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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第三部 ~五月祭は、春の歌と花冠をきみに~
200/513

28





 冷たい雨が、アベルの頬を打つ。


 寒い。

 どうしようもなく寒かった。


 なぜこんなに寒いのか、アベルはなにかを求めるように手を伸ばそうとして、けれど動かすことができたのは指の先だけだった。


 ジェルヴェーズに蹴られた身体の痛みは、感じない。

 ただ、信じられぬほど寒かった。


 雨の一粒一粒を、肌に感じる。一粒一粒が、冷たい氷のようだ。

 それは容赦なくアベルの体温を奪っていく。


 カミーユを思い出し、それから、リオネルを思い出した。

 大切な人たちだ。

 大切な人を、守りたい。


 ――ああ、自分にはまだやらねばならないことがある。


 アベルはそのことを思い出した。


 ――リオネル様。


 無実のリオネルを、陥れようとする陰謀。

 首謀者のうちのひとりは、先程自分を痛めつけたジェルヴェーズ王子に他ならない。

 なんとしてでも阻止しなければ。


 伝えなければならないという気持ちが沸き立ち、身体に力を入れる。けれど痛みを感じて、その場でアベルは身をよじった。


 身体を動かそうとすると、途端に身体が悲鳴を上げるのだ。

 荒い息を吐きながら、アベルは力を抜く。


 動けない。

 こんなときに、動けない。


 痛みに顔を歪めたまま、アベルは空を見上げる。

 雨が目に入り込み、沁みた。それでもアベルは空を見上げる。


 下から見る雨は、空から広がるように落ちてくる。

 その光景に、淡い夢を見る。


 別れて、どれくらい経つだろうか。こんな場所にいるはずないのに、ふと、彼がそばにいるような気がする。


 深い紫色の瞳をこちらに向け、そっと笑っていてくれている。

 いや、本当は少し怒っているのかもしれない。


 ――周りのことも大切だが、もっと自分の命を大切にしてくれ。きみは自分のことを軽く考えすぎているのではないか。


 こんなふうに、真剣な口調で言いながら。


 この言葉を投げかれられたのは、いつのことだったろう。そう遠くない昔だ。


 整った顔に、心配と優しさを織り交ぜた色を浮かべて、こちらを見つめている。


 雨の音がうるさいと思った。

 もっと彼の声を聞きたい。

 この声を聞いていたい。


 ――たとえ、きみにどのような力もなく、なんの技能や資格も持ちあわせず、この世の一切の役にたたず、この世のだれにも認められなくとも――それでも、きみはおれのそばにいていいのだということだ。……いや、いてほしいんだ。


 なんてあたたかい言葉だろう。


 このような言葉を、自分のような者にかけてくれた主人を、なぜ助けにいけないのか。

 身体が動きさえすれば――。


 己の非力さに打ちのめされながら、アベルはそっと幻聴に耳をすませていた。


 ――そう、アベルを案内したかったんだ。そして、いっしょに祝いたかった――この街に訪れた春を。


 この声だけが、アベルの心に希望の炎を灯す……。


 アベルのこめかみを流れた水滴は、やがて髪を伝い、地面に滲み、そっと瞳は閉じられた。







 十五歳の少女が冷たい雨に打たれている夜、王や貴族らの食卓には、その日の狩りで仕留めた獲物や馳走が並んでいた。


 宮殿では、連日のように盛大な晩餐会が開かれており、それは五月祭が終わるまで続く。

 宴の席では、普段は別室で食事をとる王族も、客人や諸侯と共に食卓を囲んだ。


 敵と味方、渦巻く陰謀と計略、秘められた恋心――様々な思惑や感情が入り乱れるなかで、表面的には何事もないかのように、すべてがつつがなく五月祭の当日に向けて進行しているように見えた。


