32
宮殿の一室では、先程から気まずい沈黙が流れている。
部屋にいるのは、普段見慣れぬ組み合わせの男女。二人は肘掛椅子に座り、低い小卓を挟んで向かいあっている。
女のほうは緊張しており、男のほうは落ち着かない様子だ。
二人を隔てている小卓の上に、飲み物はない。このように貴族の男女が卓を囲めば、酒などを用意するのが常であるが、男のほうが「長居はしない」と断ったのだ。
クラリスの部屋である。
訪問者は、クラリスが夜伽を務めていた相手であるジェルヴェーズの弟、レオン王子だった。
彼の突然の来訪に、クラリスは驚いた。
三日前の事件以来、外出は禁止されていたし、だれもこの部屋を訪ねてはこないので、クラリスにとっては侍女以外で久しぶりに話す人間が、初対面のレオンとなったわけだ。
クラリスは、ジェルヴェーズの性格をよく理解している。そのため、弟のレオンに対しても警戒心を密かに抱きながら、けっしてそれを面には出さないように気をつけていた。機嫌を損ねたら、容赦のない暴力を振るわれるかもしれないと思ったからだ。
けれど当のレオンは、入室してしばらく経つがクラリスのほうへ顔も向けず、用件も切り出さない。
こうして先程から、気まずい沈黙が続いている。
レオンとて、自ら望んでここを訪れたわけではない。
兄の愛人になど、髪の毛一本ほどの興味もなかった。けれど、兄が好き勝手に振る舞っていることに関しては「申しわけなさ」のようなものも感じている。
だからこそ、なんとも話しづらいのだ。
「……悪いな、突然に」
「いいえ」
ようやく口を開いた相手に、クラリスは遠慮がちに首を横に振る。
すると、さらにレオンは、
「いつも兄がすまない」
と、言いにくそうに謝罪した。
まさか第二王子に、第一王子のことで謝られるとは、クラリスも想像していなかったので、思いがけぬ謝罪に戸惑い、なんと答えてよいか判断がつかない。
黙っているクラリスへ、レオンはついに用件を切り出した。
「おれがここへ来たのは、友人に頼まれたからだ」
友に頼まれたと聞いても、クラリスには思い当たる事由がなかった。
「レオン殿下のご友人、ですか?」
「友人とはディルク・アベラールという軽薄な男だが……まあ、そんなことはどうでもいい。そいつの婚約者だった女性というのが、カミーユ・デュノアの姉なのだ。この名を知っているだろう?」
「…………」
三日前の出来事を、クラリスは沈痛な表情で思い出す。
カミーユ・デュノア。
知らないはずがない。
青灰色の瞳の、純粋で、まっすぐな少年。
自分のせいで彼を危険な目に遭わせてしまったこと、そして煙突掃除の少年まで巻きこんでしまったこと――クラリスはそのことで自分を責め、己の軽率な行動を心から悔いていた。
ここを出たかったわけではなかった。
夢を――、もう一度、夢を見たかったのだ。
なにかを変えたかった。
変わりたかった。
あの少年に導かれて外へ出たら、なにかが変わるような気がした。夢の続きが見たかった。
けれどそのような浅はかな考えで、自分は多くの人を傷つけ、迷惑をかけた。
「カミーユ・デュノア様はご無事でしょうか?」
これまでだれにも聞くことができなかったことを、ここでクラリスはレオンに尋ねた。
「カミーユは無事だ。咎めも一切ない」
「よかった――」
瞳を閉じ、クラリスは胸を撫で下ろす。
ずっと案じていた。あの少年の処遇について。
レオンの口からカミーユの無事を聞き、どれほど安堵したことか。
けれどクラリスには、いまひとつ気にかかってしかたのないことがあった。
「煙突掃除の子は……」
クラリスとカミーユを救ってくれた、あの少年は――。
祈るように尋ねたクラリスだが、レオンの答えは残酷なものだった。
「残念なことだが、彼は亡くなったそうだ」
「――――」
クラリスは両手で顔を覆う。
……わかっていた。
わかっていたのだ。
彼が助からないだろうことを。
けれど、もしかしたら、もしかしたら神が慈悲を与えてくれるのではないかと思っていた。――思っていたかった。
うつむいたクラリスの白い指の隙間から、嗚咽と、透明な雫がこぼれ落ちる。
――だれかが泣いているところを見るのは、辛い。
そう言ったのは、カミーユ。
だからこそ彼は自分を救おうとしてくれたのに、今、クラリスは涙を止めることができなかった。
