37
――これは、罠だ。
騒然となる会場で、いまひとり密かに表情を硬くした者がいた。自らがあずかり知らぬ謀が、今、目の前で進行しつつあることを悟ったフィデールである。
ジェルヴェーズが口を開くと、突如として広間内は時が止まったような静けさに包まれた。
「リオネル・ベルリオーズ。この女が言うことは真実なのか」
その声は、重苦しい雰囲気の室内を、さらなる緊張で満たす。
もし、先王の嫡出子の血を引くリオネル・ベルリオーズが、王位継承第一位にいるジェルヴェーズの杯に毒を潜ませていたなら、それは国中を揺るがす大事件である。真実であれば、王位の奪還をはかった謀計であることは明らかだ。
けれど、この張りつめた雰囲気のなかで答えるリオネルの声は、毅然としたものだった。
「私はなにもしておりません」
ベルトランの背筋を、一筋の冷たい汗が流れる。どれほどの強敵であろうと、襲いかかってきたなら剣を抜きリオネルを守ることができる。だが、このような形で罠にはめられては身動きができない。
「女中は見たと証言しているぞ」
「見間違いでしょう」
「ならば、そなたが証明してみせろ」
そう告げるジェルヴェーズの声は――眼差しは、冷酷そのものだった。
「証明するとは――」
近くにいた王弟派貴族のひとりが、かすれた小声でジェルヴェーズに問う。
「むろん、リオネル・ベルリオーズがこの杯を飲み干せばよいことだ。もしなにも入れていないなら、ためらう必要はあるまい」
ベルトランの手が、固く拳を握る。どのように振る舞い、いかにしてリオネルを守るべきか、選択しなければならぬときだった。
リオネルはわずかに眉を寄せたまま、黙していた。
その沈黙を、ジェルヴェーズは躊躇であると踏んだのか、挑発するようにリオネルに告げる。
「飲めないというなら、それはすなわち、そなたが私の杯に毒を盛ったことを認めるということだ。そなたが無実なら、これを口にすることができるであろうからな」
杯の中身を飲ませるべく誘導するかのような、ジェルヴェーズの言葉だった。
リオネルが、自らこの場で毒をあおって死ぬ。それが、ジェルヴェーズにとっては最も望ましい筋書きなのだから。
「お待ちくださいませ」
そのとき声を上げたのは、ベルリオーズ家に仕える赤毛の騎士だった。
自らの足元に恭しく跪いた長身の若者を、ジェルヴェーズの鋭い視線が射る。
「何用だ」
リオネルのそばから片時も離れぬ赤毛の用心棒のことを、ジェルヴェーズは腹心らに聞いて知っていた。ジェルヴェーズにとっては厄介な存在であり、だが、警戒すべき相手である。
赤毛の騎士――ベルトランは頭を下げたまま言い放った。
「証明ならば、家臣である私がいたします。私が、その杯をあおりましょう」
「そなたがこれを飲んで体調に異変をきたせば、そなたの主人が疑われるのだぞ」
「私が死せば、この杯に毒が入っていたことは判然といたします。けれど、主人が入れたということの証明にはなりませぬ。我が主人がなにそれをしたと騒ぎ立てているのは、ここにいる女中ひとりだけでございますれば、信じるに値する発言かどうか公正な立ち合い人のもとで審議する必要があります」
これまで浮かべていた優越に満ちた表情を、ジェルヴェーズは曇らせる。
ベルトランの主張は筋が通っている。大衆の面前でベルトランと理屈だけで戦えば、やがてこの奸計には綻びが生じ、崩壊するだろう。
ジェルヴェーズとしては、なんとしても赤毛の騎士を黙らせねばならなかった。
「私はこれまで、この杯にある酒を飲んでいた。だが、見てのとおり、私の身体はなんともない。もし途中で、ここになにかを入れることができたとすれば――」
そこで、ジェルヴェーズは目を細め、視線をゆっくりベルトランからリオネルへ移した。
「この卓を挟んで立っていたリオネル、そなたしかおらぬ」
広間は、人々の呼吸の音さえ聞こえてきそうなほど静かだった。
だれもが息を殺して事態の成り行きを見守っている。
どれほどの数の貴族がこの部屋にいるのか、しばし忘れてしまいそうなほどの静けさであった。
「女中が言うことの真否を証明するのは、リオネル、そなただ。なにも入れていないのならば、今すぐこの杯を自ら飲み干せ」
