33
王宮から西へわずかに離れた場所に位置する、ベルリオーズ家別邸。
普段は粛然として静かな館が、にわかに騒がしくなった。宮殿に滞在しているはずの主が、突然、帰館したためである。
それも、腕にはひどく汚れた身なりの少年を抱えて。
――それはまるで、二年前の出来事が再現されたかのようだった。
二年前の冬、凍えるような雪の日。リオネルは同じように、ひとりの少年を連れて戻った。
あのときも、今日も、その「少年」はアベルである。
けれど今、あのときよりもリオネルは蒼白な顔をしている。それは、腕のなかの存在に対して抱く感情が、あのときから大きく変化しているためだろう。
リオネルの腕に抱かれた人物を目にしたエレンは、息を呑み、口元を押さえる。
「ア、アベル……!」
悲鳴にも近い声を上げて動揺したエレンだったが、切迫したリオネルの声で我に返る。
「エレン、話はあとだ。いっしょに来てくれ」
そうだ、今は自分がしっかりしなければ、とエレンは思い至った。
女性であることを隠すアベルの、身の回りのことをできるのは、真実を知る自分しかいない。
さらにリオネルは執事のジェルマンに、至急、医師のドニを呼ぶよう命じた。
雨に濡れたままの主人に、使用人らが身体を拭くための布を渡そうとするのにかまいもせず、リオネルは最上階への階段を登りはじめる。
けれどふと、リオネルは足を止めた。
視界の端に、よく見知った顔をみとめたからだ。
「マチアス?」
「主人の命で一足先にこちらへ参りました」
進み出たマチアスが、一礼した。
「ディルクの?」
「細かい指示などは私がいたしますので、リオネル様とベルトラン殿は、どうぞアベル殿をお部屋へ」
リオネルは短く礼を述べ、階段を駆け上る。
そのあとをベルトランとエレン、そしてジェレミーが続いた。びしょ濡れの彼らが通りすぎたあとの絨毯には、黒い染みができていく。
主人らの後についてきたあの黒い少年はいったい何者だろうと館の者は首を傾げるが、ベルトランが彼の同行を認めているようだったので、だれも咎めることはなかった。危険な相手ならば、ベルトランが放置しているはずがない。
「湯と麻布、飲み水、それに空の盥と新しいシーツ、着替えの準備を」
階下に留まったマチアスは、ベルリオーズ家の使用人らにてきぱきと指示を与えていく。
「だれか調理場へ行き、食べやすくて栄養のあるスープを用意するよう伝えてください」
ベルリオーズ家別邸の使用人らは慌ただしく動きはじめる。
一方、館の者に不信がられていたジェレミーはというと、生まれてはじめて足を踏み入れる大貴族の豪邸に圧倒されながらも、必死でリオネルらを追いかけていた。
イシャスと信じていた少年は、ここではアベルと呼ばれている。
彼がベルリオーズ家や、リオネルとどのような関わりがあるのかわからない。そのうえ、自分のような者が、このような大邸宅に足を踏み入れてよいのかどうかも判断がつかなかったが、それでも、ジェレミーは傷を負ったアベルのそばについていたかった。
イシャス……いやアベルが死んでしまうのではないか。
その恐怖が、ジェレミーを絶え間なく苛む。
最上階の一室へ辿りつき、リオネルがアベルを寝台に横たえたとき、ジェレミーは部屋から出るように言われ、ひどく不安な気持ちになった。
「お願いです、そばにいさせてください。おれのせいでこんな目に遭わせてしまったんです。役に立たないかもしれないけど、できることならなんでもします」
必死で懇願したが、ベルトランは「だめだ」の一点張りだった。
ジェレミーは泣きだしそうな表情でうつむき、唇を噛む。ここまできて、アベルのそばから離される理由が見つからないからだ。
困ったようにベルトランは頭をかいた。
そんな二人の様子に気がついたリオネルは、アベルの上着の留め具を外しはじめたエレンになにか告げてから、ジェレミーのもとへ歩み寄る。
そして、うつむいたままの少年に、なるべく穏やかに話しかけた。
「アベルのことを心配する気持ちはよくわかる。おれも同じ気持ちだ。けれど、きみも、ベルトランも、そして私も一旦ここを出なければならない」
