29
同じころ、宮殿内にある大礼拝堂では、カミーユの従兄弟であるフィデールが、神に祈るでもない風情で、飾り気のない長椅子に腰かけていた。
背もたれに寄りかかり、足を組み、考えに耽っているようである。
「おや、お久しぶりですね、フィデール様」
礼拝堂の二階へつながる螺旋階段から下りてきたのは、純白の衣服を身にまとった、糸杉のようにひょろりと背の高い男だった。
「ガイヤールか」
さして興味なさそうに、フィデールは彼の名を呼ぶ。
「お戻りになったことは聞き及んでおりましたが、朝夕の礼拝にもご出席くださらないので、なかなかお目にかかる機会がありませんでした」
礼拝に参加しないことを責めるような台詞ではあったが、ガイヤールの口調はむしろ愉しげだった。
そんなガイヤールを、皮肉めいた眼差しでフィデールは見やる。
「それで? お目にかかって、おもしろい話でもあるのか?」
「フィデール様は、お父上より一段と厳しくていらっしゃる」
軽く口角を上げてガイヤールが答えると、相手を無視してフィデールはすかさず付け加えた。
「それと、『戻った』という表現は正しくない。私が戻る場所はブレーズ領だ」
「それほど王宮はお気に召されませんか?」
「おまえの話し方のほうが気に入らないな」
フィデールの辛辣な物言いに、ガイヤールは気を害した様子もなく笑った。
「お変わりないですね」
「おまえも変わらない」
フィデールがノエルの従騎士として宮廷生活をはじめたころ、ガイヤールは大神官に任ぜられた。もともと地方の一神官であった彼が、聖職者の頂点にまで上りつめたのである。
そのころすでにガイヤールは、国王や国王派諸侯からの信頼が厚かったので、フィデールも彼と話す機会が度々あった。
つかみどころがなく得体の知れぬガイヤールを、フィデールは信用もしていなければ、好きでも嫌いでもなかった。
あえて表現するなら、嫌悪するにも値しない存在というべきだろう。
フィデール自身、シャルム王国における権力や支配になど興味はない。本来なら自領で政務に打ちこんでいるほうが性に合っている。
ガイヤールが求めているものに微塵も関心はないし、彼のことなど所詮どうでもよいというのがフィデールの本音だった。
「貴方を、ここへ呼び寄せたのは、私なのですよ。ご存知でしたか?」
「いつからおまえはそれほどの力を持つようになったんだ?」
表情を動かさずにフィデールが尋ねた。
むろん、ガイヤールにそのような力があるなどと本気で思ってはいない。いくら王族や諸侯に取り入っているからといって、フィデールほどの身分の者を動かす力がこの男にあるはずがないのだ。
「あなたがご不在の五年間で――とでも申しましょうか」
「父上の信頼を得たというわけか」
くだらなそうに言うフィデールに、ガイヤールは軽く首を横に振った。
「いいえ、信頼とは違うでしょう。ただ、私は人の心が少しばかりわかるのですよ……あなたのエフセイ殿ほどではありませんがね」
端正な顔立ちにひときわ冷ややかな色を浮かべて、フィデールはガイヤールを一瞥する。
「それで、私を宮殿に呼び寄せてどうするつもりだ?」
「愉しいでしょう? ブレーズ領にいるのとは、また違った愉しみがあるでしょう? 違いますか」
そう言うガイヤールの瞳には、普段とは違った種の感情が宿っているようである。
「おまえのほうが、よほど愉しそうだが」
一般的な感覚の持ち主からすればひどく気味悪く感じられるだろうガイヤールの様子にも、フィデールは平然として答えた。
「忌まわしいベルリオーズ家を陥れていくのは、貴方の最大の悦びではありませんか。その機会を提供してさしあげただけですよ」
「やけに恩着せがましい口ぶりだが、なにか望みでもあるのか?」
「おや、聞いてくださるのですか?」
「聞くのと、聞き入れるのとでは、意味合いが違う」
なるほどとうなずいてから、ガイヤールはゆっくりと言葉を発した。
「そうですね――。私の望みは貴方と同じですよ」
「…………」
真昼だというのに礼拝堂に注ぎ込む光はなく、あたりは暗い色に沈んでいる。
陰鬱な色彩に染まったステンドグラスを、今は、冷たい雨が濡らしていた。