ジェルヴェーズの言葉に再び口を開きかけたベルトランだったが、すぐに、それは封じられた。卓上にあった銀の燭台が、彼に向けて投げつけられたのだ。
燭台を渾身の力を込めて投げたのは、ジェルヴェーズである。
むろんベルトランにそれを避けることは充分可能だったが、あえて受けたのは相手がこの国の王子だったからだ。
わずかに顔を背けたベルトランの前頭部から、鮮血が流れてひたいや頬を伝う。燃えるような赤毛の先からも、彼の髪色とは似て非なる真紅の雫が、滴り落ちた。
ベルトランが傷を負うなど、普段ならありえないことだ。
「ベルトラン!」
リオネルが初めて顔色を変えた。
大切な家臣であり、友人でもあるベルトランを傷つけられたのだ。
――赦せないことだった。
抑えていたはずの激情が、心の底から再びよみがえってくるのを、リオネルは痛いほど感じる。
これ以上、自分の大切な者たちを傷つけられれば、リオネルは己の感情を制御できるか自信が持てない。
……そうなるまえに、この事態にかたをつける必要があった。
「ベルリオーズ家の騎士、そなたは差し出がましい口を利くな! 先代王妃の血縁であるからといって、これ以上余計な口出しをすれば容赦はしないぞ」
ジェルヴェーズの怒号がベルトランを打つ。それは、これ以上ベルトランと論戦を繰り広げることによって、自らの立場が不利になることを避けるための戦法だった。
「しかし――」
言い募ろうとするベルトランを、リオネルは手で制した。このままでは、ベルトランがどのような目に遭うかわからない。これ以上ベルトランを傷つけさせるわけにはいかなかった。
リオネルにとってベルトランはただの家臣ではない。
幼いころから常にそばで自分を守ってくれた恩人であり、だれよりも「リオネル・ベルリオーズ」という人間を理解してくれている、かけがえのない存在である。
「わかりました」
ジェルヴェーズをひたと見据えるリオネルの瞳が、例えがたい色をたたえている。
「私が、この杯を干せばよいのですね」
「さよう」
「お待ちください――」
ベルトランは蒼白になった。
事の成り行きを見守っていたディルクの顔からもまた、血の気が引いていく。
リオネルが杯を掴み、口元へ運んだ。
ジェルヴェーズ、そして遠くで傍観していた国王派貴族ベルショー侯爵の口元には歓喜の色。
――リオネルは大きく杯を傾けた。
「リオネル!」
叫び声をあげたのは、ディルク。
咄嗟に杯を叩き落とそうと動いたのは、ベルトラン。
けれど、リオネルはするりとベルトランの手を避けて、杯の中身を飲み干した。
たちまち、杯は空になる。
広間は水を打ったような静寂に包まれた。
だれも微動だにしない。まばたきもできず、唾さえ飲み下せない。
ベルトランやディルクでさえ、金縛りにあったように固まっていた。
ジェルヴェーズはじめ国王派の者にとってはなにかを期待するような、そしてベルトランやディルク――リオネルの身を案じる者らにとっては、絶望と祈りが混じり合ったような時間が経過する。
どれほどの時間が流れただろう。感じられたほど長い時が経過したわけではなかっただろう。
始終、ただひとり冷静だったのは、杯をあおった本人だった。
リオネルは、落ち着いたしぐさで杯を卓上に置き、そして深く息を吐いた。
それから無言でジェルヴェーズを見据える。表情のない、だが、底知れぬ感情の潜んだ冷ややかな視線だった。
この瞬間、ジェルヴェーズは計画の失敗を受け入れぬわけにはいかなかった。
――リオネルは、死ななかった。
なぜなのか。
毒は自らの手で入れた。
杯のなかの葡萄酒は、リオネルがすべて干した。
即効性のある毒だ。
なぜ、効かない……。
ジェルヴェーズのなかで怒りと焦燥が同時に湧きおこっていたころ、彼のそばに足早に歩み寄る人物がいた。フィデールである。
「この女を牢へ入れよ!」
フィデールの叫び声が、広間中に響き、皆がはっとした。
奸計についてはなにひとつ知らされていなかったフィデールだが、即座にこの事態――つまり、ジェルヴェーズの立場の危うさを理解し、機転を利かせ、すべての責任を女中一人に押しつけたのだ。
「王族を陥れようと虚言を弄した罪は重い――。審議を経ずして、この者を極刑に処す。即刻、連れていけ!」
