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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
210/513

38






 寝室の扉を開けたとき、ちょうど、窓から薄日が差し込んだところだった。


 白く柔らかい光が映し出したのは、窓際の椅子に腰かける、前頭部を負傷した赤毛の騎士と、彼を介抱する青年の姿である。


「リオネル!」


 ディルクは思わず二人のもとへ駆け寄った。


「無事か?」


 心から案ずる声でディルクが尋ねたのは、介抱されるベルトランのことよりもむしろ、介抱しているリオネルの身を案じてのことであった。


 相手の様子からそのことを理解したリオネルは、安心させるために微笑してみせる。


「部屋に戻ってからすぐに吐いた。従者殿から渡された薬のおかげで、命を失わずにすんだよ」

「やはり毒だったか」

「間違いないだろう」


 答えたのはリオネルではなく、頭に包帯を巻かれるベルトランだった。


「猛毒だ。あのまま飲んでいたら、即死だった」

「卑劣な手段を使うもんだ」


 発せられた言葉は、いつものディルクらしい口調だったが、声は低く、深い怒りが滲んでいた。


 敵はリオネルを、杯に毒を入れた罪人に仕立てあげたうえで、ただちに殺そうとしていたということである。卑劣極まる手法だ。


「なぜあのとき杯をあおったんだ」


 ベルトランは、自らの怪我の手当てをしてくれている若い主人を、責めるような鋭い眼差しで射抜く。

 軽く困惑したような表情をリオネルは浮かべた。


「もちろん、あのときマチアスから薬を受け取っていなければ、飲んでいなかった」

「……どうだか」


 不服そうにベルトランはつぶやく。


「マチアスから薬を受け取ったのは、いつだったんだ」


 リオネルは沈黙した。


 兵士に扮したマチアスが、女中の周りを取り囲むとみせてリオネルに近づき、そして無言で目くばせし、密かに薬を手渡してきたのは、杯を干せと迫るジェルヴェーズにベルトランが言い募ろうとしたのを、リオネルが制した直後のことだった。


 もしあのとき、マチアスが薬を手渡してこなかったなら……。


「ああ、受けた傷ではなく、あのときのことを思い出すほうが痛みを覚えるぞ」


 頭を押さえたベルトランは、浅くため息をつく。


「ちょっと包帯がきつかったかな」


 とぼけたリオネルの返答に、ベルトランは顔をしかめる。


「リオネル、わかっているのか」


 赤毛の用心棒が強い語調だったので、リオネルは黙して次の言葉を待った。


「おまえはベルリオーズ家の次期当主だ。ベルリオーズの民を守る領主であり、家臣のうえに立つ主人だ。だが、おれはただの家臣だ。おれを守ろうだなんて、考えるな」

「……わかってる」


 低い調子でリオネルが答えると、ベルトランは再び「どうだか」と疲れたようにつぶやいた。


 そのようなベルトランを「まあまあ」となだめたのは、ディルクである。


「いいじゃないか、ベルトラン。あのときリオネル自身が杯を干してなければ、どのみち『ジェルヴェーズ王子暗殺』の疑いをかけられて、投獄されていたに違いない。ああするしか道はなかったと思うよ」


