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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第一部 ~婚約破棄された伯爵令嬢は、男装して旅に出る~
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第二章 長く辛い冬のあとに咲く花 20



 鳥のさえずりが聞こえる。

 幾度も繰り返す夢と現実。


 どこまでが夢で、どこまでが現実なのか、その境界線は曖昧で。

 嵐の日からずっと長い夢を見ているような感覚は、強くなるばかりだ。

 いっそ全てが夢であったなら……目を開ければ、あの嵐の日のまえの、夏のデュノア邸での一日に戻っているような気さえした。

 カミーユが笑っている。大切な弟。

 そう、わたしは、以前、シャンティという名前だった。

 そう思って、アベルは目を開けた。


 ――ここは……?


 薄ぼんやりと、明るくなりつつある外の気配が、カーテンの隙間から感じられる。

 手足が重い。右腕に痛みを感じて、そこに手をやると、昨夜の出来事を思い出した。

 アベルの腕を剣の柄で叩いたのは、赤毛の若者。紫色の瞳の青年の手当てをしていたことも、はっきりと覚えている。

 それは確かな記憶だったが、雪のサン・オーヴァンの街で助けられてから、自分がおかれている状況が、にわかに信じ難かった。

 あの雪の日から、再び別の夢を見ているような気がした。

 あたりが明るくなり始めている。

 アベルは夢の正体をつきとめようと思った。

 寝台をそっと降りると、素足に絨毯が触れる。よろめきながら立ちあがり、カーテンを引くと、目前に広がる庭の景色に目を見張った。


 デュノア邸よりも広く見事な庭園。

 生垣で仕切られた花壇は迷路のように模様を描き、それが小さな池を中心に四つ集まっている。そんな花壇と池がいくつも並び、庭園の中心には、騎士と獅子の彫刻が立つ大きな池があった。

 花壇や池の合間には、歩道としての砂利道が、これもまた迷路のように入り組んで敷かれている。庭園の両脇は並木道になっていて、その向こうにも、遊歩道や、池や、木々が、見えた。雪が積もったその景色は、白一色で、眩しいほどに美しい。

 陽の光の下で見る室内も、細かい装飾や備品にいたるまで、質の良いものばかりである。


 アベルは熱のせいだけではない眩暈を覚えた。

 自分はいったいどこに連れてこられたのだろう。紫色の瞳の青年と、赤毛の若者は、何者なんだろう。たしか、青年はリオネル、若者はベルトランと名乗っていた。

 ここが、貴族の館であることは間違いない。

 王都にあるということは、領地をもたない貴族か、領主の貴族の別邸だろう。そのどちらにせよ、このような屋敷を王都で構えることができるなど、よほど高位の貴族であるとしか考えられない。


 アベルはぞっとした。

 伯爵邸を追い出され、貧しい流民になり果てたはずが、今度はとてつもなく高貴と思われる貴族の館にいるなんて。だれかが、アベルの人生を弄んでいるとしか思えない。

 また、身元が判明してしまう不安も抱いた。

「シャンティ」は死んだ。そのシャンティが、高位の貴族の館で姿を現したなどということになれば、世間ではどう騒がれるだろう。そうなればアベルの身に起こったことの全ては明るみになり、多くの貴族のあいだで恰好の風聞になる。最終的には、婚約者であったディルクの耳にも入るだろう。

 考えれば考えるほど、混乱した。


 あれこれ考えて気分が悪くなったところ、扉をたたく音が聞こえてくる。

 ためらいつつ返事をする。ゆっくり開いた扉からのぞいたのは、若い女の顔だった。


「起きていたの?」


 女中メイドらしき女は、少し困ったような顔をした。歳はアベルより十歳ほど上だろうか。


「立ちあがってはだめよ、病気なんだから。赤ちゃんもいるし、身体大切にしなきゃ」


 赤ちゃん、と言われて、アベルはぎくりとした。


「知っているんですか……?」

「ええ、元気に育っているみたいよ」

「…………」

「あなたの身体を拭いたのはわたしよ。それくらい医者じゃなくても分かるわ」


 アベルはうつむいて押し黙る。

 住む家も、頼る者もないアベルにとって、自分のことだけならいざしらず、子供まで育てていくことは、とてつもなく困難なことだ。さらには、見知らぬ男との間にできた子供を愛せる自信がアベルにはなかった。