心のなかで赦しを請うたのは、はたしてだれに対してだったのか、クラリス自身にもわからない。
哀しげな泣き声と、窓を打つ雨の音だけが、静かな部屋に響く。
若い女性が目のまえで泣きはじめたので、レオンは焦るが、どうしたらよいかまったくわからない。自分の言い方がまずかっただろうかと、台詞を思い返してみるが、一度口にしてしまったことは今更どうにもならない。
ただ椅子に座っているだけというのも薄情な気がしたので、レオンは無言でハンカチを差し出してみたが、顔を覆って泣いているクラリスがそれに気づくはずもなく、レオンは所在無げにハンカチを下げた。
ディルクならこんなとき、うまく慰めることができるのだろうと、レオンは心のなかで「軽薄な」友人の顔を思い浮かべる。荷の重い仕事を依頼しておきながら、肝心なときにそばにおらぬディルクに、レオンは恨み事をぶつけたい気持ちになった。
「殿下の御前で、大変ご無礼を……」
自らのハンカチで目元をぬぐいながら、クラリスは謝罪する。
「……見苦しいところをお見せしたことを、お許しくださいませ」
「かまわない。泣きたいなら、おれのまえだからといって、無理に我慢することはない」
自分が泣かせてしまったかのようなバツの悪さから、レオンはややぶっきらぼうに言った。けれど彼の言葉には、相手に充分伝わるほどの、気遣いと思いやりがこめられている。
――優しい人なのかもしれないと、クラリスは思った。
ジェルヴェーズと共にいるときに感じる、肌がぴりぴりするような空気が、レオンからは感じられない。
態度や言葉は無愛想だが、兄のジェルヴェーズと違って人間らしい感覚を持った人なのかもしれないと感じた。
緊張が、徐々にほぐれていく。
レオンの言葉に甘え、最後に一筋流れた涙を隠さずに拭うと、クラリスは深く息を吐きだした。
「私に、カミーユ様や煙突掃除夫のことを教えてくださり、ありがとうございました」
クラリスが礼を述べて頭を下げると、レオンは隠さずに告げた。
「礼などいらない。そのためにここへ来たわけではないのだから」
首をかしげながら顔を上げたクラリスに、レオンはなぜだか少し気まずそうに説明する。
「貴女が平穏に過ごせているかどうか、カミーユが気にしているから様子を見てきてほしいと、ディルクに頼まれたのだ」
むろん、三日前の出来事についてはすべてディルクから聞いた。いかにも兄のジェルヴェーズらしい非道な振る舞いだと感じるとともに、レオンは煙突掃除の少年に深く同情した。
けれども、自分を救ってくれた「黒い少年」がレオン王太子の幽霊であると信じ込んでいるレオンなので、彼のなかで両者が繋がることはない。
「わたしは、本当に多くの方にご迷惑をおかけしているのですね……」
気にかけてもらったことを喜ぶというよりは、むしろいたたまれぬ様子でクラリスはうつむく。
「迷惑かどうかなど、相手が判断することだ。カミーユは貴女を救いたいのだろう。あいつは、姉を亡くしているからな。重なって見えるのかもしれない」
クラリスの脳裏に、カミーユの言葉が蘇った。
――姉さんを、思い出すからだ。
――おれのまえで涙なんて見せたことのなかった人だった。けれど、そのとき姉さんは泣いたんだ。おれはどうすることもできなくて――気がついたら、なにもかも取り返しがつかなくなってた。
あれは、姉が死んだという意味だったのだと、クラリスは思い至る。さらにもうひとつの事実に、はっとした。
「殿下は先程、ご友人の方はカミーユ様のお姉様とご婚約されていると――」
「昔の話だ。彼女はもう死んだ」
「…………」
クラリスは瞼を伏せる。
あの優しい少年に襲いかかった哀しい運命に、クラリスは心を痛めた。それと同時に、亡くなった婚約者の弟のために力を尽くすディルクという青年の優しさにも心打たれる。
……だれもが、心に傷を抱えているのだ。
「そこで、ひとつ貴女に尋ねたいのだが」
真剣な声音で問われ、クラリスは緊張感を取り戻す。
「はい」
「もし貴女が望んでいるのならば、おれから兄に頼んでみる。――自由にしてもらえるように、と」
クラリスは瞳を見開いた。
「貴女はここから出ることを望んでいるのだろう? なんというか……兄の興味は長続きしない。説得の余地はあるはずだ」
