35
今、部屋にはマチアスとアベルしかいない。
リオネルとベルトランは王宮におり、ジェレミーは昨夜一晩リオネルと共に眠らずにアベルのそばにいたため、今は地上階にある一室で休んでいる。
エレンはイシャスの世話で忙しく、時折ドニが様子を見にくるくらいだった。
たまにどこかからか子供の笑い声や泣き声が聞こえてくるだけで、館内は静かである。
子供の声は、イシャスのものだろう。
『わたしには、子供がいます』
ラロシュ邸でヴィートにそう語るアベルの声を、マチアスは聞いた。
十五歳のアベルに子供がいるなど、信じられぬことだが……。
アベルの子供、それは、「弟」としてここに預けられているイシャスのことではないか。
状況から判断して、おそらくそうであるに違いない。
とすれば、父親はいったいだれなのか――。
これが、もっとも大きな疑問である。
イシャスがアベルの子だとすると、アベルが妊娠したのは、怖ろしいことだが、ディルクが婚約を破棄する以前の出来事ということになる。
シャンティ・デュノアは、ディルクという婚約者がいる身で、他の男と通じたのか。
もしくは――。
いまひとつの仮定のほうが、むしろ怖ろしかった。
どれほどの不幸が彼女を襲ったのかということを想像すれば、マチアスの胸は言葉にならぬほど締めつけられる。
貴族の令嬢として暮らしていたシャンティは、あるとき子を宿し、折り悪く婚約を破棄され、ひとりで領地を出てサン・オーヴァンへ辿りつき、そして、瀕死の状態でリオネルに救われた。
すべては、ディルクが婚約を破棄した、あの前後に起こった。
――二年前に、なにかが起こった。
だれも知りえぬ、なにかが。
マチアスは祈る。
どうか、この少女の心が、意識のない今だけは安らかであるように、と。
そのときだった。
包帯を巻かれた少女の手が、わずかに動く。
はっとしたマチアスの視界に、青空のような瞳の色が飛び込んできた。アベルが目を覚ましたのだ。
「アベル殿……」
澄んだ瞳が、マチアスを見つめる。
深い眠りに落ちていたアベルには、束の間、目の前にいるのがだれなのか判じることができなかった。けれど、その人が安心できる人だということだけはわかる。
自分がどこにいるのか、なにが起こったのか、必死に思い出そうとして、アベルはようやくその人の名を思い出した。
「マチアス、さん……?」
目覚めた相手を不安な気持ちにさせぬよう、マチアスは笑みをたたえてうなずく。
「どこか痛むところなどは、ありませんか?」
問われたアベルは、違和感を覚えて視線を周囲へさまよわせた。
部屋には、マチアス以外だれもいない。
遠くで子供の声がする。
窓の外には、灰色の空。外の明るさからすると、今は昼前くらいだろうか。
雨が、やんでいる。
いつ雨はやんだのだろう。
今日は、何日……?
リオネルは――。
記憶の底から悪魔の手が伸びてくるかのように、男たちの低い話し声が、アベルの脳裏によみがえる。
『それから女中が騒ぎ立てるのです、リオネル・ベルリオーズが殿下の杯に毒を入れたと』
『それで、どうするのですかな?』
『おそらくリオネル殿は否定するでしょう。そのときに殿下はこう答えるのです。――ならば、貴公が飲んでみよ。入れていないならば、ためらう必要はない。毒を入れていないことを今この場で証明し、自らの潔白を晴らせ、と』
『それはおもしろい』
――飲まなければ、自らの罪を認めるということになり、飲めば、殿下の暗殺を企てた謀反人として死んでいくだけでございます……。
突然、心臓が激しく跳ね、アベルは寝台から起きあがろうと身体を動かす。
だがこの状態で起き上がれるはずがない。痛みに打たれてアベルは身体を縮めた。
驚いたマチアスが、即座にアベルの身体を寝台に戻す。
「貴女の身体は、まだ動けるような状態でありません。安静になさっていてください」
「リオネル様は――」
未だ去りきらぬ苦痛に耐えながら、アベルは切迫した様子で尋ねた。
「リオネル様はどちらに」
――リオネルが危ない。
息苦しいほどに、アベルの鼓動は早鐘を打っている。
「今朝方、宮殿に赴かれました」
相手の様子から、マチアスはなにか差し迫ったものを感じとるが、それがなにかはわからない。
「五月祭は?」
「明日です」
つまり今日は、五月祭の前日。
「――――」
マチアスの回答を耳にして、アベルは再び起きあがろうとした。
けれど今度はあらかじめマチアスにやんわりと肩を押さえられており、動くことは叶わなかった。
「無理に動けば、命にかかわります。どうか安静に」
「なぜ」
アベルの声は焦りと動揺に揺れている。
「なぜリオネル様は王宮へ? そこは危険だと、行かぬようにと、お伝えしたはずなのに……!」
「どなたが伝えたのでしょう?」
「ジェレミー……」
「ジェレミーは、なにも」
アベルの顔中に驚愕の色が広がった。
