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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
208/513

36






 前日に引き続き、王宮では弓試合が行われていた。


 この日は、舞台を騎士館の室内鍛錬場から、宮殿の大広間へと移しての試合である。つまり、これまでの試合を勝ち抜いてきた者だけが、この大広間で矢を放つことができるということだ。


 大勢の貴族が見守るこの場所で、弓の名手が決定し、その者は最終的に王の御前で腕を披露する機会を与えられる。


 しかしながら、王子であるジェルヴェーズやレオン、そして初日の弓試合を欠席したリオネルや、正騎士隊の隊長であるシュザンなど一部の貴族は、この日の試合には参加していない。つまり、試合で勝ちぬいても、「シャルム一の名手」という称号がもらえるというわけではないのだが、むろん勝者になればそれは大変に名誉あることである。


 今回の弓試合において、多くの者はリオネルの不参加を残念に思っていた。王家とベルリオーズ家の血脈を受け継ぎ、シュザンのもとで修業し、山賊討伐を成功へ導いた若き英雄の腕前を、皆、ひと目見たかったのだ。


 それが突然の棄権である。

 今やこの場でリオネルの実力を知る術はなかったが、前日の試合で勝ち残った騎士のなかに、彼と同じくシュザンのもとで修業したひとりの青年の姿があった。


 ――ディルクである。


 十代という若さで勝ち残った者は彼だけであり、人々の驚嘆と好奇の眼差が、ディルクへ集まった。




 試合が行われているこの広間は、宮殿内で最も広い一室である。


 ――部屋、と呼ぶのがはばかられるほどの広さで、大規模な宴や催し、謁見などが行われる際には、「舞踏会の間」ではなくこの広間が利用された。


 広大な面積の床や壁はすべて白大理石でできており、等間隔に並んだ支柱には繊細かつ優美な彫りがほどこされている。

 天井の中央には半透明の硝子がはめこまれており、外界の明るさが室内に取りこまれるようになっていた。


 後方の壁際には等間隔に飾り机が据えられ、その上に「軽食」という名目で並べられた数々の馳走や酒を、貴族たちは口に運びながら試合を見守った。


 試合の参加者たちは広間の中央に並び、それぞれ前方の的に向けて弓を射放つ。


 最終的な勝者が決まるまで、試合は終わらない。

 朝から始まった試合は、決着がつかぬため、午後までもつれこんでいた。


 これまで勝ち抜いてきた騎士は、三名である。


 ひとりは、正騎士隊に所属する熟練の騎士で、名をフランセルという。若くして正騎士隊の指揮官に任ぜられ、これまでの戦いでは数々の功績を収めてきた有能な騎士である。


 いま一人は、生粋の王弟派として、そして由緒ある家柄として名高いアベラール侯爵家の嫡男ディルク。


 そして三人目は、フィデール・ブレーズ――名門ブレーズ公爵家の嫡男であり、ジェルヴェーズ王子の腹心である。宮殿で彼を知らぬ者はなかった。


 正騎士隊に所属する熟練騎士であるフランセルが、若い二人を打ち負かすのか。

 はたまた、敵対する派閥の代表格たる名門貴族の嫡男同士の一騎打ちとなるのか。

 緊迫した試合は、なおも続いていた。



 その様子を、様々な想いを秘めた深い紫色の瞳で見守る青年がいる。

 負傷して動くこともできぬ愛しい人を、ベルリオーズ家別邸に残してこなければならなかったリオネルである。


 リオネルは、自らの立場を自覚しているつもりだった。

 ベルリオーズ家の嫡男として、王家の血を引く者として、貴族らの集いに参加し、己の立場にふさわしい振る舞いをしなければならない。

 だからこそ、ここに戻った。


 けれど、寝台に伏せるアベルのことを思えば、心から落ち着いてなどいられない。


 最後に目にしたときは薬が効いて眠っていたが、半日たった今、容体に変わりはないだろうか。痛みや苦しみが彼女を捕らえていないだろうか。

 安らかに眠っていることを、願ってやまない。


 ――そばにいたい。


 叶うなら今すぐ馬に飛び乗り、アベルのもとへ駆けていきたいのに、現実がそれを許さない。


 やるせない想いでいるリオネルの目前では、正騎士隊、国王派、そして王弟派という三者をそれぞれ代表するような騎士たちの勝負が繰り広げられていた。


「リオネル・ベルリオーズ、そなたはだれが勝つと思う?」


 声をかけられたとき、リオネルは、即座に相手に顔を向けることができなかった。