 二日続けて行われるはずだった狩りは、雨が止むまでは延期となり、代わりに剣闘士による戦いや、貴族らによる弓試合が催されることとなった。


 未明まで「舞踏会の間」と大回廊には明々と燭台に火が灯され、煙突掃除の少年らが煤を払ったばかりの暖炉に火がくべられる。

 再び煙突に煤が詰まるまで、さほど時間はかからないだろう。



 リオネルは葡萄酒の杯を片手に小さく溜息をついた。


 杯が空けば、すかさず満たされる。

 酔ったわけではないが、もう飲みたくないと思った。


 堅苦しい貴族たちとの会話、敵意を含んだ国王派諸侯との危うい駆け引き、華やかな装いの貴婦人から向けられる熱っぽい視線、踊りの誘い、鳴りやまぬ音楽、煌びやかな会場の様相、飽き飽きするような馳走と酒の匂い――。


 ふと気を抜けば、そのすべてから逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。

 自分で考えているよりも、疲れているのかもしれない。


 ――会いたいと思う。


 大きな窓へ視線を向ける。

 会場のざわめきと弦楽器の音色で、窓硝子を叩く雨の音が聞こえない。


 外は寒いだろう。

 なぜだか今日は、アベルのことが頭から離れない。


 ――こんな夜は、あの子の笑顔に会いたい。


 心ここにあらずといった様子のリオネルを、ベルトランやディルクは気がかりげに、若い女性は媚びるように、そして心に刃を持った者たちは射るように見つめていた。







 雨は一晩中、降り続いた。


 翌朝のサン・オーヴァンの街。

 いつものように仕事に出る親方と少年の姿があった。


 けれど、いつもなら少年は二人いるはずなのに、この日はひとりだけである。

 いまひとりの者――アベルは冷たい雨に打たれ続け、ぬかるんだ土に身を横たえていた。


 一方ジェレミーは得体の知れぬ不安と恐怖、そして哀しみにからめとられたまま、アベルのもとを訪れることなく、ボドワン親方と共に宮殿の煙突掃除へと向かった。


 罰が下されるにしても、その内容が言い渡されるまでは、契約どおり働かねばならないからだ。

 そしてそれはボドワンにとって、失った信頼を挽回する唯一残された機会でもあった。






+++






 蜂蜜酒から湯気が立ち上り、少年の頬を湿らせる。

 その柔らかな感覚と甘い香りに少しほっとするが、真にカミーユの心が休まることはなかった。


 昨夜遅く、部屋を訪れたフィデールから「しばらくのあいだ、部屋で休むように」と告げられた。むろん、騒動を起こした責任は煙突掃除の少年がとったので、これは処罰などではない。

 部屋で頭を冷やしなさい――ということだろう。


 トゥーサンが運んでくれた蜂蜜酒を両手に持ちながら、カミーユは考えこんでいた。


 ――貴方は間違ったことをしていない。


 このように、トゥーサンは言ってくれた。

 けれど、はたしてそうだったのだろうか。

 自分は正しかったのだろうか。


 権力や暴虐に屈しない生き方など、所詮、不可能だったのだろうか。

 哀しむクラリスを、ここから救い出そうと思ったことは、間違いだったのだろうか。


 困ったり苦しんだりしている人を救うことは、勇気であり、正義であり、騎士の家に生まれた者の道だと思っていた。

 救えなかった姉のシャンティの代わりに、クラリスを救いたいと思った。


 けれどその結果が、罪のないひとりの少年の死だ。

 彼は、身を呈して自分を守ってくれた。

 理由はわからない。だが、それはたしかにカミーユの心を揺さぶった。


 人間が本来持っているはずの思いやりや寛容の心などではなく、「現実」という名の冷たい無関心と保身だけがはびこるこの王宮で、カミーユがはじめて垣間見た人間の美しさだった。