煙突掃除の少年の様子を思い浮かべて、マチアスは理解した。彼はアベルからリオネルへの伝言を託されていたものの、アベルの命を救うことに必死で、伝えることを完全に失念していたのだ。
「マチアスさん……!」
マチアスを見上げるアベルの瞳には、焦りの色と共に、透明な涙の膜がかかっていた。マチアスは息を呑む。
「リオネル様が危険です、あの方を助けてください」
押さえつける手を離したら、アベルは即座に起き出し、自らリオネルのもとへ飛んでいきそうな勢いだった。
「事情を聞かせてください」
相手を落ち着かせるために、マチアスは華奢なアベルの肩を押さえていた手から、あえて力を抜く。拘束を解くことで、アベルの緊張状態を和らげようとしたのだ。
寝台のうえで一呼吸置いたアベルは、逸る気持ちを必死に抑えながら、煙突で耳にした、リオネルを陥れる卑劣な奸計について語りはじめた。
ジェルヴェーズの杯に仕掛けられた毒。リオネルは犯人に仕立て上げられ、このままでは、潔白を証明するために杯を干して命を落とすか、謀反人として投獄されるか、どちらかの運命を辿ることになってしまう、と。
けれど、すべてを聞き終えたマチアスは冷静だった。
……否、アベルを不安にさせぬように、彼女のまえでは冷静を装った。
「わかりました。私が必ずリオネル様をお助けします」
その瞬間、これまで瞳にかかっていた涙の膜が、一粒の雫となってアベルの頬に落ちる。安堵の一滴だった。
マチアスの返事を聞いた少女の表情から、苦悩の色が少しずつ去っていく。アベルにとり、リオネルの存在がどれほどのものなのか、マチアスはあらためて思い知る。
ほっとすると同時に、胸のどこかが疼くような気持ちでマチアスはその涙を見た。
「貴女はなにも心配なさらずに、ここで身体を休めていてください」
これ以上自分にできることはないと悟ったアベルは、マチアスを見つめたままうなずく。
マチアスが引き受けてくれるのであれば、これ以上頼もしいことはなかった。
今、リオネルを助けることができるのは、この人ただひとりしかいない。
「リオネル様をお願いします」
思いのすべてを託し、アベルは祈るように言った。
切ないほど必死な懇願に打たれたマチアスは、
「命に代えてもお守りします」
と約束し、アベルのもとから離れる。
部屋を出てすぐ、マチアスは扉に向かって一礼した。
扉の向こうにいる少女に――主人の妻となるはずであった令嬢に、頭を下げたのだ。
マチアスは信頼できる人物にアベルの部屋の警備を託し、王宮へ向けて馬を疾駆させた。
部屋に残されたアベルは、天井を見上げながら、途端に重い眩暈に似た眠気に襲われ、瞳を閉じる。
眠気を感じたのは、ドニがアベルに飲ませた薬のなかに、安眠作用のあるものが含まれていたためである。
眠りたくなかった。
リオネルが危機に瀕しているのに、こんなところで寝てなどいられない。
非力な自分が目覚めていたところで、状況は一切変わらないことをアベルは知っていたが、それでも眠るのはいやだった。
もしリオネルの身に万が一のことがあれば、自分はどうしたらよいのか――。
目覚めていれば、状況次第で自分にもなにかできることがあるかもしれない。
リオネルが無事にここへ戻ってきたときには、少しでも早く彼の姿を確認したい。
拳を握ってみたり、唇を噛んでみたりするが、けれど、思考を溶かしていくような重たい眠気には勝つことができなかった。
沈んでいく意識。
そのなかで瞼に浮かぶのは、最後に記憶しているリオネルの深い紫色の瞳。
耳に蘇るのは、リオネルの声。
低く、優しく、心地よい声……。
どうにもならないほどの焦燥感が、アベルのなかで、切なさへと変わっていく。
――どうか、神様。
アベルは祈った。
――どうか、あの人を……。
そして、意識は途切れる。
+++
「まさか――」
宮殿の一室からあがったのは、驚きと喜びが混ざりあった声だった。
「ディルク、本当なのか?」
少年の青灰色の瞳は、いつもに増して明るく輝いている。
「本当だよ。煙突掃除の少年は生きている……もっとも、煙突掃除は本業じゃないけどね」
このように答えるディルクは、どこか晴れぬ様子でありながらも、喜ぶカミーユの姿を笑顔で眺めていた。
今朝早くに宮殿に到着したリオネルから、これまでの経緯をすべて聞いたディルクは、「煙突掃除の少年」ことアベルを無事に保護することができたことを、カミーユに伝えにきていたのだ。
一秒でも早くカミーユの喜ぶ顔を見たくて、弓試合の休憩時間の合間をぬい、彼の部屋を訪問した。
「あの煙突掃除の子が、リオネル様の家臣だったなんて!」
思いも寄らなかった事実に、カミーユは驚きを隠しきれぬ様子である。
「アベルって名前なのか。そういえば、リオネル様がその人のことを話していたよね。まっすぐで、一生懸命だから『怖い』って」
「そうだね。その人のことだ」
「生きていたんだ――本当に、本当によかった。彼が生きていてどんなに嬉しいか、ディルクにはわかるか?」