「これ、服を持ってきたから、着替えるといいわ。あとでリオネル様とお話などするでしょうから」


 手渡されたのは、着たまま休めるような、簡素なドレスだった。アベルは無言でそれを眺めた。


「うまく動けないでしょうから、手伝うわ」

「いえ……もし、できれば、わたしが着ていたような服を貸していただけると嬉しいのですが」

「あなたが着ていた? 男の子の服のこと? だめよ、だめよ、どうしてあんな恰好させられるの。わたしはあなたの身の回りのことを任されたのよ。そんなことしたら、怒られてしまうわ」


 アベルは、再び押し黙って、ドレスを眺めた。


「そのままの恰好で男の人と会うつもり?」


 呆れた様子の女中に言われ、アベルは小さく首を横に振った。昨夜は、もうこの恰好で、リオネルとベルトランには会っていたが。


「では着替えるのね」


 女中は、アベルの夜着のリボンに手をかけ、脱がせかかった。


「自分でやります」


 アベルはそれを制して、着替え始めた。デュノア邸にいたころは、たしかに女中が全てやってくれていたが、今はそんなことをしてもらえば落ち着かない。

 重く感じられる手足を動かし、時間をかけて着替え終わったアベルを見て、女中はため息をついた。


「こんな服でも、あなたが着るととても綺麗に見えるから不思議ね」


 アベルは、居心地の悪さを覚える。アベルが、女性の恰好をするのはとても久しぶりのことだ。今では裸でいるのと同じくらい恥ずかしく思える。


「ここは、どこですか。リオネル……様は、ここの家の主なんでしょうか?」

「それは、あとで直接お話しするといいわ。わたしはエレンよ。あなたがここにいるあいだ、わたしがお世話をさせてもらうわ。よろしくね」

「……はい」


 美しい部屋、暖かい布団、女性の服装、身の回りの雑事をやってくれる使用人。

 その全ては、「シャンティ・デュノア」が別れを告げた世界だった。


「あなたは?」

「アベルといいます」

「それは男の名前よ。本当の名前は?」

「アベルです」

「……あ、そう。それでは、リオネル様とドニ先生に、あなたが起きていることを伝えておくわ。もしかしたら、ここにいらっしゃることになるかもしれないから、準備しておいてね」


 エレンが部屋を出ていく。エレンが言った、準備というのは、なんのことだろうか。

 心の準備のことだろうか、とアベルは思った。

 心の準備をしておかねばならないほどの人物なのだろうか。

 リオネル様、とエレンは言っていた。おそらく、あの紫色の瞳の青年は、この家の主か、その親族だろう。そうであれば、屋敷の大きさや、豪奢な佇まいから考えても、よほど高貴な人物だ。その人に助けられ、剣を向け、挙句の果てに怪我を負わせた。アベルは、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。


 眩暈と疲労感で、アベルは寝台に身体を預ける。途端に咳こんで胸が苦しくなった。

 咳きこみながら、瞳は窓のむこう、陽の光が霞む灰色の冬空を見やる。

 アベルはあの空の下に、再び戻らなければならない。

 何度も死を覚悟しては、かろうじて命を取りとめてきた。またあそこに戻れば、どれほどの苦しみが待ち受けていることだろう。どこへいっても、アベルの安らげる場所はもうないのだ。