 たしかに、マチアスがいなければ死んでいただろうけど、と付け足したディルクのひと言に、再びベルトランは頭に痛みを覚えて、顔をしかめた。


 そんなベルトランを視界の片隅でとらえながら、ディルクはリオネルに問いかける。


「それにしても、本当によく飲んだな。毒が入っていることは予測していたんだろう?」

「今、ディルクが言ったとおりだ。そうするしかなかった」

「マチアスの存在にはずっと気づいてたのか?」

「いや、気がついたのは直前だ。彼から薬を手渡されて、最終的に杯を干す決心がついた」

「怖ろしい話だな。マチアスがいなければ、そのまま飲んでいたのか?」

「さあ……どうしていたかな」


 親友の曖昧な返事に、ベルトランではないが、ディルクも胃のあたりにきりきりと痛みを覚える。


「マチアスがいてよかったよ、本当に。あいつがこんなときに役に立つとは思わなかった」


 ディルクが己の従者を「褒めた」ちょうどそのとき、扉をたたく音がして、ベルトランの誰何の声に対し、よく知る者の声が答えた。


 許可を得て入室したのはマチアスと、そして、思いもよらぬ人物である。


「マチアス――それに、レオン」


 ディルクは扉のまえで目を丸くした。


 気まずそうに頭をかいたレオンは、「ああ」と片手を上げてディルクに挨拶し、それから窓辺にいるベルリオーズ家の二人へ視線を移す。


 実の兄が傷を負わせたベルトランと、あわや陰謀によって命を落としかけたリオネルが、薄日を受けて、やわらかい光のもとにいる。


「レオン、どうしてここに? 体調は?」


 危険な目に遭ったリオネルから逆に気遣われ、レオンはさらに気まずそうな顔になった。


「話はすべてマチアスから聞いた」


 二人の近くへ歩み寄ったレオンは、眉根を寄せ、わずかにうつむく。


「リオネル、おまえこそ大丈夫なのか」

「おれはこのとおり、なんともない」


 レオンは沈黙した。


「そんな辛気臭い顔するなよ、レオン」


 努めて明るい声を第二王子に放ったのは、ディルクである。


「ひとでなしな兄のことで、おまえが気に病む必要はないだろう? こうして、リオネルもベルトランも無事だったんだし」


 落ちこんだままなにも答えぬレオンを放置して、ディルクは一日ぶりに再会する自らの従者を見やった。


「マチアス、今日の活躍は大したものだった。リオネルを救ったこと、おれからも礼を言うよ」


 珍しく素直に感謝する主人に、マチアスは軽く頭を下げる。


「お褒めの言葉、大変に光栄ですが、真に貴方様が称えるべき相手は私ではありません」

「ん? どういうことだ?」


 リオネルとベルトラン、そしてレオンの注意も、マチアスへ向いている。

 どのような経緯で、アベルのそばについていたはずのマチアスが、リオネルの危機を察し、救いにきたのか――皆が気になるところだった。


 しかしそれ以上に、リオネルにはひとつ気になることがある。


「すまない、話を聞く前に、ひとつ教えてほしい」


 話を遮ったリオネルに、マチアスは告げた。


「アベル殿の身辺は、信用できる者に守らせています」


 質問を聞かずとも、マチアスにはこの青年がなにを案じているのか、わかっていた。


「それは?」

「ジェレミーです」

「…………」


 リオネルの沈黙に含まれる不安に答えるように、マチアスはつけ足した。


「それと、宮殿に着いてすぐ、控えていたダミアン殿のもとへ行き、別邸のアベル殿の部屋を守るようにお願いしました。ダミアン殿は即座に引き受けてくださいました。ですがこのようなことをしていたため、大広間へ赴くのが遅くなりました。お許しください」


