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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
203/513

31






 宮殿からサン・オーヴァンの街へと続くゆるやかな坂道を、二頭の馬が駆けおりていく。


 またがる若者らの馬術は傑出しており、二騎ともシュザンに匹敵する速さだった。すれちがう者たちが、風が通りすぎたのかと思うほどに。


 先頭を駆ける馬にはリオネル、続く一頭にはベルトランとジェレミーが騎乗している。


 サン・オーヴァンまでは道を聞かずともわかるが、街に入ってからは、目的の場所までジェレミーに案内してもらわねばならない。


 華やかな街を馬で駆け抜ける二騎を、人々は驚きと感嘆を混ぜ合わせて見送る。

 目にも止まらぬ速さであるというのに、危なげなく人を避けていくのだから、たいしたものである。


「あれは、どこの騎士様だ?」

「さあ、この時期にはたくさんのご領主様が集まるからねぇ。良家の御曹司様には違いないだろうけど」

「正騎士隊の騎士様かもしれないぞ」


 話題の種と、ぬかるんだ地面に無数の馬蹄の跡を残して、二騎は街外れへと消えていく。



 繁華街を抜けた先、ジェレミーが案内したのは、リオネルやベルトランのような身分の者が足を踏み入れる場所ではなかった。


 労働者の住まう貧民街。

 薄汚い格好の男たちや、物乞い、退廃的な雰囲気と暗い雨の支配する通りに、毛並みのよい二頭の馬とその騎手はまるで場違いだった。


 けれど、リオネルとベルトランにそのようなことを気にする様子は微塵もなく、貧民街の奥へ、奥へと馬を駆けていく。

 そして辿りついたのは、木組みの家々が隙間なく立ち並ぶ一角。


 たまたま近くを通りかかった者は、このような場所に騎士が何用だろうと足を止める。


 道行く人の視線が集まるなか、颯爽と馬から降りたリオネルが、ジェレミーに教えられた家の扉を叩いた。

 リオネルの清潔な長靴には、舗装されておらぬ地面の泥が跳ねていた。


 しばらくして出てきたのは、二日酔いで頭の痛いボドワンの顰め面である。


「だれだ?」


 半分だけ開けた扉から無愛想に尋ねたボドワンは、相手の身なりを見て狼狽した。


「き、騎士様――」

「リオネル・ベルリオーズだ、入らせてもらう」


 承諾を得ずに半開きだった扉を強引に開け放ち、ボドワンの脇を抜け、リオネルは家のなかへ足を踏み入れる。


「リ……っ!」


 ボドワンは腰を抜かしそうになった。


「リオネル・ベルリオーズ……!」


 宮殿内だけではなく、サン・オーヴァンの街中でも話題となっている、先王の嫡子の血を引くベルリオーズ家嫡男リオネル。

 ボドワンには、なぜその人がここにいるのか理解ができない。なにが起こっているのか、夢でも見ているのではないだろうかとボドワンは頬をつねった。


 敬称をつけるのも忘れて相手の名を呼ぶボドワンを、ベルトランはひと睨みしてからリオネルのあとに続く。


 その傍らにはボドワンにとって見覚えのある少年。

 それはなんと、今朝、宮殿の煙突掃除に送りだしたはずのジェレミーではないか!