「この場所は、本当に愉しい」
「いつか痛い目に遭わないことを、祈っておく」
「それはありがたいことです。けれど、不信心な貴方の祈りが神に届きますかどうか……」
「おまえの祈りよりは届くだろう」
声を出さずにガイヤールは笑った。
ステンドグラスを叩く雨音が、かすかに礼拝堂内に響いている。
フィデールは席を立った。
「もうお戻りですか? せっかく再会できたのに」
「それほど私と共にいたければ、神職などやめて俗世間へ出てくればいい。そのほうが性に合っているのではないか?」
「お褒めにあずかり――、そういえば、貴方の従兄弟殿が宮殿にいらしているようで」
突如、思い出したようにガイヤールが言う。
戸口へ向かう足を止め、青灰色の瞳を鋭くしてフィデールは振り返った。
「……昨日は、いろいろと大変だったようで」
「おまえには関係ないことだ」
フィデールの声は低い。
「貴方のような血の通っておらぬ方が、なんとも珍しい。よほど従兄弟殿が大切とお見受けいたしました」
なにか言おうとして、途中でフィデールはやめた。つまらぬことを口にすれば、この男に弱みを握られることになりかねない。
「どう捉えようとおまえの勝手だが、あまり俗界に首を突っ込みすぎると、いずれ身を滅ぼすことになるぞ」
ガイヤールは薄い笑みを顔に張り付けたまま、
「ご親切な忠告ありがとうございます。神に捧げるこの身を大切にすることといたします」
と、軽く頭を下げた。
あたたかみのない視線だけを返し、フィデールは大礼拝堂を去った。
+++
霧雨のなか、ひとりの少女が地面に膝をついていた。両手はしっかりと合わされている。
彼女の目前には、古い、小さなアドリアナの石像があった。
ラトゥイ最大の都市アルクイユ。
まだここは、王都サン・オーヴァンよりも雨脚が弱い。
少女の淡い色の睫毛も、髪も衣服も、砂糖よりも細かい雨の粒子をまとっていた。
「ミーシャ、そんなところでなにをしているんだい?」
背後から声をかけられ、ミーシャははっとして顔を上げる。
家の裏庭、ここはいつも祖母のタマラが祈りを捧げている場所である。
先程まで、椅子で編み物をしながらうたた寝をしていたはずのタマラが現れたので、ミーシャは驚いたのと同時に、きまりの悪さからすぐに顔を背けた。
なにをしていたのかといったら、むろん、祈っていたのだ。
アドリアナの像のまえで膝をついているのだから、祈りを捧げる以外になにがあるだろう。
……言い訳のしようもなかった。
だれに対して祈っていたかといえば、むろん、神である。
神など、信じていない。
しかし信じてなどおらぬ神に、なぜ祈っていたのか――それを問われたら、答えられない。だから、ミーシャは顔を背けたまま黙っていた。
「……旅の方のことかい」
重ねて尋ねられ、しかたなくミーシャは認めた。
「そうよ、おばあさま」
霧雨が、二人を優しく包んでいる。
「アベルさんの無事を……他に祈る場所も相手もなかったから、ここで祈っていただけ」
「そうかい」
静かにタマラは答えた。
「きっと神様は聞き届けてくださるよ」
「神様なんていないわ」
「でも、祈っていたじゃないか」
「言ったでしょう? 他に祈る場所がなかったからって」
「あんたには見えたんだろう、あの人の未来が。――それは神様のお導きさ」
「あのときだけよ。今考えれば、夢を見たか、ただの思い込みだったかもしれない」
「夢とは思えないから、こうして祈っていたんだろう?」
ついにミーシャは黙りこんだ。
タマラの言うとおりだった。
あのときミーシャが見えた景色――それは、黒い土のうえで冷たい雨に打たれている、弱り果てたアベルの姿だった。
だれも助けにこない。
打ち捨てられた人形のように、ただアベルはそこに倒れている。残酷な風景だ。
――だれか、あの人を助けて。
アベルが無事であるように、ミーシャは雨のなか祈っていた。雨が降り出したことが、ミーシャを居ても立ってもいられなくさせたのだ。
「神様はいない、絶対にいないわ。いるならどうして罪もない人が苦しんだり、死んだりするの? 悪党のような人が、贅沢な暮しをして天寿をまっとうできるのはなぜ? それでもいるというなら、神様なんて怠惰で不公平な存在に違いないわ。いないほうがましよ」