 ダミアンは、ベルリオーズ家に仕える若い有能な騎士である。


「遅くなったことなど、かまわない。感謝する」


 自らの命を救われたことよりも、アベルの安全を確保したことに対し、リオネルは感謝しているかのようである。


「それで? マチアスはどうしてリオネルの危機を予測できたんだ?」


 ディルクが従者に説明を促すと、マチアスはそっとリオネルからディルクへ視線を移して答えた。


「アベル殿から聞いたのです」

「アベル?」


 異口同音いくどうおんに驚きの声を発したのは、リオネルとディルクである。


 ディルクはリオネルのほうを向いたが、リオネルはマチアスを見つめていた。


「目覚めたのか?」

「はい、昼前に。リオネル様のお姿がないと知ると、ひどく取り乱しました」

「無事なのか」


 案ずる様子のリオネルに、マチアスは深くうなずいてみせる。


「ご心配には及びません。アベル殿が取り乱したのは、ジェレミーが貴方に伝言するのを忘れていたからなのです」

「伝言?」


 不思議そうにディルクが尋ねた。


「アベル殿はジェレミーに、『宮殿は危険だから近づかぬように』とリオネル様に伝えるように頼んでいたそうなのです」


 耳を傾ける若い主人らに対し、マチアスはこれまでの経緯から自らが知り得たことをすべて語った。


 主人の命令に背いてまでアベルが王都へ赴いたのは、リオネルの身を案じてのことだったこと。煙突掃除夫になることで宮殿に忍びこみ、城内でリオネルを狙う不穏な動きがないか警戒していた。そして、煙突のなかで、リオネルを陥れる陰謀を盗み聞いたのである。


 陰謀について伝えるべくリオネルの姿を探していたとき、偶然アベルは、カミーユがジェルヴェーズに剣を向けられている場面に遭遇してしまう。そしてカミーユをかばい暴行を受け、怪我を負った。つまり、リオネルに伝える機会を逸したのだ。


 幾日か雨に打たれているあいだにも、陰謀のことは頭から離れず、ついに助けにきたジェレミーにすべてを託した。


「それなのにジェレミーという少年は、様々なことが起こり、気が動転して、リオネルに伝えるのをすっかり忘れたってことか」


 呆れた様子でディルクは言ったが、マチアスは軽く首を横に振る。


「気が動転していたというより、アベル殿のことで頭がいっぱいだったのでしょう」

「そんなのは、どっちでもいい。アベルが目覚めるのがもう少し遅かったら、リオネルの命はなかったぞ」

「ジェレミーのことは、今更責めてもしかたありません。けれど……リオネル様を救いたい一心だったからこそ、アベル殿はあのような状態でも目を覚ましたのでしょうね。リオネル様の身に迫る危機を、察知していたのかもしれません。私が必ずリオネル様をお守りすると約束すると、アベル殿はようやく安堵したようでした」


