアベルの運命を示唆していた。


 アベルの視線に気づいたエレンが、イシャスをあやしながら寝台へと近づいてくる。そして、涙声で言った。


「気がついたのね、よかったわ。もう、あなたはいつもいつも……そんな身体で」


 心配しているというよりは、責めているようでもあった。


「わたしたちが、どれほど心配したか――」

「……ごめんなさい」

「あなたになにかあったら、イシャスはどうなるの?」


 アベルはなにも答えない。答えなかったのは、声に出して伝えることができなかったからだ。


 アベルの心情を察したわけではないだろうが、エレンはどこか申し訳なさそうな表情で言い足した。


「イシャスはずっと、あなたに会いたがっていたのよ」


 アベルの口元にかすかな笑みが浮かぶ。


「ほら、イシャス。アベルよ。あなたの大好きなアベルよ」


 けれど、イシャスは泣き続けるだけで、アベルを向こうとはしなかった。


 こちらに向けられているのは、淡い金糸の髪。

 その髪色だけが、アベルとイシャスの関係を繋いでいるように、アベルには感じられた。


 イシャスの機嫌が悪いので、エレンは困った様子で「また来るわね」と言いおき、イシャスを連れて部屋を出ていく。自責の念にも似た言葉にできぬ苦しさが、アベルの胸を深く苛んだ。








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