「そんなことを言うもんじゃないよ、ミーシャ。罰が下るよ」
「罰なんてこわくないわ。怠惰な神様が、そんなものを下せるわけがないもの」
「ミーシャ――」
「聞きたくない、これ以上」
祖母の声を遮り、ミーシャは耳をふさいだ。
口論なんてしたくなかったのに。
ただ、アベルのことが心配でどうしようもなかったら、祈っていただけなのに。
「ミーシャ、聞いておくれ」
「いやよ」
これ以上話しても、議論は平行線をたどるだけだということを、ミーシャは知っていた。
神が本当にいるなら、仲良く暮らしていた二人のあいだに喧嘩の原因を作ったことを、この場に現れて謝罪してほしいくらいだった。
「……いやかい」
「いや」
「そうか、それじゃあ、話さないでおくよ」
ようやくミーシャは耳をふさいでいた手を放す。ずっとタマラの声は聞こえてはいたが、「聞かぬ」という態度を明確にするために耳をふさいでいたのだ。
けれど耳を解放した瞬間、タマラは再び口を開いた。
「これだけは聞いておくれ」
「卑怯じゃないの? おばあさまは、話さないでおくと言ったはずだわ」
「ひとつだけだよ」
不服そうに、だがミーシャは「なに」と小さい声で問う。
霧雨は裏庭の木々の葉を、幹を、咲きかけの花の蕾を、青くなりはじめた芝を、その合間に見え隠れする黒い土を、湿らせている。
触れても感じられぬほどの、優しい雨だった。
「すべてのことに意味があるのだということさ」
「どういう意味?」
「この世の中に、意味のないものなんてひとつもないんだ」
「……よくわからないわ」
「そのうちわかるよ」
「そのうちっていつ?」
「苦しみや哀しみの果てに、なにかが見えたときだよ」
雨が上がれば、蕾は開き、蝶が舞い、緑は青さを増すだろう。生を受けた喜びを、全身で表現するかのように。
暗く厳しい冬を乗り越えたからこそ、彼らには春に奏でる歌がある。
苦しみや哀しみの果てに、なにかが見えたとき……。
祖母の言葉を頭のなかで繰り返してから、
「よくわからないわ」
と、ミーシャはつぶやいた。
タマラは小さく笑う。
「さあ、小雨でも冷える。もうなかへ入ろう」
無言でミーシャは裏口へと向かった。
けれど、扉を開けて家のなかへ入る直前、ふと裏庭を振り返り、そしてアドリアナの小さな石像を見た。
――すべてのことに意味がある。
その言葉の意味を理解すれば、神を信じられる日がくるのだろうか。
王都にいるだろう友人のことを想う。
祈る相手のないミーシャは、そのまま瞼を伏せて家に入っていった。
+++
その日も雨は一日中降り続いた。
皆が寝静まった夜。
ジェレミーは布団のなかで、ポケットに入っているものを握りしめていた。
その手には、小さな優しさと大きな恐怖のつまったひとかけらのパンが、握られている。
このパンを見つけさえしなければ、ジェレミーが迷うことはなかったかもしれない。
パンだけではない。
もう片方のポケットには、干し肉も入っている。
昼間、仕事のために赴いた宮殿内で、晩餐の準備をしている調理場近くをたまたま通りかかり、咄嗟にパンと干し肉をくすねたのだ。
パンや肉は、ジェレミーにとって滅多に食べられぬ馳走だった。
最後にこれらを食べたのがいつだったか、ジェレミーは覚えていない。普段の食事は麦粥だけか、運がよければそれにくわえて野菜や、ささやかな果物が食べられる程度だ。
だが、ジェレミーがパンと干し肉をくすねたのは、自分のためではなかった。
調理台の上に転がっているひとかけらのパンと干し肉を見たとき、思い浮かんだのは裏庭に放置されている友人のことだった。
気がつけば、パンと肉を盗んでいた。
だれにも気づかれず手に入れることができたはよいものの、けれどジェレミーはこのパンと肉のせいで、ひどく混乱することになった。
なにしろ、アベルを助けたい気持ちはあっても、助けにいったことが知れれば自分も「墓場」行きになる。
これまでだって、幾人もの仲間を見捨ててきたのだ。今更なぜ迷うことがあるのだ、とジェレミーは自分を納得させようとする。