当初の計画では王子の命を救うはずだった女中は、急遽書きかえられた筋書きによって罪人へと仕立て上げられた。哀れなほど蒼くなった女は、なにかを叫ぼうとしたが、即座にジェルヴェーズの近衛兵に押さえつけられられて声を失う。
彼女の運命は、想像力を働かせる必要もないほど明白なものだった。
けれども、かような結末を迎えたことにより、ようやくこの場を支配していた不穏な空気が和らぐ。女中ひとりの虚言で終われば、大きな事件に発展することなく事態は収束するのだ。
しかし無実の罪を着せられ、死の危険が潜んだ酒を飲まされたリオネルに対し、ジェルヴェーズの側からなにもなしというわけにはいかなかった。
「リオネル殿、ご不快な思いをさせてしまったことを、お許しください」
ジェルヴェーズに代わって謝罪の言葉を述べたのは、むろんフィデールである。
謝罪などせぬ立場にいる王子の代わりとはいえ、だれよりも憎い、歴史的な政敵であるベルリオーズ家の嫡男リオネルに頭を下げることは、フィデールにとり屈辱の極みであったに違いない。
リオネルの返答は、冷ややかだった。
「故なき咎を晴らさねばならなかったこと、大変に不愉快です」
この言葉によって、広間内は再び緊張を帯びる。
だれもが、リオネルが激昂しているのだと思った。そしてそれが、さらなるジェルヴェーズの怒りを誘い、両者の対立を激化させるかと思われた。
けれど次の瞬間、リオネルがふっと口元に軽く笑みを浮かべたので、皆が虚をつかれる。
「……というのはささやかな戯言ですが」
そうつぶやいてから、即座に口元から笑みを消し去り、リオネルは一切の異論を許さぬ口調で告げた。
「我が別邸で、やらねばならぬことがあった旨、今思い出しました。しばらく王宮へは参じることはできません」
五月祭は明日。
だれも、ひと言も声を発することができずにいた。
「五月祭に参加できなくなったことにつきましては、ここにはおられぬ国王陛下、王妃殿下並びに王子殿下に、深くお詫び申し上げます」
それは、許可を求めているのではなく、すでに決定した事項のような口ぶりだった。
国王に招待された祭りに参加しない――それは、常なら許されぬことである。
だが、ここでそれをだれも咎めることができないのは、今は完全にリオネルの立場がジェルヴェーズより強いからだ。第一王子であるジェルヴェーズが加担した企みによって、リオネルは罪を疑われ、あまつさえ毒を飲まされかけた。――リオネルの決断は、国王とて反論のできぬことに違いない。
表情こそ変えないが、瞼を伏せて、己の計画を五月祭で実現できなくなったことを、フィデールは悟る。
こうなってしまえば、公衆の面前でリオネルを跪かせ、ジェルヴェーズ個人に忠誠を誓わせることは不可能だったからだ。
「それでは、私は退席いたします」
怒りや落胆を通りこし言葉も発することのできぬジェルヴェーズへ向けて一礼し、リオネルは踵を返す。そのあとにベルトランが無言で従った。
二人の姿が大広間から消える。
このような騒動が発生したのである、弓試合を続けるわけにはいかない。
金縛りにあったような会場のなかでフィデールがその旨を告げると、低いざわめきが広がったが、即座に再び静寂が訪れた。
ジェルヴェーズが、苛立たしげに銀杯を地面にたたきつけたのだ。
耳をふさぎたくなるような音を立てて銀杯は大理石の床の上を幾度か跳ね、たたきつけた本人の数歩先まで転がっていく。
まだ杯が動きを止めぬ間に、ジェルヴェーズは高い足音を響かせ、リオネルが出ていった扉とは別の戸口から広間を去っていった。
――とんでもない弓試合となった。
王子と、それに従うフィデールが去ったあとの会場は、再び騒然となった。
そのざわめきのなか、ディルクは弓を近くにいた使用人に手渡し、そして、密かにひとりの兵士のもとへ近づく。
シャルム王宮の制服をまとった若い兵士が振り返る。
二人は視線を交わすと、無言でなにかを確認し、そしてリオネルが出ていった扉から、共にそっと会場を抜け出した。
「うまく化けたな」
「なんのことです?」
兵士は平然と答える。
「服を着替えたら、リオネルの寝室で落ちあうぞ」
指示に対して軽く頭を下げたのは、まぎれもなくディルクの優秀な従者だった。