34
純白のシーツのうえには、少女がひとり、横たわっている。
波打つ金色の髪。熱で紅潮する頬以外は、雪のように白い肌。
けれど、手には包帯が巻かれている。
顔にも痛々しい痕。
寝台に駆け寄り膝をついたリオネルが、雛鳥をすくい上げるかのようにそっとアベルの手をとる。
その瞬間、荒い呼吸を繰りかえしていた少女の顔から、苦痛の色が薄れていく。
呼吸が、これまでより穏やかになる。まるで癒しの魔法をかけたようだった。
けれど「魔法」をかけた本人は、けっして穏やかな心持ちではなかった。
……愛しい相手が、目のまえにいる。
離れていたあいだ、会いたくて、会いたくて、切なくて苦しくて、どうしようもないほど求めてやまなかった人。
けれど、現実は残酷だ。
このような姿のアベルに再会したいわけでは、けっしてなかった。
目のまえにいる少女は、傷つき果てている。
少しでも触れる手に力を入れたら、命を落とすのではないかと思われるほど、その姿は弱々しい。そんなアベルを目前にして、リオネルは言葉にならぬ激情に呑まれる。
激情にのまれ、平静さを失ってしまいそうな気がして、リオネルは固く双眸を閉じた。
その背後で、アベルの手をリオネルが握るその光景を目にし、ジェレミーはなぜだが気持ちがざわついていた。
なぜなのかは、わからない。
けれど二人のあいだには、特別なものがあるように感じられた。
それに、アベルの美しさといったら――。
これが本当に自分の知る「イシャス」なのだろうか。
今、寝台に横たわる人は、まるでお伽話に登場する妖精のようである。
これまで濃い茶色だった髪は、霧のように消えてしまいそうな淡い金色だ。肌がこれほど白いなんて、汚れた格好をしていたときにはまったく気がつかなかった。
アベルが「姫」なら、彼女の手を握るリオネルは「王子」のよう。
不思議な疎外感を覚えたジェレミーの胸に、ちくりと痛みが走った。
「リオネル様」
エレンが椅子を勧めたが、床に膝をつくリオネルはそれを謝絶し、このまま診察の結果を報告するようドニに促す。
ありのままの診察結果を告げねばならぬドニは、重い口調で主人に告げた。
「痛ましい状態です。骨の一部や身体の内にも軽い損傷があるでしょう。通常の食事ができるようになるまで、時間がかかるかもしれません。また、手当てを受けず雨に晒されていたため、衰弱の程度は著しく、軽い肺炎を起こしています。手足の擦り傷は炎症を起こしているので、そこから雑菌が繁殖せぬよう頻繁に消毒する必要があります。とにもかくにも、安静にしていなければならない状態です」
ドニの言葉を聞き終わると、双眸を閉ざしたまま、リオネルはアベルの手に己の額を寄せた。
――なぜ、こんなことに。
だれよりも大切で、愛しくて、なにに代えても守り抜きたいと願う少女が、なぜ……なぜこのような状態になってしまったのだろう。
リオネルは自分を殴りつけたいような気持ちになった。
守りたいと願いながら、自分は非力だ。
彼女がひとりで苦しんでいるあいだ、なにも知らずに呑気に食事をし、友人と話していた自分が恨めしく、憎くさえあった。
けれど、憎いのは己自身だけではない。
ドニの口からアベルの状態を聞き、どうして従兄弟のジェルヴェーズへの怒りを抑えることができるだろう。
ジェルヴェーズは、アベルがリオネルの家臣だと知ってこのような仕打ちをしたわけではない。煙突掃除の少年の正体を、彼が知る術はなかったのだから。
だが、たとえそうだとしても、リオネルのなかでは消化しきれぬ感情が沸き上がった。
実際に目にしたわけではないのに、ジェルヴェーズがアベルを蹴りつける光景が鮮明に瞼に浮かび、ひりひりと胸を苛む。
――収めねば。
感情に流されては、最悪の結果を生むだけだ。
リオネルは己の感情に耐えた。愛しい人の手の温もりを感じることだけに、すべての神経を集中させながら。
「肺炎の程度はまだ軽く、うまく身体をかばったのでしょう、骨のひびもわずかな程度であるようです。このまま安静にしていれば回復していくはずです」
主人を励まそうとするようにドニが言う。そのとき、ベルトランの隣から、小さくすすり泣く声が聞こえた。