曇りのない視線を向けられて、ディルクはほほえむ。
「わかるよ」
「会えるかな? ディルク」
「へ?」
「おれ、その人に会って話がしたいんだ。お礼とか、お詫びとか、いろいろ伝えたいことがある」
わずかに表情を曇らせ、ディルクは沈黙した。
直接会って礼を伝えたいカミーユの気持ちはわかる。
……けれどそれは叶わないかもしれない。
その理由を説明するためには、アベルの状態をカミーユに告げなければならなかった。
先程からディルクの心が晴れないのは、他でもない、アベルの身に起こった痛ましい出来事のためである。大切な仲間であるアベルが怪我を負い、絶対に安静にしておらねばならぬほどの状態であると聞き、ディルクの気持ちは沈んだ。
「すぐに会えるかどうかはわからない」
この返答と、先程からのディルクの様子から、カミーユがアベルの状態を察しないわけがなかった。
「……ひどい状態なのか?」
「リオネルが発見するのがあと少し遅ければ、取り返しがつかないことになっていたかもしれない」
できることならカミーユの耳には入れたくないことだった。優しく責任感の強い少年である。深く傷つき、自らを責めるだろう。
けれどアベルに会えぬ理由を説明するためには、どうしても告げねばならないことだった。
「安静を必要とする状況のようだ。今はマチアスがそばについている」
アベルの容体をディルクから聞いたカミーユは、衝撃を隠せない様子だった。
「全部、おれのせいだ」
カミーユは顔を歪めて、うつむく。どれほどの自責の念が、彼を苦しめていることだろう。
深く、暗い場所に心を沈めていく少年に、ディルクはやんわりと声をかけた。
「おまえを助けたのは、アベルの意思だよ。おまえがクラリスを助けようとしたのと、同じようにね」
「…………」
「大丈夫。アベルのことは、リオネルが必ず守るから。すぐに元気になるよ」
この言葉は、むろんカミーユを励ますためでもあったが、半ば本音でもあった。
幼馴染みながら、リオネルほど頼りになる男を、ディルクは他に知らない。
聡明で優れた剣士であるというだけではなく、リオネルに任せれば、不思議とすべてがうまくいくような気がする。そのように思わせるなにかが、リオネルにはあった。
ちなみに、マチアスも頼りになる男ではあるが、ディルクにとっては「小うるさい目付け役」という印象のほうが強かった。
そのマチアスは今、アベルのそばにいる。
リオネルからは、マチアスを長いこと借りてすまないと謝罪されたが、このことについてディルクはなんの異論もなかった。
親友の家臣であるアベルは、ディルクにとっても大切な存在である。自分の従者が少しでも役に立つのであれば、それは歓迎すべきことだった。
「会えないなら、せめて」
椅子に浅く座っていたカミーユが、腰を浮かせた。
「せめて、手紙を渡すことはできないかな? どうしても伝えたい言葉があるんだ。おれが手紙を書いたら、ディルクやリオネル様からアベルに渡してもらうことはできないかな?」
必死のカミーユの訴えに、ディルクは微笑する。
彼のひたむきな気持ちが、いかにもカミーユらしくて、ほほえましかったからだ。と同時に、もしアベルがカミーユと同じ立場であったら、まったく同様のことを言うような気がした。
「もちろん渡せるよ。まだ次の試合までに時間があるから、書いたらいい。ここで待ってるよ」
目を輝かせて礼を述べたカミーユは、すぐさま書物机に向かった。
扉の脇に控えていたトゥーサンが、小さく溜息をつく。それは、カミーユが本来の元気を取り戻したことに対する、安堵の溜息だった。
ボドワンの家へ確認しにいったときには死んだと伝えられた煙突掃除の少年が、実際には一命をとりとめていたと聞き、トゥーサン自身もほっとしている。
けれど、わずかばかり複雑な感情もあった。
それは、ディルクのことである。
彼はシャンティとの婚約を一方的に破棄した憎い相手ではあるが、その存在はカミーユにとってはなくてはならないものだと、近頃トゥーサンは痛感していた。
皮肉なものだ。婚約を破棄された時点で、ディルクはカミーユの兄にはなりえぬ存在となったというのに、姉の死によって、カミーユは再びディルクを兄たる存在として得たのだから。
カミーユが手紙を書いているあいだ、ディルクとトゥーサンはひと言も話さず、沈黙していた。
ディルク自身も、トゥーサンが抱く複雑な感情には気づいている。
互いに話すことはなにもなかった。
羽根ペンが紙をこする乾いた音だけが、部屋を支配している。
不意に、窓の外の景色が、音もなく明るくなる。雲が薄くなってきたのだ。
それと同時に、室内にも弱い光が入りこむ。五月祭の当日には、春の陽光を見ることができるだろうか。
夜中のうちに止んだ雨は、まだ庭園の土や草木を濡らしている。
結局、手紙は、試合の時間までに書き終わらなかった。
沈んでいた景色が色彩を取り戻すまで、もうしばらくの沈黙が必要なようだった。