 どうしたら、犯してもない罪を語り、罰を受けることができるだろう。

 それだけの強さを、なぜ持てるのだろう。


 カミーユとてその強さを持とうとした。

 持とうとしたからこそ、クラリスを助け、ジェルヴェーズに屈しない態度を示した。

 けれど、その結果は惨憺さんたんたるものだった。


 クラリスは連れ戻され、煙突掃除の少年は、死んだ。

 非力な自分にはなにも守れない……。


 銀杯を握りしめる手に、力を入れた。


 そのとき、扉を遠慮がちに叩く音が響く。

 カミーユが顔を向けると、見慣れた従者と共に、今、だれよりも会いたいと願っていた人物が現れた。


「どうして?」


 忙しいはずなのに、なぜ彼がここにいるのか。


「どうしてって……」


 ディルクは困ったように頭をかいた。


「……おまえが落ちこんでるって聞いたから」


 扉の脇に立ったままのトゥーサンを、カミーユはちらと一瞥する。

 するとトゥーサンは深く頭を下げ、


「勝手なことをいたしたことを、お許しください。お咎めは後ほどお受けします」


 と言って部屋を辞した。


 シャンティとの婚約を一方的に破棄したディルクのことを、トゥーサンは快く思っていない。そのことにカミーユは気がついていた。トゥーサンはディルクを、どこかで憎んでいるようにさえ見える。


 それなのに彼は、ディルクを自分のもとへ連れてきてくれたのだ。


 己の感情はさておき、主人がこの青年を慕い尊敬していることをトゥーサンはよく理解しており、ふさぎこんでいるカミーユを元気づけることができるのはディルクしかいないと考えたのだろう。


 彼の気遣いに感謝はしても、咎めることなどなにもない。

 自分にとってトゥーサンは過ぎた従者だと、カミーユは思った。


 扉の前に立つディルクに向けて、カミーユは笑ってみせる。


「ごめん、忙しいのに、こんな場所に来てもらって」

「忙しくなんてないよ。頭の硬い連中といっしょにいるのに疲れていたところだからね、むしろ助かったよ」

「そうなの?」

「ああ、そうだよ。そのかわり、今頃リオネルがひとりで疲れているだろうね」


 他人事のようにうそぶく言葉のなかに、深い同情を織り交ぜてディルクは苦笑した。


「それなら、リオネル様のそばに行ってあげてよ」

「いや」


 話しながら、ディルクはカミーユの向かいの椅子に腰かける。


「あいつより、おまえのほうが疲れた顔をしてるからね」

「…………」

「昨日のことは、トゥ―サンから聞いた」


 カミーユは、銀杯の蜂蜜酒を見つめた。

 その金色の髪にディルクは手を置き、くしゃくしゃと撫でる。


 ひと晩泣き続けたのに、再びカミーユの目には涙がたまっていく。けれど、こぼれ落ちる手前で、雫は青灰色の瞳に留まり揺れていた。


 カミーユはあと数日で十四歳になる。

 そろそろ人前で泣くのは我慢したいところだった。


「おまえが無事でよかったよ」

「でも……っ」


 銀杯から視線を外し、カミーユはディルクを見据えた。


「でも、あの子は死んじゃったんだ。煙突掃除の子は、おれのせいで――」

「ああ」

「おれがあんなことしなければ、彼は死ぬことなかったんだ」

「そうすることを選んだのは、彼の意思だよ。自分を責めてしまう気持ちはわかるけど、彼はおまえを苦しめるために――そんなことのために、おまえを助けたわけではないはずだ」

「わからないんだ、ディルク。なにが正しいことなのか」


 ――なにが正しいことかわからない。

 それは、ディルク自身がかつて抱いた疑問と同様のものだった。


 シャンティとの婚約を破棄したとき、自分が正しいことをしたのかわからなかった。彼女をしがらみから解放してあげたかっただけなのに、結果は自分の望まないほうへと転がり落ちていった。

 そして、大切な人を死なせてしまった。


「クラリスをジェルヴェーズ王子の手から救いたかった。それなのに、結果的には他の、なんの罪もない人をジェルヴェーズ王子の暴虐のもとに死なせてしまったんだ――」


 自分はだれも救うことができなかった。


「ディルクに、『おまえは正しかった』とか、そういうことを言ってもらいたいわけじゃない。ただ、なにもわからなくて、どうしたらいいのか、これからどう振る舞っていけばいいのか、わからないんだ」


 カミーユが口にする苦しみに、ディルクは黙ってうなずき、そして静かに答えた。


「今は、自分の身を守ることだけ、おまえは考えていればいい」


 ディルクの言葉に対し、カミーユは顔を上げて強く反発する。


「そんなの……、そんなのおかしいよ。苦しんでる人を放っておくなんて。自分さえ無事であればいいなんて、そんなのへんだよ。それになにより……、頭でいくら理屈をこねたって、放っておくことなんてできないよ」