――助けにいかなくてもいいのだ、と。
生きぬかなければ、なんにもならないではないか、と。
命の危険を犯してまで助けに行く必要なんてない。そう言い聞かせていた。
だが、ポケットのパンと肉は、ジェレミーの葛藤よりずっと正直だった。
これを見たときに、「助けたい」と思ったジェレミーの気持ちを、なによりも明白に現しているのだ。
ジェレミーは、アベルを助けたかった。
優しい水色を、思い出す。
いつも煙突を上りきったあと、屋根の上から見るあの空の色。
――アベルは、あんな澄んだ色の瞳をしていた。
ジェレミーの瞼の奥が熱くなる。
すると、どこからともなく、いつかの会話が聞こえてきた。
『イシャス、さっきより黒くなったね! お化けみたいだ』
『あなたも、目と口しかない鴉の幽霊みたいです』
水色の空のもと、二人で笑った。
あのときいっしょに笑ったアベルは、もう隣にいない。アベルは今、冷たい雨に打たれている。
隣の布団でくるまりながらアベルが語ってくれた、ベルリオーズの街の風景。おいしいエシャロットスープとパンの味……。
『行ってみたいな。おれもここを飛び出して、エシャロットスープとパンを食べたい……きっと食べて見せるよ』
あのときアベルは、こう言ってくれたのだ。
――あなたならきっと、実現できると思います、と。
『そのときは、イシャスといっしょに食べれたらいいな』
『そのときは、苺の砂糖漬けも食べましょう』
ついにジェレミーが閉ざした瞳から、大粒の涙があふれだした。
「……イシャス……」
嗚咽のあいまに、その名を呟く。
そっとほほえむアベルの顔が瞼によみがえる。
――ジェレミーは、優しいんですね。
はじめて会ったとき、アベルはジェレミーにそう言った。
ジェレミーはあのとき、なぜ自分が「優しい」と言われたのかわからなかった。
優しくなんてない。
優しくなんてない、でも――。
布団を出て、ジェレミーは立ちあがった。
自分は優しくない。
強くもない。
それでも、今、やらなくてはならないことがある。
――強くも、優しくもない自分でも、できることがある。
ジェレミーは低い天井に空いた窓によじ登り、屋根から裏口のほうへと壁を伝って下りていった。
高い場所の上り下りは、ジェレミーにとっては得意中の得意である。毎日、煙突を登っていれば、他に登れないものなどない。
雨に濡れながら、裏庭へ下り立つ。
外の空気は冷たく、地面はひどくぬかるんでいた。ナタリーが庭の手入れなどしないので、芝も、石畳も、砂利さえも敷かれていないからだ。
貧民街の外れにあるここらの家の裏庭は、さほど広くない。雨と暗闇のなかでも、おおよその感覚はつかめる。
庭の奥へとジェレミーは歩んだ。
「墓場」は、細い木の枝を縄で繋ぎあわせて造られた柵の向こうにある。
ジェレミーは緊張と恐怖に押しつぶされそうになりながらも、柵へと辿りつき、そこへ足を踏み入れた。
暗い地面に、かすかな気配がある。
闇のなか、ジェレミーは手探りでアベルを探した。
そして手ごたえを感じたとき、突如としてジェレミーを不安が襲った。
――もしかしたら、もう死んでしまっているのではないのか。
なぜ今まで自分が、この恐ろしい可能性について考え至らなかったのか、ジェレミーには不思議にさえ思えた。
どうしてもっと早く助けにいけなかったのだろうか――。
「イシャス……イシャス……!」
ジェレミーは、小声で、しかし焦慮にかられた声で相手の名を呼ぶ。
「……イシャス、おれだよ、ジェレミーだよ。お願い、返事をして。食べ物を持ってきたんだ、イシャス」
返事はなかった。
ジェレミーの胸に、言葉にならぬ衝撃が走る。
それは重い金槌で心臓を叩きつぶされたようだった。
叫び声をあげそうになったそのとき、雨の音とは違ったものが、たしかにジェレミーの耳を打つ。
「え?」
横たわる人の口元に、ジェレミーは耳を近づけた。
「イシャス? イシャス、生きているの?」
「……ジェ、レミー」
かすれた声が、返事をした。
「イシャス!」
思わずジェレミーは、地面に横たわるアベルに抱きついていた。