「ジェ、ジェレミー!」


 慌ただしい足音とボドワンの声を聞きつけたナタリーが、調理場の向こうから出てくる。


「なんの騒動だい! ついに役人が来たのかいっ」


 慌てるナタリーに、ボドワンはなにも説明しない。自分でも理解できぬ状況を説明できるはずがなかった。



 ジェレミーに案内されて裏庭へ出たリオネルは、指し示された場所へ視線を向けた瞬間、足からすべての血が抜けていくような感覚さえ覚えた。


 狭い庭。粗末な造りの柵の向こう。

 そこにアベルがいるという。


 弾かれたようにリオネルは走りだしていた。

 一歩近づくごとに、リオネルの鼓動は速まる。


 ――嘘だ。

 嘘であってくれ。

 そう願った。

 こんなところに、アベルがいるなど……。


 けれど、それは虚しい願いだった。柵の裏側に辿り着いたリオネルが目にしたものは。

 ――むごい姿で、力なく横たわる愛しいその人だった。


「ッ、アベル……!」


 アベルの名を呼ぶリオネルの声が、灰色の空に吸い込まれていく。

 駆け寄り、抱えあげたアベルの身体は、ぐったりとして熱い。


 最後に会ったときには傷ひとつない姿であったのが、今は口端が切れ、頬や額には痣、掌や甲の擦り傷が痛々しい。


 さらに、抱えなおした瞬間、意識のないアベルの喉から苦しげな声が上がった。衣服に隠れて見えぬところにひどい怪我を負っていることを、リオネルは知る。


「――アベルっ、アベル……」


 焦りとも、懇願ともつかぬ、かすれた声でリオネルはアベルを呼ぶ。


 呼吸はしている。

 けれど、ぐったりとしたアベルの様子は、リオネルを息が詰まるほどの不安にかきたてた。


 一瞬でもいいから自分をその瞳に映してほしい。切に願った、そのときだった。


 風が吹くように、そっと、アベルの瞳が開く。

 瞼の隙間からのぞいた、その澄んだ空色の瞳。

 リオネルの胸に、例えようのない感情がこみあげた。


「アベル……!」


 ――意識がある。


 今、アベルの瞳に自分の姿が映っているのだということに、リオネルは安堵する。

 けれど安堵と共に湧きあがる激しい感情は、アベルをこれほどまでに傷つけた存在がいることを、想像せずにはおれなかったからだ。


「リ……オ、ネル……さ、ま……」



 消え入りそうな声で、アベルはリオネルの名を口にした。

 なぜここに、この人がいるのか、アベルには理解できない。


 ただ、雨があたたかい。


 透明感のあるリオネルの香りが、アベルの意識を刺激する。

 魂が揺さぶられる。


 いつから自分は、この香りがこれほど好きになったのだろうと、アベルはぼんやりと思った。

 深い紫色の双眸が、アベルの瞳をのぞきこんでいる。


 朦朧とした意識のなかで、アベルはこの出来事すべてが幻なのではないかと思った。

 現実にしては、リオネルの瞳の色はあまりに美しく、あまりに優しく、そしてあまりに欲してやまぬものだった。


「……ゆ、め?」


 雨のなかで、幾度も繰り返し見た幻。


 それは、これまで手を伸ばしては消え、雨の冷たさを感じればまた現れ、そしてまばたきをする間に再び消えた。


 今、目のまえの光景をもっとしっかり確かめようとして、アベルは瞼に力を入れるが、瞳をこれ以上開けることができない。


「夢かと思ったのはおれのほうだ」


 アベルの手をしっかりと握って、リオネルは答えた。


「――けれど、夢じゃない。アベル、おれはここにいる」


 この状況だけでは、アベルの身にいったいぜんたいなにが起こったのか、リオネルには見当もつかない。だが、アベルの瞳に不安と苦痛が浮かんでいることだけは見てとれる。


「大丈夫だ。なにも心配しなくていい」


 優しく語りかけるリオネルの声が、熱に浮かされたアベルの耳に心地よく響いた。

 アベルの澄んだ水色の瞳から、涙が湧きあがり、雨に混じってこめかみを流れる。

 そして、瞳を閉じた。


 ――ああ、とアベルは思った。

 幻じゃない。

 ここに、リオネルがいる。

 ここにリオネルの鼓動がある。


 なぜ気づかなかったのだろう。

 どうしていつも、あとから気づくのだろう。


 ――自分はこれほどまでに、リオネルを待っていた。


 孤独で、心細くて、痛くて、苦しくて……不安でしかたなかった。 

 ここから自分を救いだせるのは、リオネルしかいない。そのことに気づいたとき、果てしない安堵に心は濡れ、動かすことのできなかった腕は無意識のうちに求める場所へ伸びていた。


 アベルの細い腕がリオネルの首にからまる。

 幼い子供が母親に抱きつくように、アベルはリオネルに身体を寄せていた。


 自分が安心できる場所はここしかないのだということを、アベルは知る。

 心のどこかで、この人が来てくれるのを待っていた。こんなにも自分は、リオネルに頼って生きている。


 どうしようもないほど、アベルはリオネルという人間に心を預けていた。


「――アベル」


 腕をからめ抱きついてきたアベルを、リオネルは優しく受け入れる。


 それと同時に、アベルの抱いていた痛みをリオネルは察した。というのも、これまでリオネルが一方的に抱きしめることはあっても、アベルから求めてきたことは一度もなかったからだ。