 いったん己の感情を鎮めてからでしか、その声の主を見ることができなかったのだ。


「……殿下」


 一拍の間をおいてから、リオネルは丁寧に一礼した。

 傍らに立っていたのは、ジェルヴェーズである。


 もともと二人は近い場所にいた。

 けれど、これまで会話を交わしていなかったのは、酒を置く飾り机が二人を隔てていたことと、リオネルとジェルヴェーズ、それぞれの心のなかに、「しこり」だとか「わだかまり」と呼ぶにはあまりに深く激しい感情があったためだった。


「昨日は、昼前から姿が見えなかったが?」


 リオネルが答えを返すより先に、ジェルヴェーズが質問を重ねる。


「弓試合に参加できず、失礼いたしました」


 再び頭を下げたリオネルの顔には、表情らしき表情は浮かんでいない。

 その様子を、背後に控えたベルトランは気がかりげに見守っていた。


 ……リオネルの心中を、察することのできぬベルトランではない。

 愛しい少女を傷つけた相手が、目前にいるのだ。若い主人がどれほど努力して感情を殺しているのか、ベルトランには痛いほど理解できた。


「試合を欠席し、恋人とでも会っていたのか?」

「…………」

「それとも」


 視線を伏せたままのリオネルを、ジェルヴェーズは毒を含んだ眼差しで見据える。


「周りに知られては困ることでも企んでいたのか?」


 挑発的な言葉に、リオネルはわずかに表情を動かしたが、答える様は冷静だった。


「昨日は、『旅の疲れ』がでたため、我が館で休ませていただいておりました」


 ――旅の疲れ。

 それは、ジェルヴェーズが弟のレオンに対して行った残酷な仕打ちに対する、痛烈な皮肉だった。


 ジェルヴェーズの顔からあらゆる表情が消え、かわりに背筋の寒くなるような酷薄な色だけが広がった。けれど、即座に怒りを露わにすることはなく、あくまで普段どおりの口調でジェルヴェーズは言う。


「シュザンの従騎士だった者は皆、軟弱であるようだな。少しばかりの長旅で体調を崩すようでは、いざというときに使いものにならぬ。戦場で足手まといになるくらいなら、騎士の称号など捨てたほうがよいのではないか」

「以後、精進いたします」


 怒りを誘おうとするジェルヴェーズの扇動にも、リオネルは淡々と答える。


 ジェルヴェーズもまた、このリオネルとの会話においては短気を起こさずにいた。論戦でリオネルを追いこむことを狙っているようでさえある。


「それでこの試合、だれが勝つと思う? ディルク・アベラールという者も、そなたらと同じくシュザンの従騎士であったそうだが、やはり軟弱な騎士ということなら、勝者はフィデールかフランセルということになる」

「ディルク・アベラールの実力は、殿下ご自身の目でお確かめくださいませ」


 丁寧だが、突き放すようなリオネルの返答だった。

 ちょうど広間の中央で、ディルクが弓弦を引き絞ったところである。


「勝者を決めるのは、戦いと勝利の女神アドリアナ。――私が推測で申しあげるのは、おこがましきことです」


 室内の空気を一瞬にして裂くような高い音が響き、ディルクの射放った矢が、的の中央に命中した。


 自身の目で確かめよ、というリオネルの言葉が、ジェルヴェーズのなかで不快感を伴ってよみがえる。そのためか、次に発せられたジェルヴェーズの声は低く短かった。


「……謙虚なことだ」

「恐れ入ります」

「これから先も、臣下としてその謙虚な姿勢を忘れぬことだ」


 冷やかにジェルヴェーズは言ったが、実際には「これから先」というものがリオネルに用意されているとは考えていなかった。


 この場で、ベルリオーズ家の若き跡取りに用意されているのは、特別な筋書きである。

 その筋書きに、リオネルの未来は描かれていない。

 むろん、うまくいくかどうかは、リオネルが言及したとおり、勝利の神アドリアナだけが知っている。

 彼女の繊手が繰る、運命の歯車の回り方次第だ。


 王家の血を引く従兄弟同士のやりとりを、近くにいた人々は緊張しながら聞いていたが、ひとまず会話が途切れたので内心で胸を撫で下ろした。


 いかなる立場の者にとっても、この場でジェルヴェーズが感情に身をまかせ、リオネルを傷つけるような事態になることはけっして望ましくないのである。


 ジェルヴェーズ自身も、そのあたりのことは理解していた。

 どれほど憎くとも、自分がリオネル・ベルリオーズを傷つければ、収集のつかぬ事態に発展することはわかっている。それくらいの、最低限度の「分別」はジェルヴェーズにも備わっていた。