「ジェレミー」
突然の涙に、ベルトランは何事かと彼を見下ろす。
「おれのせいです。おれが、放っておいたからです。助けようと思えば、もっと早くに助けることができたのに、おれは親方から罰を受けることが怖くて」
ジェレミーは涙と鼻水を、煤で真っ黒になった服の袖で拭いた。
「もっと早く助けていれば、アベルはこんなふうにはならなかったんだ」
泣きじゃくるジェレミーの肩に、マチアスはそっと手をおく。
「大丈夫ですよ。だれも貴方を責めてなどいません」
「でも、おれはイシャスを見殺しにしようとした。これまでの仲間も全員、見捨ててきたんだ。みんな死んじゃった。イシャスも死んじゃうかもしれない。みんな、みんな、おれのせいで――おれが弱いから」
これまで小さな肩に背負ってきた罪の意識が、ジェレミーに重くのしかかる。その重さに、本当はいつだって押しつぶされそうだった。
見捨ててきた多くの友を思い出すたびに、罪悪感で頭がおかしくなりそうだった。それでも、新たな仲間を得ることで、救われてきたのだ。彼らを助け、笑顔にすることで、罪を赦されるような気がした。
生き抜きたかったから。
生きて、生きて、生き抜こうと思っていた。
けれどこんなふうにして生き延びても、心の奥底に巣食う闇は深まるばかりだった。
だれが赦しても、本当は、自分で自分を赦していない。己の罪の重さは、他でもない自分がだれよりも知っている。
「イシャスが死んじゃったら、おれ、どうしよう――。おれにもっと勇気があれば、イシャスを助けることができたのに」
少年の言葉に、エレンは思わず涙がこみあげ、目元をぬぐった。
けれど、己を責めたてるジェレミーに、だれも励ます言葉を探すことができない。
そのとき、寝台の脇に膝をついていたリオネルが、アベルの手を離して立ちあがった。
ベルトラン、マチアス、そしてエレンとドニの視線が、リオネルへ集まる。
リオネルはジェレミーのもとへ歩み寄ると、無言で少年の真黒な手をとり、寝台まで連れていく。
それから少年を寝台のすぐ脇に立たせると、彼の手のなかにアベルの手を握らせた。
「この手を、どう思う?」
リオネルが静かに尋ねる。
どう思う、と問われてジェレミーは戸惑った。
包帯の隙間から見えるアベルの肌は、ジェレミーの見たことのない色だった。
「……白くて、細くて、綺麗な手です」
自分の汚れた手で触れてもよいのかどうか、ためらわれるほどに。
「そうだね」
答えるリオネルの声は、穏やかだった。
「この手は、きみが勇気をだして救った人の、手だよ」
「っ、でも――」
「アベルの危機を私に知らせたのは、他のだれでもなく、ジェレミーきみだ」
「…………」
「たしかにこれまでに仲間を見捨ててきたかもしれない。けれど、これまでのことがあったからこそ、きみはアベルを救えたんだ。それが今のきみだよ」
アベルの手をしっかりと握りしめたまま、ジェレミーはつぶやいた。
「今の、おれ……」
「そうだ。優しい心と強い意志を持った、今のジェレミーだ」
うつむいたジェレミーの瞳から、気がつけば先程とは違う種類の涙が溢れている。
「生まれつき強くて、勇気のある人なんていない。仲間を見捨てたことを悔いる気持ちを持てるきみは、強くなれる力を持っている。これからは、そう考えて生きてみないか」
大切そうにアベルの手を握りながら、ジェレミーは泣いた。
澄んだ涙が、ジェレミーの頬についた煤を洗い流していく。
その下に現れたのは、少年らしい柔らかな肌色。長いこと過酷な労働を強いられ、兄弟と慕う仲間を見殺しにせねばならぬ状況にあった少年は、このときはじめて十二歳という年にふさわしい涙を流したのだ。
「……イシャ……アベルが回復するまで、そばにいてもいいですか?」
「もちろんだ」
迷いのないリオネルの返事に、再びジェレミーは涙をこらえることができなくなる。エレンは声をだしてもらい泣きしていた。
「……ありがとう、ございます」
泣きながら、どうにかジェレミーは礼を述べた。
雨はやまないが、この部屋は暖かかい。
いつか雨が止み、春の花が歌を取りもどしたら、死んだ仲間のために墓を立て、花を手向けようとジェレミーは心のなかで思った。