 やわらかい布団の感触にも、エレンが薪をくべてくれた暖炉の暖かさにも、やはり心は真に癒されることはなかった。

 よほどぼんやりしていたのか、扉をたたく音にも、人が入ってくるのにも、気がつかなかった。


「アベル?」


 聞き覚えのある声に呼ばれてはっとすると、リオネルとベルトラン、そしてその後ろにエレンが控えていた。

 驚いて上体をあげるアベルに、リオネルは、そのままでいい、と告げる。


「勝手に入ってきてすまない。扉を叩いたのだけど、返事がなかったから……具合が悪いならまた来るよ」

「いいえ、大丈夫です。みっともない姿をお見せして、申しわけありません」


 アベルは、気だるい身体を起こし、立ちあがった。


「起き上がらない方がいい。昨夜も無理をしたのだろう」

「本当に大丈夫です」


 アベルは、自分に降り注ぐ三人の視線を、見返す。


「あいかわらず、お転婆そうだな」


 そう言ったのはベルトランだ。アベルは少し顔を赤らめた。


「昨夜は、すいませんでした……」

「いや、別に責めるつもりで言ったわけじゃない。横にならないなら、椅子に座ったらどうだ」


 ベルトランの一言で、エレン以外の三人は、そこにあった肘掛椅子に腰かけた。エレンは頭を下げて部屋を出ていく。

 リオネルは、うつむいて座っているアベルに話しかけた。


「気分はどう?」

「大丈夫です、おかげさまで」


 その返答に、ベルトランが笑う。


「瀕死の状態で三日近く寝ていて、目覚めたとたんに、あれだけ動きまわったかと思ったら、挙句に気を失い、『大丈夫』と言えるとはたいしたもんだ」

「そんなに長く……わたしは寝ていましたか?」


 二人はうなずいた。


「とんでもないご迷惑を……」

「いや、寝ていただけだから、迷惑なんてないよ。でも、きみの家族が心配しているのではないかと思って」


 リオネルの心遣いにアベルが黙りこむと、リオネルとベルトランが顔を見合わせる。


「家族は、いないのか?」


 聞いたのは、ベルトランだった。

 けれどアベルは、いるともいないとも答えられない。


「帰るところはあるのか? 家は?」


 アベルは、下を向いたまま顔をあげることができない。


「なにか言わないとなにもわからないぞ」


 なにか答えなければと思ったけれど、やはり言葉は出てこなかった。


「アベルというのも、本当の名ではないだろう」


 そう言われると、アベルは顔を上げて、ベルトランを睨む。

「アベル」という名は、今のアベルが持つ、たったひとつの大切なものだった。

 自分で付けた「アベル」という名だけが、今の自分の存在そのものだった。


「ベルトラン」


 リオネルの諌める声に、ベルトランは口をつぐむ。

 そこへ扉を叩く音がして、エレンが飲み物を運んでくる。

 円卓に置かれた硝子の杯から湯気が立ちのぼり、蜂蜜の香りがした。


「無理に、話さなくてもいいよ」

「…………」

「もし、行くあてがないなら、元気になるまで、ここにいるといい」

「え……?」


 アベルは聞こえてきた言葉に顔を上げる。


「帰る家を思い出したら、そこまで送っていくよ。そうでなければ、病気が治るまでここで養生してはどうだろうか」


 アベルは、リオネルの紫の瞳を見つめた。

 どこまでも親切にしてくれるこの青年は、どうしても、サミュエルを思い起こさせる。

 サミュエルの優しさと、屈託のない笑顔は、アベルの胸の奥を今も切り裂いたまま。


 リオネルは、アベルの困惑した表情を見て、眉を下げた。


「行くあてもないのに、サン・オーヴァンの街に帰すわけにはいかない。その身体には、この冬の寒さはこたえる」

「この、身体……?」

「肺炎を患っているそうだ。それに……赤ん坊がいるだろう」


 アベルは、はっとして目を見開いた。

 この二人は、アベルが妊娠していることを知っているのだ。

 なんともいえない気持ちになってアベルは両手を握りしめた。


「お心遣い、本当にありがとうございます。ですが、ご迷惑になるわけにはいきません」

「どうして? 帰るところがあるの?」


 アベルは、再び黙った。


「……初めてきみを見たとき、死んでいるのかと思った。あの街に戻れば、同じ状況になってしまうかもしれない」


 あくまでも穏やかに言うリオネルに、アベルはしばらくしてから尋ねた。


「ここは……どこでしょうか。あなたがたはどなたですか?」

「ここは王都にあるベルリオーズ家の別邸だ。おれはベルリオーズ家の者で、ベルトランはルブロー家の者だ。ベルトランはおれの従兄弟で、今はおれに仕えていてくれている」

「――――」


 耳に入ってきた言葉が、脳に到達するまでに、しばらく時間がかかった。

 アベルは記憶を探る。


 ――ベルリオーズといえは……あの、ベルリオーズ……?