 天井にはめこまれた半透明の硝子から、外界の鈍い光が広間に差しこみ、競技風景をぼんやりと包んでいる。


 雲は薄くなりつつあるが、まだ太陽は姿を見せていない。

 春の陽光が暗灰色の雲を突き破ったなら、この部屋は白い光で満たされるだろう。


 フランセルが弓を構える。

 鋭い羽音――そして、的に当たる矢。


 いつまで続くともしれぬ戦いに、しかし、広間の中央に立つ騎士たちの顔に疲労の色は見えない。


 だれがはじめに的を外すか。

 単純だが、緊張感と集中力を強いる戦いだった。


 三人の競技者は、無言で矢を放ちつづける。




 フィデールが次に矢をつがえると、ディルクはそっと視線を伏せた。

 因縁のあるこの二人は、言葉どころか、互いに視線も交わさずにいる。


 ――本当は、どうでもよかったのでしょう? ブレーズ家の血を引く女が、どうなろうと。


 フィデールの存在は、否が応でも先日の言葉を、ディルクに思い起させた。

 けれどもディルクは、シャンティのことを――自分が犯した過去の罪を、今はできるかぎり考えぬようにしていた。


 ディルクの心の目は、まっすぐに的だけを見据えている。

 心が乱れれば、手元も狂う。


 力が及ばず負けるならばしかたがないが、実力を発揮できずに負けることは、己の矜持だけではなく、稽古をつけてくれたシュザンや、共に修業した友人らに対しても面目が立たぬことだった。


 今は、罪をあがなうときではない。

 だれにどれほど恨まれようとも、自分なりの方法で、現実と、そして過去と向きあうしかないのだ。


 フィデールが矢を的中させ、会場が低くどよめくと、それから再びディルクの番となる。


 しなやかな指のあいだに矢を挟み、つがえる。

 ゆっくりとした動きで弓を引き絞り、狙いを定めた。


 やじりも、ディルクの視線も、的の中心だけを向いている。

 引き絞る手から力を抜こうとした、そのとき――。


 集中力を瞬時にしてそぐような音が鼓膜をたたき、ディルクが動きを止める。


 背後から女の高い悲鳴が上がり、広い部屋に反響したのだ。

 会場は瞬時に沈黙した。


 ディルクが弓を下ろし、観客の集うほうを見やると、人々の視線はひとりの女中メイドに集まっていた。

 悲鳴はこの女中の口から発せられたのだろう。


 女中は、リオネルとジェルヴェーズのあいだに据えられた、飾り机のそばに立ちつくしている。

 けれどその周辺に変わった様子はなく、ひと目では、なにが起こっているのかはわからなかった。


 駆けつけた数人の兵士らに「何事だ」と厳しく問われた女中は、信じられぬ言葉を発した。


「と――とんでもないものを、見たのです」

「なにを見たのだ」

「ここにおられる騎士様が、今、ジェルヴェーズ王子殿下の杯になにか白い粉を入れるのを、この目で見ました」


 ――ここにいる騎士様。


 彼女が指差したのは、すらりとした長身の優美な若者――リオネル・ベルリオーズであった。


「くだらぬことを言うな。おまえはこの方がどなたか、わかっているのか。ベルリオーズ公爵家のお世継ぎでおられるぞ」


 兵士のひとりが声高に叱りつける。

 その瞬間、会場内にざわめきが広がった。兵士の声で、ここにいるすべての者が、今起こっている事態について知ることとなったからだ。


 ――リオネル・ベルリオーズが、ジェルヴェーズ王子の杯になにか・・・を入れた、と。


 リオネルはわずかに眉をひそめつつも、落ち着いた様子で女中を見据えている。


 だが、ベルトランはそうではなかった。なにが起こったのか瞬時に察した赤毛の騎士は、顔色を一変させる。


 ――これは、罠だ。







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