レオンは、クラリスが当然ここを出て兄の手から自由になりたいのだと思っていた。なぜなら、クラリスに好きな相手がいるということも聞き及んでいたからだ。
けれど予想に反し、クラリスは沈んだ表情のまま黙りこんでいた。
「なにか気にかかることでもあるのか?」
レオンが尋ねると、クラリスは首を横に振る。
「それなら、掛け合ってみるが」
「もういいのです、殿下」
「なぜだ? ここを出たいから、カミーユと共に抜け出そうとしたのだろう?」
問われてようやく、クラリスは視線をレオンへ向けた。
「ここを抜けだそうとしたのは、夢の続きを見たかったから――ただそれだけです」
「夢の続き?」
「……わたしは、フィデール様を愛しています」
さらりと告げられた言葉に、レオンは絶句する。
「カミーユ様の瞳の色に、フィデール様を重ね合わせ、あのお方がブレーズ領からわたしを連れだしてくださったときのことを、思い出したのです」
「…………」
「あのときわたしは、夢を見ました。フィデール様の手をとれば、どこか違う世界に行けると思ったのです。あの方と共にその世界を見たいと、わたしは思いました」
「フィデールとか?」
あの男のどこがよいのだろうと、内心でレオンは疑問を抱く。
たしかに家柄も顔立ちもよく、文武ともに傑出した才能の持ち主ではあるが、体内に流れている血は氷よりも冷たそうな男である。女性が惹かれる理由が、レオンにはいまいちわからない。
「けれど、辿りついたのはここでした」
「……好きでもない男の、夜の相手か」
「殿下の気分によっては夜だけではなく、朝でも……昼でも」
レオンはなにを答えてよいのかわからず、なんともいえぬ表情になった。
「知っていたのです、すべて最初から。それでもわたしは夢を見たのです――フィデール様と共に生きる夢を、見たかったのです」
女というものを、レオンは初めて少しばかり理解したような気がした。
惚れた男の導きで、他の男に与えられると知っていてもなお夢を抱き続けることができるとは。いや、幻想と知っていても、信じずにはおれなかったのかもしれない。
男に惚れた女が、かくも健気で哀しく、けれど強いものとは。
「わたしはここにおります。といっても、ジェルヴェーズ様のご寵愛をわたしはすでに失っておりますので、許されるかぎりということになりますが」
「夢の続きはもう諦めるのか?」
「……このような浅はかな考えから、カミーユ様を危険な目に遭わせ、罪のない人を犠牲にしてしまったことを、今、深く後悔し、反省しております」
レオンは溜息をつきながら、「そうか」と立ちあがった。
「カミーユはフィデールの従兄弟だ。瞳の色や面影が似ているのも、無理はない」
「――そうだったのですね」
立ちあがったレオンを見上げ、クラリスは切なげな表情でつぶやく。
「わたしが夢の続きを見たのは、そのためだったのですね」
「望むとおりにするといい。おまえの言葉は、ディルクやカミーユに伝えておく」
ならば、とクラリスは、部屋を去ろうとするレオンを呼びとめた。
「差し出がましい願いとは承知のうえですが――」
レオンは足を止め、クラリスを振り返る。
「カミーユ様へ、わたしからの感謝と謝罪の気持ちをお伝えくださらないでしょうか。もう二度とお会いすることはないでしょう。けれども、わたしはカミーユ様に出会えて幸福でした」
――鮮やかな夢の続きを、見させていただきました。
それから、亡くなった煙突掃除の子に、生涯かけても尽くし切れぬ弔いを……。
このように伝えてほしいと頭を下げるクラリスに、レオンは「わかった」と返事をして部屋を去っていった。
レオンが去った部屋には、再び静寂と孤独が訪れる。
クラリスはひとりだった。
そこには、ブレーズ領でひとりきりだったとき以上の、深い孤独があった。
宮殿にはこんなにも多くの人がいるというのに。
近くには、惚れた男がいるというのに。
だれも訪れることのなくなった籠の鳥は、さえずる歌も、呼吸することさえも忘れてしまいそうになる。
けれど、それでもかまわなかった。
これ以上、周囲の者に迷惑をかけるわけにはいかない。もう自分のせいでだれかを傷つけたくない。
最後に、クラリスは両手を組み合わせ、煙突掃除の少年へ詫びるとともに、彼の冥福を祈った。