 アベラール家の真北に位置する広大な領地を治める大貴族、ベルリオーズ公爵家。

 前国王の正室の子息が爵位を継いだことでも、この国でその名を知らぬ者はない。

 これらの経緯は、シャルムの国が、長いこと揺れている要因でもある。デュノア邸にいたころ、歴史や地学の勉強の際に聞いたことがあった。


 アベルは、まじまじとリオネルの顔を見た。

 小さな領地を治めるデュノア伯爵家とは、天と地ほども格が違う。そのうえベルリオーズ家は、母の出身家であるブレーズ家とは不仲であるため、領地はさほど遠くないのに、両家の交流はほとんどなかった。

 先程よりさらに困惑した表情になったアベルに、リオネルは苦笑する。


「驚かせたかな?」


 ベルリオーズという名は、リオネルがどんな思いでいようとも、他の者にとっては、様々な印象を与えるものだ。さらに、リオネルとベルトランは、アベルが貴族の出身なのか、それとも、農民か、商人の子なのか、知り得ない。リオネルは気遣わしげな視線を少女に向けた。

 しばらくリオネルの顔を見ていたアベルは、再び口を開く。


「やはり、ご迷惑になるわけにはいきません」

「どうして?」


 どうしてなのか、様々な思いや、不安が複雑にからみあっていて、アベル自身にもはっきりとは分からなかったし、ましてや、うまく言葉にすることなどできなかった。


「ベルリオーズ家だから?」

「……助けてくださって、ありがとうございました。このご恩は一生忘れません」


 今すぐにでも館を出ていきそうな雰囲気の少女に、ベルトランも苦笑する。


「そんなに、ベルリオーズ家が嫌いか?」


 アベルはベルトランに視線を向けた。


「けっして嫌いなどということではありません」

「じゃあ、なに」

「……あまりに高貴なお家柄なので、わたしには落ち着きません」


 半分は本音で、残りの半分には言葉にならない思いを隠して、質問に答える。

 ベルトランは笑った。


「おもしろいやつだな。あんな寒い雪のなかにいることに比べれば、ここは天国じゃないのか。普通の娘なら夢でも見ているのかと喜ぶものと思ったが」

「わたしは、女であることを捨てました」

「……それはまた、なぜ?」


 アベルは、その質問には答えず、一度伏せた顔を窓の外へ向ける。

 雪が降り出していた。

 広大な庭園に、雪が降り注ぐその光景は、たしかにお伽の世界のように美しかった。

 アベルの瞳に哀しみの色が一瞬浮かんで消える。女であることを捨てたのではない、女である自分は、死んだのだ。

 この冬の大地に戻れば、ついには、アベルの命は真に潰えるかもしれない。


 連日の雪が残っているところへ、さらに白い雪の花弁が降り注ぐ。

 それは見たこともない梨の木の花弁に見えた。

 音もなく散る白い花弁に、心が震える。

 それは、消えかける蝋燭の火のようにかすかに残る、生への未練――。


「ここの庭に……梨の木はありますか?」


 アベルは、窓に顔を向けたまま、ぽつりと尋ねる。


「あるよ。ここからは見えないけど、ずっと向こうに」


 答えたのは、リオネルだった。


「…………」

「春になれば、白い花が咲く」


 その言葉に、アベルはリオネルを振り返る。

 胸の奥で、血を流す傷口を、なまあたたかい風がなぶっていくような気がした。

 どうして、リオネルは、あの青年を思い起こさせるのだろう。

 けれど口から出てきたのは、自分でも思いもよらない言葉だった。


「わたしは……男として生きる道を選びました」

「…………」

「でも、この身体には子供がいます」

「……そうだね」

「もし……このようなわたしでも、一人の男として扱ってくださるなら……このような厚かましい願いを聞きいれてくださるなら……」


 リオネルは、少女の言葉に耳を傾けた。


「……図々しいと知りつつ、お言葉に甘えさせていただいてもよろしいでしょうか」


 春になれば、梨の木に、白い花が咲く。

 一度でいいから、見てみたかった。

 その約束だけが、かつて、アベルに生きる意味を与えてくれたから。


「もちろんだよ」


 リオネルは微笑む。ベルトランは、なにか考えるような顔で、二人を見ていた。


「でも、男として扱うっていうのは……」

「わたしが女であることを、だれにも知られたくないのです」

「もう何人かは知っているよ。ここにいるエレンと、医師のドニと、おれと、ベルトランだ」

「……それでは、そこまでにとどめてはいただけないでしょうか」

「わかった。これ以上は知られないようにしよう」

「あと、服装も……」

「……男物の衣類を用意させよう」

「お手数をおかけします」


 話を終えた二人が部屋を出ていくと、入れ替わるように医師のドニが部屋に入る。


「変わった子だな」


 リオネルと二人になると、ベルトランが言った。

 リオネルは、少し困ったように笑う。



 こうして、アベルは思いもかけずベルリオーズ家別邸の居候になった。





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