 リオネルはずっと黙って話を聞いていたが、しばらくすると、両手で頭を抱えて深い溜息をついた。


「リオネル?」


 心配そうに尋ねたのはベルトランだ。毒の影響が出てきたのではないかと案じたのだろう。

 けれど、リオネルは艶やかな髪を揺らして「大丈夫だ」と答えた。


 窓からの淡い光と、皆の視線が見守るなかで、リオネルはようやく声を発する。


「アベルは、おれのために、こんな危ないことをしたのか」


 だれも、なにも答えなかった。


 ――こんな危ないこと。

 それは幾重にも危険なことだった。


 アベルのような年端のいかぬ者が、ひとりで旅をすること。

 煙突掃除という、病気と怪我がつきものの職業を選択したこと。

 王宮の煙突に忍び込み、ジェルヴェーズらの会話を盗み聞いたこと。


 ……カミーユのことがなくても、アベルが命を失っていた可能性はいくらでもあった。


「それだけ、おまえのことが大切なんだろう」


 ぽつりと言ったのは、ディルクである。

 その台詞を、マチアスは複雑な思いで聞いていた。


 おそらくそのとおりなのだ。

 アベルは、何ものにも代えがたいほど、リオネルを大切に思っている。感情の種類は違えども、リオネルがアベルを大切に思っているのと同様に。


 ……このような二人のあいだには、己の主人とシャンティが十一年間の婚約期間に培ってきたものが、入りこむ隙はないかのように見えた。


 赤毛の若者もまた、彼なりの感慨に浸っている。


「二年前に救った幼い命が、今度はリオネルの命を救ったか」


 ぼそりとつぶやく。


「不思議なものだ。非力に見えるのに、大切なものを守ろうとするときには、思わぬ強さを発揮する」


 ベルトランの意見に、ディルクが同調した。


「たしかに、見た目からは想像できないものをアベルは秘めているかもね。今回のこと、彼には感謝しなければな」

「無理のしすぎだ」


 不機嫌にリオネルが言い捨てる。


「館に戻ろう」


 リオネルは立ち上がった。


「もうここにいる必要はない」


 再びジェルヴェーズの顔を見ぬうちに立ち去るのが賢明である。


 ――荒れ狂う暗い嵐の海のような気持ちを、完全に鎮めることができなくなるまえに。

 思わぬ悲劇を招かぬうちに。


「小生もお供します、旦那様」


 芝居じみた台詞であるが、ディルクの口調はいたって真面目なのが、よけいにおかしい。


「リオネルがいないのに、五月祭で国王陛下から直々に山賊討伐の『褒美』をいただくわけにはいかないからね」

「もらってくれもかまわないけど」

「いや遠慮しておく。いっそ、レオンにもらっておいてもらおうか」

「なぜおれが、父親から褒美をもらわなければならない?」

「じゃあ、皆でベルリオーズ家別邸に行けばいい。おまえも来るんだろう、レオン?」


 先手を打たれた気がしてレオンはやや仏頂面になったが、渋々うなずく。


「それは、むろん、アベルの見舞いにいかないわけにはいかないだろう」


 こうして、リオネルやベルトランと共に、ディルク、マチアス、そしてレオンも王宮をあとにすることになった。


 ディルクとレオンは、リオネルのように素晴らしい「口実」があるわけではないので、数日のうちに再び戻らねばならない身であるが。


「でも、どうしてアベルの警護をジェレミーとやらに委ねたんだ?」


 リオネルの部屋を出たときだった。傍らを歩む主人から投げかけられた問いに、マチアスは口元に軽く笑みをたたえる。


「彼なら、しっかりと守ってくれると思ったからです」

「まだ子供なんだろう?」

「子供です」

「どのあたりが『しっかり』守れるんだ?」

「では、逆に伺いますが、貴方は、ただ強い大人であるというだけで、守るべきものを守り抜けると思いますか?」

「うーん。じゃあ逆に聞くけど」


 相手の口ぶりを真似てディルクは言った。


「力のない子供が、いざというときに、守るべきものを守り抜くことができるのか?」


 そうですねえ、と考えこむようにマチアスはうつむく。


「気持ちだけでは守れませんが、力だけでも守れません。けれど、本当に肝心なものは、気持ちのほうだと、私は思うのです」

「よくわからん。気持ちがいくらあっても、強敵をまえにしたら、なんの力にもならないじゃないか」


 再びマチアスは考えこみ、そして、少し先を歩むリオネルとベルトランの後ろ姿を見やった。


「……信じたいからかもしれません」

「なにを?」

「見えないものをです」


 しばし黙してから、


「まったくわからん」


 とディルクはつぶやく。

 小さく息を吐くように、マチアスは笑った。


「そうですね、私にもよくわかりません」


 薄日が、回廊を進む五人の姿を包む。


 明日は五月祭。

 春の到来。


 ……長い冬の終焉。


 けれど、ここにいる若者らにとって、冬はけっして忌むべきなものではなかった。

 なぜなら、凍てつくような冬の冷たい風こそが、春を導くやさしさを秘めているのだと知っているからだ。

 常夏の楽園に、きっと、真の幸福はない。


「やっぱり、少しわかるような気がするよ」


 次第に明るくなっていく陽の光のなかを歩みながら、ディルクが不意に言った。


「え?」


 マチアスが問い返すと、ディルクが口端を吊り上げる。


「目に見えるものだけが、この世のすべてだったら、つまらないからな」


 だから、信じてみたくなる気持ちが、少しだけわかる。

 ――たとえそれが、儚い願いだったとしても。


 そう口にした主人に、マチアスはふっとほほえんだ。




 五人はベルリオーズ家別邸へと馬を駆ける。

 雲をくすんだ乳白色に透かしていた薄日は、いつのまにか橙色に染まりはじめていた。







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