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「レオン」
この国中で最も広大な庭園が広がっている。そこからやや離れた木立のなか、ひとりの青年が木陰で、組んだ両手を枕にしてあおむけに寝ていた。その額には乾きかけの汗が真夏の木漏れ日に光っている。
城から距離があるため、城内の喧騒はここまで聞こえてはこなかった。風もほとんどない。青年の瞳は閉じられ、かすかにまだ早い鼓動だけが時間の経過を教えてくれていた。
そうしていたところ、不意に呼ぶ声がして、青年は起き上がらず、声のした方へ緩慢な動きで顔だけを向けた。視界に入ったのは、この澄み渡るような夏の午後の木漏れ日のなか、くわえて、つかの間の休憩時間に最も見たくない姿。
やはりこの人か、と内心ため息をつくと同時に、若干の緊張が背筋を伝った。
それをやり過ごすように、再び目を閉じる。閉じたはずなのに、まぶたにはその不愉快な残影がこびりついていた。
「レオン、最近顔を見せないではないか」
寝転がっているレオンより高い位置から降ってくる声は、高飛車で、冷たかった。
「稽古が忙しいのです。見ればわかるでしょう? 汗も乾ききってないのにもう戻る時間だ」
そう言い訳しつつ、思い立ったように立ち上がり、服に付いた木の葉や土を払うこともせずに、歩きだす。
「待て」
有無を言わせぬ様子で呼びとめたのは、レオンの兄、ジェルヴェーズである。腕を乱暴につかまれて、レオンはしかたなく足をとめて振り返った。鋭い砂色の双眸がレオンをとらえている。
「なんですか」
「どうなっているのだ」
「……どうなっているって?」
「早く、やつを殺せ」
短く、低く、ジェルヴェーズは言った。兄弟はしばらく無言で視線をぶつからせる。
先に視線を外し、うつむきつつ答えたのはレオンだった。
「ああ……そのこと」
「はじめからその約束だったはずだ。もうやつも十六になった、早く手を打て」
「まあ……機会があれば」
そう言うレオンも同じく十六歳だった。つかまれていた腕をふり払って、再び歩き出すレオンの背中に、ジェルヴェーズは冷たい眼差しと声音とを同時に投げかける。
「裏切るのか」
「…………」
レオンは返事をせずにそのまま数歩進んだが、ふいに立ち止まった。そして横向き加減にジェルヴェーズを振り返ると、約束もなにも……、とつぶやいて少し間をおいた。
「兄上が送り込んだ刺客はみんなあのベルトランに殺されています。当の本人は、シェザンの剣や棒術の稽古のときも、ひとり飛びぬけて強い。兄さんは、おれがあいつを殺せると本気で思っているのですか?」
そう言い返し、兄の冷やかな視線をはね返す。
「相討ちであれば、殺せるのではないか」
ジェルヴェーズがうっすらと笑みを浮かべて答えた。そして無言で睨む弟の顔を楽しそうに見ながら、冗談だ、と喉の奥でと笑う。
本気ともとれる冗談に、レオンは表情を曇らせた。
「今までの刺客は子供のいたずらのようなものだ。結果を期待していたわけではない」
しかし、とジェルヴェーズはゆっくりレオンに近づく。
「今のおまえならやり方はいくらでもあるはずだ。おまえの未来もかかっている。なにが賢い選択か、おまえがどんな状況にいるのか、よく考えろ」
――おれの未来? 自分の未来のことだけだろう。
内心そう思いながら、兄の台詞が終わらないうちに、レオンは再度稽古場へと歩みだす。けれど、言葉はすべてその耳に届いていた。
稽古場は庭園の東の木立の裏手にある。城に仕える騎士たちの教練場でもあった。
「……殺しても死なないよ、あいつは」
稽古の疲れとはまた違った疲労感から、重い足取りで木々の間を歩きつつ、そんなことをひとり呟く。だれも聞いていないはずのその声を、耳ざとく拾ったものがいた。
「だれが死なないって? 不死身の人?」
ぼんやりしていて、人がそばにいることに気づかなかったレオンは激しく動揺した。そこに立っていたのは淡い茶髪の髪、淡い茶色い目の端正な顔立ちの青年である。
「ディ……ディルク」
うろたえた様子でレオンが足をとめた。
「なにをそんなに驚いているのさ?」
レオンの驚く様子に、ディルクは首をかしげた。
「練習のしすぎで挙動がおかしくなっちゃった? 王子さま」
王子さま、と呼ばれてレオンは眉間にしわを寄せた。
「おまえに王子さまと呼ばれると、馬鹿にされているようにしか聞こえない」
「お、さすが! よくお分かりでいらっしゃる」
ディルクは悪びれた様子もなく笑う。
「おまえにとって、本当の王子はリオネルだけなのだろうな」
皮肉めいたような、どこか拗ねたような調子でレオンが言うと、ディルクは少し驚いた顔をした。
「いきなりすごい直球だなあ」
今しがたまで兄と物騒な話をしていたせいで、レオンも思わず口に出てしまったというところである。
「いいよ、別に……おれもそう思うから」
そう言うレオンは、ふてくされた様子でもなかった。
「そんなに卑屈になることないじゃないか。からかって悪かったよ。きみの兄さんは好きじゃないけど、レオンはいい王子さまだよ」
ディルクは褒めたつもりだったのかもしれないが、レオンはまたもや馬鹿にされたような気持ちになった。なぜかレオンは、親しい周囲からは子供扱いされる傾向があったからだった。
そんなレオンの心情に気づいているのかどうか、ディルクはさわやかな笑顔をレオンに向ける。
「さぁ、シュザン殿のところへ戻ろう。リオネルはあのあとずっと残って稽古していたみたいだよ」
「まさか」
レオンは驚いた。シュザンの稽古は厳しい。レオンはしっかりと休憩したが、まだ身体のあちこちが痛み、この後も続く練習のことを思うと騎士館に逃げ帰りたい気持ちになる。
それなのに、リオネルは休憩もしていないとは。
「……やはりあいつは死なない」
「ああ、不死身ってリオネルのことだったの?」
ぽつりと、ほんの小声でつぶやいたレオンの二度目の独り言を、ディルクは再び耳ざとく拾った。
またも動揺したレオンに、ディルクは人懐こい笑みを向ける。レオンは内心で、この男はよほど耳がよいのではないかとたじろいだ。
「殺す気だったの、レオン? きみには無理だよ」
「だ……だれがリオネルを殺すと言ったのだ。へんな噂が立つからやめろ。しかも笑顔で言うな」
「ま、食事に毒を仕込むとか、寝込みを襲うとか、卑劣な手を使えばできるかもしれないけど」
「だから、なぜおれがリオネルを殺すのだ」
「そういう意味じゃなかったの?」
「……もういい」
レオンは動揺を通りこして、うんざりした気分で稽古場へ向かった。そのあとを、機嫌のよさそうなディルクがついてくる。
木立が途切れて広がった風景の先に、軽やかに剣を撃ち合うシュザンとリオネルの姿があった。