 求められていることに、リオネルの胸は熱くなった。

 腕をからませたまま、リオネルはアベルを抱き上げ、立ちあがる。


 いつのまにかアベルは、安心できる、あたたかい腕のなかで再び意識を手放していた。青年の逞しい腕に抱えられたアベルの細い身体は、眠ってしまった子供のようである。


「そ、そいつを、どうするので?」


 裏庭に現れたボドワンが、恐る恐る尋ねた。

 リオネルの冷ややかな瞳が、ボドワンを射る。


「この人を、このような姿にしたのは、おまえか」

「ちっ、違います! 誓って違います!」


 ボドワンの声の大きさに、庭の隅に立っていたジェレミーは思わず耳をふさぐ。


 犯人と勘違いされないために、ボドワンは必死だった。もし間違えられたら、即座に殺されかねない雰囲気だったからだ。


 相手が嘘を語っておらぬと察したリオネルが、低く言い放つ。


「ならば、連れて帰るだけだ」


 しかしそのとき、ボドワンが必死の体で抵抗をしめした。

 ――それはボドワンにとり、甚だ都合の悪い事態だったからである。


「つ、連れてってもらうのだけはご勘弁を! その子は、大罪を犯しました。生かしておかぬようにと言われております」

「だれに言われた」


 アベルを抱きかかえたまま、リオネルは鋭く問う。その声音には、抑えきれぬ怒りがにじんでいた。


「そ、それは、申しあげられません……。お許しくださいませっ」


 委縮したボドワンが、その場で両手両膝を地面について謝った。

 その姿を、リオネルは瞳を細めて見下ろす。


 ボドワンは、なにかをひどく怖れていた。

 それはおそらく、リオネルほどの地位にある者の怒りを買うよりも恐ろしいものなのだろう。だとすれば、アベルをこのような目に遭わせたのは、王家に連なる者か、国王派の権力者といったところか。


 怒りと悔しさに胸が焼き焦げるような感情を、リオネルは覚えた。


「ではその者に伝えろ。少年はリオネル・ベルリオーズが連れていったと。もしそのことに異議があるなら、いつでも私は剣を握る覚悟がある、と」

「えっ……あ、いえ……あのっ」


 あたふたするボドワンを尻目に、リオネルは歩き出す。

 するとボドワンは見た目から想像する以上の素早さで、リオネルの目前まで走り出て懇願した。


「お願いです、後生でございます。その者が生きているとなれば、私は殺されてしまいます。その子を連れて行かないでください」

「この子を死なせることで、自分は助かりたいか」

「イ、イシャスは、それだけの罪を犯したのでございます! この者のせいで、私は罰を下されるのです」


 あくまで己が身のために食い下がるボドワンに、リオネルは冷然と言い放った。


「だから年端もいかない子供を、このような場所に放置して殺そうと? ならば罰を受けるがいい。私から受ける罰よりは、軽いはずだ。それとも今ここでベルリオーズの法のもとに裁かれたいか――私の大切な者を殺めようとした罪で」


 青年のすごみに、ボドワンは返す言葉も見つからず、恐怖に固まっていた。


 リオネルの迫力に気圧されていたのはボドワンだけではない。ナタリーや、ジェレミーでさえも寒気を覚えて肩が震えたほどだ。

 ちなみにベルトランだけは、いつものどおりの風体でリオネルの周囲を警戒していた。


「おまえが傷ひとつ負わずにすんだのは、おまえが帯剣していなかったからだ。その幸運に感謝するといい。でなければ、あのような場所にこの子を放置したおまえたち全員をただではすまさなかった」


 リオネルはナタリーに対しても鋭く一瞥する。

 緊張と恐怖でナタリーは持っていた籠を、床に落とした。籠の中から、アベルやジェレミーが口にすることのなかった無数のパンがこぼれ落ちる。焼き立てなのだろうか、香ばしい匂いが虚しく漂った。


「私は、けっしておまえたちを、そしてアベルにこのような怪我を負わせた者を、赦さない」


 この言葉を最後に、リオネルはこのようなところに長居は無用といった様子で、戸口へ向かった。

 そのあとに続こうとしたベルトランが、ふとジェレミーを振り返る。


「おまえも来るか」


 はっとして、ジェレミーは瞳を輝かせた。


「いいんですか?」

「友達なんだろう?」


 ジェレミーの胸に、熱い感情がこみあげる。


「……はい!」


 大きな返事をして走り出すジェレミーに、ボドワンの怒号が投げかけられた。


「ジェレミー、なにを勝手なことを! おまえはここに残るんだ。だれがおまえを自由にすると言った」


 足を止めたジェレミーは、親方を振り返る。

 そこには、連日のように酒を食らい、煙突に入るべくもないほど太り、横柄な性格が顔にも表れたような中年の薄汚い男がいた。

 何年も自分を搾取しつづけた人間――たった銀貨一枚という対価で。


 ジェレミーはアベルから「預かった」革袋のなかから、銀貨ではなく銅貨一枚を取り出しナタリーの足元へ放り投げた。


「どんなに多めに考えたって、これで充分だろう? 残りのぶんは働いて返したはずだよ。ここでの生活は忘れない、一生ね」


 扉口で待っていてくれているベルトランのほうへ、ジェレミーは駆けだす。

 ボドワンもナタリーもなにも言えぬまま、その光景を見送った。


 扉が閉まる。


 嵐が去ったような静けさが、ボドワンの家のなかには降り落ちた。だが本当の嵐はこれからだということを、ボドワン夫妻は知っている……。




 一方、扉の外では野次馬の人だかりのなか、リオネルがアベルを抱えて馬に飛び乗るところだった。


 一刻も早くアベルを安全で快適な場所で寝かせてやりたい。

 適切な治療を施せば、以前のように元気になってくれるに違いないと、リオネルは信じるしかなかった。


 ベルトランの馬には、来たときと同様にジェレミーが相乗する。


 珍奇にして高貴な一行は、こうしてサン・オーヴァンの外れにある貧民街から姿を消した。







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