「わかるよ。それが本来、人間という生き物のあるべき姿だ。だけど自分の身を守りきれるようになるまでは、他人を助けることはできないものだ。今回の結果が、そうだろう? おまえはクラリスを助けようとして、彼女の身を危険にさらしたうえに、煙突掃除夫の少年まで死なせた」


 厳しい言葉だった。

 けれどそのなかに、ディルクの強さとカミーユへの想いがこめられている。


「守りたいものがあるなら、強くなれ」

「…………」

「強くなってはじめて、他人を守ることができるんだ」


 斜め向かいに座る青年の、柔らかい茶色の瞳をカミーユはじっと見つめていた。


 溺れて息ができず、夢中であがけばあがくほど沈んでいくようだった感覚が、今、すっと水面に顔を出したような気がした。

 呼吸が楽になり、肩から力が抜ける。


 それと同時に、別の想いがカミーユの身体中にみなぎる。


 強くなりたい。

 それは力や武術だけではないだろう。心も身体も真に強い者だけが、大切な者を守り抜くことができるのだ。


「強く……」

「そう、リオネルのようにね」


 え、とカミーユは意外そうな顔をする。


「ディルクは違うの?」

「さあどうだろう。おまえと同じように、さして強くもないのに、守りたいものがある種の人間かもしれないな。だから他人に迷惑をかけてばかりいる」


 ディルクは遠い目をする。


「友人や家臣に愛想をつかされる日も遠くはないかもな……寂しい人生だ」


 はじめ、ぽかんとしていたカミーユだが、ディルクの顔を見ているうちに、自然とかすかな笑みが広がっていった。

 つられてディルクも笑う。


「ディルクは、本当に優しいね」

「事実を語っただけだよ」

「ディルクに愛想を尽かす人がいたら、見てみたいよ」

「なんならマチアスを呼んでこようか?」


 すぐにはディルクが言ったことの意味がわからなかったが、それを理解したとき、カミーユは吹き出してしまった。つまりディルクは、マチアスが自分に愛想を尽かしていると暗に言ったのだ。


 少しばかり笑ってから、カミーユは眩しいものを見るようにディルクを見上げた。


「マチアスは、なにがあってもディルクのそばにいると思うよ」

「そうかなあ?」


 ディルクは苦い表情で、従者の渋面を思い浮かべる。

 そうしているうちに、カミーユはふと生真面目な表情に戻った。


「煙突掃除の子のことは、一生をかけて償うよ」

「償う?」

「外に出る許可がおりたら、彼を探しに行こうと思う。たとえ遺体でも、お墓でもかまわない。探して、ちゃんとおれの思いを伝えたいんだ。それから、彼の家族を探そうと思う。彼の家族に対して真摯に謝りたい――ディルクがそうしたように」


 むろん、「煙突掃除の少年」の家族のひとりが自分自身だということを、カミーユは知るよしもない。


「カミーユ……」

「姉さんのことで心から謝罪するディルクは、今から思えばさ、かっこよかったよ。おれも、そうありたい」


 うっかり目頭が熱くなるのは、自分も歳をとったせいだろうかと、ディルクは年寄くさく思う。まだ十八歳だが、雰囲気から察するより苦労の多い青年であることはたしかだった。


 ディルクの密かな感動に気づかぬカミーユは、もうひとつの気がかりを口にした。


「……クラリスは無事だろうか」

「気になるなら、レオンに頼んで調べてもらうよ」

「本当に?」

「ああ、なにかわかったらすぐに知らせるから」


 カミーユがうなずく。そして、


「ディルク、ありがとう」


 と言って顔をほころばせた。


 トゥーサンから聞いた昨日の一件は、耳を覆いたくなるほど痛ましい出来事であったが、それでも本来の笑顔をカミーユが取り戻せたことが、今、ディルクにとっては救いだった。


 もう一度カミーユの髪をくしゃくしゃにして、ディルクは安堵の笑みを浮かべた。






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