顔を上げたジェレミーの瞳には、涙がたまっていた。
「どうしてですか? おれはそばにいたいんです」
少年を納得させる言葉をリオネルが探そうとしたとき、医者のドニが息を切らして扉口へ現れ、リオネルに頭を下げた。
「遅くなりまして申しわけございません」
リオネルは「ちょっとすまない」と短くジェレミーに断ってから、ドニのもとへ行き、なにやら二言三言会話を交わす。ドニが再びリオネルに頭を下げて寝台へ向かうと、リオネルはジェレミーのもとへ戻ってきた。
「とりあえず、出よう」
促され、ジェレミーは哀しげな表情で部屋を出る。彼と共に、リオネルやベルトランも退室した。
扉が固く閉ざされると、ジェレミーはリオネルからひとつの問いを投げかけられた。
「絶対に秘密にすると約束できるか?」
強い光をたたえたリオネルの双眸が、見極めるようにジェレミーの瞳の奥を見つめる。
「イシャスを助けるためなら、なんでもできます」
相手の瞳の強さに気圧されそうになりながらも、しっかりと両目を開いてジェレミーは答えた。
束の間ためらうように黙したリオネルを、ベルトランがちらと見やる。リオネルがなにを少年に打ち明けようとしているのか、ベルトランにはわかっていたからだ。
「そうか。ではきみを信じるよ」
ベルトランの視線に気づきながらも、リオネルはジェレミーを見据え、告げた。
「まずひとつ言っておかなければならないことは――これは皆が知っていることだが――、あの子の名はイシャスではなく、アベルだ」
「アベル……」
それはジェレミーも先程から気づいていることだった。
「そしてアベルは、十五歳の――女性だ」
ジェレミーが数回まばたきをする。
それから言葉の意味をようやく理解して、数歩あとずさりした。
「じょっ……女性……!」
「それが、私たちが部屋から出ていかなければならない理由だ」
「……う、嘘……だろう?」
なにかを必死に思い出そうとしながら、ジェレミーは自分に問いかけるようにつぶやく。
記憶にあるアベルの姿や発言を振り返り、なぜか彼女が女性であることを否定しようとした。けれど、記憶のなかのアベルは、徐々に女性として納得できる姿へと変わっていく。
細い身体、鈴の鳴るような声、女性的な顔立ち、上品な物腰……。
「彼女が女性であることは、秘密にしなければならないことなんだ。彼女のまえでも事実を知ったことを告げず、これまでどおりに振る舞ってほしい」
「ほ……本当に、女の人なんですか?」
「そう見えないか?」
尋ねるリオネルは、かすかに微笑している。
「……言われてみれば、そう見えます」
うろたえるように答えたジェレミーに、リオネルは無言でうなずいた。
アベルは、とても女性らしい。
少年だと言われればそう見えるのだろうが、アベルはどのようなときにも十五歳の可憐な少女にしか、リオネルの目には映っていなかった。
「どうしておれに教えてくれたんですか?」
優美な貴族の青年を、ジェレミーは戸惑いながら見上げる。
「告げなければ、きみはアベルのそばにいると言ってきかなかっただろう?」
そう指摘され、ジェレミーは自分がいかに我儘なことを主張したかということに気がつき、顔を赤らめた。
「ごめんなさい……勝手なことを言って」
「アベルを心配してくれていたんだね」
これまで張りつめていたリオネルの空気が、ようやくこのときわずかにやわらぐ。
想像を絶する事態に直面したが、それでも、あの悲惨な場所からアベルを救い出し、ベルリオーズ家別邸へ連れ帰ることができたことは、不幸中の幸いだった。
あのまま放置されていたら、間違いなくアベルの命はなかっただろう。
「きみのおかげで、アベルの窮地を知ることができた。感謝している」
リオネルは心からジェレミーにそう告げる。
けれど、感謝されたはずのジェレミーの表情は暗かった。
ドニがアベルを診察しているあいだ、リオネル、ベルトラン、そしてジェレミーは扉の外で待っていた。