どこがいいだろうか。
サン・オーヴァンからほど近い、丘のうえがいいだろうか。
春になれば、ひなげしの花咲き乱れる、美しい丘のうえ……。
ジェレミーを落ち着かせることができたリオネルは、そっと視線をベルトランへ向ける。
けれどその瞳にあるのは、先程までの穏やかな色ではなく、激しい感情だった。
――アベルをこのような目に遭わせたジェルヴェーズに対する、鎮めることのできぬ感情。
ベルトランは無言でリオネルの瞳を見返した。彼の思いも、リオネルと同様である。
かわいい従騎士を痛めつけられたのだ。赦せないことだった。
けれど、激しい怒りを感じながらも、二人は冷静な判断力を失っていなかった。
怒りに身を任せても有益な結果は生まれぬことを、彼らは知っている。それを知っている者だけが、互いの行動を抑制しあうことができるのだ。
暗黙のうちに確認しあうと、再びリオネルは拳を強く握った。
窓の外で雨脚が弱まっていく。その音を感じながら、リオネルは自身のうちにある様々な感情に向きあわねばならなかった。
+
アベルの意識は、リオネルがそばにいるあいだに、戻ることはなかった。
五月祭を翌日に控えた、この日。
朝早く、リオネルはベルトランと共に宮殿へ発った。
国王に正式に招待された身で、公然たる理由なく宮殿から姿を消すわけにはいかない。
本来ならばリオネルはもっと早くに宮殿に戻らなければならなかったのだが、それでも翌朝までベルリオーズ家別邸に留まったのは、せめて一晩だけでもアベルのそばにいたいと願ったからである。
後ろ髪を引かれる思いで、リオネルはアベルのもとを去った。
寝台に伏せるアベルを残し、宮殿に赴かねばならぬリオネルの気持ちは、周囲の者からしても察するに余りある。かようなリオネルのためにも、アベルのそばについて彼女を守ると誓ったのは、マチアスだった。
むろん、マチアスの本来の役目は主人を守ることである。そのため、リオネルはマチアスに託すことに気兼ねしたが、彼は快く仕事を引き受けた。彼自身、アベルのことが心配だったというのも、引き受けた理由のひとつである。
マチアスは、宮殿にひとり残してきた主人のことをさほど心配していなかった。
あの奔放な主人は、従騎士時代にも従者なしで自由にやっていたのだ。今更、心配してもはじまらないというのが、マチアスの考えである。
事実、周囲にいるだれよりも、マチアスは多くの事実に気がついていた。
アベルがカミーユを救った本当の理由――それはおそらく、彼女にとりカミーユは実の弟であるから。
主人であるリオネルを案じ、煙突掃除夫になりすまして宮殿にいたアベルは、カミーユがジェルヴェーズ王子に殺されかけているところを目撃してしまった。かばったのは咄嗟の判断だろう。
そして、これほどの傷を負った。
やわらかい寝台に、羽根のようにそっと横たわる少女。
彼女は今、安らかな顔をしている。解熱薬と鎮痛薬が効きいているのだろう。
あどけない寝顔だった。
こうして、リオネルの去ったこの部屋で彼女の寝顔を見守っていると、今回の事件とは離れたところで、マチアスの胸にこみあげてくるものがある。
それは、主人と婚約を交わしていた令嬢に対する親しみであり、主人であるディルクが婚約破棄したことに対する、謝罪の気持ちだった。
――自分はこの人に仕えるはずだった。
マチアスのなかでこの思いは、アベルの素性について確信を得るごとに、次第に大きくなっていた。
常ならば家臣とは、主人の伴侶に対し、主人に対して抱く忠誠心に準じた思いを抱くものだ。自分がこの少女にそれを抱いていたはずだと思うと、マチアスはアベルを守りたいと願わずにはおれなくなる。
さらに、今は単なる従騎士という立場に過ぎないアベルだが、気がつけばマチアス自身にとっても、彼女は仲間としてなくてはならぬ存在になっていた。
これまで健気なまでにリオネルに仕えるアベルの姿を間近で見てきて、マチアスは胸を打たれてきた。
過去になにがあったのかはわからない。けれど彼女が抱えているものは、想像を絶するものに違いない。
だからこそ、この少女の力になりたい。
そんなふうに、マチアスは思っていた。