途中から仕事を終えたマチアスが加わり、アベルの安否を案じる四人は、無言で廊下の壁にもたれかかり、雨の音を幻聴のように聞いていた。
ただじっと待っていなければならないというのは、多大な忍耐を必要とすることである。
けれど、待つ以外に、彼らにできることはなかった。
診察が始まってしばらくたってから、不意にリオネルが口を開いた。
「――なにがあったか、教えてくれないか?」
低い声でジェレミーに問う。
小さくしゃがみこんでいたジェレミーは、少し考えこむような面持ちになってから顔を上げ、逆に質問を返す。
「おれが知っていることはすべて話します。でも、そのまえに聞いてもいいですか?」
視線をひたとジェレミーに向けたまま、リオネルは「かまわない」と答えた。
「イシャ……アベルは、どういう人なのでしょうか」
質問の意味するところを判じかね、リオネルが軽く首を傾げると、ジェレミーは言葉を補った。
「その、立場というか、貴方との関係というか――」
ジェレミーがこのような質問をしたのは、アベルとベルリオーズ家との関わりがわからなかったからというだけではない。アベルが単なる煙突掃除の少年ではないということは、ジェレミーも気づきはじめていたが、ベルリオーズ家嫡男であるリオネルがアベルに接する様子に、深い愛情があるように感じられたのである。
「アベルは、ここにいるベルトラン・ルブローの従騎士だ。二年前にサン・オーヴァンの街で出会ってからおれの臣下となり、幼い弟と共にベルリオーズ家に身を置くことになった」
「ベルリオーズ家の、従騎士……」
そうだったのですか、と答えながらも、ジェレミーのなかに釈然としない気持ちが残ったのは、アベルとリオネルの関係がはっきりと見えてこなかったからである。アベルはどのような経緯でリオネルと知り合い、家臣になったのか。
なぜベルリオーズ家の嫡男が、アベルをこれほど気にかけているのか……。
けれど、そのようなことを詮索する立場にジェレミーはいない。ひとまず質問には答えてもらったので、今度はジェレミーが話す番だった。
「――アベルは一週間くらいまえに突然、ボドワン親方に連れてこられてきたんです。宮殿で煙突掃除ができる新人だって、親方が喜んでいました」
三人の若者は、黙ってジェレミーの話に耳を傾ける。
「『イシャス』という名で、自分は十二歳だと語っていました。翌日から宮殿で働きはじめて、イ……アベルはすごく真面目に働いて、なんの問題もありませんでした」
まだジェレミーは、「イシャス」だと思っていた人を「アベル」と呼ぶことに慣れぬようだった。
「でも何日か前から急に元気がなくなったんです。その次の日、宮殿を掃除している最中にアベルの姿が見えなくなってしまって。それで親方と探したんですが、ようやくアベルを見つけたときにはもう、なにが起こったのかまったくわからない状況でした」
三人の視線を受けて緊張しつつも、ジェレミーはゆっくりと頭のなかを整理しながら伝えようとする。
「アベルがいたのは、最上階の廊下です」
最上階の廊下――その言葉に、皆がかすかに反応した。
宮殿の最上階に立ち入れる者は、限られている。
「すでにアベルは床に倒れていました。とても高貴な人が近くにいて、その人が、何度もアベルを蹴っていました。容赦のない、ひどいやり方です。でもアベルは抵抗もせず、声も上げなくて……。どうしてそんな事態になったのかはわかりません。ただ、その場にいた若い貴族の男の人が、『この者は非礼を働いた。相応の罰を受けるだろう』と親方に話していました。その若い貴族は、おれより少し年上くらいの、気を失った男の子を抱えていて、近衛兵みたいな人が現れてその子を連れていきました」
ジェレミーが語るあいだ、声を発する者はひとりもなかった。
「アベルが少しも動かなくなると、蹴っていた人が、『このごみを捨てておけ。生かしておくな』と言って去っていきました。そのあとは、もう知っていることだと思います。ボドワン親方がアベルを家に連れて帰って、裏庭に放置しました」
固く瞳を閉じ、なにかに耐えるように話を聞いていたリオネルが、そのとき口を開く。
「とても高貴な人、というのは、だれのことだ」
アベルに暴行を加えた人物。
「…………」
その名を告げることを、ジェレミーはためらう。なぜなら、ベルリオーズ家の嫡男であるリオネルとその人物との関係を、ジェレミーは理解していたからだ。
「ジェルヴェーズ王子、ですね」
答えられぬジェレミーの代わりに声を発したのは、マチアスだった。
皆の視線を集めたマチアスが、ジェレミーに確認する。
「そうでしょう?」
「……はい」
答える声は、やや緊張していた。
ジェレミーが肯定した瞬間、リオネルがまとう空気が変化する。
「ジェルヴェーズ殿下……」
目を細め、その名をつぶやいたリオネルは、硬く拳を握りしめた。
「彼が、アベルを――」
言い知れぬほどの怒りが、リオネルの身体中の血を一滴残らず逆流させるようだった。
これまで宮殿で幾度も目にしたジェルヴェーズの姿は、はっきりと思い出せる。
彼は、精悍な身体つきの大人の男だ。そのジェルヴェーズが、あの華奢なアベルを蹴りつけた――その光景を想像すると眩暈さえ覚えた。
抑えきれぬ感情に距離を置くために、リオネルはあえて疑問を投げかける。
「マチアス、なぜジェルヴェーズ王子だとわかった?」
「私からも、リオネル様にお聞かせしたいお話がございます。これで、ジェレミーの話だけではわからなかったことが、明らかになるかと思います」
リオネルから了承を得て、マチアスは語りはじめた。彼の主人であるディルクが、カミーユから聞いた、狩りの日の出来事を。
カミーユは、王宮で知り合ったクラリスという婦人をジェルヴェーズから救おうとしたが、宮殿を抜け出す途中、狩りから戻ってきたジェルヴェーズとフィデールに見つかり、ジェルヴェーズの怒りを買って殺されかけた。
けれどそのとき、どこからか煙突掃除の少年が現れ、カミーユをかばった。
罪をかぶった煙突掃除の少年がジェルヴェーズから暴行を加えられるのを、カミーユは止めようとしたが、フィデールに失神させられてしまう。その後、意識が戻ったカミーユは煙突掃除の少年の安否が気になり、トゥーサンに彼を探しに行かせたが、少年は死んだと伝えられた……。
マチアスが語ったこの話で、すべての出来事が繋がったのである。
「アベルは、カミーユを助けたのか――」
そのせいでジェルヴェーズから暴行を受け、挙句の果てにはボドワン邸の庭に放置されることになった。
両手でリオネルは頭を抱える。
正義感と責任感が強いアベルらしい行動だ。
だが、それだけではなかったのだろうと、リオネルは思った。アベルがカミーユを救おうとしたのは、ディルクのためだったのではないか。
カミーユを大切に思うディルクのために。
「アベル――」
心の底からその名を呼ぶように、リオネルはかすれた声を発した。
自らの身を危険に晒しても人を助けようとする、まっすぐで、ひたむきな少女。
そのような心の持ち主だからこそ心惹かれる。……けれど今、リオネルは胸をかきむしられるような心地だった。
クラリスを救おうとしたカミーユの気持ちも察することができるし、カミーユを救おうとしたアベルの気持ちも理解できる。だれもがだれかのために行動したことが、このような残酷な結末に結びつくとは。
リオネルが沈黙すると、他の者もまた口を閉ざした。
重たい沈黙は、いつまでも続く。
だれにとっても、とてつもなく長く感じられる時間だった。
エレンが必要なものを受け取るために幾度も部屋を出入りし、そのたびに回廊で待つ四人は顔を上げたが、入室の許可が下りたのは結局、昼餉の時間もとうに過ぎたころだった。
「お入りになれます」
そう告げたエレンの顔には、疲労の色と共に涙の跡がある。アベルの世話やドニの手伝いをしながら、怪我の状態を目の当たりにし、涙をこらえることができなかったのだろう。
エレンに労いと感謝の言葉をかけて、リオネルが入室する。その後ろでわずかに躊躇を見せたジェレミーの背をベルトランが軽く押して促し、最後にマチアスが部屋へ入り、扉は閉ざされた。